介護のこと思い返してたらあんま頭が働かない。と言うことで、書評みたいなのでお茶を濁したい。

Evolution: Still a Theory in Crisis  Michael Denton

 ネオダーウィニズムへの批判ではあるけれどインテリジェント・デザインではない。そして虚心に向き合えばたぶん得るところのある、重要度を抜きにしても面白く書けているよい本だと思う。

 彼が注目するのはダーウィンの登場によって葬り去られた感のあるプレ・ダーウィニアン、特にオーウェンの、「種」の独立性を強調する進化論だ。もちろんその主張を繰り返すのではなく、新しい概念として練り直している。

 独立性というからには種から種への漸進的変化は否定される。自然淘汰は種が確立した後で個体に対して働くだけにすぎず、進化の全体像の中では極めて部分的な役割しか持たない。これを彼はstructuralismと呼び、ダーウィン風にすべてを適応で説明する進化論をfunctionalismという。面白いな。心理学や意識の哲学においてもfunctionalism、機能主義は否定的概念だ。

 前者は構造主義と訳すべきなのだろうが哲学の構造主義との混同は避けたい。日本では池田清彦氏の説が構造主義進化論といわれるらしい。しかし氏の著作を読んだ限りでは、ネオダーウィニズムへの批判という点では同じだが、発想は全く逆の方を向いている。池田氏の考え方を、デントンは多分究極の機能主義ととらえるのではないか。池田氏の構造とは世界全体のことで、個体とそれとのダイナミックなやり取りを進化の原動力とするが、デントンの構造は「種」の動かしがたい本質を指す。簡単にどちらが良いということは判断保留としておくが、本書は思弁的な要素をできるだけ控え、本流の哲学と似ているところがあっても全く違う発想によっているということがしつこいほどに強調されている(違いが読者に十分伝わるかどうかは別にして)。池田氏は最初からソシュール言語学の成果を借りたことを宣言し、フーコーなども引用され、積極的に哲学的構造主義との類縁性が語られる。私などは人文学方向にちょっと寄りすぎかなと感じてしまう

 逆に言えば、デントンの本には明示的ではない哲学的危うさがあるということだ。種の構造を実在論的に認め、シュレーディンガー方程式やプランク定数などと同様に、それ以上の理屈付けを拒む実体として扱うということは、何かしら私たちの日常感覚からずれるところがある。しかし私には、一見同じような意見であっても観念的思弁によるものと観察による経験的な結論によるものとでは全く異なるのだという彼の言いたいことも、なんとなくわかるような気がするのだ。

三十年ほど前にEvolution :A theory in Crisisで衝撃を与えた著者が、その後のこの分野にもたらされた数々の知識を加味して書いた、続編というか書き直しというか、そんな感じの本。前著も重要だが、こちらだけでよいだろう

 スティーブン・ジェイ・グールドStephen Jay Gouldがダーウィニズムにあけた風穴を、もう少し広げた功績は大きい。日本でも翻訳はあったがとうに絶版状態なので、あまり読まれてはいないのだろう。しかし前者がそれほど抵抗なく受け入れられたなら、こちらももっと読まれるべきだった。一般受けする知識(パンダの親指とかカンブリア紀の奇怪な生き物とか)が盛り込まれていないということかもしれないが、グールドがあくまでダーウィニズム内部の叛乱ととらえられたのに対し、こちらは外部からの攻撃とみなされたのかもしれない。

 ついでに池田氏の本を見てみると、DNAから個体形成への一方通行に対する批判で終わってしまっている感じ。問題はそこではないのではなかろうか。

 ここで言う(日本的)構造主義的進化論とは、極めて大雑把に言うなら、生物は自存的に同一性を保とうとするシステムであり、また世界を記号論的に解釈する系でもあるということだ。

 これ自体は面白い発想だと思う。しかし進化を語るにふさわしい道具ではない。例えば鳥の翼は羽毛の並びや角度まできれいに最適化されている。今まで流れに身を任せていた海の生き物が泳ぎを覚えるということであれば、環境との複雑なやり取りで徐々に泳ぎに最適な道具を仕上げていったと、なんとなく理解できたような気になるが、そしてそれは単に気のせいなのだが、翼は最初から最適化されていなければ飛ぶことはできないし、飛ばない限り最適な解を見つけることはできない。進化論とは、なぜこういうものを手に入れることができたかを語るものだと思うが、私はこの本の理屈から、答えらしきものを推測することができなかった。専門用語を交えて生物を複雑に描きさえすればなんとなく進化というものが可能のように思えてくる、ただそれだけのことにしか読めない。

 なぜネオダーウィニズムが主流になったかというと、遺伝子というブラックボックスを噛ませることで「初めから最適化された道具」を手に入れることが可能な理論だからだ。だが著者のように進化とは生物が複雑化する過程(つまり手持ちの道具を最適化してゆく過程)という説をとると、ダーウィンの様に隙間のない漸進説とするか(これは化石によって否定されるだろう)、スティーブン・ジェイ・グールドが言うように「ある時世界的規模で一斉に飛躍的進化が起きた」とするしかないのだが、後者はどう考えても言葉でごまかしているにすぎず、初めから最適化された道具を手に入れる説明にはなっていない。

 つまり構造主義進化論はミクロレベルの進化を説明することはできそうだが、本当に必要なマクロレベルの進化を説明する役には立たないのではないか。ダーウィンはガラパゴス諸島のフィンチのくちばしの形状変化(ミクロな変化)を、そっくりそのまま進化の全過程(マクロな変化)に適用できると考えたが、それが行き過ぎた外挿であることが問題にされているのだ。ネオダーウィニズムはその行き過ぎを全部DNAに押し付けて再生したのだが、このブラックボックスを透明化したらまた説明困難な状況が残るだけだろう。

 残念ながら現在の進化論はブラックボックスなしには成立しない。インテリジェント・デザインは、説明全体は丁寧だがデザインそのものの正体は明確ではないし、神の創造説は人間社会の様々な様相が神の存在と矛盾をきたしているようで信じることが難しい。だが語らねばならぬとしたら、語れているような雰囲気だけで済ますべきではなく、DNAをブラックボックス化したネオダーウィニズム含めて、ぎりぎりのところまで理屈を詰めて行った誠実さの表れだと思う。その意味で池田氏の本は進化論として十分に練れたものではない。

 では進化論を外して、構造主義的な生命観としてどうだろうというに、科学に対する見方の緩さが気になる。新しい生物観として評価したいのだが、この緩さばかりは残念だ。著者は同一性ということを、人間の脳が勝手に世界に押し付けた表象とみる。水素原子が恒常的に水素原子であるのは、観察した複数の時点で実際に同じ状態が続いているからであって、人間が勝手に恒常性を見ているからだとはさすがに言えないのではないか。例えば山という存在物であれば、徐々に形を変え、いつかはすり減る。その存在は人間が勝手に押し付けたものといえなくもない。著者は科学を、無時間的な同一性を求める行為と考えるが、これは結果論だろう。人間による押し付けを排除していったら、原子とか素粒子とか、あるいは法則のようなものが残ったというところだろう。実際に、原子が崩壊すればある時点で崩壊が起きたと時間付きで書かれるし、山も時間経過に連れて形成されると考えるのであって、時間の概念が物理の内部から排除されたことなどない。グールド風の共時的な発生という概念を言うためにも、時間の普遍性は勝手な想定ではなく実際に普遍的だと思うのだがどうだろう。これはもちろん科学の成果を疑うなということではない。

 唯名論と実在論の対立について述べてあるが、哲学内部ではいろいろな考え方があったとしても、科学者は理想論として唯名論者であるべきだと私は思う。ソシュールが言語と世界の関係を「恣意的」というなら、それは言語の構造は原理的に世界の構造と切り離し可能とみていたのであって、世界観が言語のシステムに汚染されていると思うなら除去を目指すべきではないか。積極的に一体化させていくという姿勢は全く逆だと言いたい

 生物とは情報を解釈する系であるという定義も、これはこれでよいとして、情報がいかに誕生したかということは、生物の出現以上の難問だろう。それを回避するために万物の根源は情報であるとする考え方もある(たとえばセス・ロイド)が、まだフィクションの段階にとどまる。池田氏は「素粒子同士のコミュニケーション」とさらっと書き流していて、単に自覚的ではないということにせよ、素粒子同士ということは素粒子の根源的な存在は認めるわけで、ロイドなどに与するわけではないのだろう。どうでもよいことだが私は無機物について「同志」という感じを使いたくない。人間の場合でさえ、イデオロギー的で嫌な感じがする。

 どろどろとした原始の有機体スープの中で生命が誕生したというダーウィンの有名な生命起源説と、これに限らず生物学者が語る情報誕生の描写はよく似ている。つまり、なんとなくそれらしく思えるという説なのだ。これでは旧来のダーウィニズムのはらむ矛盾点を情報の側に先送ることにしかならない。また、情報に先立つ存在がありうるなら、なぜ情報に先立つ法則があってはならないのか。

 まあ自分が設定したことの帰結というか余波というか、そのあたりまで考えていなかったというのが本当のところだと思う。科学を脳の作り出した恣意的な見方としながら、結局唯脳論という偏狭な唯物科学に収斂させてしまっているところを見ても、旧弊な科学観を超えるものではない。いちいち書かないが、著者の物理学に対する考え方は、著者の予想以上に現実と齟齬をきたすものであるというにとどめる。

 構造主義というより、悪い意味でのポストモダンな科学論だろう。