個人資産を守れ!アカウントアグリゲーション考

個人資産を守れ!アカウントアグリゲーション考

本人確認法から欧米式のアカウントアグリゲーションまで幅広く金融について考えるブログです

追加(2018.01.25)・・・やって後悔するか!!!、やらずに後悔するか!!!

そォーと半歩前に進む・・・崖下(ガイカ・がけした)の景色が広がる。怖いからそォーと半歩前に進む。
怠惰(タイダ:なまけてだらしないこと)な生活から、(抜け出して)そォーと半歩前に進んでみる。今までの自分の殻(から)から・自分中心の考え方から、(抜け出して)そォーと半歩前に進んでみる。

少しずつ感動を覚えます。実感します。脳が憶え(おぼえ)ます。ここまで来ればもう一歩前に進もうと欲が出て来ます。
Amebaでブログを始めよう!

    始まる前は勝敗が判然としない・・・・鳥羽伏見の戦い  

    大勢(たいせい:おおよその形勢)が決まってから・・・戊辰戦争  

『故事ことわざ辞典』 ≪ 似て非なるもの ≫一見似ているが、本質は異なるもの。

 

鳥羽伏見の戦いの説明に、「戊辰(ぼしん)戦争に繋がる戦い」とよく言われます。二つの権力争いの本質を理解しませんと後の

思想・価値観に影響を及ぼします。鳥羽伏見の戦いは幕府(将軍・慶喜)・会津藩 対 (藩として戦ったのは)薩摩藩・長州藩の二つの藩だけです。

 

前回ブログに再掲しましたように、慶応3年・1867年12月9日西郷が薩摩藩兵をひきいて(南面)・(東面)・(西面南)・(西面中)・(西北)の諸門を固め、尾張越前土佐芸州 四藩の兵も逐次到着してさだめられた部署についた。

薩摩藩兵などで固められた御所に入れたのは、総裁や議定に任命される予定の有栖川宮や公卿たち、そして五藩の藩主クラス(徳川慶勝・松平春嶽・浅野茂勲(もちこと)・島津茂久・山内容堂)。さらに、大久保たち五藩の重臣だった。

 

 一般的に、「薩長盟約」が知られていますが、薩土討幕の密約(薩土密約)大政奉還論の薩摩藩と薩土盟約土佐藩は公議政体論が主流)、広島藩(芸州藩)は、薩摩・長州・芸州の「薩長芸三藩同盟」を結び、倒幕への道筋を作り、その一方で、第15代将軍「徳川慶喜」に「大政奉還」を推進するなどもしています。

 

御所を警護しているのは、薩摩藩だけでなく親藩の「尾張(徳川慶勝・越前(松平春嶽)」、慶喜寄りの「土佐(山内容堂)・(浅野茂勲(もちこと)の 四藩であり、鳥羽伏見より反転攻勢をかければ、「朝敵になる上、本来の見方」と戦う羽目になります。

 逆に、この四藩も鳥羽伏見の戦いに出られない立場にあり、鳥羽伏見の戦いは初期の段階では勝敗が判然としていません。

 

是に対して、鳥羽伏見の戦いは実質1月6日に勝敗は決し、「戊辰戦争」は約1か月後の2月3日、有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が東征大総督に任じられ、2月15日に京都を発する。新政府は諸大名に対して上京命令が出されるほど「大勢(たいせい:おおよその形勢)が決まってから」西日本では、戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。

 

慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張する。2月12日には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。

 

進軍が不可能であれば「退却する」判断・行動を正当に評価されるのが「地頭(じあたま)に強い」社会でしょう。

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -

過去ブログ:2020年03月12日 アプローチ(1)がん化したススキの塊の除去に着手する

ガン化したススキの塊の除去作業は単調で脳は丁度よい緊張感が刺激になり「歴史の幕末・銀行のキャッシュレス決済」とう従来と違うアプローチがあることに気が付きました。何よりの収穫は、「がん化したススキの茎」を取り除いた「達成感」です

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -

(株)日本クレジットビューロー(略称J C Bのデビットカードの発行は2014年(平成26年)であり、『J-Debit』のデビット カードサービスは1998年(平成10年)で15年ほど早くサービスを開始して、取扱金融機関(地方銀行に限っても(現在))は64ありますが、形態が「日本電子決済推進機構」であり、JCBクレジットカードで知られていますがデビット カードの取扱金融機関(地方銀行に限って(現在))は21行です。外資ではVisaデビットカードが13です。(重複は4行です)

 

 銀行関係の主要株主は、(株)三菱UFJ銀行、(株)、(株)三井住友銀行の財閥系の2行です。

他方、『J-Debit』は株式ではありませんので、情報開示(IR)は以下の通りで個人名が無く責任の所在が明確ではありません。

    会長(2019年1月9日現在):NTTデータ

   副会長(2019年5月8日現在):ゆうちょ銀行、みずほ銀行、三菱UFJ銀行、三井住友銀行

         ATMの送金に使う「全国銀行資金決済ネットワーク」と構造がよく似ています。

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -

幕末の黒船来航は、日本国内の「潮目が変わった」時事で、幕藩体制に組み込まれていた藩主は徳川幕府がなくなっても自分たちの「地位は変わらず」と(そうでありたいと)思っていたでしょう。

 ガン化したススキの塊の除去作業は2月半ばの事で「新型コロナウイルス感染症」は病気の事で株価が3割も急落するとは思っていませんでした。

 

「普通預金口座の有料化」の報道もあり、他企業が「キャッシュレス決済」で預金口座を利用して利益を上げているのに何故(自分たちの庭(預金口座)を利用する)自分たちでシステムを構築しないのか疑問を感じました

 

 始めは「新型コロナウイルス感染症」は関心事が病気の事だけでしたが、3月の半ばにはWHOもパンデミック(世界的な大流行)を宣言し、各国も「非常事態・緊急事態」、「国境閉鎖・外出禁止」とう武器を使用しない戦時体制までに拡大し、人・物の往来が止まり経済に甚大な影響が出て来ました。

 

 「潮の流れは変わった」、元々、米中には以前から経済の「関税率」の応酬が続いており、パンデミックは致命的な災禍です。

「関税率」の対立意識だけでなく、デジタル覇権など多岐にわたり「維新(政治・社会の革新)」の好機です。

 

 銀行業界も個々の銀行は一対一の「企業提案採用」と並行に各企業の長所・強みを活用する「金融コンソーシアム(異業種間連携)」を構築し、迅速な対応体制に移行すべき時期・潮合いでしょう。

 

 幕末の勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛とうの立場の違いを越えての交わりが明治維新の一端を担っているように、銀行界の枠を越えたイノベーション構想の人材登用・コミュニケーションの場の提供をしませんと他企業の参入により、銀行は護り一辺倒に陥ります。

 

 2017年5月 「銀行法等の一部を改正する法律」の成立 (2018年6月施行)が始まっており、(再掲)去年(令和元年・2019年)証券業のSBIホールディングス、東海東京フィナンシャル・ホールディングスが地方銀行と提携して資産管理の強化に乗り出している報道がありました。また、11月にはITがらみ(キャッシュレス決済)の、ヤフーの親会社Zホールディングス(HD)とLINE(ライン)の経営統合の基本合意の報道もあり・・・他業種から続々金融業(普通預金口座の利用)への参入は続きます。

 

 クレジットカードは国内で競合が普通ですが、デジットカードは(国内勢)()日本クレジットビューロー(略称 J C B )と

J-Debit』:日本電子決済推進機構の二つですが、経営形態は片や株式会社(旧財閥系)、もう一つは機構(官庁・会社・団体等の組織)ですので「潮目が変わった」今、地元の銀行と商いの利益を分かち合える株式会社に組織替え・意識改革のチャンスです。

財閥系に対し、地方銀行(64行)とみずほHDの総資産はどちらも500兆円台でほぼ均衡しています。そのうえ、機構は信金・

信組、農・漁協とう地域・地方が参加しています。

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -

全地方銀行3415485億円・・・関西みらい銀行・みなと銀行 = 11兆6301億円を除く

総資産(ブログ主調べ)・・・数字だけで並べてみれば下掲の二つのグループは、ほぼ均衡しています。

三菱UFJG(311兆1389億円)✙ 三井住友FG(203兆6591億円)    = 514980億円

みずほFG(200兆7922億円 ✙ 全地方銀行(3415485億円)  = 5423407億円

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -

J-Debit』:日本電子決済推進機構

https://debitcard.gr.jp/about/index.html

日本電子決済推進機構は、 加盟店様と消費者様の生活利便性の 向上を目指し日本のキャッシュレス時代の 大きな柱として、消費者様へのデビット カードサービスの普及に努めております。

設立の概要:1998年6月22日に日本デビットカード推進協議会が発足し、2005年4月1日に日本電子決済推進機構を正式名称として発足した。対外活動名称として日本デビットカード推進協議会を継続使用している。

取扱金融機関(地方銀行に限って(現在))64

     他に、J-Debit 金融機関名 【検索結果】第二地方銀行(38件)、信用金庫(256件)、信用組合

                      (145件)、労働金庫(13件)、農業協同組合(638件)、漁業協同組合(1395件)、

                      【検索結果】39件 その他金融機関(5行)

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -

()日本クレジットビューロー(略称 J C B 設立 https://www.global.jcb/ja/about-us/company/history/  

日本初の汎用型クレジットカード:1961年1月に設立後、同年3月には日本初の汎用型クレジットカードの発行を開始しました。いち早くプラスチック素材のカードや米国規格のサイズを採用し、同年5月には、いまでは一般的となっているご利用代金の銀行口座からの自動引き落としを、民間企業として初めて実現しました。

≪沿革≫ 2014年:国内初のJCBブランドのデビットカード発行

≪主要株主≫銀行分:(株)三菱UFJ銀行、(株)、(株)三井住友銀行、取扱金融機関(地方銀行に限って(現在))21です

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -

Visaデビットカード:Visaデビットは、Visaマークのあるお店で、24時間365日、使えます。普段のお買い物も、ネットショッ

  ピングも、海外旅行も、これ一枚。取扱金融機関(地方銀行に限って(現在))Visaデビットカードが13です。

              「潮目が変った」自覚 と 人の「登庸」の得難さ 

 

米国の黒船来航(嘉永6年(1853年)は外国に目を向ける「潮目が変わる」要因になりましたが、肝心の明治維新には余り関与していないのは「南北戦争:1861年から1865年」があり、薩長のイギリス、幕府のフランスの影響力が大きく仮にここに米国が加わって3ヶ国の主導権争いが加わっていれば幕末はもっと混迷を深めていたでしょう。

この期間の文久2年(1962年)7月6日、慶喜は一橋家再相続・将軍後見職に任命されます。

 

(途中、禁門の変(元治元年7月19日(1864年8月20日))により、御所に弓矢を仕掛けた行為により長州藩は「朝敵」になる)

 将軍後見職の4年後、第14代家茂(いえもち)が死去し慶喜は徳川宗家を相続しますが、将軍になるのは4ヶ月後です。

国内は薩摩藩(島津久光)と権力の主導権争い、外国とは「兵庫港開港問題」を抱ええ居て「内憂外患:ないゆうがいかん」の状態です。

 

 他方、討幕を目的に薩摩・長州の主要メンバーと坂本龍馬は1866年(慶応2年)1月21日に京都で会合しています。

 

 宗家相続問題が起こったとき、慶喜は側近の原一之進に幕府の廃止と王政への復帰を相談していた。立場上、諸外国の文明・文化、政治体制、軍事力の情報・知識は慶喜が一番知り得ており、幕府の権力の威光の陰り、幕藩体制の「潮目が変わって来ている」自覚があり、体制変換のアプローチを模索していたと思われます。

 

 1866年(慶応2年)12月5日、慶喜、15代将軍に任じられ、わずか20日後の12月25日、光明天皇が崩御せられ最大の

理解者を失い、朝廷内は旧公武合体派と攘夷派、王政復古派とう混迷を深めます。

 

 1867年(慶応3年)6月22日、土佐藩士後藤象二郎・坂本龍馬ら、薩摩藩士西郷隆盛・大久保利通らと会見し、大政奉還の薩土盟約を結びますが時期をめぐり、また長州藩が絡み(からみ)一枚岩では進みませんが、「討幕の密勅」(薩長両藩にひそかに手渡された徳川慶喜追討の勅書。形式が異例で、偽勅説もある)により、11月13日、薩摩藩は兵力を京都に向け出発します。

 

10月25日、慶喜、大政奉還に至り、徳川家は一大名になります。12月9日、子御所会議(慶喜の欠席裁判)御所の主な門を薩摩藩が守護して、出席当事者の主張にだけ基づいてなされた。

明治元年・慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日)鳥羽・伏見の戦いは、薩摩藩が江戸市中を跳躍跋扈(ちょう

やくばっこ)させ幕府の怒りを発火させ兵を動かす動機が原因ですが、「薩摩藩」を懲罰(ちょうばつ:こらしめの制裁を加える)

 に動く将士(将校と兵士)の激昂(げっこう:激しく怒って興奮すること)避けがたく慶喜は開戦へと追い詰められていった。

戦線を大きくして京に攻め入れれば、御所を警護している薩摩藩と衝突し、かつての長州の「禁門の変」の朝敵の汚名を着せられるのは必定で「進軍」の決断の選択はありませんでした。命を賭(と)して挑んできた人たちに政(まつりごと)を任せたのでしょう。

 

それにしても、最後の交渉人は、勝海舟も西郷隆盛も現場上がりの「叩き上げ」の下層階級の武士出身であり、本人の努力・覚悟も「さる ことながら」活躍の場に登庸(とうよう:官職・地位などを引き上げること)したことが己を護った事になります。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 

『年表』

1866年(慶応2年)1月21日、坂本龍馬・小松帯刀・西郷隆盛・木戸孝允、京都に会して薩長連合・討幕を

                  約す。

           7月20日、将軍家茂、大坂城で病死

            7月29日、慶喜、徳川宗家を相続

  (4カ月強後)12月5日、 慶喜、15代将軍になる

                    12月25日、光明天皇崩御、

1867年(慶応3年)6月22日、土佐藩士後藤象二郎・坂本龍馬ら、薩摩藩士西郷隆盛・大久保利通らと

                   会見し、大政奉還の薩土盟約。

           10月25日、大政奉還

           12月9日、子御所会議(王政復古の大号令)

明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日)鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  

禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年719日(1864820日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。

長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件

 

御所に向かって発砲したこと、藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことも重なり、23日には藩主・毛利敬親に追討令が発せられ、長州藩は朝敵となった。

 

≪ 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 発行所:株式会社立風書房 ≫

【過去ブログ】2019年03月21日 覇道と王道(31)官軍は方便(王政復古)  1、幕府の対応5

183ページ大久保忠寛(ただひろ)は、1862年(文久2年)7月に大目付外国奉行兼帯から側衆(老中

  の下に属し交代で宿直)となり、当時の幕史中もっとも慶喜に近い地位にあった。(中略)

 蘭学塾をひらいていた不遇の勝海舟を人材と見込んで、(老中)阿部正弘に推薦して登用させたのも

 大久保であり、その勝が推薦した坂本龍馬を慶永や横井と自分との連絡役に使い、坂本の政治的識見を高めさせたのも大久保忠寛であった。(以下略)

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 

1866年(慶応2年)7月、257ページ、宗家相続問題が起こったとき、慶喜は側近の原一之進に幕府の

  廃止と王政への復帰を相談したがそ、の実施後の政治的展望をまだもつことができず、原は「其の

  方法宜しきを得ずして一歩を誤らば、非常の紛乱を招くべし、且又御勇断遊ばさるとも、思し召しを奉

  じて斯かる大事の決行に堪うべき人の候か、今の老中にては決して為し遂ぐべしとも思われず、又

  下々にはその任に堪えたる者なきにあらねど、今の制度にては、俄かに軽輩を登庸なし難ければ、

  時を待たせ給う外にあるべからず」と忠言したので、沙汰やみとなった(「徳川慶喜公伝」)。

   慶喜が宗家を相続したのにともない、原一之進・梅沢孫太郎は直臣の身分に登用され、目付に

   なった。

(ブログ主・注記)・・・用人3人が暗殺される

文久3年(1863年)10月23日、側用人中根長十郎(一橋家家老)、江戸雉子橋(きじばし)で暗殺される。69歳。在職25年

元治元年(1864年)6月16日、平岡 円四郎(えんしろう:一橋家の家老並。)攘夷派には奸臣と見なされ暗殺された。享年43

慶応3年(1867年)8月14日、 市之進(いちのしん:水戸藩士、一橋家家臣)、慶喜の側用人となる。同僚に暗殺された37歳

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - - - - - - -

1866年(慶応2年)12月5日、263ページ、これだけの前提を整理して、慶喜は12月5日に征夷大将軍に

  任命された。この過程をみれば、慶喜が将軍職と徳川宗家の相続とを完全に分離して考えていたこ

  と、将軍職が徳川家独裁体制から諸侯合議体制にすべきこと、その新しい政治体制を欧米から学び

  とり、新国家の宰相にふさわしい帝王学を学ばせるために弟の昭武に清水家をつがせ、5年間という

  長期のヨーロッパ留学に派出したこと、慶喜の将軍職就任は昭武帰国までの中継ぎの積りであった

  こと、などを読み取ることができる。(以下略)

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - - - - - - -  

【過去ブログ】20190225 覇道と王道(17)官軍は方便(王政復古)、維新は観念(文明開化)

≪ 幕末維新 消された歴史 安藤優一郎 発行所:日本経済新聞出版社(日経文芸文庫)≫

183ページ、慶応3年・1867年12月9日、薩摩藩兵などで固められた御所に入れたのは、総裁や議定に

  任命される予定の有栖川宮や公卿たち、そして五藩の藩主クラス(徳川慶勝・松平春嶽・浅野茂勲

  (もちこと)・島津茂久・山内容堂)。さらに、大久保たち五藩の重臣だった。大久保や岩倉は参与に

  任命されることになる。尹宮(いんのみや)や摂政二条斉敬(なりゆき)をはじめとする公卿たちの参

  内は差し止められた

   新政府の主要メンバーが揃ったところで、いわゆる子御所会議(こごしょかいぎ)がはじまる。参与

  倉具視(ともみ)と議定山内容堂が舌戦を繰り広げたことは良く知られてが、この会議で決定された

  こととはなにか。まず、慶喜の将軍職辞職が承認された。これにより、慶喜が大名の列に正式に降り

  たわけである。次に慶喜の処遇である。

   辞官・納地の件だが、慶喜から自発的に申し出るよう促す交渉役に、徳川義勝松平春嶽が当た

  ることになった。京都守護職・所司代の廃職は、松平容保(かたやす)・松平定敬(さだあき)の解職

  を申し渡した旨が慶喜から会議の場伝えられたことで決着した。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - - - - - - - - -

< 前提として > ≪ 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 発行所:株式会社立風書房 ≫

  1867年(慶応3)12月9日朝、294ページ西郷が薩摩藩兵をひきいて建礼(けんれい(南面)・建春(け

  んしゅん(東面)・宜秋(ぎしゅう(西面南)・清所(せいしょ(西面中)・の諸門を固め、尾張越前

  佐芸州 四藩の兵も逐次到着してさだめられた部署についた。 (注)格式の高い6か所の門があ

  り、穴門という、屋根のない入口が12か所ある御所はこれら五藩による王政復古クーデターが断行さ

  れた。

  - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『追記』1867年(慶応3)12月11日、296ページ、慶喜は松平慶永(春嶽)に(京都・二条城から)大阪に退

  去する意思を表明し、「衆心益激昂し、余に迫りて兵を挙げせしめんとす、余不敏なりといえども、

  敵の名を負いて祖先を辱むるに忍びず」と、大坂退去の理由を明らかにした。(中略)禁門の変の

  再現を避けるため、薩摩藩問罪の戦場を京都以外の地にもとめるための戦術的後退であると、

  (会津藩)家老田中土佐を欺いたことである(「徳川慶喜公伝」)。

       明治新政府は日本で珍しくボトムアップの成功例です


全地方銀行341兆5485億円)・・・関西みらい銀行・みなと銀行 =  11兆6301億円を除く
総資産(ブログ主調べ)・・・数字だけで並べてみれば二つのグループは、ほぼ均衡しています。

三菱UFJG(311兆1389億円)✙ 三井住友FG(203兆6591億円)      =  514兆980億円
みずほFG(200兆7922億円 ✙ 全地方銀行(341兆5485億円)  =  542兆3407億円
- - - - - - - - -   - - - - - - - - -  - - - - - - - - -  - - - - - - - - -
坂本龍馬、西郷隆盛達とうのように、幕末に活躍した人の多くに「武士階級」の下層の人達が多いです。
幕府にしろ、各藩にしろ、上層部に類する人達は生活が安定していれば「何もしない」変化を求めるリスクを避けるは、古今東西普通の行動でしょう。

 日本社会は、戦国時代(下剋上)のトップダウン形式(何しろ命・生活がかかっている)を除けば、「天皇(朝廷)・将軍(藩主)」のトップが政治・統治を行うのではなく、「老中・家老ら重臣」の二層・三層構造のよく言えば安定型、悪く言えば責任所在が分からない状態が長く続いて来ました。

貨幣経済の中心、全銀協も所管官庁・金融庁の呼びかけで「金融審議会・決済業務等の高度化」、決済サービスの商品・サービスの拡充を表明して稼働まで4年かかりました。
しかも全銀協(会長はメガ3バンクの1年交代)が主体ではなく、運営は社団・全国銀行資金決済ネットワークです。

  ここでも二層・三層構造でシステムはITベンダーに丸投げですからコスト構造の改良余地が少なく手数料は利用者に転嫁されてきました。

 この「何もしないのが無難」のマイナスの風潮が強くなったのは、徳川慶喜の「大阪城から逃げ帰った」風評・風説だと個人的に思っています。一般的に戦に勝った側(権力を保持した側)が正当性を主張します。この場合は薩磨・長州(新政府)です。
ただ、「何もしなかった」と思われている徳川幕府・幕藩体制(藩主・藩士)もなくなりました。

【過去ブログ】 一時の勢いに陰りがみえる旧都市銀行と立ち直そうと動き出した地方銀行、資産管理に重点を置く証券業社、キャッシュレス決済等、電子決済等代行業者等の銀行預金口座の利用・サービスへの参入など銀行業界の「明治維新の初動」を連想させます
- - - - - - - - -   - - - - - - - - -  - - - - - - - - -  - - - - - - - - -  
【過去ブログ】 2014年(平成26年)11月12日 大上段に構える―4 決済サービスの商品・

                                                                     サービスを拡充
(一般社団法人)全国銀行資金決済ネットワーク
                http://www.zengin-net.jp/zengin_net/pdf/pamphlet_j.pdf
【全銀システムの運営】
全銀システムは、一般社団法人全国銀行資金決済ネットワーク(全銀ネット)が運営し、株式会社NTTデータが開発・提供するシステムを利用しています

- - - - - - - - -   - - - - - - - - -
金融審議会「決済業務等の高度化に関するスタディ・グループ」(第10 回)議事次第
                  https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/kessai_sg/siryou/20150205.html  
平成27年2月5日(木)
資料1-1全銀システムの高度化 に向けた取組み(松本 康幸 一般社団法人全国銀行資金決済ネットワーク 事務局長)
        https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/kessai_sg/siryou/20150205/01_1.pdf
            『全銀システムの稼動時間拡大 ③』
『サービス提供開始時期』
平成27年(2015年)初から本格的な業務・システム要件の検討を開始し、平成30年中(2018年)

サービス提供を目指す。
   • 現在、今回の検討結果を踏まえ、全銀ネット事務局内にプロジェクトを立ち上げるともに、「全銀

    システム稼動時間拡大検討部会」を設置し、関係者と具体的な検討を進めている状況。

【引用】 平成 30 年(2018年) 10 月9日 一般社団法人全国銀行資金決済ネットワーク
        https://www.zengin-net.jp/announcement/pdf/announcement_20181009_01.pdf  
         『全銀システム稼動時間拡大のサービス提供開始について』
全銀システム稼動時間拡大につきましては、移行作業が問題なく完了し、本日、予定どおりにサービスの提供を開始いたしました。
 

                          (大要) 明治維新の初動は西方から始まりました


 2月の半ば、体力の回復もあり気力も湧き、以前から邪魔に思っていた「ススキの塊」の除去は、「作業は単調で脳は丁度よい緊張感が刺激になり「歴史の幕末・銀行のキャッシュレス決済」とう従来と違うアプローチがあることに気が付きました」。
 6年ほど前から折に触れ、全銀協の「24時間365日の決済の問題」がらみ(銀行単独ではなく協調のシステム)の提案をしてきました。
 今回、金融コンソーシアムに関する資料を基にアポを「提案」したのですが、どちらの銀行さんからも「企業さんから提案書は沢山いただいております」(・・・ブログ主の提案は受け付けられません)と同じような回答がありました。
(【過去ブログ】2014年11月10日 10時00分27秒  大上段に構える―3 スタディ・グループメンバー名簿
今回の「スタディ・グループ」の答申内容が預金者の関心事項(サービス内容)に多く・深く掘り下げられますよう願うと同時に、新しいサービスが第7次の全銀システムに取り入られます様、これからもウオッチングをしていきます。

- - - - - - - - -   - - - - - - - - -  - - - - - - - - -  - - - - - - - - -
 手元に数年分の新聞の切り抜き(スクラップ)があり、銀行業界の趨勢は明らかに「旧都市銀行」の影響力は落ちて来ています。
例えば、三菱UFJ銀行と三井住友銀行のATMの共用化、従業員の配置転換・新卒採用の削減とう、新聞報道がありました。
他方、地方銀行は〇〇フィナンシャルグループ・▽▽ホールディングス等総資産十兆円以上が7企業あります。その内71%の
5企業は中国地方の西端、九州です。明治政府の初動を鑑みれば薩摩・長州の新権力者の主要部分です。
地政学上「危機感」に敏感なDNA(遺伝情報)の為せる業でしょうか。単なる金融業界の不振における行動でしょうか。
 
 去年(令和元年・2019年)証券業のSBIホールディングス、東海東京フィナンシャル・ホールディングスが地方銀行と提携して資産管理の強化に乗り出している報道がありました。
 また、11月にはITがらみ(キャッシュレス決済)の、ヤフーの親会社Zホールディングス(HD)とLINE(ライン)の経営統合の基本合意の報道もありました。

 一時の勢いに陰りがみえる旧都市銀行と立ち直そうと動き出した地方銀行、資産管理に重点を置く証券業社、キャッシュレス決済等、電子決済等代行業者等の銀行預金口座の利用・サービスへの参入など銀行業界の「明治維新の初動」を連想させます。

                            - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -  -
                             旧都市銀行  ・ 総資産
      1 三菱UFJフィナンシャル・グループ ・・・・・・・・・・・・ 311兆1389億円
      2 ゆうちょ銀行     ・・・・・・・・・・・            208兆9741億円
      3 三井住友フィナンシャルグループ ・・・・・・・・・・・・ 203兆6591億円
      4 みずほフィナンシャルグループ・・・・・・・・・・・・・・・  200兆7922億円
      5 りそなホールディングス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  59兆1100億円
- - - - - - - - - -   - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  
     地方銀行  ・ 総資産 (⒑兆円以上)
福岡県・熊本県・長崎県)ふくおかフィナンシャルグループ・・・・・20兆8397億円
(神奈川県・東京都)コンコルディア・フィナンシャルグループ ・・・・18兆9471億円
(茨城県・栃木県)めぶきフィナンシャルグループ ・・・・・・・・・・・・ 17兆3725億円
千葉県) 千葉銀行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14兆9641億円

(富山県・北海道)ほくほくフィナンシャルグループ・・・・・・・・・・・・・ 13兆1859億円
静岡県)静岡銀行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11兆8547億円
(大阪府・兵庫県)関西みらいフィナンシャルグループ・・・・・・・・・・ 11兆6301億円
長野県)八十二銀行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10兆4515億円 
福岡県・長崎県)西日本フィナンシャルホールディングス・・・・・・10兆4490億円
熊本県・鹿児島県)九州フィナンシャルグループ・・・・・・・・・・・・・・10兆4446億円
山口県・広島県・福岡県)山口フィナンシャルグループ・・・・・・・・・10兆3041億円


 

        「案ずるより産むが易し」の実体験(達成感の取得)

前回の畑の北側の道路伝いの土手に数十年間放置されたイバラ(茨)があり、周りは「セイタカアワダチソウ(背高泡立草:日本の侵略的外来種ワースト100にも選ばれた繁殖力のとても強い植物)」が繁茂しています。
- - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - -
 以前は、除草にススキの塊(2m×1m)の周りを土手の上から草刈機で刈るのですが、ススキは丈が長いので傘が開いた状態は結構広く場所を取り邪魔になりました。ススキの丈の途中から草刈機で薙ぎ払っていましたが切り刃(超硬金)も歯車も摩耗が激しく沢山は伐れませんでした。

 今回は地上に出ている部分を根こそぎ除去を目指し(アプローチする)ますので、試験的に(古い刃の草刈機で実施しましたが
衝突音が激しく効率も悪く、新品の刃を使っても直ぐにダメになる気がしましたので、刃先の細い通常の目の小さい「ノコギリ・鋸」を使ってみたら、これが殊の外うまくいきました。が、3mの土手の上からの作業ですので足下が不安定(上体に力が掛けらられない)の上、1本1本伐っては(数本溜めますが)土手の上まで運ばなければなりません。バランスを崩せば下に落ちてしまう危険もあり、土手の下側に入れるように整理して脚立を用意しました。

 足場は出来たのですが「うつ伏せの形は上体の維持」に力(筋肉の疲労)を消耗しますので長く作業が出来ません。そこで、3mの梯子を土手に立掛けて「仰向けの形」で作業しましたら腕の力が断然有利に入れますし、鋸の切れ方も感触が強いです。

 アプローチ前の危惧より殊の外、新たな工夫もあり順調に作業が進み「案ずるより産むが易し」に気が付きました。「ススキの塊」作業は単調で脳は丁度よい緊張感が刺激になり「歴史の幕末・銀行のキャッシュレス決済」とう従来と違うアプローチがあることに気が付きました。そして、このブログも11カ月振りに再開する意欲も湧いてきました。
- - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - -
 体力も体幹も日毎に回復の実感を得まして、悦びと共に次のターゲット(アプローチ)に入りました。それが、北側道路の土手のイバラ(茨)の除去に着手、ついでに「セイタカアワダチソウ」の除去することでした。

 今回も足場の悪い土手が作業場です。地面から7~8本の幹が生え1番太いのは7~8㎝もありますが「生木」です。前回の「刃先の細い通常の目の小さい「ノコギリ・鋸」を使いました。生木ですので刃の切込みは順調ですが、足場も悪く、幹も太く四方向から刃を入れたいのですが、幹が隣り合わせなので切る方向は自由になりません。

 土手の作業ですので足場づくりに片方の足を「脚立」にのせ、腰を地面に乗せ地面すれすれに伐っていくのですが、平場の作業と違い姿勢が悪くノコギリが平行に入っていかず、動きが遅く・重いです。そこで、テレビの木を伐採する時に倒れる方向にチェーンソーで三角の形(くさび方)を作る事を思い出し、ノコギリで横に伐っては斜め切り(くさび方)を試したのですが、刃が滑って効率がよくありません。

 そこで思い付いたのが「タテに使うのならノミ(大工道具)」の方がいいだろうと、案の定「生木」ですので簡単に三角の形(くさび方が出来ましたのでノコギリの作業は楽になりました。

 「セイタカアワダチソウ」は、周りを鋸鎌(ノコギリガマ:刃に、のこぎりのような多数の刻みをつけた鎌) で除草して、前回の「刃先の細い通常の目の小さい「ノコギリ・鋸」を使い1本1本伐っていき(途中から左右切込みを入れると簡単に折れることに気が付きました)、硬いものを除いてから「草刈機」で一気に除草しました。アプローチを間違わなければスムースに作業は捗り(はかどり)労力は軽めに済みますし、二つとも難儀な作業と思っていましたので達成感は一杯でより気持ちいいです。

- - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - -
故事ことわざ辞典:http://kotowaza-allguide.com/a/anzuruyoriumugayasushi.html
案ずるより産むが易し (あんずるよりうむがやすし)
【意味】案ずるより産むが易しとは、始める前はあれこれ心配をするものだが、実際にやってみると案外たやすくできるものだと
いうたとえ。
【注釈】お産する前は本人も周囲の人も色々と心配することが多いが、終わってみると案外たやすく済んでしまうものであるとい
うことから。出産に限らず、物事は事前にあれこれ思い悩むよりも、実際はそれほど難しくないということ。
あまり取り越し苦労をするなという慰めの意味で使われることが多い。
「案ずるより産むが易い」ともいう。「産む」は「生む」とも書く。
 

            名詞「接近」、動詞「着手する」、達成感の取得


十五夜の月見に飾る「すすき(薄)」ですが、今回のススキは3mの高さの土手の途中に生え、数十年に亘り「がん化」した1m×2m、穂先の高さは3m以上の塊の大きさがあります。それを取り除こうという

ヤル気が起こりました。

 知り合いの奥さんはその土手の上に有る畑で作業をし、旦那さんが年に2回草刈機で土手を除草していたのですが体を患って休止に追い込まれました。
私は、折しも体育館の「トレーニング室」に通って体力が少し回復していて(体育館のトレーニング室通い1年半、自我流のストレッチ4年間)、器具を使った同じ筋肉の向上とは別に平らでない土手の脚の踏ん張りとか「体幹」を鍛えるには丁度良い機会と草刈り機の除草をかって出ました。
(【過去ブログ】2017年05月22日 13時51分08秒 腰痛予防の実験(1) 細胞はシグナルを送る)
- - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - - -
(【過去ブログ】(2018年01月25日 15時06分49秒 私の2018年の目標は (1)・・・身体を柔軟にする)  
(平成23年10月(2011)市内の体育館・トレーニング室(軽いジム(器具が備えてある)に通い始めました。)
腰痛歴42年間(調子のいい時もあります)、一念発起してトレーニング室に1年半通い、少しずつですが順調に体力を回復していたのですが弱い処に症状(腰痛)が出て来まして断念、以後散歩と自我流のストレッチは続けました。4年間の空白の後、去年の5月に「腰痛予防の実験(1~7)」、本格的に取り組みましたのが腰痛予防の実験8(2018年01月19日)です。
- - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - - -   - - - - - - - -
去年の令和元年(2019)11月、2週間にわたる入院生活を強いられ再発防止には「薬と食事療法と有散歩運動」を勧められ
7年振りに市内の体育館・トレーニング室に通うようにして、2か月後に順調よく筋肉の増強(器具の重りが増える)し、退院1ヵ月後の診療で担当医師から血液検査の結果は「良好」のお話が聞けました。

 散歩がてら表題の「がん化したススキ」を見ましたら枯れた茎の間から「新しい芽」を発見しました。面白いもので今迄は除草に邪魔な「ススキの塊」としか見ていなかったのですが、身体が順調に回復していましたから「新しい芽」を斬らないという闘志が湧いてきました。

 草刈機は除草に楽ですが「がん化したススキの茎」は竹に近く頑強で刃だけでなく回転する歯車の摩耗も激しく、刃先の細い通常の目の小さい「ノコギリ・鋸」を使ってみたら、これが殊の外うまくいきました。何でも最新の物がいいのではないと分かりました。

 数十年の経過ですから茎が密集していて難儀だと思いましたが、取り掛かってみたら「新しい芽」も生きている茎も腐っている古い茎が周りを取り囲んでいて人間社会の集団に似ていると思いながら作業をしていたのですが、作業は単調で脳は丁度よい緊張感が刺激になり「歴史の幕末・銀行のキャッシュレス決済」とう従来と違うアプローチがあることに気が付きました。
何よりの収穫は、「がん化したススキの茎」を取り除いた「達成感」です。

三省堂 大辞林 第三版:アプローチ [3] 【approach】( 名 ) スル
① ある目的のために人に近づくこと。親しくなろうとすること。
② 学問・研究などの、対象に接近すること。また、接近のしかた。研究法。 「歴史的な観点から-する」
③ 道路・門から建物・玄関口までの通路または導入室間。
④ ゴルフで、グリーン上のホールをめがけて打つ寄せ打ち。アプローチ-ショット。
⑤ スキーのジャンプ競技や陸上競技の走り幅跳びで、スタートから踏み切るまでの間。
⑥ 登山で、目的の山の山域に至るまでの行程。 「 -が長い」

王政復古は、方便を3回使い、幕府側の

理性と秩序に打ち克った

 

【方便】ほうべん(1)(仏教語)人を真実

の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段。

 

(2) ある目的を達するための便宜上の

手段。「うそも方便」・・・Goo 辞書

 

○ 一言で国を滅す言葉がある

( 幕臣たちの「どうにかなる」という

優柔不断 ) (by、小栗忠順  ただまさ))

 

○ 「明治憲法」の改憲は一度も、現憲法

も、一度も改憲はありません。

 

○ 「明治憲法」1889年(明治22年)57

年間、王政復古(1867)79年間

現憲法. 昭和22年(1947)72年間

 

・・・・・・( 方 便 3 回 )・・・・

1.慶応3年(1867)10月8日、西郷隆盛

たち「討幕の密勅」を奉請。

(徳川幕府、大政奉還の建白書)

 

1.  〃     12月9日、(御所を

警護で固め身内だけの)子御所会議。

(慶喜、10月24日将軍職辞職の上表提出)

 

1.  〃     12月25日、江戸・

薩摩藩邸の浪士が江戸市街・関東一円

を攪乱(かくらん)。

(旧幕府が藩邸焼き討ち)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平時であれば、福井藩の挙藩上洛計画は

「理性・秩序」の行動が優先する筈ですが、

でも考えてみれば、この計画自体がもう

有事であり、動乱一歩手前の状態です。

 

また、置かれている状態も福井藩は幕府

の親藩(親類)ですから、幕府の意向を

無視する事は出来ません。

 

その上、藩の上層部が絡んでいれば「慎重

の上にも慎重」派が盛り返して来ます。

 

その点、薩摩藩は外様大名であり幕府か

ら「敵視」される恐れ・弱みありますが、

一度、腹を決めれば「下層出身故の後がな

い(前に進むしかない)失う物がない」強

み・仲間の一体感が生まれます。

 

幕末の体制側・藩内上層部から「ダメな

理由は直ぐに」沢山出て来ます。

 

結果的に、薩摩藩が(方便を使い)討幕

の成就を成し遂げますから、このことから

「大きな事、あるいは、変革」を成し遂げ

るには「体制側」(今回でいえば開明派の

勝海舟・大久保忠寛(ただひろ))の人々

では難しいことが分かります。

 

天下の大事を負担するものは」 はた

して西郷ではあるまいか。

(by、勝海舟:氷川清話)

 

(注:徳川宗家相続から(7月29日)、

15代将軍に付く(12月5日)「天下の大事

を負担する」覚悟に3ヶ月も費やしている)

 

奉還勅許の翌12月16日、大政奉還まで倒

幕論の坂本は、慶喜の「絶倫之御英断」を

激賞した(by、坂本龍馬:小松らの会談で)

 

幕府が徹底抗戦すれば、御所をも攻撃対

象になりますし、警護している土佐藩、福

井藩(鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩と長州藩

のみ)とも戦わなければなりません。

 

慶喜が身を引いたことにより、京都市街、

大坂城(大阪市内)、江戸城(江戸市街)は

戦場にならず、家屋・家具の被害もなく、

戦いによる人心の恨み、憎しみ、遺恨等も

少なく済みました。

 

その後の維新政府の運営にも好影響を

与えています。それにしても、方便の3回

はありませんから、純然たる権力闘争

でしょう。

 

- - - - - - -  特 徴? 特 性?- - - -

)- - - - - - 

1.議論せずして、武器は譲位・辞職で

  結論はあなた任せが主流です。

 

○ 安政5年(1858)6月28日、孝明天

  皇は深く幕府の専断をなげき『譲位

  密勅』を賜わった。

○ 196ページ、文久3年(1863)3月21

  日、松平慶永は政治総裁職の辞職

  申し出た。

○ 185ページ、文久3年(1863)10月

  22日、今度は慶喜が「破約攘夷」に

  反対して将軍後見職辞任の辞表を・・

○ 1873年(明治6年)征韓論を経て、

  西郷隆盛が参議,近衛都督を辞任した。

○ 1874年(明治7年)木戸孝允も台湾

  出兵などに反対してその職を辞した

○ 大阪会議(明治8年(1875年)で

  三権分立へ元老院の設置に岩倉

  右大臣の辞表を出した

 

  ● 主要メンバーで、大久保利通

   ただ一人、辞表を出していません。

 

 - - - - - - (王政復古(明治憲法)と日本国憲法は一度も改憲せず)- - - - -

 

 明治憲法自体は、1889年(明治22年)

2月11日に公布ですが、「王政復古大号令」

が1867年(慶応3年12月)ですから、

日本国憲法11月3日公布までの1946年

(昭和46年)期間は79年間です。

 

連合国軍 機関は、設置・1945年10月

2日~廃止・1952年4月28日の5年半

の期間、日本で占領政策を実施しています

が、日本国憲法は、1946年(昭和21年)

11月3日公布,翌 1947年(昭和22年)

5月3日施行ですので、占領期間中の

決議です。

 

今日2019年(平成31年)4月10日は日本

国憲法施行、1947年(昭和46年)5月3日

より72年経過しています。

 

・・・( 成 功 体 験 の 後 遺 症 )・・・ 

 

 慶応3年(1867)12月9日の子御所会議

は、武力で御所を警護して人事権を確保し、

新政府側を予定している人物を好きのよ

うに配置して周りを固めることに成功し

ました。

 

ここで、武力が無くても専制(せんせい:

物事、特に政治を、独断で思うとおり処理

すること)可能な王政シフト(移し替え)

を確立し、征韓論(1873年(明治6年)10

月 24日、岩倉の要請を天皇が勅裁すると

いう体裁)を経て、政治的なライバルであ

る西郷たちの辞任に至ります。(天皇の決

裁を持ち出されたら議論になりません)

 - - - - - - - - - - - - -

 岩倉使節中に学んだ大久保は、明治6年

(1873)11月、憲政を論じ、「民主政治」

と「君主政治」を比較して、「実ニ天理ノ本

然ヲ完具スルモノ」と言い、人民が国家の

主人である政治の正当なことを承認して

いる。

 

しかし、日本の文明は低いからそれは実行

できない、日本では「君民共治」がよい、

と言う。

 

岩倉はただプロシャやロシアの皇帝の

威勢輝くのを見て、天皇もあのようにした

いと思うだけであった。

 

 征韓論分裂後の11月29日、大久保は新

設した内務省の初代内務卿にみずから進

んで就任した。

 

権限は、いまの農林省・通産省・科学技術

庁・経済企画庁などの経済関係、運輸省・

国鉄に郵政省・電々公社、建設省・道路公

団、厚生省、

さらには、国家公安委員警察庁・消防庁、

また当時、内務省が知事の任免権をもって

いて、影響力が及ばないのは大蔵司法

文部の三省の所管事項だけです。

 

(内務省の所管は昭和22年(1945)、大久

保の死去後も続きます)

 

 ○ 内閣制度が成立するまでは、内務卿

が実質的な首相であり、後に内閣制度

明治18(1885年)12月22日)に

おける、内務大臣となった以後も、第二

次大戦敗戦後のGHQによる内務省の

解体・廃止に至るまで存続します。

 

 - - - - - - - - - - - - -  

 1875年(明治8年)台湾出兵などに

反対してその職を辞していた参議木戸孝

允と、当時自由民権家となった板垣退助ら

との大阪会議(立憲政治の樹立)で大久保

を和解させ,政府権力の強化をはかろうと

した。

 

(会議欠席の)岩倉は木戸や大久保ていど

の外見的立憲主義をいますぐではなく

将来は行なうというのにも、積極的に反対

するものとなった。

二十五日には右大臣の辞表を出した

 

 - - - - - - - - - - - - -  

明治10年は、木戸孝允(たかよし:5月)

死去、西郷隆盛(9月)死去、明治11年、

大久保利通(5月)、三人が死去するも、

伊藤博文・大隈重信松方正義(まさよし:

明治14年(1881)大蔵卿、デフレ政策を

実施。蔵相・首相を歴任。日本銀行創設、)

 

- - - - - - - - - - - - -  

明治14年(1881)10月,薩長藩閥政府の

専制的な体制を固め,天皇制 立憲国家

の道を確定した政変。(明治14年の政変)

その具体的内容としては,

(1) 開拓使官有物払下げの中止,

(2) 10年後の国会開設の公約

(3) 参議大隈重信一派の追放など。

 

「憲法制定の基本方針は、『明治14年の政

変』の際に岩倉具視(1825-1883)の憲法意

見書の線でまとまり、その後、伊藤博文

(1841-1909)の派欧憲法調査、制度取調局

の創設、華族制度の創設、宮中改革、内閣

制度の創設、官制改革など、憲法体制の

下準備が行なわれた。

 

岩倉具視は、天皇の絶対専制権力を不動

のものとすることに集中し、憲法はまず、

第一に必ず天皇が制定して人民に下し賜

わること、第二に天皇の国家統治権を明確

にすること、そのほか天皇の大権を最大限

にし、議会の権限を最小限にすること、

この大原則による主要な条項を、具体的に

箇条書きにして、政府に強く要望した。

岩倉 具視(ともみ:明治16年(1883年)7月)死去

 

---(大久保利通 内務卿の成果・既得権益)

 

明治18年(1885年)12月22日、それま

での太政官制度(慶應4年(1868年)

3月14日に布告され、こうして、明治22

(1889)に「大日本帝国憲法」が発布さ

れ、翌年に国会が開設され、明治の憲法体

制が発足するのである。

 

自由民権派の敗退ののち,1889年(明治

22年)に、「治安維持法」、幕藩体制の下で

草稿検閲制が実施されており、明治政府も

当初はこれを受け継いだ検閲」は1893

年(明治26)の出版法(以後改訂有)成立

も、天皇の緊急勅令で草稿検閲制が実施も

ある。

 

明治18(1885年)12月22日、新たに

内閣制度が創設された。(内閣総理大臣・

外務大臣・内務大臣・大蔵大臣・陸軍大臣

海軍大臣・司法大臣・文部大臣・農商務大

臣・逓信大臣・内閣書記官長・法制局長官)

(昭和20年まで陸軍大臣海軍大臣続く)

 

- - - ( 岩倉(天皇の大権と繋がる)と交代した軍部 ) - - - - 

 

 「チェック機能が働かない内務省の所管

事項です。1931年(昭和6年)に勃発し

満州事変以降。

 

515事件は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件

1933年(昭和8年国際連盟を脱退,1937年から日中戦争を開始した。

226事件は、1936年(昭和11年

2月26日早朝に起きた陸軍皇道派青年

将校によるクーデター未遂

支那事変(しなじへん)とは、1937年

昭和12年)に日本と中華民国(支那)の間で始まった、長期間かつ大規模な戦闘。

 

日米開戦:戦争の期間は「マレー作戦・

開戦の詔が出された1941年(昭和16年

12月8日から大日本帝国政府が降伏文書

に調印した1945年(昭和20年)9月2日」

とするのが一般的である。

 

敗戦により、明治憲法は始めて改憲する

 

 - - -  【参考文献・引用】 - - - - -  

『コトバンク』

≪ 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 

発行所:株式会社立風書房 ≫  

196ページ、文久3年(1863)3月21日、松平慶永は政治総裁職の辞職を申し出たが許されず無断で京都を去って帰国した。 

 

185ページ、文久3年(1863)10月22日、今度は慶喜が「破約攘夷」に反対して将軍後見職辞任の辞表をだし、 

 

『出典』: フリー百科事典

『ウィキペディア(Wikipedia)』 

 

資料にみる日本の近代 https://www.ndl.go.jp/modern/cha2/description11.html  2-11 衆議院議員・

貴族院議員の選出

 

レファレンス共同データーベース http://crd.ndl.go.jp/reference/  

 

「 4代前の孝明天皇、闘いの武器は譲位 」桜井よしこ https://yoshiko-sakurai.jp/2017/02/16/6697  

 

人物日本の歴史20 大久保利通  佐々克明著 作家。東京大学法学部卒業 http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki3/ensitu5.htm 

 

人物日本の歴史20 岩倉具視 井上清著 http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki3/ensitu1.htm#5  

 

政奉還と「職制案(新官制擬定書)」― 「公議」の人事 ― 寺島宏貴・・・20 / 24、奉還勅許の翌16日(慶応3年・1867)

 

【首相官邸】 内閣制度と歴代内閣】 https://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/1-1.html 

 

『三省堂 憲法辞典』p.318-319の

世界大百科事典内の治安維持法の言及・【表現の自由】より…自由民権派の敗退ののち,1889年に成立した大日本帝国憲法29条は

        将軍の長子は次の将軍となる、徳川将軍家の相続法である

        自縄自縛(じじょう じばく)自分でなった縄で自分自身を縛り、自由に動けなくなる意味

 

1.文久元年(1861)5月、(長州藩)の『航海遠略策』(実質の公武合体構想)御破算(ごはさん)になる

2.文久3(1863)年、福井 藩を挙げて上洛する「挙藩上洛」(朝廷と幕府を結びつける公武合体計画)は

  中止する

3.慶応3年(1867)年、慶喜は(10月14日)大政奉還、(10月24日)将軍職を辞す。も

  (12月9日) 王政復古大号令 (慶喜、追放される)

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  

【くろご式 慣用句辞典】 - くろご式 ことわざ辞典 http://tomomi965.com/index2.html  

流水腐らず(りゅうすい くさらず) 常に流れている水は、淀んで腐ることがない。

        常に活動している者は、沈滞したり腐敗したりすることがないということの喩え。

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - 

 100、200年続いている企業・商店の経営者は「お客さんに気付かれない程度に変えています」、

 あるいは、「お客さんの要望に応える様に改良しています」、と発言をし、この行動を実行してきた企業

 が生き残っているのでしょう。

 

 そうした観点からみれば、徳川幕府は、安政4年(1857)から老中の内部分裂(図表参照:覇道と王道(28):幕末老中一覧)の状態で自壊・瓦解が始まっていることが分かります。

      (図表:和暦・西暦対照表(幕末の徳川将軍)を末尾に添付します)

 

 基準点(安政5(1858年)6月、日米修好通商条約)としてみれば、11代将軍家斉(いえなり)の約60年前の寛政年間 (1789~1801) 以降はロシアやイギリスの軍艦が通商を求め,アメリカの捕鯨船などが寄港地を求めて日本にやって来ています。

 

約50年前の文化5 (1808) :フェートン号事件(イギリス軍艦)、約33年前の文政8 (1825) :異国船打払令、12代将軍家慶(いえよし)時代の約20年前の天保8 (1837) :モリソン号事件(通商と布教を目指して浦賀に来航したアメリカ船)、

約12年前の弘化3年(1846):ビッドル(米国の海軍軍人:(小型艦2隻)開国を求める)、

一方、フェートン号事件(イギリス軍艦)の1年前、間宮林蔵が文化4年(1807年)に択捉島でロシア艦隊により襲撃されています。(㊟1・㊟2)

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - 

(一般庶民は此の事(事例は他にも在ります)を知らなかったとは思いますが、ペリー上陸当時の狂歌、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」(お茶4杯のカフェインと蒸気船の4隻を掛け合わせて、幕府は眠れぬほどの大騒ぎ)庶民の鬱憤(うっぷん)払(ばらい)・揶揄(やゆ)に使われるのは、当時の幕府の幕閣が「世の移り」に鈍感(どんかん)だったのでしょう。

 

 「世の移り」に鈍感(どんかん)は、朝廷も不安に思い約12年前、孝明天皇は、弘化3(1846)年8月29日、度々外国船が琉球や浦賀に来たという噂を聞き、幕府に当てた「海防勅書」を出し、武家伝奏を京都所司代の役邸に派遣しこれを伝えさせた。

 

これは、孝明天皇が自ら外交問題にかかわり始めた最初の行為です。(以下略)(12年後の日米修好通商条約の勅許は難儀が予想された)

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - - 

 この時期、広く外国に目を向ければ、・・・( 外 国 関 係 )・・・・・ 

クリミア戦争:1853年(嘉永3年)から1856年(嘉永6年:日米和親条約1年前))の間、フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャと、ロシアとが戦い、・・・

 

デンマーク戦争(高等学校世界史教科書などで表記)第二次は1864(文久3年)年、プロイセン王国首相ビスマルクは、オーストリア帝国も誘ってデンマークに圧力をかけた。

- - - - - - - - - -  - - - - - - - - ( 国 内 で は )- - - - - - - - 

この時期、日本国内は、14代・徳川 家茂(とくがわ いえもち:慶福(よしとみ))は、紀州藩の養子として

家督を4歳で継ぎ、9年2か月の治世後、安政5 (1858) 7613という若さで第14代将軍となっています。

 

(少し前4月23日に彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、9月7日から安政の大獄が始まり、翌々安政7年3月3日まで続きます

 

そしてこの3年後、

南北戦争(アメリカ)は、1861年(文久元年)から1865年(慶応元年)にかけて、アメリカ合衆国の北部諸州とアメリカ連合国を称した南部諸州との間で行われた内戦に(4年間)入り、日本どころではなく「外圧の谷間」の幸運に恵まれます。

- - - - - - - -  - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  

 日本国内の話に少し戻しますと、12代・将軍家慶が将来の将軍世子候補として慶喜に大きな期待を

かけていたとされる逸話が多くつたえられており、老中の阿部は慶喜を将軍継嗣の地位につけたいと

ひそかに望んでいたとつたえられるが、もともと将軍の世子を決定するのは将軍である。

 

将軍に長子(13 徳川家定(いえさだ)がある場合はその長子が次の将軍となる、これは決しておかすことのできない徳川将軍家の相続法である。(注1p:73

 

(歴史に、「もし!」はありませんが、『寛永6年、慶喜17』が13代に就任して居れば!。老中の阿部正弘は幕閣のみならず、(一環として幕臣・勝海舟の登用) 広く諸大名に対策を諮問して国論の統一を

はかる柔軟性を持ち合わせていたので 慶喜と相性はいい)

 

(歴史に、「もし!」はありませんが、鳥羽伏見の戦いはなく、徳川政権が長く続く可能性は小さいです。(実際に大政奉還しています)「70年(明治3年)9月4日、フランス皇帝ナポレオン3世による政治

(軍事権力)は崩壊しています。

 

- - - - - - - -  (文久年から慶応年間までの大きな流れ) - - - - - - - - - -  

1.薩摩藩・島津 斉彬(しまづ なりあきら)は長子(世子)でありながら42歳まで江戸育ちおまけに周囲の

  目に蘭癖(らんへき)と映ったくらい洋学に興味をもっていた。嘉永4年(1851年)2月に斉興(なりおき)

  が隠居し、斉彬が第11代藩主に就任した。斉彬(なりあきら)は、難局を打開するには公武合体・武備

  開国をおいてほかにないと主張し、第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子(しし:跡取り)がなかった

  ため、次期将軍として慶喜を推した。  安政5年7月16日に死去。  享年満49歳没

 

2.斉彬(なりあきら)の死去(安政5年:1858)から3年後の文久元年5月に(長州藩)の『航海遠略策

  (注2) が表面化してきますが、賛同する勢力も弱く長州藩内部の分裂もあり潰されてしまいします。

 

  外国関係では、「日米修好通商条約」のアメリカが注目されますが、この時期「南北戦争1861(文久

  元年~1865(慶応元年」)の最中であり、通商に力を注いでいたのは「アヘン戦争」のイギリスであり、

  オールコックは日英修好通商条約の批准書交換で1859年(安政6年5月3日)に長崎に到着します。

 

  (英国・商人)グラバーは、1859年(安政6)9月に来日に、日本茶の加工輸出を中心に営業していた。

  2年後の文久1((1861) 5月、グラバー商会を設立します。(注2)

    (その3年後の64年(元治元年)以降は艦船・武器輸入の取引が中心になります)

 

3.攘夷の高まりを受け、文久2年(1862) 3月16日、島津久光、薩摩藩兵を率いて上京し、「薩摩藩尊皇

  派を始末:(寺田屋事件)」します。このことは、幕府の威光の後退を意味し、反対に朝廷(並びに

  諸藩)に対し薩摩藩の「信頼度」が増しました。

 

  その後、勅使、大原重徳(しげとみ:権中納言)の護衛を名目に江戸城に望み、幕府の最高人事

  (慶喜・慶永の登用)を実現させ、朝廷の権威も取り戻しました。

  その分、幕府の威力は更に凋落(ちょうらく:衰えること)します。(注3)

 

4.文久2年7月に幕府が諸藩の艦船輸入を自由化する。

  (文久1、グラバー商会を設立済み) 外国艦船の絶好の輸入市場に

  8月21日、江戸城からの帰り道、薩摩藩島津久光の一行、神奈川生麦村で英人を斬殺(生麦事件)が

  発生します。

  他方、閏8月1日、幕府は治安を回復させるべき、会津藩主・松平容保、京都守護職を命じます。

 

  10月22日、「攘夷のみ込み」なきを理由に後見職辞意を表明するも26日に撤回する。一方、朝廷は

  11月27日、勅使、三条実美(さねとみ)ら、江戸城に乗り込み「攘夷決行を迫る勅書」を差し出す。

                                                          (注4)

5.文久3年(1863)2月13日、「三奸二嬪(さんかん にひん:岩倉具視を含む)が処罰されるころ、

  2月 グラバー商会を立ち上げる

  3月8日、将軍家茂(いえもち)二条城に入城、4月20日、攘夷期限を5月10日と決め、早速、長州藩は

  外国船に砲撃する。7月2日、去年8月の生麦事件の報復でイギリス艦隊は鹿児島を砲撃する。

     (福井藩 「挙藩上洛」 の計画を中止する」)

 

  「8月18日の政変」で三条実美(さねとみ)ら三卿落ちになり「三奸二嬪(さんかん にひん:岩倉具視)

  は痛み分けとなる。

 

   12月、薩摩藩イギリスに賠償金支払う。グラバー商会は薩英戦争後,薩摩藩の軍備拡充計画に

   深く関わり始める。(注5)

 

6.元治元年(1864)4月、 英国公使オールコックの主導で四国の連合艦隊による下関遠征を計画。

   仏国公使レオン・ロッシュ着任

  7月18日~19日、【禁門の変】、慶喜禁裏御守衛総督として長州藩兵撃退の総指揮を執る。

 

  8月5日、4か国連合艦隊が下関海峡で長州藩砲台を攻撃。(イギリス・フランス・オランダ・アメリカの

  列強四国)(注6)

     (オールコック,本国からの武力行使否認の訓令を受け取る前に,下関総攻撃する)

 

7.慶応元年(1865)武器・艦船の商取引が繁盛(グラバー商会

  4月3日 アメリカの南軍は首都リッチモンドから撤退し西へ。将軍ロバート・E・リーが降伏、南北戦争

  は事実上終了。

  4月、幕府よりアームストロング砲 注文グラバー商会)、7月 英国公使ハリー・パークス着任する。

  8月、アバディーン(イギリス、スコットランド北東部にある都市)で幕府調達船 オワリ号進水。

  (グラバー商会)、9月、長州藩,摩藩と亀山社中の斡旋によりグラバー商会から鉄砲購入。(注7)

 

8.慶応2年(1866)6月7日 第二次幕長戦争はじまる。7月20日、将軍家茂、死去する。

  21日、休戦の勅命下される。

  8月20日、慶喜、徳川宗家を相続し、3カ月半後の12月5日、征夷大将軍・右近衛大将軍(うこんえの

  だいしょう:宮中の警固などを司る近衛府の長官)等の官職に任ぜられる。(注8)

     ・・・(明治天皇に代わり1年後に警護を追い出される

9.慶応3年(1867)1月9日、明治天皇践祚(せんそ:睦人親王)。10月14日、上表して政権を奉還すること

  を請う。(薩摩・長州藩主あてに討幕の密勅)10日後の10月24日、将軍職の辞表を提出する。(注9)

- - - - - - - -  - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -  - - - - - - - - - -

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 クリミア戦争・デンマーク戦争・南北戦争(アメリカ)

引用:『コトバンク』(㊟1)

引用:(㊟2)レファレンス共同データーベース http://crd.ndl.go.jp/reference/   間宮林蔵

引用:『NII学術情報ナビゲータ』 幕末期における英仏の対日外交とトマス・グラバー 杉浦裕子 (注2)

https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180130132550.pdf?id=ART0009972392

引用:≪ 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 発行所:株式会社立風書房 ≫ 年表を含む 

                                                                                                     (注3)p166 (注4)p188   

174ページ横井小楠の 「国是三論

  英吉利(イギリス)に有っては政体((せいたい: 国家の政治形態・統治形態。(君主制・貴族制・民主

  制・共和制など))一(ひとつ)に民情(みんじょう:国民の気持ち・民心)に(もと)づき、官の行う処は

  大小となく(くべつなく)必悉(ひつしつ:ことごとく)民に譲り、其の便((ビン・よすが:都合がよい・やり

  やすい)とする処に随て(したがって)其の好まざる(好きでないこと)処を強いず。

     (『横井小楠遺稿』) (一部を抜粋)

(意訳)

  「英国では、統治形態は一つで役人は区別なく、ことごとく民に譲り、よすがに従って

   好きでないことを強制されない。」

 

《添付≫ 和暦・西暦対照表 (幕末の徳川将軍)

   どの国も単独で日本に武力展開する余裕がなかったことである。


イギリス領事の報告分だけでも、1865~70年(慶応元年~明治3年)合計50万挺、価額にして約688万ドルにのぼる小銃が輸入されている。(688万ドル=172ポンド=172万両)・・・日本はよい輸出市場となりつつあった。
- - - - - - - -  - - - - - -  - - - - - - - -  - - - - - -  - - - - - - - -  
≪ 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 発行所:株式会社立風書房 ≫ 
272ページ、 第二次幕長戦争開戦(慶応2年6月7日)の直後の66年6月27日、パークスは英東洋艦隊

  司令長官キング提督とともに鹿児島を訪問した。その半年後にサトウ(英国:通訳・書記官アーネス

  ト・サトウ)が鹿児島を訪問したが、このときすでに長州藩は外国船の下関海峡の安全航行を約束

  していた。(略)
273ページ、薩・長両藩はたんに自藩の港をも開いて貿易をするという意味での自由貿易だけでなく、

  外国商社との直接取引をおこなおうと意図した点でも、(英公使)パークスや(通訳)アーネスト・サトウ

  の考えに合致していた。年表をみれば、65年(慶応元年)8月26日、鹿児島藩家老新納 刑部 ( にいろ

   ぎょうぶ ) 、ブリュッセルで仏人モンブランと貿易商社設立の契約に調印とある。
274ページ、イギリスでは大量の武器の買い付けもしている。「御商法買入物」の目録をみると、小銃300

  挺(てい・ちょう)、右同500挺、右同1500挺、騎兵銃50挺、大砲隊銃200挺、合2250挺(内400挺宇和

  島方見合)、常短小銃200挺、短銃25挺および短銃30挺、本(元)込小銃6挺、右同一種6挺と数字が

  記録されている。
   当時、欧米の軍隊では先込(口装式)ライフルから元込(底装式)ライフルへと新式小銃への換装が

  進行中であったので、旧式化しつつある口装式ライフルの中古品の売り込み市場として日本はよい

  輸出市場となりつつあった。


  1862年(文久2年)7月に幕府が諸藩の艦船輸入を自由化すると、日本は外国艦船の絶好の輸入

  市場となったが、66年(慶応2年)( 6月、第二次長州戦争)から68年(慶応4年)( 1月3日、鳥羽

  伏見の戦い)までが輸入のピークで、そのうち長崎での輸入のピークは66(慶応2年)~7年(慶応3

  年)であり、イギリス人のグラバー商会がその多くを手掛けている。

  『明治維新とイギリス商人』によれば、「輸入武器の中心は小銃で、イギリス領事の報告分だけでも、

  1865~70年(慶応元年~明治3年)に長崎で17万2000挺、(価額241万ドル)、横浜で32万8600挺

  (価額447万ドル)、合計50万挺、価額にして約688万ドルにのぼる小銃が輸入されている」という。
   維新史上グラバーの名を有名にしたのは、幕府に敵対する長州藩の依頼に応じて、薩磨藩名義で

  ミニー銃4300挺・ゲヴェール銃3000挺を輸入して販売(9万2400両=9万2400ポンド)したことで、これ

  なくして第二次幕長戦争における長州藩の勝利はありえなかったであろう。

   他方、幕府はこうした商社貿易をつうじての艦船・武器輸入もおこなったが、ロッシュ公使をつうじて

  の日仏政府間の政治的・経済的むすびつきをつよめる方向にすすんだ。よく例に引かれるが、ロッシ

  ュは、将軍となった慶喜に、「蝦夷地を担保として外債を英仏両国に募り、軍備を充実せしむべし」と

  すすめたが、慶喜は耳をかさなかったという話もある (『徳川慶喜公伝』)。
   慶喜がロッシュの建言を積極的にうけいれたのは、政治制度と軍制改革の面であった。ただ、制度

  は別に、重用した人材からいえば、従来の慶喜の政治路線を修正したものとはいえなかった。

   (『徳川慶喜公伝』)は記している。
- - - - - - - -  - - - - - -  - - - - - - - -  - - - - - -  - - - - - - - -  
305ページむすび 
  会津藩の軍事制度は決定的に時代遅れであった。慶応4年(1868年)2月3日に天皇親征の

  (みことのり)がだされ、5日に慶喜が松平慶永をつうじて恭順謹慎の意を表明したあと、7日にいた

  り、やっと鳥羽・伏見の敗戦の教訓に学んで、洋式軍事訓練を開始した。(略) 
306ページ、2月8日、松平容保(かたやす)は江戸登城を禁じられ、

             藩士を帰国させるよう命じられた。  (略)
  鳥羽伏見の敗戦後に江戸に帰ってきた藩士らが、(『引用』 『会津戊辰戦史』
    「わが公及び藩相に迫りて曰く、伏見戦争の兵機を阻害し、今日に至らしめたるは皆彼(神保 )が

     罪なり、彼の奸族を誅戮(ちゅうりく:罪ある者を殺すことせざるべからず二重否定で意味を強

    めて)…しなければならない…せよ)と、過激の壮士(そうし:血気盛んな男)等相共に(神保 )

    修理を刺さんとするに至る、我が公は修理がその害に遭わんことを虜りて(おもんばかり:周囲の

    状況などをよくよく考える。)国に帰るを止め、和田倉邸(会津藩江戸藩邸上屋敷)に幽囚(ゆうしゅ

    う:捕らえられて、閉じこめられること。)す、時に勝安芳(海舟)之をききその禍に罹らん(かから

    ん)ことを察し、慶喜公に告げ公命を以て修理を召さんとするや、壮士等是の(この)ことを聞き

    更に紛擾(ふんじょう:争いなどで、もめること。ごたごた)し其の処決(しょけつ:きっぱりと処置を

    決めること)促して止まず、修理(また)幽室中より婁々(ろうろう:ひきよせる)書を呈して尋問を

    求むれども(ショウ・かえりみる)せられず、此の日を以て三田(会津藩下屋敷)に檻送(かんそ

    う:罪人・囚人などを檻おりに入れて送ること)せられ遂に死を賜う

      という結果になった。いわば(家老)神保修理(じんぽ しゅり)を血祭りにあげることにより、

      会津藩は引くに引けない立場へと、自藩を追いつめていった。
- - - - - - - -  - - - - - -  - - - - - - - -  - - - - - -  - - - - - - - -  
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 神保 修理(じんぼ しゅり:長輝(- ながてる)
慶応2年(1866年)、容保は長輝の優れた国際感覚を買い長崎に派遣。藩兵組織と教練方法を西洋化

すべく、長輝に視察を命じている。その改革によって教練を受けて生まれたのが、白虎隊である。
鳥羽・伏見の戦いに際して
慶応3年(1867年)10月、大政奉還によって風雲急を告げ、長輝もまた長崎から大坂へ帰還。12月の

王政復古によって事態の収拾が不能となると、長輝は高揚する主戦論に対し不戦恭順論を前将軍・

徳川慶喜に進言。江戸に帰り善後策を練ることを強く説いた。これにより、会津藩の内部において主戦

派急先鋒である佐川官兵衛らと激しく対立した。
慶応4年(1868年)1月、結局戦いは避けられず、鳥羽・伏見の戦いが勃発。長輝は軍事奉行添役と

して会津藩の軍権を持ち出陣。しかし、旧幕府側は兵力で圧倒しながら戦況が思わしくないことに加え、旗色をうかがっていた鳥取藩などの寝返りによって不利な状況に転じたことに慄然(りつぜん:恐ろしさにぞっとするさま)となり、挙句に新政府側に錦の御旗が翻り、朝敵となることを恐れた長輝は慶喜と

容保に恭順を進言した。しかし折悪く、慶喜以下、容保までが長輝を残し大坂城を抜け出して江戸へ

脱出したことで急速に戦意を喪失した旧幕府軍は崩壊し、あっさりと官軍に勝利をもたらす結果となった。
悲運の最期
総大将が前代未聞の戦線離脱をした要因は、長輝が将軍に恭順を進言したことにはじまると会津藩内で一方的に意見が上がり、ついには全藩からも鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人との烙印までも押されてしまった長輝は和田倉上屋敷に幽閉される。

会津藩内部では、長輝の処罰を容保に迫る動きが加速する。長輝の窮地を救おうと親交のあった旧幕臣の勝海舟は、身柄を幕府に引き渡すよう慶喜を通じて画策したが、これが裏目に出て抗戦派の怒りを買った。長輝を処断すべしと動いた有志らの陰謀により三田下屋敷に移送された長輝は容保との謁見も許されず、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられた
君命と偽った命(メイ)であると知りながらも、是に従うのが臣である、と潔く自刃する。
  「帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり」  が辞世と伝えられている。
- - - - - - - -  - - - - - -  - - - - - - - -  - - - - - -  - - - - - - - -  
『引用』 国立情報学研究所  https://ci.nii.ac.jp   
  幕末期における英仏の対日外交とトマス・グラバー 杉浦裕子
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180130132550.pdf?id=ART0009972392  
3.19世紀後半の英仏の外交状況
日本の幕末期,西洋の列強諸国はどのような立場から日本に接近したのであろうか。ここではイギリスとフランスを中心に概観する(2)。
まずイギリスは,1850年代までにインドを完全植民地化し,清国を二度のアヘン戦争を通して半植民地化した。しかし,インドや清国ではセポイの反乱や太平天国の乱などの内乱が起き,オーストラリアや

カナダと合わせて植民地の維持に多大な費用がかかることから,イギリスは次第に植民地拡大よりも,自由貿易主義による利益のみを追求する政策に転換した。これにより1860年代から70年代は,非拡張主義,小英国主義がとられ,この時期がちょうど日本の幕末・維新期にあてはまる。

イギリスはアジア地域以外でも幾つかの戦争に加担するが,その中でも重要なのがロシアと戦ったクリミア戦争(1854‐56である。クリミア戦争はバルカン半島やクリミア半島だけでなく,ロシア極東地域のカムチャツカ周辺にも波及した。ちょうどこれがロシアのプチャーチンが長崎で開国交渉をしていた

時期と重なり,英国艦隊も後を追うように長崎に入港し,日本に局外中立の立場を約束させた。こうして幕府は,ペリー来航後の開国交渉の中で,列強諸国に対する等距離外交のスタンスを確立させていくこととなった。(略)

ちょうど小英国主義をとなえた「外圧の谷間」の時期にあったことである。そしてもう一つは,植民地内での反乱鎮圧やクリミア戦争にヨーロッパ諸国の軍事力の大部分が費やされ,またアメリカも南北戦争が勃発して,どの国も単独で日本に武力展開する余裕がなかったことである。(略)

パークスの鹿児島訪問
パークスが鹿児島訪問を決めたのは,この時点で彼が討幕派を積極的に支持するようになっていたからではない。同年6月には外務大臣クラレンドンから日本の内政に干渉せず中立を守りながら貿易の発展のみを求める訓令を受け取っていたし,パークス自身も倒幕という概念には慎重であったことから,彼としては薩摩と結託するためではなくむしろ内政不干渉の立場を説明するために鹿児島および宇和島を訪問したのである。

        三度目の相容れない関係、土佐藩と薩摩藩
 - - - - - - - - - - - - - - - - - -
西郷曰く、「土佐藩が、「勤幕か勤皇か」、つまり敵なのか味方なのか分からない
- - - - - - - - -  徳川慶喜、大阪城へ移る  - - - - - - - - -  - - - - 
≪【幕末維新 消された歴史】 安藤優一郎 発行所:日本経済新聞出版社(日経文芸文庫)≫ 
192ページ
、薩摩藩への批判が高まって新政府が瓦解し、再び慶喜が大政を委任されるような状況に

  戻ってしまうのではないか。
  突出しすぎて孤立化し、長州藩まで諸藩から袋叩きに遭うことを恐れたのである。孤立化への不安

  は、西郷も共有していた。 次の書状などは、西郷の焦りをまさしく物語っている。
12月28日蓑田伝兵衛((みのだ でんべえ)・・・(島津久光の側役となり西郷隆盛,大久保利通らとの

                               連絡にあたった。)

    土州(どしゅう)の論、勤幕(きんばく)か勤皇(きんのう)か訳が分かり申さず候。肥後の溝口

    孤雲 (こうん:熊本藩の家老で,財政・兵制改革につくした)、津田 山三郎((信弘(読み)つだ 

    のぶひろ:肥後熊本藩士。江戸,京都の留守居役。) 並びに高崎左京(正風(たかさき まさかぜ:

    薩摩藩士・武力討幕に反対)、この三人は参与、戸田大和守(忠至(とだただゆき:高徳藩主(たか

    とくはん):禁裏付頭取・若年寄との兼任)は議定に仰せ付けられ候様、容同侯より御建言

    (けんげん)相成り、決して参与には御聞かせなく、議定計り(ばかり)にて相決せられ候様御

    申し建て、直様(すぐさま)相運び候儀に御座候 

       (『西郷隆盛全集 第二巻』西郷隆盛全集編集委員会、大和書房、1977年

193ページ、薩土盟約の破約以来、土佐藩との足並みが揃っていなかったことは否定できない。子御所

  会議では、山内容堂が岩倉や大久保と慶喜の処遇を巡って舌戦を繰り広げたほどだ。だから、西郷

  は土佐藩が、「勤幕か勤皇か」、つまり敵なのか味方なのか分からないとまで述べたわけである。
   さらに、この頃、西郷の不信感を強めることが起きた。容堂の推薦により、熊本藩の溝口孤雲

  (こうん)と津田 山三郎 (やまさぶろう)が自分と同じ参与に任命されたのだ。(略)

  西郷・大久保を封じ込めるための手段として、三人が参与に起用されたことは想像にたやすい。

  それも参与の意見を聞こうとせずに、議定たちの間で勝手に決めてしまったと不満を(あらわ)に

  している。包囲網が張られつつあるという西郷の焦りが滲(にじ)み出ている。


- - - - - - - - - (再 録) - - - - - - - - - 
2018年11月30日 覇道と王道 (1) 官軍は方便(王政復古)
197ページ、 4 勝てば官軍   【 江戸騒乱
  慶喜の新政府入りが内定した頃、江戸では、徳川家と薩摩藩との間で戦争が始まる。慶応3年 

  (1867)12月25日のことである。慶応元年(1865)5月に14代将軍徳川家茂が江戸を進発して以来、

  江戸は将軍不在のお膝元となっていた。将軍が江戸城を不在にする間に、将軍は家茂から慶喜に

  交替した。さらに、慶喜は大政を朝廷に奉還して幕府が消滅する。将軍職も辞職してしまう。間もな

  く、王政復古の大号令によって新政府が樹立された。政局の舞台は完全に上方に移っていた。
198ページ、一方、王政復古の直前の11月頃(㊟ 11月15日京都市中で坂本龍馬暗殺される)より、

  江戸の治安は極度に悪化する。市中で強盗騒ぎが頻発していたのだ。日本橋は江戸のビジネス街と

  して、幕府の御用商人が数多く店を構える街である。
  11月14日、その一人である両替商播磨屋新右衛門が、1万5000両もの大金を強奪される事件が起き

  た。幕府の年貢米を扱う蔵前の札差(ふださし)商人伊勢屋宅にも、武装集団が押しかけて3万両を

  強奪した。
   こうした強盗騒ぎが江戸の各所で起きていた。強盗たちが根城としたのが薩摩藩の三田屋敷

  現在のJR山手線田町駅近くに広がっていた同藩の上屋敷だ。江戸市中を騒がせただけではない。

  関東各地にも出没し、騒乱を引き起こしていた。

  11月29日、三田屋敷から下野国(しもつけ:(ブログ主)現在の栃木県界隈)に向かった浪士たちは、

  尊王攘夷を唱えて出流山(いずるさん:現・栃木県栃木市)で挙兵。近隣から同市が集まり、たちまち

  一大勢力となった。 しかし、幕府の命により出兵した近隣諸藩や、関東取締出役(しゅつやく)が

  組織した農兵隊の攻撃を受け、12月13日壊滅する(㊟ 12月12日、慶喜二条城から大坂城に退去)。

   江戸まで逃げ戻れたのは、僅か20名ほどだった。

  相模では愛甲郡萩野村(現・神奈川県厚木市)の山中陣屋を焼き払った。甲州では甲府城の攻撃を

  はかるも、事前に露見し、未遂に終わった。江戸だけでなく、関東一帯が騒然とした状況に陥って

  いく。幕府の後方攪乱(こうほうかくらん)を狙う薩摩藩士たちが、裏で糸を引いていた。
199ページ、【薩摩藩邸焼き討ち
  そうしたなか、江戸城でも火の手があがる。12月23日の早朝に、二の丸御殿から出火したのである。

  二の丸御殿には13代将軍家定の御台所(みだいどころ)天璋院が住んでいた。薩摩藩から将軍家に

  嫁いだ女性であり、奥女中には薩摩出身の者もいた、このため、薩摩藩の放火ではないかという噂

  が流れ、江戸市中の動揺はさらに高まる。
   同日夜、今度は市中取り締まりの任にあたっていた庄内藩(現在の山形県鶴岡市)酒井家の屯所

  に鉄砲が打ち掛けられた。酒井家、同家に属していた新懲組(しんちょうぐみ)や幕府歩兵も応戦し、

  浪士側は三田屋敷に逃げ込む

  ここに至り、江戸城の留守を預かる徳川家首脳部は庄内藩などに命じて、25日早朝より三田屋敷を

  包囲する。同藩屯所に発砲して三田屋敷に逃げ込んだ者の身柄引き渡しを要求したのだ。しかし、

  交渉は決裂して戦闘状態に入り、三田屋敷は焼失する。ついに、徳川家は薩摩藩と交戦状態に

  入った。 同日、大目付の滝川具挙(ともあき)が歩兵を連れて軍艦に乗り、大阪に向かう。薩摩藩邸

  焼き討ちを伝えるためである。
200ページ、滝川が大阪に入ったのは12月28日。当然ながら城内は沸き立つ。 (:二条城にいた徳川

                                                軍と会津藩士・桑名藩士)
  松平春嶽側近の中根雪絵は次のように語っている。

    大目付滝川播磨守殿其外(そのほか)、江戸表(おもて)より兵隊と共に汽船にて着坂(ちゃくは

    ん)これ有り。東地(あずまち)薩藩(さつはん)之悪説、且(かつ)甘五日薩邸(さつてい)攻撃之

    始末等敷演(ふえん:広く説き述べること)これ有り。此表之奸状(かんじょう:わるがしこい。)を

    合わせて伐薩(ばつさつ:薩摩を討つ)之儀を主張し、下地除姦之説も起りたるを、内府公御恭順

    の御誠意を以て(もって)、無理無理ながら御鎮圧成し置かれたる坂地麾下(はんちきか:大阪の

    地の指揮下の部下)之人心、一挙に煽動(せんどう:あおり誑惑(きょうわく:人をだまし惑わす

    こと)せられしかば、満城立地(大阪城内)に鼎沸(ていふつ:議論が盛んにわきたつこと)之勢い

    となり、憤慨激烈(ふんがいげきれつ)之党奮興(ふんこう:ふるい立つこと)して、板閣(ばんかく:

    老中板倉勝静)その他を圧迫説倒し、事遂(こと つい)に敗れに帰し、形勢一変、専ら(もっぱら)

    伐薩 除姦(ばっさつ じょかん)の兵事に及び、内府公といえども如何と為し給うべからざるに至り

         しなりとぞ。天、徳川氏に(さいわい)せず。嗚呼(ああ)。「引用」(『再夢紀事』
          ▲ 【下地】げ じ -ぢ(下等の地位。)▲ 【除姦】じょかん(自分の都合をはかった不正を除く


  薩摩討伐を唱える滝川に刺激され、城内は興奮の坩堝(るつぼ)となったようだ。(略)
  慶喜と薩摩藩の間に立って、戦争にならないよう奔走(ほんそう:かけ回って、物事がうまく運ぶように

  努力すること。)していた春嶽の努力は、ついに水泡に帰する。残念でならないとう中根の気持ちが

  行間(ぎょうかん)から滲み出ている。

201ページ12月23日・24日、この案が総裁・議定・参与の三職会議で、納地問題は期日も数字も明記

  されず調査の上で「天下之公論」をもって確定するという線で決着した。12月28日、慶喜はその旨が

  記された沙汰書に請書(うけしょ)を提出した。
  あとは、慶喜が御所に参内すれば、慶喜が議定に任命される予定だった
  この日、慶喜の新政府入りが内定したわけだが、(く:偶然にも)しくも同日、薩摩藩邸焼き討ちの

  報が入る。
205ページ慶応4年(1868)元日。徳川家との戦争危機を感じた岩倉具視は福井藩の中根雪江に

  対して、慶喜が上京すれば議定に就任させる意思を伝えている。何としてでも、戦争を回避したいと

  いうのだろう。翌2日に、中根は岩倉のもとを訪れ、慶喜の御所参内について打ち合わせている。
   ところが、同じ日、大坂湾で徳川家は薩摩藩と交戦状態に入った。榎本武揚(たけあき)が艦長を

  勤める軍艦開陽が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦に砲撃を加えたのだ
206ページ、海だけではない。陸でも戦争が始まろうとしていた。同日、大坂城から続々と、幕兵などが

  京都へ進軍していく。
  江戸からやって来た瀧川具挙(ともたか)は、慶喜が起草した「討薩の表」(とうさつのひょう)を携え、

  京都南郊の上鳥羽に向かった。(略)
207ページ1月3日には、大坂に駐在している各国公使に薩摩藩討伐の意思を伝えている。

  慶喜は明らかに、薩摩藩との戦争に踏み切った。
- - - - - - - - - (『大久保利通伝』)- - - - - - - - - - - - - - - - - -
≪ 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 発行所:株式会社立風書房 ≫  
300ページ慶応4年(1868)1月3日は、三職悉く(ことごとく)宮中に在り、大久保利通は、西郷と共に

  頻り(しきり)に討幕の英断を主張せしが、之を賛成するものは、僅かに薩・長の参与、及び公卿等

  数人にして、多くは両端(りょうたん:どっちつかずの態度) を抱き、三々五々各所に集り、利通・西郷

  等に対しては、殆ど言葉(ことば)を交うる(まじうる)者もなき形勢にして、後藤の如きは、岩倉

  迫り、薩・長征討の勅書を請いて、幕兵の憤激(ふんげき:怒りを爆発させること)を宥む(なだむ:

  事が荒だたないようにとりなす)べしと建言せしと云う、愈々(いよいよ)、開戦せりとの報達するや、

  洛中洛外(らくちゅう らくがい:京都の市街と郊外)は人心紛紛(ふんぷん:入り乱れてまとまりのない

  さま) たりしが、会々(たまたま)、市中に火を失し、(ほむら:怒りなどの激しい感情をたとえていう

  語烟天に漲り、(えんてんに みなぎる:炎が空一面をおおう)満都騒然(あたかも)湧くが如く、

  朝廷に於いても、人心恟々(きょうきょう:おそれてふるえあがるさま)として、殆ど皆色を失えり、

  (のち)官軍奮戦勇闘して、遂に幕軍を撃退せりとの報到達するに及び、宮中の形勢(ようやく)

  変じたり。 (『大久保利通伝』