最初に相対性理論関係の本に接したのは、正確な年齢は忘れたが、小学校から中学校に上がる前後だった。そこはうろ覚えながら、一読すぐに著者は間違っていると感じたことは今も鮮明なのだ。こう書くと早熟な慧眼を誇示する作り話としか思えないだろうが、事情を聞けば別に私の頭がよかったとか、その類いの自慢話ではなく、誰でも十分に考えつくことであって、いささか知育の遅れた私のごとき子供にも抱きうる感想であることを理解していただけると思う。むしろ頭の悪い人間ならではの融通の利かなさではないか。何事も文字通りには受け止めない性格の悪さ? どちらにせよ、何かを説明されて、ふむそうだと納得することができるのが頭の良さであり、納得がいかないのは理解力の足らなさであろう。ここに、裏返しの皮肉な気持ちなどはない。純粋にそういうものだと思う。

 そのとき見たのは素人に宇宙の不思議さを教えてやるという意図を前面に押し出したような、安っぽい知識を羅列した本で、私が引っかかりを覚えたのは重力のわかりやすい解説図らしきものだった(またぞろ絵心のない人間の手書きでお目汚しになるけど、ご勘弁。さすがにネットで絵を拾ってくるのは違うから)。

 ぴんと張ったゴムシートみたいなものに方眼を描いてあり、鉄球か何かを載せ、方眼の中央が重みでくぼんだという図が示してあった。擂鉢の底に鉄球が置いてあるような見かけになっており、その擂鉢の形なりに方眼は歪んでいる。もちろんこれは空間の曲がりを表現しており、小さい玉をここに放り込んでやるとアリーナ状の斜面を滑り落ちて中央の鉄球に吸い寄せられて行く。鉄球は太陽、小さい方の玉は惑星をイメージしているのかもしれない。それで空間の歪みによる重力がどういうものかを説明したことになると言う。ずいぶん昔に読んだので、知見として古いかと思っていたが、最近の本を見ても相変わらず同様のたとえ話に頼っているのを発見した。さすがに呆れたと言っておきたい(たとえばBrian GreeneのThe Hidden Reality。この本にはGPS信号が相対性理論による計算で成り立っているという例のデマ情報まで盛り込まれている。高名すぎる学者が採用されていると言い、私がそうではないと言った場合、私を信じる人はいない。相対性理論の証明とされるもののすべてがこの構造を持っている。これが正しい情報であるか間違った情報であるかということに全く意味がない程度に、相対性理論は間違っていると私は思っているが)。

 子供心にこれはごまかしがあると思った。玉は斜面を滑り落ちることが前提されている。すなわちすでに重力がこの図全体に利いていることがイメージされている。一番肝心の、重力とは何かが、説明しているつもりらしいが実は先入観の中にあらかじめ設定されている。重力があるから斜面を滑るのであって、それがなければ斜面の途中だろうが縁だろうが玉は止まっているはずなのだ。たとえば太陽のそばを小天体がよぎるとき、その軌道が曲げられてしまうことを空間の歪みのせいと言われると少し納得できる気になるけれど、地表にある石がやはり空間の歪みによって引きつけられ続けているとは、いかなることだろうか。静止状態にあるものに対して、空間の歪みは意味を持つことはできないのではないだろうか。

 一つ譲って、重力は自分の中に沈み込む力であるということは認めるとしよう。つまり例の図において下向きの力はありうるとする。これで離れた二つの物体は引き合うことになるのだろうか。鉄球の作った大規模な斜面を滑る玉を空想するとき私たちは小球の方も己の沈み込む力で穴を穿つことを忘れてしまいがちだ。下に掲げたつたない図の、左側のようであればうまく想定通りになるだろうが、右図のようにならないという保証はない。つまり歪みが引力として働くためには相当に都合のよい材質をこの斜面に設定しなければならないだろう。斜面とはこのたとえ話の場合に空間そのものであるということなので、空間がまさにゴムのような復元力を持つ一種の物質であると、この想定全体は仮設するのだ。

 結論は簡単だ。大きな鉄球と小玉が互いに引き合う力を持つとすることが、重力の唯一あり得る明快な説明なのであって、両者を乗せる方眼紙の歪みに重力としての意味を持たせることはできないのである。もちろん従来の説は重力という概念について新規なことを何も言ってないわけだが、事実としてそれ以上のものはないのだ。重力をもたらすグラビトンなる粒子が存在するや否やということはこの話には無関係であることは理解してもらえるだろうか。グラビトンが存在するなら、それは二つの玉を引き寄せ合うのであって、空間を歪ませる訳ではないということだ。つまり二つの引き合う球体があるなら空間が歪むなどと言わずにいかなる引き合い方をするのかを描写することが唯一の正しい思考法だと思われる。

 子供の疑問はここまでだ。もちろんこれほど明確に言語化できていたはずはない。私がこの問題をさして気にとめなかったのは、これは多分著者のたとえ話で、一般向けに平易に砕いた説明を試みたまでのことであり、実はもっと核心を衝いた重力の解説がほかにあるのだろうと感じたからで、さすがにそれは当時の私の手に余るに違いないと思うと追いかける気がしなかった。だが年を経て、これはたとえ話などではなく、重力理論の中心的な着想そのものであることを悟るようになった。いや、たとえ話なのだ、あくまでも。しかし語り手はこれが真理であると言う。人はおそらく一般相対性理論の複雑な数式に恐れ入って、異を唱えることはしない。しかしあの数式は、なんのことはない、擂鉢の形すなわち時空の歪みの形を表現したに過ぎないのであって、なぜその擂鉢の斜面を玉が転がり落ちるかについての説明はそこに含まれていないのだ。

 平面にくぼみが生じること、すなわち時空が歪むことで、重力が生まれるなどということはない。それは図から受けるイメージだ。おそらく多くの人はこれが私の簡略すぎるたとえ話であり、時空の歪みによって重力が生じるメカニズムについての説明がどこかに存在するはずと思うだろう。少年時代の私の感想と全く同じだ。しかし何処まで調べていってもたとえ話しか出てこないのだ。

 これは、元がたとえ話であるから、私の批判もたとえ話に終わっている。したがって坂道の材質を論じることに実質的な意義を見出しがたいかもしれない。しかしこれは元の重力論が空間の性質というものを全く思考の外に追いやっていることが、この擂鉢への置き換えによって明らかになっていると考えるのが正しいのだ。すなわち、時空が歪むということの意味を私たちはよく知らないまま、それが重力を生むことだけは信じるのである。

 大人の知見によってもう少し先を考えてみる。時空の歪みが重力を生む。これを説明するアイデアの一つがエレベーターの思考実験で知られる等価原理なのだった。

 静止状態にある、たとえば50kgの重さを持つ物体は地球の重力でその重さを持たされているが、まったく重力のない場所にしつらえたエレベーターの内部にこの物体を置き、全体を上方向に重力加速度の強さで引っ張り上げてやることで同じ状態を再現できる。また、地球の重力圏内でこのエレベーターを自由落下の状態にすれば、まったく重力の及ばない場所を再現できる。つまり重力とはエレベーターという「場」が加速度状態にあることと部分的に等価である。部分的と言うのは潮汐現象などが含まれないからで(物体を床と接触する面で支えるか、全体に加速度が加わるかの違いなので、もちろんそれは計算で補う)、これを称して「局所的に一致する」と言う。すなわち基本的には重力は空間自体の加速現象とみなせる(という説)。

 しかしこれはイメージに頼ったかなり怪しい同一視だ。重力と、重力のない場所で上向きに加速されるエレベーターが同じであるはずがない。なぜならエレベーターをそのまま加速し続けるなら容易に光速に近づいてしまうことになり、相対性理論が正しければ中にある物体はすぐにとてつもなく大きな質量を持つことになる。これに反して地上にあるものは数億年、数十億年重力にさらされ続けながら、そのままの状態を保つ。単なる思考実験の中でなら、永遠に安定した状態であることも想像できる。

 相対論の描像は上向きに移動しようとする(エレベーターの)力に対する(物体の)抵抗であり、ここにかかる運動エネルギーはどちらかと言えば斥力に近いことになってしまう(つまりエレベーターは地表から離れようとしている)けれど、これに類するベクトルを重力の中に見つけることはできない。強いてこの動きを理念としてまとめるなら、地球から逃れようとする動きに物体がさらされており、それに対する抵抗が物体の50kgの質量を生む、そしてその全体が空間の歪み(収縮)で常に地球の側に引き寄せられ、結果として安定した場所(地表)にとどまり続ける、といったあたりだろうか。しかしこれは現実の物体に対して余計な観念をいろいろ付け加えすぎていて、ほとんど説明能力を失っている。

 かたや、自由落下を利用して作る無重力も、エレベーターはいずれ地表にぶつかる。つまり、この思考実験のそれぞれの場合において、人工的な重力、人工的な無重力の側は永遠に続けることが不可能な作業であって、しかも不可能な理由というのが、作業を続けると質量が無限大になってしまうという理論内部の事情なのだ。これに対応する、地表に重力を受けつつ静止する物体、無重力の虚空中に浮かび続ける物体は、あくまでそういう奇跡的な状況があり得たらという前提を置くにしても永遠に続くことは可能である。つまり「重力=加速度」ではない。それはもう、単純明快に違う。

 この場合、時間の前後を切り捨てて、部分的に同じである、と反論することにどの程度の有効性と意味があるのか。結局、等価原理というものが全く根拠を持たぬたわごとなのであって、なぜ科学者がこんなものを信じていられるのか、人間の愚かさに絶望するほどの出鱈目な妄想なのだ。つまり運動中の物体について、ある時刻の静止図を切り取ってそこにかかっている力を計算し、それをある重力下の物体にかかる重力エネルギーと比較して「同じ量である」と言っているにすぎない。では、私が目の前の何かを押してやったとき、それも部分的には重力と同じだし、サバンナで突進するサイも見物客の車から重力で引きつけられていると言ってもよい訳だろう。だがこんなものが重力ではないのと同様、加速度付きの単なる運動エネルギーも重力ではない。おそらく、ひもで引っ張り上げる状態を自由落下のエレベーターと比べているのでなにやら同一視すべき根拠がありそうに感じられるのかもしれないが、横方向に引っ張っても、押してもよいのだ。あるいは、サイに紐をつけて引っ張り上げさせてもよいだろう。まさにサイの突進力が重力であるという見本になる。しかしそのような書き方だとだまされる人はほとんどいないのではないか?

 そこに空間の歪みによるという説明をつけても同じことだ。門外漢は空間の歪みというものについて、一般相対性理論の論文群に説明があると思っているかもしれないが、実はそんなものはない。運動エネルギーと重力は同じであるという唐突な宣言が論文の冒頭にあるのみである。重力を運動エネルギーという形でのみ発揮できる条件を与えれば、当然そのほかの運動エネルギーと同じものにしかならない。電気をモーターの回転という環境でのみ発揮できるようにして、電気とは回転する力であると結論することは無意味だが、それと同じだ。一般相対性理論の冒頭部分はまさにそれと同様のことを言っているわけだろう。そしてまた唐突に、重力は空間の歪みであると宣言される。だが擂鉢状のくぼみは重力を前提する限りにおいて、そしてその材質についてかなり微妙な条件をつけて初めて重力を生むのだ。空間の歪みも大きな球が小さな玉をたぐり寄せる力を前提としてのみ意味があるものになる。擁護者はこのことについて「アインシュタインは思考実験を繰り返した結果云々」と言うわけだが、思考実験などかけらも実行されなかったことは確実である。「時空の曲率」などという神秘めかした概念が説明を与えていると錯覚しているだけのことなのだ。

 ここで一つ記憶しておくべき重要な点がある。一般相対性理論は完全な間違いではない。重力が単なる加速度であるとき、その時のみこれは正しいのだ。つまりそのような環境が用意できるなら、その内部では一般相対性理論は成立するし、実際にも自由落下状態のエレベーターのごとく、現実の環境として存在している。しかしながら、重力は単なる加速度ではない。私がこれを重要な点であると言うのは、相対性理論を展開する過程でのあらゆる局面で、それを正しいとする視点が存在するが故に、完全な間違いとは言い切れないという不思議な性質を覚えておいてもらいたいからだ。ただし、一段包括的な視点で眺めれば、単なる視野狭窄の仕業であると理解できる。