私の脳内のどの部分がどの程度の強さで励起状態であるのか逐一検証できるモニタの前に座っているとする。のどが渇いているとか左上腕にちょっとかゆみが生じたなどのことで、映し出されたマップ上のどこかが変化する。

 このマッピングは完璧になり得るのだろうか。なり得ることが唯物論を保証する最低限の条件になるのだが、たぶん人はそこまで突き詰めた考察をしない。漠然とした対応関係を示されて、やはり脳の活動が意識を全的に生み出すのだと得心してしまう。

 自分の喉の渇きが引き起こす、脳内状況の映像を見せられて、そういうものだと理解する。では他人の喉の渇きの像を見て、同じように納得するだろうか。同じ感覚でも、違う部分が励起するという説が言われているが、そのことを全く除外するとしても、ここには通じがたい何かがある。つまり、少なくともその映像はのどの渇きではない。では、私の体の中にその映像があるとき(関係づけられているとき)のみ、それは私の渇きであるというべきなのか。

 

 ニック・チェイターの研究が少し興味を引いた。例えば車を運転中、彼/彼女は周りの景色を全的にとらえているわけではないし、むしろほぼ注意散漫というレベルなのだ。音楽が流れていたりすると、瞬間的に音楽を聴き、次の瞬間に道路をとらえ、また音楽の断片に戻る。これは、いろいろなところへ注意が向くということではなく、感覚器官が脳へ送る情報は思ったよりよりもスカスカで、世界の連続性はとても再現されるはずがないレベルであるということを、彼は言いたがっている。誰かの顔を見ているとき、本当は相手の(たとえば)目しか見ておらず、顔全体の映像が脳に届いていない。神経には、その瞬間目の映像しか通っていない。脳が外界の全体像を再現するのだが、それは想像するということではなく、類推でもなく、ともかく断片的情報から全体を作るという意味だ。

 ここから著者が引き出す結論は、意識の背後には何もない、全ては表面的に出ているものだけである、ということなのだが、それはとりあえず置いておく。これだけではその理論的なつながりが見えないだろうから。

 面白い研究だと思う。しかしそれは脳の機能に荷重をかけすぎではないか。重大な選択肢が抜けていると、私は思った。感覚器官の構造や働きの分析、あるいは脳の分析から、意識の働きが明らかにはならない、それはもう絶望的に明らかにならないというものだ。つまり唯物論の否定である。ただ、意識の背後に隠れたものはないという意見(すなわち無意識なんてものはない)には賛成だ。なぜなら無意識とはある意識現象についての言語分析でしかないから。

 

 感覚所与と意識行為を分けることが通念となっている。森の複雑な緑を見ると心が安らぐ、という具合に。森の緑色が感覚所与であり、それに伴う安らぎが意識ということになる。でもその切れ目の入れ方は正解だろうか。感覚所与のほうも意識活動ではないか。たとえばのどの渇きは脳に起きるのではなく、やはりのどに起きるというほうが正解なのではないか。あるいは体全体の欠乏感というほうが。つまりからだがすでに意識の内部にある。

 森のすべてを信号化して脳に送り込み、それに応じて安らぎを覚えるということは、とてもありそうにない。意識は直接に森に浸りこんでいるといったほうが正しいのではないか。先に全体があって、その時の体の状態を部分ごとに調べたら、こういう反応が見つかりますよ、という感じで。