とにかくもどかしい。相対論が間違いであること、現代宇宙論が全くのでたらめであることは確定している。私はそう信じている。だがこれはさすがに共通の理解にはならない。いつそうなるかもわからない。私はその先のこと、つまり科学が根本的に間違っていることを前提とした世界観をだらだら書いてしまっているが、そもそもその前提が理解されてはいないのだから、無駄なのかもしれないとは思う。

 もっと簡単に理解してもらえる方法はあるのだろうか。相当、限界に近いと思うのだが、まだ改良の余地はあるのかもしれない。ずっと考え続けている。ただ、こういう人の生活にかかわりの少ないことではなく、政治や世界の動きについても、あまりにも明白である(と私には思われる)ことすら全く理解しない人が多いことを考えると、絶望的なのかもしれない。

 私は同じようなことを繰り返すことを好まないのだが、ほんとうはそのほうがよいのかもしれないと、少し思い直している。なぜならすべて作品とは読み捨てにされる時代だからである。というわけで、時々洗いなおしてみたい。

 今世紀中に相対性理論が過去の遺物になるのは間違いない。しかしその流れに科学者が参加することはなくて、彼らは最後まで相対論的宇宙像の正しさにしがみ続けることだろう。なぜなら実証科学として、これを否定するところまで人間が進歩できるとは思えないからだ。

 具体的に言うなら、現在の相対性理論の成果であるビッグバンやブラックホールを否定するためには実際にその現場まで行ってみる必要があるわけだが、前者は時間の壁の彼方に存在する出来事なので無理、後者は一番近いところで銀河系の中心ということになるだろうからやはり今世紀中には不可能だ。もちろん近づかなくてもブラックホールであることは証明できたのだから、反対論が仮に真実であるなら証明できないのはおかしい、と言われるだろうが、私はあくまで否定する側の条件を示しているわけである。銀河系中心部はブラックホールであるという理論で納得する人はそれでよい。主張も自由だ。しかしそうではないと言う側は、相対性理論に基づくにせよ別の体系を使うにせよ、理屈だけでは足りない。 つまり宇宙論という形である限り、すでに存在する圧倒的な権威を論駁することは困難であり、後は実際に近くで見て、これはブラックホールではない、と得心してもらうくらいしか方法がないように思われる。本当はブラックホール賛成論の方も観測機器を吸い込ませてみるなどして、実際にブラックホールであることを人々に納得させるまでは確定した事実のごとく語るべきではない、と思うのだが、現時点でこのことを言うのは負け犬の遠吠え以上のものにはならないのかもしれない。

 ではなぜ、過去の遺物になると言ってしまえるのか。一般人の常識が相対性理論を否定することになると私は考える。無知な素人どもの直観が科学者達の総意を崩すという、かつて前例のない画期的な出来事が今世紀中に起ることになるだろう。これは願望だ、ただし相当先に話にはなるだろう。社会現象から見て取れることと理論的側面の二つの事実を上げておく。

 社会的現象から見て取れること、と意味ありげな書き方をしてしまったが、ネット上に転がっているいくつかの反相対性理論の論文を読んでの私なりの感想だ。私はどうしても相対性理論が正しいとは思えず、信者の主張を真に受けて自分は多分頭が悪い人間なのであろうとずいぶん悩み、あれこれ考えもしたが、同好の士があまた存在するとわかり、慰めを得た。時間はかかるだろうが、この流れが止まることはないと確信する。

 それらの著者はもしかしたら裏ではどこかの教授職であったりするのかも知れないが、たいていはハンドルネームでホームページを上げている。そして一部にオカルト風味な宇宙論もあるが、まずは純粋に思考実験的であり、なにより科学的ではない。ここで科学的ではないと言うのは、非科学的であるという意味ではなく、ホーキングやセ―ガンの論文がイメージさせるようなものが科学であるとしたら、それには全く当てはまらないという程度のことだ。つまり膨大な資料に基づく宇宙論ではなく、アインシュタインの論文に内在する矛盾点への単純にして明瞭な指摘にすぎない。これは数学とか論理学とか呼ぶのがふさわしいような思考形態だが、もっと砕けて、パズルあるいは頭の体操みたいなイメージで捉えてもよいかも知れない。いずれにしてもホーキング博士の大論文と並べてはたいそう貧弱に映るしろものである。

 しかしながら、こうしたパズル解きめいた反相対性理論で十分説得的であると考える人が一定程度いるのだ。このことは私を勇気づける。理論の中身が正しい、とは単に私の立場の表明であるから今は信じてもらう必要はないが、このような考えを抱く人が増えることはあっても、減ることはないはずだ。なぜならそれらはちゃんと理解しようとする素人の心を十分に打ち、真実と思わせてくれるから。

 従来これらの言説をものする人たちは科学に無知なくせに名前だけほしがる夜郎自大な連中と思われてきて、科学者がまともに彼らの言い分を聞くことはなかった。あるいはアインシュタインの名声に対するねたみ、自分の無能さへのルサンチマンであるとか、批判者の心の問題だけで片付けられた。 相対性理論を支持しないのはそれを理解する力がないからである、これは一般的な認識であると思う。そして理解するとはホーキングが展開するような宇宙論を正しいと認めることである、と。反論するにしても、宇宙論の形でなければならない、と。違和感を持つ人たちも、その違和感をうまく表現することができにくいため、何とか相対性理論を理解しようとする、つまり正しいと自分に言い聞かせようとする傾向にあった。

 そのことの是非をはっきりさせる――もちろん私の立場を言うわけだから、パズル解きで十分であるという結論になるが、そのためには、二つの事実があると先に申したことの、第二点目を言っておく必要がある。その二つ目すなわち理論的な側面とは、非常に単純な理屈だから万人が理解でき、なおかつ権威の裏付けが必要な情報や実験結果、データなどを要しないという性質を指す。ネットで語られることは、もちろん考え違いやミスもたくさんあるが、最良の部分について言うなら真面目な考察に値するものであり、科学について無知であろうが精通していようが、等しく検討可能な文章だ。これに反して従来、相対性理論の正しさは、わたしたちが身近なものとして理解したり検証したりできる知識とは隔絶したものだった。微妙な言い方になるが、これを反論する方も、日常的なものではないところに求めることが正しい考え方であると見なされてきた。

 たとえば天空の一角で偶然同じ方向に重なり合って見える星雲のうち、ビッグバン理論に従うなら遠くにあるはずのものが実は近距離にあったという現象が報告されている。

 上の図で、A星雲がビッグバン理論でも近くにあると計算できるなら問題が無いのだが、計算上は遠くにあることになってしまうというような例だ。この報告の要点は、これが事実であるとしたらビッグバン理論を揺るがすに十分な速度差が両星雲間にあるというところである。つまりご承知の通りビッグバンとは遠い過去に起きた大爆発のことで、宇宙はこの爆発中心から放出される存在物の総体であると言われる。 したがって宇宙は膨らみつつある風船にたとえられ、遠くの星雲ほど大きな速度で遠ざかり、近くの星雲の動きは比較的緩やかになる。しかし例えば同じ銀河団に属する星雲どうしはおおむね重力によって引き合い、近づきつつある。我が局所銀河群に所属する一つの星雲がむしろ近づきつつあることを持ってビッグバンへの反証と見なす軽率な理屈を読んだことがあるが、もちろんこれは無意味だ。地球が公転する方向とは逆向きに走り去る車を見ながら、あれは地球の公転を否定する材料だなどとつぶやくことに似ている。しかし今上げた偶然に視方向が重なる星雲の場合には、距離の差も速度も十分にあり、従来の見解であれば宇宙膨張による移動以外の理由を見つけることができない。したがってこれが事実であるならば宇宙膨張という説は根本から考え直すべきなのだと自信を持って言えるのだが、私たちは簡単なコンピュータグラフィックを見ることができるのみで、これを実証する手段を持たない。発表した学者を信じるか、あるいは疑うのみだ。もちろん相対性理論を絶対視する側は、この観測に手違いがあると言う。

 逆に、歴史上最初に相対性理論の正しさを世に知らしめたとされる水星の近日点の移動の計算について、観測時に生ずる誤差を相対性理論に都合の良いように捏造しただけであるという指摘もあるが、素人がこの問題に正確な答えを出せるわけもない。たとえ観測データが与えられたとしても、データを取る際にミスがあったかどうか知るよしもないのだ。その基本的な情報の信憑性が理論の正否に直結する問題は、学者が書いたデータを信じるか否かという踏み絵があまりにも多くの場所に潜んでいる。

 一番最近の例としてGPSシステムには相対性理論が生かされているという噂を上げておく。私はデマであると調べるまでもなく断じる。私の言うことだからもちろん信じてもらう必要はない。一応意見だけは書いておく。GPSとは手元のデバイスと通信衛星との間で電波をやりとりしてデバイス側の位置情報を確定させる装置だ。仕組みを細かく理解する必要はないと思う。もちろん一機の人工衛星と電波をやりとりするだけでは地表の正確な位置を指定できないので、複数の衛星と通信する。現在は4機の衛星を利用しているようで、場所の確定だけなら3機で足りるようだが、デバイスも含めたそれぞれの時計が不揃いであるため、それを同期させるためにもう一つ追加してある。問題はこの部分、すなわちそれぞれの時計が完璧に正確であるなら同期の必要は無い、なぜならずれ幅が維持されるなら最初に検知したずれをそのまま計算に組み込めばよいはずなのに、それが変化してゆくから調整の必要があるという部分だ。

 ここで相対性理論の正当性が突如として割り込んでくる。「衛星に積み込まれた時計は地表に置かれたデバイス内のそれと違い相対的に早く移動するのでずれが生ずる、そのずれを補正するためには相対性理論による計算が必要である」という具合に。原子時計のずれを予想したのはひとり相対性理論のみである、という言い方もされる。相対性理論で補正が可能であるなら4機目の衛星は要らないではないか、という疑問はさておき、時計がずれるのは速度のせいであるという言い分はどうなのだろうか。デバイス側は精度において劣るクオーツ時計であり、衛星は原子時計を搭載しているが故に次第にずれるということは自明として、そもそも原子時計同士ならば完璧に正確であるべきものなのか。私に言えるのは、クオーツや原子時計の中心部分は外界からの影響を極端に排除した作りになっていて、振り子やぜんまいを指で押さえて狂わせるような具合にはゆかないが、やはりいろいろな要因で時の刻みが狂う可能性が存在するのだろうという事実だけだ。磁場、重力場の中を高速で進む時計と、緩く動くそれとが同じであると考える方がむしろかなり不自然ではないだろうか。その影響は日常的な尺度で言うなら多分限りなくゼロに近いとは思うが、完全なゼロとは言えない。そして何より、時計であるからには私たち人間が読み取るわけで、外界との干渉が存在するはずだ。干渉のみがあって影響を受けないなどという物理的事実はあり得ない。時計を人間が読み取るということが、いかなる変化をその時計に与えるかということについては、私たちが正確に語ることができないだけなのであって、影響がないということではない。

 また、これは全くの空想物語だが、将来GPSの精度が飛躍的に上がることで、衛星とデバイスで往復する信号について、速度のばらつきが問題になることがあるかもしれない。そのときにはこのばらつきを相対性理論に帰す意見が出るだろう。しかし大気の密度などによって通過する電磁波の速度も変わるものである。要するに時計の刻みも電磁波の速度も、相対性理論を持ち出す前に検討すべき材料が無数にあるということだ。 GPSシステムは相対性理論に依拠するという説は、原子時計でありさえすれば間違いなく正確であるという、全く的外れな前提を立てているから出てくるものだと思われる。

 結論を出したいのではない。時計がずれるのは、本当に相対性理論の予言通りであるのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。また、たとえGPSに相対性理論の式が使われていないとしても、相対性理論が間違っているということにはならないとも言っておく必要があると思う。私が言いたかったのは、ここまで述べてきた例が、現場で関わることのない私たちには事の真偽を確定できないものであるという単純な事実である。相対性理論を実証すると称する理論のすべては、どこかで前提抜きに信じてもらわねばならぬ証言を使っており、少なからぬ反相対性理論側の理屈もその通りなのだ。もちろんこの意見でさえ信じる必要は微塵もない。

 ネット上の素人くさい理論(と一括して述べるのは、まだ具体的にいかなるものか示していないわけで、多少無責任な嫌いはあるが)は、権威付けを一切必要としないという性質のものだ。したがって納得するときはちゃんと腑に落ちるという形で理解できる。もしその納得が頭の悪さによるものであるなら、それを指摘し、嘲笑することも簡単なはずだ。しかしながら私の言う素人くさい理論への、まともな反論を私は寡聞にして知らない。したがって私の、ひいてはこれからそれらの考えに惹かれる「頭の悪い人」の納得は、癒やされぬまま増えることになると予想する。

(これでも難しいだろうか? いやまだ肝心なことは述べてはいないが)