まず世界を眺めてほしい。そこに数式はあるか、言語的なものがあるか、それは理論的状態か、あるいは命題的であるか。まっすぐにそのものである。もしそれが視覚だから当然それらではないというなら、目をつぶって状況を把握し給え。それでも足りないなら、全部の感覚を遮断したと――ああこれはさすがに想像になってしまうか、しかしそこに最前挙げたものは出てこないだろうことは確実だ。記号はそういう形を持った存在であって、そこに含まれる意味は人が読み取る。数学的なものはすべてそのたぐいなので、指示記号、たとえば道路標識のようなものである。

 数学が宇宙の仕組みではないことは、次のことで分かる。

+2ずつ繰り返せと言われ、8の次は12と答える。間違っている。しかし答えることができる。数学的に間違っている(とされる)ことでも一応答えとして可能であるのは、世界自体は数学的ではないからではないだろうか。ここでたぶん、さらにその間違った方も数学的な記述で覆う理屈も模索されうるという批判はあり得る。しかし間違いであることの気づきが先であって模索は後になるだろう。

 空間のゆがみを記述するリーマン幾何学はこのような例に当てはまるのだろうか。これはよくわからない。しかしリーマン幾何学は幾何学ではないと私は思っている。どんな場合でもまっすぐな空間の中に何かを置いて見る。リーマン幾何学は曲がった空間というものとして私たちは見るのであり、あちら側をまっすぐなものとしたうえで、通常の側が曲がって見えるということはあり得ない。つまりリーマン空間の記述する部分的空間を、通常の真っすぐの中に曲がったものとしてはめ込む作業であり、全体はまっすぐでしかありえない。つまり最初から等価関係ではありえない。等価関係とは、この宇宙全体がリーマン幾何学で描写され得るものであるとすること。それはどこまでも理念的であろう。

 これはでも、そこまで熱心に主張したいことでもない。世界が数学的にできてはいないと私は思うにせよ、しかしそう考える人が案外に多かった。また、その少し弱めの主張として、ある人たちの見解によれば、数学のうち自然科学に適用できる部分はごくわずかである、したがって数学的なものが無条件に自然科学に適用されるのではない、しかし自然科学は部分集合である、というものもある。これは、(前期)ウィトゲンシュタインやラッセルにみられるような考え方かもしれない。

 世界が全体的に数学ではないというにしても、しかしこの見解は、その部分的なものにおいては完全に数学的であると言っているわけだから、結局同じことではないか。唯一あり得る正しい解決は数学的記述の一群があり、言語としての数学の一群がある。その重なる部分だけが自然科学の数学である、ということではないだろうか。

 これの意味するところは、少々とらえにくい言い方になってしまったかもしれない。言語としての数学は、今のところ世界を描写するものだけではなく、仮想空間まで「描写」されていると仮定されているように思う。空間のゆがみや、あるいは相対論の式、カントールの無限論などは、事実を指し示すことのできないナンセンスな言葉ではないだろうか。「いえぺすたにきるす」「アブラカダブラ」「いあ・いあ・くとぅるふ ふたぐん」などのような。

 フィクションの呪文そのほかが事実を指し示さないとしても、言語として成立していないわけではなく、意味はある。同様に、事実の描写ではなくても数学的に正当ではありえる。そこが厄介で紛らわせのもとだ。