覇道と王道(6)官軍は方便(王政復古)、維新は観念(文明開化)(6) | 個人資産を守れ!アカウントアグリゲーション考

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追加(2018.01.25)・・・やって後悔するか!!!、やらずに後悔するか!!!

     明治維新ではなく「朝廷クーデター」の方がスッキリします(4)

慶応3年(1867)9月18日の出兵協定(討幕ではない)の「薩摩・長州・芸州三藩の連盟が成立」は、早々と10日過ぎの28日、薩摩藩では上方への出兵を討幕と結び付ける風潮を戒める通達が、島津久光・茂久親子の名前で家中に伝えられたことを皮切りに、明くる29日には広島藩も薩摩藩に出兵見合わせを伝えていた。10月3日には長州藩も出兵の延期を決めている。
 3か月前の慶応3年6月22日「薩摩藩・土佐藩」の「薩土盟約」が9月7日に解消されていた土佐藩

10月2日に幕府にたいし大政奉還の建白をさせた。武力で行き詰った西郷・大久保と朝廷内部の力だけで行き詰った岩倉が『補完』に入ります。
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『引用』 『岩倉具視』 井上清著 京都大学教授。 http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki3/ensitu1.htm 
慶応二年(1866)八月三十日、岩倉具視のひそかな指導により、中御門経之(なかみかどつねゆき)・大原重徳(おおはらしげとみ)ら二十二人が列参を強行したが、人数は少なく迫力もなく、完全に失敗した。 この失敗により岩倉は、朝廷内部の力だけでは朝廷の一新もできないこと、時勢を動かす力は宮廷の外にあることを、ようやく悟った。
彼は宮廷外に同盟できる勢力を求め、それを、文久二年(1862)の「三事策」闘争以来、関係の深い薩摩藩に見出した。
 彼は同藩を動かし、その力で朝廷一新、「王政復古」(ただしこのときはまだ、幕府打倒ではなく、幕府の存在を認め、これを朝廷の最高指揮下におくことである)を実現しようとした。
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≪ 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 発行所:株式会社立風書房 ≫
135ページ慶応3年(1867)9月18日にいたって、島津久光の命により、大久保一蔵・大山格之助(綱良:つなよし)を長州に派遣し、挙兵討幕のことを議せしめ、この日、長州藩主父子・家老・木戸 孝允(たかよし)および広沢兵助(真臣(さねおみ:幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉)挙兵について約定した。また安芸(あき)広島藩も藩士・植田乙次郎(おとじろう:藩論を武力討幕論へ)を山口に派遣してその儀に賛成させ、薩摩・長州・芸州三藩の連盟が成立した(『綱要』)。
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≪ 幕末維新 消された歴史 安藤優一郎 発行所:日本経済新聞出版社(日経文芸文庫)≫
135ページ慶応3年(1867)9月18日と19日、山口に赴いた大久保は、長州藩主・毛利敬親(たかちか)や藩首脳部と会談を持つ19日には、上方への出兵に関する協定を結んだ。これに広島藩も加わることで、薩長芸(さつちょうげい)三藩の出兵協定が成立する。ここに至り、ようやく武力討幕への道筋が敷かれる。
128ページ、薩土盟約破約直後の土佐藩にも(西郷たちの挙兵計画は藩内外の波紋と混乱を巻き起こし)漏れていったようだ。当時、後藤象二郎と共に行動していた土佐藩士・寺村左膳(さぜん:薩土盟約書の成文化を担当) は貴重な手記を残している。
141ページ、なぜ、土佐藩が建白書提出を急いでいたかというと、実は幕府側から督促されていたからで

        ある。(9月20日)
  一 同20日、永井玄蕃頭(げんばのかみ:幕府海軍の創設に尽力・若年寄)==永井尚志(ながいな

     おむね)殿より(後藤)象次郎を御呼立に相成り罷出(まかりいで)候ところ、先達(せんだつ)て

     須崎浦(すざきうら:高知県)に於いて英船応接之一条等、委細御尋(おたずね)これ有り、右之

     跡にて、此度土州(どしゅう:土佐藩)建言之筋もこれ有る趣相聞え候、成丈け(なるたけ)早々

     差し出し候より仰せ聞かされ候(「寺村左膳手記

この日、慶喜の腹心である若年寄格・永井尚志(ながいなおむね)(永井玄蕃頭(げんばのかみ)に後藤象二郎(「後藤象次郎」)が呼び出されている。「須崎浦(すざきうら:高知県)に於いて英船応接之一条」とあるが、須崎浦とは土佐藩とイギリスとの交渉が行われた場所だ。イギリス船との応接とは、長崎で起きたイギリス人水夫殺傷事件の処置をめぐって、土佐にやって来たイギリス公使パークス公使との交渉を指す。イギリスとの交渉の様子について、まず永井は尋問している。その後、建白書の提出を後藤に督促(成丈け(なるたけ)早々差し出し候)したのだ。

≪ 幕末維新 消された歴史 安藤優一郎 発行所:日本経済新聞出版社(日経文芸文庫)≫
128ページ、薩土盟約破約直後の土佐藩にも(西郷たちの挙兵計画は藩内外の波紋と混乱を巻き

  起こし)漏れていったようだ。
当時、後藤象二郎と共に行動していた土佐藩士・寺村左膳(さぜん:薩土盟約書の成文化を担当) は

貴重な手記を残している。
133ページ、慶応3年(1867)9月26日の記事である。
   一 同26日に至りて、薩(さつ)之情実を探るに、此の頃鹿児島表(おもて)国論二端に分かれ、京師

     の論と表裏(ひょうり)せりと、依って(よって)京師邸も、亦(また)随って(したがって)二タ派に

     成りと聞こえり、高崎左京(薩摩藩士:武力討幕に反対) (やから:仲間)45人、一派之巨魁

     (きょかい:首領)也と聞けり

 土佐藩が探ったところによれば、鹿児島での藩士たちの意見は挙兵派と反対派に分かれていた。そのため、在京中の藩士たちの意見も真っ二つ。反対派の頭目は高崎左京(正風:まさかぜ)たちだが、

此の頃、国元に戻った大監察(視察し監督すること)の町田民部(みんぶ:久成 ひさなり(英国留学生15

名の学頭))も慎重派の一人だった。


   一 薩の(さつの)大監察・町田民部、此度帰国せり、其の節西郷より早々国元より民兵致し候よう

     申し聞くべき段、民部義、根元挙兵不同意之者に付き、決して意を更えず、(かえず)・・・(略)

     西郷吉之助は児戯(じぎ)に等しと。

 町田が鹿児島に戻る際、西郷は藩兵を早急に上京させるよう国元で奔走(ほんそう:かけ回って、物事がうまく運ぶように努力すること)して欲しいと持ち掛けていた。ところが、町田は挙兵反対派であり、

西郷の目論見(もくろみ:企て)どおりに動かなかった。西郷の挙兵計画を児戯(じぎ:子供の遊び事)に等しいとまで言っていたぐらいだ。
137ページ9月28日、ついに、藩内の動揺を抑えるため、上方への出兵を討幕と結び付ける風潮を戒める通達が、島津久光・茂久親子の名前で家中に伝えられた。
      「幕末維新の不都合な真実」 安藤優一郎
39ページ、(次のような趣旨の書き取りを藩内に提示する)
   ≪今回の上方出兵は討幕のための出兵ではない。京都での変事に備えての出兵だ。前藩主・島津

     斉彬(なりあきら)以来の方針に沿った京都御所守衛のための出兵である。≫
 この書き取りにより、人心はひとまず沈静化し、ようやく、10月初めに若年寄の島津主殿(とのも:久籌(ひさとし)率いる藩兵が鹿児島を出立(しゅったつ)するが、既に(すでに)長州藩は上方出兵の延期を決定していた。10月3日のことである。
 実は両藩の間では、9月25日頃には、薩摩藩兵が三田尻港(みたじり:山口県防府市)に到着する約束が交わされていた。
既に9月29日には、広島藩も薩摩藩に出兵見合わせを伝えていた
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       ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
【薩長芸三藩盟約】 (読み)さっちょうげい さんぱんめいやく
安芸藩は土佐藩を中心とする公議政体論にも傾いていたため,討幕派との対決が激化するに伴い,

薩長両藩から疎隔されて出兵は延期された。
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≪ 幕末維新 消された歴史 安藤優一郎 発行所:日本経済新聞出版社(日経文芸文庫)≫
144ページ10月2日、薩長芸三藩の出兵計画は頓挫した。三藩の足並みは乱れていた。薩摩藩内の混乱が引き金となった形だが、そもそも薩摩藩自体、討幕路線でまとまっておらず、当然の結果だったと言えるだろう。
 長州藩では今後の方針について議論している。議論の結果が7か条にまとめられているが、長州藩が当時の政治状況をどう見ていたかがよく分かる内容である。第1条目は次のとおり。
  一 三藩合従(がっしょう)の説、既に(すでに)天下に流布し、幕(ばく:府)も防禦の手段十分相整え

     (ととのえ)候に相違これなきに付き、最初彼の意表に出で、一挙奪玉の時期は既に後れ

     (おくれ)候哉(や)に相見え候

 薩長芸三藩の出兵計画はすでに漏れていると、長州藩当局は判断していた。だから、幕府も対抗措置を取っているに違いない。幕府の意表を突かないかぎり、「一挙奪玉」は無理と見ていたわけである。

「奪玉」とは、天皇を薩長芸三藩に迎え入れことで三藩が官軍となり、幕府(慶喜)を朝敵にしてしまおうという計画のこと。しかし、出兵計画が漏れ、挙兵準備も整わないため、「奪玉」の時機を逸したと判断したのだ。第4条目は、出兵延期が藩内にもたらす悪影響について述べたもの。
  一 遷延中(せんえん:のびのびになること)には、自然兵士の気沮み(はばみ)、御国中、薩(さつ)を

     疑惑するよう相成り、終に(ついに)制すべかざる御次第に立ち至り申すべく候。
    (以上、末松謙澄(けんちょう:ジャーナリスト・伊藤博文は義父)『修訂防長回天史 第五編下』

     1921年)

出兵が延期されると、当然藩士たちの士気が緩むが、それだけではない。共同出兵を持ちかけてきた

薩摩藩への疑惑が生まれる。
ついには、同藩との連携に対する反対論が噴出し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなることを懸念していた。
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    ≪ 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 発行所:株式会社立風書房 ≫
285ページ10月2日、土佐藩の重臣後藤福岡 孝弟(たかちか・通称は藤次:吉田東洋の門下生として後藤象二郎板垣退助らと共に師事)らは、大政奉還の建議書を幕府に上ろうとし、その草案を薩摩藩の小松・西郷・大久保らに提示して同意を求めた。結論として小松等は異議がないことを回答した。

10月3日、前土佐藩主山内容堂は、後藤象二郎・福岡藤次をして、幕府にたいし大政奉還の建白をさせた(『綱要』)。

283ページ10月4日、薩摩藩の小松・大久保、長州藩の広沢兵助(真臣(さねおみ:幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉)・品川弥二郎(やじろう:明治24年(1891年)に第1次松方内閣の内務大臣に就任)、芸州藩の辻将曹(しょうそう(維岳いがく):小御所(こごしょ)会議で王政復古を成就)・植田乙次郎(おとじろう:藩論を武力討幕論へ)らが京都の薩摩は藩士の仮寓(かぐう:仮住まい)に会して兵を備えて王政復古の大業断行の決議をおこなった。この決議にもとづき、前権大納言・中山忠能(ただやす:
明治天皇の祖父)らに会い、三藩士決議の要旨を呈し、小松・大久保・西郷の連名で討幕の勅命降下の斡旋を請うた(『綱要』)。