車谷長吉を読むと、こういう念のこもった、生きることの業をみなぎらせた文章を書くことは無理だなと、おのが菲才を嘆きたくもなる。もしかしたら海外作家にも、ひょっとしたらもっとねちっこい、隠隠滅滅とした文章家が存在するのかもしれぬ。しかし翻訳だとどうしてもからっとした知的な風情が勝ってしまい、ニュアンスまでは読み取れないので、私にはわからない。

 ポー、ラヴクラフトあたりはどうだろう、もし彼らが私小説をものしていたら、あるいは陰惨な風情が漂うかもしれぬ。しかし純粋な知的遊戯と申すべき小説しか書かなかった。ドストエフスキー、フォークナーあたりはどうだろうか。陰惨ではあるが、崇高な印象が一方にあり、地味でみじめな人間存在という感じはしない。つまり偉大な作家であるということがまず来てしまう。

 でも原文を味読できれば、あるいは別の印象になるのかもしれない。英語の小説は、これでもそれなりに読めるつもりではあるが、一応用心深くわからないと言っておく。もしかしたら印象をとらえきれていないということではなく、本当に海外文学にはない日本の情緒が、そこにあるのかもしれない。つまり私は、ニュアンスの部分だけを味読できればそれでよい。

 私は大正期の日本に生きていたわけではないので、その生活感はわからないが、宇野浩二だとか近松秋江なんてのを読むと、なぜか眼前にありありと情景が浮かぶ。その雰囲気に浸る。だが英文作品の同時代のものを読んで、なかなかつかめない。むしろ、現代の情景かと思う。

 うむ。私はこうして何か書いてゆくと、だんだん最初の試みを忘れる。要するに、私は怨念みたいなものを文章化することは無理だ。それは、私が何事も心に届かぬよう、恬淡と生きてきたということにほかならぬ。実人生との接触を拒み続けた。実人生とは何だ? と疑問を出して、これはビンスワンガーの精神病理学の定義ではないかなどと、余計なことを言いたくなる。まあこれはつまり、私はどっぷりと人生の暗さみたいなものは描けないが、とても理屈っぽいことならいくらでも書けてしまう。だったらそれしかないんじゃないか?

 心配があるとしたら、難解そうで実にばかばかしい文章というのは世の中に驚くほどたくさんあって、私が得意げにその弊に落ちていないか、自分で分かるだろうか。わかるとは思っているけど。こういうところか。だめなのは。