相対論の空間把握が最も見えやすい、有名な思考実験から入るのが良いと思われる。閉鎖空間は外部からは独立の、それ自体の物理現象で回る「空間」であると主張するということで、列車や飛行機は時間が別の流れを持つということと連動する論文である。しかし先に書いたとおり、たとえば宇宙船内の光は宇宙船が外界とは別空間であることに拠って独自の動きをするということを主張するのに対し、いささか矛盾する記述となっていることに注目するのである。(当該論文は“Über der Einfluss der Schwerkraft auf die Ausbreitung des Lichtes”1911、邦題は「光の伝播に対する重力の影響」、アインシュタイン選集2巻、共立出版株式会社)。

 これは重力場の中を自由落下するエレベーターと、無重力空間を上方に移動するそれとの比較において、重力は空間の移動と等価であることを主張する有名な思考実験だ。相対論を民衆に膾炙せしめる重要な役割を持つ提案だが、列車や宇宙船の時間が速まるという説とは矛盾がある。

 エレベーターと書いてしまったが、それは後代の人たちによるわかりやすく解説された翻案であって、元の論文はもちろん小難しい書き方になっている。三次元座標の移動という形をとっている。一例がこれ。(翻訳責任は私)

「ここでK並びにK’に対して、それぞれ何個かの質点を与える。これらのいずれも他の質点からの影響を受けていないものとする。その場合にはいずれの質点も(K並びにK’から眺めたとき、いずれの場合も同様に)d²xv/dt²=0、d²yv/dt²=0、d²zv/dt²=-γ、という方程式に従う(xvはv番目の質点のx座標を指す)。この式は、加速系K‘に対してはガリレイの原理から直接に出てくる。また一様な重力場中に静止している座標系Kに対しては、このような重力場の中ではすべての物体が同じ大きさの一様な加速度を受けるという経験的事実から出ている。重力場の中ではすべての物体が一様な加速度で落下するというこの経験は、自然を観察することで私たちに与えられた中で、最も普遍的なもののひとつである。(中略)しかし次のように仮定するならば、私たちは上に述べた経験法則の、きわめて満足すべき解釈に至るだろう。この仮定とはすなわち、座標系Kと座標系K’が完全に同値であるとみなすことだ」

 座標系とはこの場合、要するにエレベーターだ。これを自由空間(つまり無重力状態)の中で上方向に引き上げることで、箱中の物体に疑似重力を生じさせることが可能である。つまり、上階行きのエレベーターではまず床に押し付けられるような感覚を味わう。

 アインシュタインが数式交じりで小難しく表現していることは、要するに物体が下に落ちるということは、その物体を取り囲む運動系が逆方向に行くことと同一視できるということである。これは、確かにある条件下ではそう言える。たとえば宇宙船の乗組員は飛行機をわざと自由落下させる中で活動し、無重力中の運動を学習する。

 だからエレベーターでこれを解説することは間違いではないだろう。しかし必要なのは床面のみであって、箱の内外に区別をつける理由はない。物体に直接ひもをくくりつけて持ち上げても効果は同じだ。しかしその想像図から私たちが得る直感は、内部空間の移動が物体を動かしており、外部空間との差が重力となるということなのだ。つまり空間と空間との関係に注意を奪われる。しかしよく反省してみればわかることだが、エレベーターに乗った私たちが加速を感じるのは床の移動があるからであって、空間が移動するからではない。これは語り方の問題にすぎない。

 これと同時に、重力場の中を自由落下するエレベーターを想像するよう促し、それによって内部が無重力であることを主張する。だがそちらはあえて箱を用意する必要はなく、物体が重力場を落下し、計測者や計測器も一緒に落下していれば重さは消える。これを図に起こし、下部の重力源を描くと、空間がその重力を打ち消すという印象を与えやすくなるかもしれない。

 この仮定において、空間の持つ性質が十分に検討されないまま話が進む(運動系K’とは何だろう。そんなものは存在するのか? これはエレベーターという具体的なものよりも、さらにわかりにくくするだけの、非常に質の悪い印象操作ではないか)。おそらく多くの人はこの思考実験においてエレベーターの内部空間を外から独立した空間とみなすのではないだろうか。したがってエレベーター内の無重力、および疑似重力をこの空間の移動がもたらしたものであるという錯覚を持つ。

 しかしいずれの場合にも純粋に物理学上のことを言うなら、箱の内部と外部を分けなくとも同じ効果が得られるのであり、内部を独立した空間とみなす理由はない。むしろ内外で連続的であるからこそ、疑似的な重力、無重力が得られるのだ。すなわちこの例で空間というものは何一つ役割を演じていない。にもかかわらず、疑似重力、疑似的な無重力と空間とが一つの図の中に空想されることで、空間が何らかの影響を及ぼすという、かなり漠然とした印象だけは残るのである。

 ザルにひもをつけて持ち上げる、金網をエレベーター代わりに使う、そのような場面を想像すればよい。力のかかり方はしっかり金属の壁で囲まれたエレベーターの場合と全く変わりないはずなのに、空間の移動が重力を生むという印象はわいてこないと思うのだ。ここで疑似重力として扱われるのは、引き上げる力に対する抵抗だ。すなわち作用と反作用の問題であるにすぎない。では上に引き上げるのではなく、横にひいても、あるいは押しても同じ効果が得られるはずなのだ。だがその描写だと重力という錯覚は生じない。単に押す力と引く力が等しいということが強調されるだけだろう。

また、この描像は上向きに移動しようとするエレベータ(の床)の力に対する物体の抵抗であり、ここにかかる運動エネルギーはどちらかと言えばエレベータ(の床)が地表から離れようとしている力になる。要するに重力は斥力であることになってしまう。

 一方の自由落下する物体の場合だが、空間の何らかの動きが重力を生むということであれば、地面と物体は常に同じ距離にあらねばならないだろう。なぜなら空間とは物体と地面をはるかに超える全体のことであって、地面と物体間の距離ではないし、ましてや物体の周囲にエレベーターの箱のごとききれいな境界が描けるわけではないからだ。人が地面に立って、目の高さから物を落とすとして、なぜ人は縮まず物と地面の距離だけが短くなるのか。地球の引力が空間の伸縮作用によるものではないからである。人も同様に引っ張られており、それは体の各部分で空間の上方向への移動が生じているからである、などということが信じられるものだろうか。

 ここで誰にも理解できる重要なことを改めて述べなおしておく。エレベーターの内外が連続した、一つの空間であるからこそ疑似的な重力や疑似的な無重力を、人工的に作ることができるのであって、エレベーターは決して相対論のいう意味での独立した運動系などではないし、ましてや独立の空間を内部に持つわけではない、ということだ。

 ところで、この有名な思考実験が披露された論文では初めから「局所的に一致する」という遁辞が使われています。なんのことはない、空間のゆがみは重力の十全な説明にはなりえないと言っているのだ。不思議なことにこの逃げによって、アインシュタインは十分に理解したうえで不一致の部分を除外したという気持ちに、読者は誘い込まれてしまうようだ。誰も局所的でよいという理由を問わないのだから、たぶんそうなのだろう。でも、アインシュタインはその部分について考える気はなかったのだと思われる。

 だが支持者が放っておいてよいはずはない。結果として、人は重大なことを考慮の外に追いやってしまい、「基本的に重力は空間自体の加速現象とみなせる」という、非常に不合理な考え方を支持することになる。除外された「基本的ではない」部分のほうが、もしかしたら重要かもしれないではないか。

 重力と、重力のない場所で上向きに加速されるエレベーターが同じであるはずはないのだ。なぜならエレベーターをそのまま加速し続けるなら容易に光速度に近づいてしまうことになり、相対論が正しければ中にある物体はすぐにとてつもなく大きな質量を持つことになる。これに反して地上にあるものは数億年、数十億年重力にさらされ続けながら、そのままの状態ではないか。なんなら、永遠に安定した状態であることも想像できる。たとえば一つの惑星が何らかの事故で主星の引力圏を離れ、幸運にもあらゆる他の星との衝突を免れて放浪を続ける、その表面に置かれた岩。この岩にかかる重力の状態を、永遠の加速状態にあると見立てることはあまりに乱暴過ぎる。

 地表にある物体にかかる力を強いて理念としてまとめるなら、地球から逃れようとする動きに物体がさらされており、それに対する抵抗が物体の質量を生む、そしてその全体が空間のゆがみ(収縮)で常に地球の側に引き寄せられ、結果として安定した場所(地表)にとどまり続ける、といったあたりだろうか。しかしこれは現実の物体に対して余計な観念をいろいろ付け加えすぎていて、ほとんど説明能力を失っている。繰り返すが、この意見では重力は斥力ということにしかならない。ばかばかしいにも程がある。

 一方、自由落下を利用して作る無重力も、エレベーターはいずれ地表にぶつかる。つまり、この思考実験のそれぞれの場合において、人工的な重力、人工的な無重力の側は永遠に続けることが不可能な作業であって、しかも不可能な理由というのが、作業を続けると質量が無限大になってしまうという理論内部の事情なのだ。これに対応する、地表に重力を受けつつ静止する物体、無重力の虚空中に浮かび続ける物体は、あくまでそういう奇跡的な状況があり得たらという前提を置くにしても、永遠に続くことが可能である。つまり「重力=加速度」ではないのだ。

 時間の前後を切り捨てて、部分的に同じであるとすることに科学的な意味も有効性もない。動きというものを静止画に封じ込め、そこに描かれている絵が同じであれば同じものであると言いたくなるかもしれないが、しかし現実には違う。4秒間自由落下したエレベーターと10秒間のそれとでは、地表にぶつかるときの衝撃がおのずから違うはずだ。これに対し真の無重力状態にある物体は4秒間の静止と10秒の静止ののち、これを動かそうとするときに違いはないだろう。つまり動くものにはエネルギーの出入りと正確な時間経過が書き加えられるのであって、だからこそ力学なのだ。動いているものは、その動いている時間の長さが問題になるし、重力が関わることでは必ずどこかで運動が終わる。その必要のない無重力空間中の静止とは当然違う。それとも、地表で静止状態にある物体は地球に対し等速並進運動をしているだけであって重力にさらされているわけではないと言うべきなのだろうか。あるいは、地表の岩石は常に同じように見えるが日に日に重さを増しているとでも。それは明らかにばかげた話だ。だがエレベーターの思考実験の主張は、そういうことなのである。抽象的に書いてあるから正しいと思い込む、学者の悪い癖。

 なぜこういう単純な考え方ができないのか。想像できないでもない。この論文でさらっと「質量はエネルギーに還元される(逆も可能である)ことは特殊相対性理論で証明されている……」と書かれている。有名なE=mc²のことだ。現に質量というものが目に見える形でそこにある以上、運動エネルギーが無限大にまで発散することはあり得ないと、無意識理に考えている節がある。しかしそこはまた別の指摘が必要だ。ただこのように、どれも事実と整合的ではないのに一々既成事実化して論文が参照しあうということも、相対論の悪いところかと思う。