相対論は、いろいろなことを言われるが、根本は「光の速度はどの移動者に対しても、静止している者にも同じ」であることを突き詰めた理論ということになる。つまり光の半分の速度で光源から遠ざかる乗り物の人にも、その逆の人にも、また静止状態の人にも光源からの光は同じ速度に「見える」ということだ。なぜそうなのか、という理由はない。こじつけで(という表現はよくないが、少なくとも後付けではある)いくつかの説は出されているが、アインシュタインの論文に直接の記述はない。空間が曲がるから、あるいは時間の伸縮があるからという言い方をされることが多い。しかしそれは順番が逆である。つまり光速度を一定と決めたから、時空をいじることでそれを調整するのである。

 なぜ光速度が一定なのか。そうでなければ、光が光ではなくなるからである。これは、そういう決め事として理解されている。とりあえずアインシュタインはそう考えたのであり、それによって種々のことにうまく説明がつくと、後追いで人々もそれに従った。この辺りは、少し批判的に響く書き方をしているが、水掛け論であると思う。少なくとも相手を説得することは無理だろうとは思う。私は理不尽な意見だと思うから、そのようなニュアンスを出してしまうが、それで理解した気になれる人も多いわけである。

 たぶん歴史的な記述として、マイケルソン・モーリーの実験の解説がこのあたりに紹介されることが多いだろう。ここではそれには触れない。なぜならそれは様々な解釈が可能で、決定的なことは言えないと思うからだ。それはエーテル(真空は存在せずエーテル、“aether”と呼ばれる微細物質が宇宙を満たしていると昔は考えられた)の存在を問うものであって、実験自体は失敗に終わった。つまりエーテルの存在は否定された。奇妙なことだが、ここで相対論賛成者は「エーテルが否定されたのだから相対論が実証された」という論を展開する。そして反対者は「否定されたのだから相対論も否定される」と言う。すなわちかなりきわどい解釈論の応酬ということになる。ここから正しいと納得してもらえる理屈を出すことは可能だろうか? 考えるだけ無駄のような気がする。「この実験は相対論の成否について何も証明しない」が正しい意見ではないか。だからわざわざ説明の労は執らない。

 ところで、光速度を一定とするために時空間のパラメータをいじると書いた。その意味を理解するには、振り子の代わりに光の往復を一単位とした「光時計」の考え方を参照するとわかりやすい(面倒がってマウスで描いたので雑なのはご勘弁)。

 左図の太線は向かい合わせに固定した鏡だ。図の下方から発した光が上の鏡に反射してもう一度下に戻るまでを振り子の一往復とみなし、静止状態の光時計で時間単位のtとする。ところで、この時計を左右のどちらかに動かすと、光は斜めに飛ぶ。斜めであるから光の飛ぶ距離は長いのだ。しかしそれに要する時間はまっすぐ上向きの時と同じであるとされる。では、斜めの時は光がそれだけ速く移動するのか? そうではなく、光速度は一定で、移動する物体の時間経過が遅くなる、ということが相対論の主張である。つまり時計の内部では光は斜めではなく、上下を往復したに過ぎない。

 時間の違いは簡単に求められる。これは理解する必要がないと私は思うが、一応簡単な説明をつける。鏡の隔たりをLとするとこの時計の一単位はt=2L/cとなる。次にこの時計を右にでも左でもよいから移動させる。光の軌跡を斜辺L'とするとその長さはピタゴラスの定理でL'²=L²+(vt’/2)²であり、これでこの状態における振り子の一単位をもとめるとt’=t/√(1-v²/c²)となる。このtとt’はそれぞれ静止した時計、運動中の時計の一単位なので、静止した時計の刻みのほうが速い。その割合は √(1-v²/c²):1である。

 これは後回しになるが、ミンコフスキー座標と計算式というものがある。光時計を左右の方向に動かしてわかりやすく示したことが、上下左右、さらに斜めの方向へ動かした場合でも成立するということを述べている。ただ、今のところそこまで理解しなくてよい。時計の場合で言うなら、三角形の斜辺に相当するL'はいつだってLよりは長くなるのだから、もし光速度が一定であるなら光がその距離を往復するのに必要な時間は増えるはずだとわかる。つまり時間の刻みは間延びする。光時計の移動速度が増すにつれ、三角形は横に伸びてひしゃげた形になる。移動速度が光速度に達すると、振り子の代わりである光は速度の成分をすべてその方向に奪われ、斜めに飛ぶことができない。すなわちこの時計は時間を刻まなくなるだろう。

 光時計はミンコフスキー空間の仕組みを素人にも把握できるようにファインマンという物理学者が考案したものだ。たしかにこれで理解できたと感じるかもしれない。だが何かしらの引っ掛かりも残る。停止状態の光時計は対面の鏡に向かって垂直に光を放っているが、もしこれをスライドさせた場合、右図のように斜めの軌跡として見えるものなのか。また、光時計を上下の方向に動かした時、本当に向かいの鏡に到達するまでの時間は、どちらの鏡から出発した場合でも等しく遅れるのか。

 光時計のことで、一応の説明を付加しておく必要があるだろう。進行方向に直角の向きに光を飛ばしたとして、光は斜めに行くわけではないという意見があり、行くという意見もある。ここは、有名なマイケルソン・モーリーの実験の評価、あるいはブラッドリーの光行差現象(観測者が移動しながら天体を見ると、天体がずれて見えてしまうこと)の解釈を含め、かなりかまびすしい意見のやり取りがある。もちろん相対論に賛成の人なら当然斜めに飛ぶことを支持する。

 しかしこの場合の斜めに飛ぶとは実際にどういう意味なのか。光時計考案者の意図では「光時計という独立した運動系の空間内のことであるから、その空間の移動に沿った動きをしている」ということになるのだろう。

 しかし現実の現象として考えた場合、光を数学的な直線として発射することはできない。日常的な光源を考えた場合には四方八方へ拡散してゆく状況を簡単に想像できる。それならば垂直にも行くし、斜めにも行くことになる。もし光をピンホールで絞ったとしても、もちろん幅はある。

 奇妙なことに、レーザー光のほうがはっきりと進行方向に傾いた、斜めの飛び方をするという報告がある。レーザーとは、とても非科学的なたとえで言うなら、でたらめな動きをするたくさんの球状のものを細い筒に流し込んでやって、球はあっちこっちぶつかり合いながら結局は一方向の流れとして出てくるような仕組みだ。この筒を横向きに動かすなら、中の球のぶつかり合いに何らかの影響があるだろうことは理解できる。したがってレーザー光が、装置の進行方向に沿った斜めの飛び方をすることもあり得るだろう。

 反相対論の側はおおむね、進行方向へ傾いた光の飛び方を認めない。だから斜めにも飛ぶことを持って、相対論支持者は「やはり相対論が正しかった」という。しかしそうだろうか。レーザー光の場合には装置の人工的な作りが斜めの光を生むのであり、相対論とは何の関係もない。そしてそれ以外の光の場合、むしろ相対論は否定されたと考えることもできてしまう(もちろんこの段階でそこまで言ってしまうと、また言いすぎになるが)。なぜなら、もう一度光時計の前提を考えてもらいたいのだが、向かい合わせの鏡に囲まれた空間が運動系という異空間であるから、そこを実はまっすぐ飛ぶものとして想定される光が、空間外からは斜めに飛んだように見えるという設定なのだ。しかしここで持ち出される光の軌跡は、レーザー光含め、ことごとく外と一体となったオープンな空間内の出来事となっている。では、それは相対論の効果を証明するものではないだろう。

 反相対論が「光は斜めに行かない」というとき、それは空間の移動による光の変化はない、という原理論を指摘するのであって、現実の、いわば不確定の部分が演出する光の軌跡の変化を言うのではない。混同してはならないところだ。

 そして大事なことは、斜めに飛ぶかどうかではなく、斜めに飛んだ光とまっすぐの光の時間的長短のはずではなかっただろうか。つまり、先ほどの図において、下から発せられた光Lが、向かい側の鏡に当たるはずのところ全体が速度vを持って右に移動しているので、「相対論効果によって」L'の軌跡を描くことになってしまったのか、あるいは最初から移動後の鏡めがけて飛んでいた光だったのかは関係なく、時間のひと刻みとしてL'=Lとなるかどうかということではなかったか。

 そしてもう一つ、これは特に書いておかねばならないことだが、エレベータの思考実験において、無重力空間内を引っ張り上げる箱の内部で、床に平行に打ち出される光は下向きに曲がっているかのように見えるとアインシュタインが言っているのである。すなわち、光はエレベータの動きにしたがって斜めに行くのではなく、全く外からの視点で直線的に飛ぶと彼は言っており、それを相対論の基礎としているわけだ。あまりにもご都合主義すぎるというべきではないか。

 すると相対論の側は重大な錯誤を犯していることになる。つまり、相対論の主張する「光がちゃんと斜めに飛ぶ事象」はすべてオープンな空間の事例を出してしまっている。ならばL'=Lが成立するということは、速度の違う二つの光を私たちは目撃しているということになり、それを相対論の側から言い出してしまったことになるのではないか。

 原理論として、ふたつとも素人考えの引っ掛かりのほうが正しいのだ、ととりあえずこちら側の主張を述べておく。光時計の図は光に慣性の法則が働くかのような描き方をしている。あるいは目の前をよぎる電車の窓から明かりがこぼれており、それを目で追うときの印象でとらえられている。しかし私が見る窓の明かりはまっすぐ私に向かってきたものであり、横向きに飛んだ光を見ているのではない。電車が左から右へ滑ってゆくとき、視界の左右で同じ光源を見ているのであっても、とらえた光は違うものだ。つまり光時計をかなりの速さで動かしてやったなら、光が反対側に到達するころ、その場に鏡はすでにないだろう。移動後の鏡に当たる光は、最初からその方向を目指していた斜めの光である、と考えることが正しいように思われ、それならば長い距離を移動する分だけ時間がかかる、と考えることが妥当ではないだろうか。

 しかし相対論に批判的な側がこだわるこの点について、私はそれほど重要視するべきではないという気がしている。直進するはずが斜めに飛ぶ、という理屈が相対論なのだから、その点をいくら言いつのっても聞く耳は持たないはずだろう。

 むしろこの時計を(図で言うと)上下の方向に動かすとき、時の刻みは一定ではありえない、ということを考えてみるべきかもしれない。左図において、自分が時計の下方にいて遠ざかるところを眺める形とすると、光は遠ざかる動きと近づく動きの繰り返しになる。この際に光が一定の速度に見えるためには、光の往復の動きに伴って時計本体が伸縮、もしくは速度の緩急を繰り返すことになるだろう。時計と光がともに遠ざかるとき、鏡は逃げる形になるので、光はより長い距離を飛んで向こう側に着くことになり、もしこの時計と一緒に移動する人があれば時間の進みは遅くなる。光がこちらに来るとき鏡は迎える形であり、短い移動で済むはずなので時間の進みは早まるだろう。第三者の立場の私と時計とともに移動する人の、どちらの視点でも光速度一定の条件を満たし、かつ時計が安定しているための唯一の条件は、それが静止しているとき以外にはないことになる。

 光がジグザグに飛ぶ形で動いている合わせ鏡の時計の場合、時計の内部と外部からの視点で時間のずれ具合は常に一定であり、私たちをだますのに都合の良い形だった。しかしこちらは不安定極まりないどころか、時計の内外での視点の違いは光の移動距離を変化させない。ジグザグ型に飛ぶ場合と同様の間延びを与えようと思うなら、時計が進行方向へ動く速度を光の速度に上乗せしてやればよいのだが、もちろんこれは相対論が禁じていることだ。