この一節は私の意見を肯んじ得ない人には特に退屈な文章になる恐れがあると、先に言っておく。正否の定かならぬ、どうでもいい議論の泥沼の中にいるような気持ちにさせることは、私の本意ではない。しかしビッグバンやブラックホールなどあるはずがないという、ある意味まともな現実的感覚を持つ人なら漠然と心の中にあったことの言語化のごとくに感じられ、私の言うことがたやすく理解できると思うのだ。いや、あるはずがないではないか。無限小の一点に全宇宙の物質が閉じ込められていた? 天動説のほうがまだまともだ。いや、神の存在を想定するほうがはるかに理性的な言い分だ。

 私の意図するところの最大の眼目は現実的感覚のみに基づいた言葉を積み重ねることである。ただし現在ではその大半がひいき目にみても論争的であるとされていて、いや実情は幼稚な感想であるとして相手にされないだろう。さらにやっかいなことには、単純なことほど理解されにくく、難解な議論の外観を持つ。私がここで引き合いに出すのは高次元空間の存在についてである。これが単純なことであるのは、事実として四つ目の次元など存在しないからだ。少なくとも、直観の対象として私たちの環境に現われることはない。ここまでは誰も積極的に反論しようとしないはずだ。

 いやに慎重な語り方になってしまうのは、高次元の存在は科学の問題としておかしいという以前に、人々の常識の中にある程度根付いてしまっているということがある。それは願望として、そういう世界の存在を信じたいということであろうという気がしている。であるならば、批判は一層受け入れがたく、したがって理解しないということになるかもしれない。私としては、人間のこれからの思考の在り方として、これが一番の課題かもしれないとさえ思う。難しいことはない。4次元世界は比喩としてのみあり得るということだけ承知すればよいのだ。絵画そのほかを2次元と呼ぶのはもちろん比喩なのである。必ず厚みがある。見える対象は最低でも分子の立体性を持つ。

 科学的思考の内部の話になると、高次元の存在は理論的な要請であって、あくまで直観的事実にとどまるならば難解な議論は必要ない。要請と現実との間に何とか折り合いを付けようとするとやっかいなことになるが、私の考えでは相対性理論が間違っているのだから、そもそも理論的要請などが存在しないことになる。もちろん、これで納得する人はいないだろう。

 重力が空間のゆがみではないということは、エレベーターの思考実験が、まったくその名に値しない薄っぺらな子供だましであることで、ある程度察してもらえると思うが、あの意見で納得できない人が多いこともまた理解する。

 誤解を広める原因の一つは、人に良く知られた、ブラックホールのイメージ画にあるものと思われる。トランポリン状のものが沈み込んだ形を重力によってできたゆがみに見立て、そこへ天体が引き入れられるように落ち込む図だ。落ちるということを視覚化している時点で、見る人は自然にそこに重力が作用しているという先入観を持つ。しかしゆがむということは単純にゆがみがあるということに過ぎず、天体がその穴に落ちてゆく必然性はない。

 天体の動きは複雑なため、それらが正面からぶつかりあうということはめったにないが、重力とはとりあえずまっすぐに引く力とみなしてよいだろう。まっすぐに引くが、周囲の状況の複雑さで、さまざまな変異が生じ、まっすぐな軌道にはならない、という理解が正しいのだ。すると空間のゆがみとは何なのか。どの方向へ引くのか。明らかに高次元の世界を考えているわけだろう。

 まず単純なことを言うなら、明快な事実として4つ目の次元など存在しない。少なくとも、直観の対象として私たちの生活環境に出現することはないはずだ。ここまでは誰も積極的に否定しないと思うが、しかしその意見は幼稚であると嘲笑する人が大半であることも事実だろうし、相対論に批判的な人も、これには賛成しきれないかもしれない。それがよくわかるのは、これまで相対論を批判してきた人たちのうち、かなりの部分が量子論は無条件に正しいとしているらしいことから察せられる。

 超弦理論を始めとして、他の分野でも高次元を認める考え方がいくつかあり、そのことが相対論の批判者すら少し躊躇してしまうところなのかもしれない。しかしこういう愚にもつかぬ疑似科学を広めた元凶が相対論だったのではないだろうか(ここで疑似科学という強い言葉で非難すると、使った側の信用度が下がることは承知しているが)。私たちの生活の場に、直観的対象として高次元が存在しないなら、それは存在しないのだ。理論的要請とは、一種の比喩として扱うということにほかならない。たとえば時間を第4番目の次元として扱う時空概念ならば、相対論とは無関係に利用できる。その場合に、時間と空間は全く性質の違うものであることを承知で、概念空間の内部でのみ使うわけであり、現実的ではないことを理解しているはずだ。これを比喩と言う。したがって、ここから文字通り高次元空間が現実にも存在するという飛躍は否定するのだ。

 2次元は直交する二本の座標軸で表現される形であり、3次元はそのいずれに対しても直角に交わる座標軸を設けて表現する形である。したがって、空間としての4次元とは、その3本のいずれに対しても直角に交わる座標軸を「現実に」引くことができる状態を指すのでなければならない。単なるパラメータを一つ二つそこに加えて演算処理の対象にすることは、科学理論としての正しさを主張することは可能であるにしても、新たなパラメータは明らかにそれまでの3本の座標軸に記されたパラメータとは別の性質を持つものであって、これを4つ目の次元と語ることは単なる比喩だし、空間論であると言うなら明らかな間違いだ。前者と後者の違いははっきり維持するべき点だろう。

 高次元空間が実在するという論法として、以下のような擁護がありふれた形だろう(ありがちな切り口なので、同種の説明はいくつかあるが、ベストセラーにもなった著名な例としてLisa RandallのWarped Passages:Unraveling the Mysteries of the Universe’s Hidden Dimensions を挙げておく)。ある人間の個性を、例えば四つのパラメータで表現すれば4次元的存在であり、五つのパラメータを使うなら5次元的存在となる。年齢、性別、身長、人種を入力パラメータとするならその人は4次元的人間であるし、これに職業を加えて5次元の存在として記述することも可能だ。次元とはこのような思考法のことであり、宇宙を高次元で記述する科学に抵抗を感じるということは理解しがたい視野狭窄と言える。

 しかしながら例えば人種と職業とを直角に交わらせた座標上に描く操作は可能だが、実際にこの二つが世界の中で直角に交わっているなんてことはあり得ない。このように言うことが冗談にもならない程度にばかげたことだ。だとすれば、この二つのパラメータは空間における「次元」とは全く別ものだろう。私たちは、空間的に作画された図表上に、いろいろなパラメータを、視覚的情報として表現できるという、それだけのことに過ぎない。パラメータそのものが実際の空間で直交しているわけではないのだ。

 高さ、幅、奥行きのパラメータは実際の空間で直交している。3次元とは、空間内のある位置を指定するために基準点からの距離を示す三つのパラメータが必要であるということと理解できるだろう。全く独自の座標系を考案して、それは位置指定に四つのパラメータを使う必要があるとする。この座標に三角錐を置いてみて、では三角錐の形が変わるのだろうか。変わるなら、私たちはその座標系は不正確であり役に立たないと言うだろう。2次元であるとか立体的存在であるとかいうことは、比喩を廃した厳密な意味で使うならものの形についてのみ語れるのであって、形以外の性質を巻き込むべきではない。

 超弦理論について詳しく語るつもりはないが、これが高次元を扱う理由は二通り考えられる。身の回りにあるありきたりな大きさの物体のごとくには位置を特定できる対象ではないということから高次元が必要なのかも知れないし、あるいは形や位置以外の性質を表現するために付け加えられたパラメータなのかも知れない。いずれにしても、例えば超弦の代表的な解の一つであるところの9次元であることは比喩であると言えるし、存在論にまで敷衍した主張は完全に間違っていると言い切れる。無知ゆえの乱暴な決めつけと驚くだろうが、一般人の感覚ではそうなる(いや、それほど自信はない。一般人ほど高次元を信じたがるものかもしれないから……)。そもそも超弦理論が単なる解(これは理論としての場所を指す)ではなく高次元を直接要求するという考え方は、相対論の名目上の成功から安易に高次元を現実のものとして語る悪習が蔓延した結果であると思われる。ちなみにだが、量子論が高次元を支持するのは、相対論の思考がディラックの場の理論に反映されてしまっているからである。

 私たちが高次元を軽く信じてしまうのは、一般的な思い込みとは逆に、低次元の存在を信じているからだろう。2次元世界があり得るのなら4次元世界もあり得る。つまり4次元とは、1次元空間が存在し、2次元が存在するという信念を、さらに押し広げた先にある。

 しかしそれら低次元の宇宙は誰も見たことはないし、現実には存在しない。よく引き合いに出されるホログラムにせよ平面絵にせよ、最低でも素粒子の厚みを持つ。あるいは、プランク定数の厚み、というべきなのだろうか(軽い皮肉だが、通じないか。私はこのあたりの説を信じていない)。いずれにせよ、それが2次元であるとするのは、厚みがないよう見立てるというたとえ話にすぎない。どんなに薄いマイクロチップを作っても、それは3次元的物体であって、全く厚さを持たない2次元の存在ではない。

 厚みを持たないものは、万が一あり得ても、3次元のこの世界に全く関係も影響も持ち得ないだろう。持ちうると考えるのは3次元のこの世界の性質を誤って2次元に投影するからである。エネルギーもほかの物体との干渉も情報の蓄積も3次元的な存在のみが持ちうる性質であって、その性質を頭の中で抽象的に操作するとき、2次元上でも同様に展開可能だと思える。しかし私の目の前に皮膜のように2次元世界が広がっているとして、私はそれに触れることはできないだろう。手を差し出して、皮膜を突き抜けるとしよう、そこに別宇宙があると知るためには、私の手に何らかの抵抗が与えられなければならないが、それはやはり厚みを持つものの性質を、ただ空想の中でだけ、その皮膜に与えるのだ。なぜならそれは空間という数学的構築物の断片であり、まさに空間という性質、しかも現実の空間ではなく数学的な空間の性質しか持ち得ないのだから。

 そしてまた、私たちはなぜ薄い皮膜のようなものとして2次元世界を考えてしまうのか。それは点のランダムな集合であってよいはずではないか。もちろんそれならば3次元も同様にランダムであってもよいわけだが、つまり4次元空間内の点の、ランダムな集合体であったとしてもよいわけだが、現状のような秩序だった存在として成立している。私たちの想像する2次元世界が、その秩序に対する比喩としてしか成り立っていないということの反映が、薄い皮膜のような世界ということになるのではないだろうか。

 私たちは一つの2次元世界をどこまでも平坦な一枚の紙のような形で想像し、それを重ねることで3次元になると思い込んでいるが、いくつかの紙世界が互いに交錯するような形で存在することもありえることになる。それならば2次元の存在のままで別の世界に行き来できることになるのだろうか。世界を限定する方法はないのだから、結局のところ2次元が3次元の中にあるなら、一つの2次元世界は他の無数の2次元世界と交錯した状態で存在すると考えることができてしまう。その場合に世界の独立性の要素とは何なのか。……いや、こんな思考を重ねても無意味なのだろう。つまり、所詮数学を使った空想なのだから。

 不思議でならないのは、4次元の存在は無条件に下の次元にアクセス可能であるという想定だ。それが事実であるなら私たちは2次元世界を目撃しているはずだろう。しかしそんなものは断じて存在しない。少なくとも、アクセス可能ではない。

 これに従って類推するなら、4次元世界なるものがもし存在したとしてもこの3次元とは無関係である、ということだ。従来それは、私たちは4次元世界の事象に触れることができないという形で理解されてきたが、4次元の住人こそが私たちに触れられないという理解が正しいのだろう。それを言うなら2次元の住人同士は触れあうことすらできないのだが。なぜなら触れるということが3次元の性質だから。

 トランポリンに鉄球を投げ込んでできた、そのへこみが重力であるという類の説明は、3次元の住人である私たちの認識を紙の世界に投影したものだ。もともとそのへこんだ形が2次元の世界の形であってはいけないのか。しかし単調な平面が重力の働いている状態であるという逆転した説明にした場合、誰も説得力を感じないだろう。まっすぐに引き合うという当たり前の説明が、なぜか相対論信者には通じないということの延長だ。本当は、紙に人の絵をかいて、折ったりくしゃくしゃに丸めたりしても、その「人」にとって世界は何の変化もないはずなのである。つまり、すべてが漠然としたイメージに頼った理屈にすぎない。

 そもそも現実の宇宙で直角が次元の数を決定するほどの格別の意味を持つというのもおかしな話なのだ。定規を使うことで座標を描くとものの動きを捉えやすく、さらに軸を直角に交わらせることでうまく割り切れた3本の軸で全体の把握が楽になるという便宜のためであり、宇宙の構造にこの次元なるものが組み込まれているわけではないのだ。もし科学が三つの座標軸のほかに虚数の方向を要求するのであれば、それは単に数学的表現の手続きとしてその方が便利だからという以上の意味はない。つまり座標軸というのは0本から一つずつ足しあわされてゆき、それに応じた世界が存在するという類いのものではなく、立体としてしか実在し得ない宇宙を三つの成分に分けたらこうなるという思考上のシステムでしかない。