高次元の存在を否定することは相対性理論にあまり関係ないように見える。しかし私はこれこそが問題の核心であると思う。なぜなら、それは、大げさに言えば現代において人類の願望の詰まった思考であるからだ。私は、相対論は間違いだとは思うが、フィクションとしての価値は絶大であったとは認める。二十世紀のフィクションの多くが陰に陽に時空のゆがみの概念を用いてストーリーを展開した。タイムトラベルは、誰もが実現不可能とは思いながら、理論的な可能性としてはあり得るというかすかな意識は持っているのではないか。

 数学的に論じられることの現実性を信じるということが人の性質である。それは空想であり、願望であるのだが、ある理論的な形を与えられると、途端に現実的な相貌をまとう。しかし相対論の批判は、科学の内部ではなく、空間がゆがむ、時間が延び縮みするという、いわば日常言語の使い方の妥当性の問題であると私は思う。だから、私は難しいことを言っているようだが、実は日常感覚に沿った思考をすることに注力しているつもりだ。

 高次元存在を強く信じさせる理由の一つが数学的実在論なのかもしれない。例えば虚数を必要とする事象があった場合に、それを手続き上の問題と考えずに虚数という数学的存在が宇宙の中にあるとする立場が数学的実在論だ。むしろ積極的に、宇宙は抽象的な数学的構造しか有せず、私たちが見るこの具体的な世界は何かの都合で構造の断面を存在として顕現させたものに過ぎない、とさえ言ってのける人もいる。こういう見解にとって、4次元が数学として正当な語りであるならそれは現実に存在しなければならないことになる。

 今日、あからさまに数学的実在論を支持する人はさすがに偏屈なごく少数だと思われる。それでも高次元信仰は払底されない。相対論の反対者には数学の得意な人が多く、その点に引きずられて高次元の存在については何となく態度が煮え切らないようにも見受けられる。数学に対する過度の信仰に警鐘を鳴らしている一方で、高次元の記述には反対しない。私は見たことがない。相対論にあって数学の威力を最もグロテスクに拡大した部分が高次元世界だろう。大変微妙な点だが、実在論を信じるというほど強い気持ちがなくとも、否定しにくい部分はあるのだろうか。

 ここでわざわざ強い意味での数学的実在論を否定しても、屋上屋を架す行為にしかならないのかもしれない。ホーキングやペンローズの著作を読んでいると、日常的な部分からいとも軽々と非現実の世界へ、またはその逆の動きを、数学の力を借りて往復している。それはミンコフスキーやワイルといった初期の伝道者たちから引き続く伝統で、彼らを動かしているのは実在論という言葉とは別の、もっと無意識裡の価値観なのだろう。しかしそういうものを考えるにあたって、私の方はもっと意識的な言葉を使わざるを得ない。

 宇宙は幸いにも単調なカオス状態ではなく、いくつかの秩序を内包する。秩序は数学的に描写するのが最もふさわしい把握方法かもしれない。だが一歩進んで、数学的構造こそが宇宙の存在そのものであると考えるべきなのだろうか。よく引き合いに出されるのは、量子論の成功が、表面的な日常感覚よりも隠れた数学的構造を優先するべきという考え方の勝利を例証したということだ。もしそうなら、4次元どころか、無限の次元を持つ空間について語ることも宇宙論として可能になるし、むしろ、積極的に語るべきということになる。つまり、もし4次元空間があるなら宇宙は「必然的に」無限次元であるべきなのである。しかしなぜかそこまで言う人はいない。答えは簡単で、4次元が単に数学的な記述(要するに言葉だけのこと)に過ぎないことを承知していないからだ。

 数学はもちろん独立した世界を形作る体系だが、客観的な世界を描写する際には言語の一種であると見なされるべきであって、客観的世界そのものではあり得ない。以下はごく簡単な算数だが、数学を言語使用の側から考えるということだ。

 2+3=5は2つのミカンと3つのリンゴを合計して5つあるとするときにも、2つのミカンと3つのミカンを合計するときにも、あるいは2人の人間がいて、1人はリンゴ1個とミカン1個の組み合わせを2つと報告し、もう1人は3つの桃を3つというので、合算して5個である場合にも、いずれも正しい表現と見なすことができる。しかし2つのミカンと3つのミカンを合計するときのみ正しいと言うことも不可能ではない。ではこのとき除外された例は、2+3=5という数学的構造を分け持っていないと考えるべきなのだろうか。もし構造が普遍的であり、除外されるべきではないとするなら、「5つともミカンであるときのみこの数式が正しい」という意見は全くの間違いであることになる。意見としては部分的に正しいが、数学的には間違っている、と言うべきなのか。あるいは、数字をその都度定義することによって「5つともミカンである場合のみ正しい」という意見の正しさを部分的に肯定することが可能になると言うべきなのだろうか。それでも、根本的には間違っていると主張していることには変わりがない。これは中々に抵抗のあるところだ。なぜなら、根本的に間違っていると言いうるのは、数学的実在論が正しい場合の話であって、一連の紛糾はむしろ数学的実在論を正当化するために生じているからだ。

 今、すべてを果物に当てはめて論じた。しかしながら対象をこの世界すべての存在物に拡張できることは明らかではないか。3を恒星の数とし2を太陽黒点の数とすることも、3はバクテリア、2をコップにつがれた水を一個と数えた場合と言うことも可能だ。私がわざと奇矯な例を挙げているように思えるかも知れないが、1という数字が与えられたとき、私たちはこれによって宇宙に存在するあらゆるもの、あらゆる任意の集合体、ひいては宇宙そのものさえ「1つ」という数え方で表現できることは事実であると思う。あるものを1つと数えるということは、そう見なされるに足る客観的な存在理由があるということだ。

 ところで哲学にはメレオロジーという考え方があって、いすの背もたれと脚とがいすという一つの存在物の部分であるように、太陽の中の一電子と私の鼻との組み合わせで一つの存在物と見なすことも可能であるとされる。もちろんこれは人間である私が考えた組み合わせなのでまだ意味が残存するが、全く無意味な要素をもとに無意味な集合体を作ることも可能だろう。そのあらゆる任意の集合体の組み合わせに対し共通の構造が存在すると言いうるのなら、その構造は無意味であることは明らかではないか。

 たとえば2+3=5の解答例として6個のミカンを差し出すことも可能だった。その内訳は外国産のものは個数に数えないとした上でそれが2個、少し大きめのものは1個プラス半分の価値があるとした上でこれが2個、そして通常のものが2個だ。これは不当な言いがかりのように思えるだろう。しかしながらもっとも基本的な答えに立ち戻るとして、5個のミカンを差し出すとき、形も大きさも同じではあり得ないこれらのものを同じ1と認識することはそもそも正当と言えるのだろうか。この部分はどうにでも理屈を付けられる問題に過ぎない。

 もちろん無意味になることを避けるために定義があるわけだ。実はこの場合の定義には2通りあって、一つは数学内で2+3=5の意味を説き明かすこと、もう1つは自然数の部分に何を代入してよいのかを決めることである。後者はこの与えられた式と現実とのつながりをどう見いだすかという話であって、各人が全く任意に設定できるものだ。私たちは日常生活の中で、この「現実とのつながりの設定」をきわめて自然かつ無自覚に遂行している。あたかも客観的な世界にその設定が存在していると誤認してしまうほどには自然に、である。したがって私が「宇宙そのものも一個と数え上げることが可能である」などと言って、それは構造として無意味であると結論することがいかにも不当な言いがかりに思えてしまうのだ。

 しかし2+3=5はその内部構造を持ち、無意味ではない。宇宙そのものの構造と見なすとき無意味になるということだ。2+3=5の内部構造を言語的な使い方で宇宙の構造を描写すると考えるとき、初めて全体が首尾一貫した理解可能なものになる。ここで数学的実在論の本来あるべき意味がはっきりする。数学は一つの学問として完全に独立しており、自然科学の成果によって結論が左右されることはない。そしてその内部は数学自身の定義によって決められる。これは大変当たり前の主張で、わざわざ強調する必要は本来ないはずなのだが、この数学の独立性ということが相対論の学者によってはなはだ粗雑な使い方をされてきたわけだ。すなわち数学の内部で2+3=5の意味を言うことと、これを世界に当てはめて数字の内容を定義することとの間違った同一視である。

以下の文は、いちおう量子論の正しさを認める立場のように書く。量子論は初期の段階でアインシュタインの思想を取り入れてしまっているから、どうしようもなく間違いだと私は思っており、そのことは例えば多世界解釈を持ち出さねばならないほど矛盾した世界観になってしまうところに出ているのではないだろうか。しかしそのことは棚に上げておく。このご都合主義的なところは御寛恕あれたし。

 今でこそ、批判者はアインシュタインの数式が非現実的な結果を導くことを言い立てるが、彼自身はおそらくもっと地道に、現実と数式の示唆するものの一致ということを考えていたと思う。神はサイコロを振らないという言葉で有名な、量子論における実在論の論争で彼が負け側に立ったことは、むしろ数式の持つ現実性を切実に希求していたことを表すのかもしれない。数式が現実と遊離していると彼が感じたということは、数式は現実的であるべきであるという信念が存在していたということなのだろう。「現実的であるべき」と「現実であるべき」との距離は、「現実的であるべき」と「現実の表現であること」よりも、もしかしたら近いのかもしれない。大変不幸なことだが。

 量子の振る舞いは複素数を用いなければ表現できず、少なくともテニスボールのようなものではないとして、そこにあるのは複素数という数学的存在ではなく、複素数を用いなければ表現できない何かということだ。そもそもあの論争で敗れたのは量子もテニスボールのように振る舞うべきであるという旧弊な偏見であろうと思う。この偏見に賛成しない人はすべて数学的実在論者であるという結論は私には全く理論的なつながりが理解できないが、相対論支持者の主張は結果的にそういうことになってしまうのだ。つまり実験結果というのは目の前にある現実的な出来事であって、現実にはあり得ない何かを示唆する訳ではない。数学的実在論というのは、この出来事に、現実にはあり得ないものという意味を与えた上で、改めてそれは数学的存在そのものである、という理論操作をしなければ正当化されない。実際には、現実にはあり得ないのではなく、日常的に目にする物体はそのように振る舞うことはない、ということだ。すなわちテニスボールのように振る舞うものでなければ現実的ではないという前提がここにはあり、この前提の出所は自分の素直な考えではなく、多くの人は素朴にそう考えるに違いないという傲慢な先入観にすぎない。

 虚数すなわち2乗してマイナス1になる数字の現実例として、座標上に打たれた点を2度回転移動させてマイナス域に持ってゆく方法がある。虚数が現実的な意味を持つことに感動するあまり、数学の現前そのものであると誤解する人の多い説明法である。波動関数に含まれる虚数が量子の回転移動を意味しないように、もちろん虚数は回転移動ではない。座標で説明するなら回転移動として表現可能である、ということにすぎない。一つの表現型がすべての性質を尽くしているかのごとき議論は、相対論のすべての面で現れる悪しき思考法だが、これも類似の形をしている。昔から存在する還元論の一種であると言えば、それだけのことだ。しかし還元論として非難される従来の形は、還元先も還元される現象もともに実在するものであるという最低限の保証があった。その場合には、因果関係が存在するという錯覚に基づく間違いが還元論という予期せぬ結果なのであり、これは研究によってただすことが可能なものだ。しかし相対論においては実在するものと表現型、あるいは実在するものと概念の間の同一視なのであり、これは実証的研究によって間違いが明らかになるものではない。思考のみが決論を下せる。

 量子論での議論は、実験結果を表現するには波動方程式が必要であるという事実を確定させた上で、数学的実在論の問題が取り沙汰されているわけだが、空間が4次元であるということは数学的実在論を前提としなければ成立しないと思われる。すなわち、もし三つの座標軸のほかに虚数の方向が必要であるならそれは数学的表現の都合上の問題であると割り切ればよいのだが、実際にもそうでなければならないと考えることがこの立場だ。これに対しては、事実としてその第4の座標軸を描いてみせることはできないではないか、と答えるしかないのだが、おそらくそれには「3次元の住人である我々には4つ目の次元は感知できない」という反論があり得るのだろう。だがこれこそが数学的実在論を前提としなければ導き出せない解決であって、そもそもこちらが納得しかねる点なのだ。

 この簡単な要約は殊更極端な解釈に拠ったように見え、実在論の主張者を満足させないだろう。ついでに、4次元空間を信じる人には通じないだろう。しかし数学的実在論が結局そこに帰結するということを先回りの形で述べてみたのだ。この立場をとる人は、数学はそれだけで独立した美しい世界を形成すると言う。つまり数学のみが構成できる宇宙があるということだろう。このことの意味は、数学のみが表現できる宇宙の一部分があるということではなく、爾余の宇宙とは無関係な数学の論理空間が存在するということだ。ではそこから得られる教訓は、我々の経験的世界と数式との関係について、従来考えられていたよりもいっそう慎重な扱いを要する、ということになるはずではないだろうか。論理空間のある部分は宇宙そのものであり、ある圏域からは無関係になる、ということは考えにくい概念ではないか。ここで間違いやすいのは、宇宙はすべて数学によって表現できるという、とてもありそうにない前提を置いたとしても、数学的空間の内部で区別をつける必要はあるということだ。それならば、数学的議論のみで現実か非現実かが決まることになる。いうまでもなくこれは実証的科学の放棄だ。

 しかし不思議なことに数式の組み立てに頼った放恣な立論をむしろ擁護するためにこの間違った意味での数学的実在論が採用されている。それが強すぎる言い方なら、ある理論の正しさを確認するべき経験論的な基準を緩めるために主張されているわけである。彼らの意見では、世界は客観的である、そして数学も客観的に外に存在する、従ってどちらも客観的な真理を形作る、ということになる。この三段論法は単なるイメージによって信じられている。そのイメージを補強するのは、直観的な(本当は経験的な)意見は常に数学的理論によって否定されるという先入観をうまくこれが醸成することだろう。しかし数学的に表現するとは極端に簡便化するなら目分量ではなく定規を使って測る、腹時計ではなくデジタルクロックを使うということに過ぎない。定規の目盛りを読むことは、目測よりは理論的とは言えるかもしれないが、直観という表現を使うならどちらも同じく直観的であるには違いないのだ。現象の背後に数学的実在があるなどという途方もない世界観を必要とするものではない。

 存在論とは、何かを無条件に絶対的であると認める立場であって、しかしその意見がある意図や文脈の中でのみ成立する考え方であるにもかかわらず、そのことを論者が自覚できないという状態を指す。一部の学者が数学的実在論をことさら持ち上げるのは誤解しているのだろうが、意図的な戦略なのかもしれないと思うこともないではない。数学という学問が人間の意志や経験科学からは独立しているという意味で主張されるなら異議を差し挟む余地はなく、この場合においてのみ正しい説明だ。しかし明らかにこのような意図から実在論を言う人は皆無だろう。それは本来数学という学問の独立性を主張するべき考えだったのだが、学者あるいは科学評論家たちによって単に素人を威嚇するための道具になりはてた。私が最初にこれを否定したのは、数学的存在が時空間の中にあるという意味で実在するという意味を持つからだ。数学は観念的である、と当然言わねばならない。もちろん、そんな意味を持たせたつもりはないという返しになるのだろう。それは時間を超越したプラトン的な世界であることは誰もが知っている。では数学の厳密な構造は否定されるのか。もちろんこの意味では一つの世界を形成する独立の存在だ。だからこそ、時空間に属する通常の存在物との関係を述べるに当たっては用心深くあるべきだろう。もし素人の直観的判断を否定する都合だけで長々と数学の目もくらむようなすばらしさを説くのであれば、そしてそれが相対論擁護の一手段とされるなら、時空間に属するものという意味での存在をそれに与えていて、当人だけがその意識を持たないのだ。

 この錯綜ぶりに惑わされる必要はない。すべてのものが時空間で表現される宇宙の中にあるわけではないからだ。例えば民主主義、制度としての学校、基本的人権など、枚挙にいとまはない。それどころか、言語で表現できる大抵のことは時空を超越している。というよりも、物質的な時空の性質は持たない。つまり、それらを無理に空間の中に定位する必要はない。そう考えたがるのが私たちの習いとなっているだけのことだ。間違った意味での数学的実在論とは数学的概念のみが時空の羈絆を免れていると信じることだろう。それは全くの逆だ。

 科学という部門で応用される限り、数学は単なる言語の一変種である。学問としての独立性を言うなら、直観主義は必要ない。しかし、経験科学を名乗るのであれば直観の裏付けが不可欠であり、さらにつけくわえるなら、理論物理学とは人を惑わせ易い呼び名であって、観測データという経験的材料を最もうまく説明する理屈ということだ。その意味で、数学は非常に正確に世界を描写するが、とりもなおさず「描写」しなければならないのだ。ある法則の定数が2RであってRでも3Rでもないということは世界が決めることであって、数学という思弁ではない。突き詰めて行ったらもっと根本的な原理から単純に数学的に求められるということも数多あるだろうが、それは全く別の話だ。宇宙のすべてが数学的手続きだけで決まる訳ではないからだ。この「全く別の話である」という部分が理解しにくく、またすべてが数学的手続きだけで決まるという信念にも結びつきやすいところだろうか。

 ある事象が数学的に記述可能であるとしたら、数学的実在論は否定される。なぜなら、世界に数学的実在のみが存在するなら、なぜその特定の式で表現されるのか理解不可能になるからだ。これに対する反論は多世界解釈を支持することではないだろうか。