覇道と王道(36)官軍は方便(王政復古)、幕府の対応 10 慶応3年- ③ | 個人資産を守れ!アカウントアグリゲーション考

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追加(2018.01.25)・・・やって後悔するか!!!、やらずに後悔するか!!!

        三度目の相容れない関係、土佐藩と薩摩藩
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西郷曰く、「土佐藩が、「勤幕か勤皇か」、つまり敵なのか味方なのか分からない
- - - - - - - - -  徳川慶喜、大阪城へ移る  - - - - - - - - -  - - - - 
≪【幕末維新 消された歴史】 安藤優一郎 発行所:日本経済新聞出版社(日経文芸文庫)≫ 
192ページ
、薩摩藩への批判が高まって新政府が瓦解し、再び慶喜が大政を委任されるような状況に

  戻ってしまうのではないか。
  突出しすぎて孤立化し、長州藩まで諸藩から袋叩きに遭うことを恐れたのである。孤立化への不安

  は、西郷も共有していた。 次の書状などは、西郷の焦りをまさしく物語っている。
12月28日蓑田伝兵衛((みのだ でんべえ)・・・(島津久光の側役となり西郷隆盛,大久保利通らとの

                               連絡にあたった。)

    土州(どしゅう)の論、勤幕(きんばく)か勤皇(きんのう)か訳が分かり申さず候。肥後の溝口

    孤雲 (こうん:熊本藩の家老で,財政・兵制改革につくした)、津田 山三郎((信弘(読み)つだ 

    のぶひろ:肥後熊本藩士。江戸,京都の留守居役。) 並びに高崎左京(正風(たかさき まさかぜ:

    薩摩藩士・武力討幕に反対)、この三人は参与、戸田大和守(忠至(とだただゆき:高徳藩主(たか

    とくはん):禁裏付頭取・若年寄との兼任)は議定に仰せ付けられ候様、容同侯より御建言

    (けんげん)相成り、決して参与には御聞かせなく、議定計り(ばかり)にて相決せられ候様御

    申し建て、直様(すぐさま)相運び候儀に御座候 

       (『西郷隆盛全集 第二巻』西郷隆盛全集編集委員会、大和書房、1977年

193ページ、薩土盟約の破約以来、土佐藩との足並みが揃っていなかったことは否定できない。子御所

  会議では、山内容堂が岩倉や大久保と慶喜の処遇を巡って舌戦を繰り広げたほどだ。だから、西郷

  は土佐藩が、「勤幕か勤皇か」、つまり敵なのか味方なのか分からないとまで述べたわけである。
   さらに、この頃、西郷の不信感を強めることが起きた。容堂の推薦により、熊本藩の溝口孤雲

  (こうん)と津田 山三郎 (やまさぶろう)が自分と同じ参与に任命されたのだ。(略)

  西郷・大久保を封じ込めるための手段として、三人が参与に起用されたことは想像にたやすい。

  それも参与の意見を聞こうとせずに、議定たちの間で勝手に決めてしまったと不満を(あらわ)に

  している。包囲網が張られつつあるという西郷の焦りが滲(にじ)み出ている。


- - - - - - - - - (再 録) - - - - - - - - - 
2018年11月30日 覇道と王道 (1) 官軍は方便(王政復古)
197ページ、 4 勝てば官軍   【 江戸騒乱
  慶喜の新政府入りが内定した頃、江戸では、徳川家と薩摩藩との間で戦争が始まる。慶応3年 

  (1867)12月25日のことである。慶応元年(1865)5月に14代将軍徳川家茂が江戸を進発して以来、

  江戸は将軍不在のお膝元となっていた。将軍が江戸城を不在にする間に、将軍は家茂から慶喜に

  交替した。さらに、慶喜は大政を朝廷に奉還して幕府が消滅する。将軍職も辞職してしまう。間もな

  く、王政復古の大号令によって新政府が樹立された。政局の舞台は完全に上方に移っていた。
198ページ、一方、王政復古の直前の11月頃(㊟ 11月15日京都市中で坂本龍馬暗殺される)より、

  江戸の治安は極度に悪化する。市中で強盗騒ぎが頻発していたのだ。日本橋は江戸のビジネス街と

  して、幕府の御用商人が数多く店を構える街である。
  11月14日、その一人である両替商播磨屋新右衛門が、1万5000両もの大金を強奪される事件が起き

  た。幕府の年貢米を扱う蔵前の札差(ふださし)商人伊勢屋宅にも、武装集団が押しかけて3万両を

  強奪した。
   こうした強盗騒ぎが江戸の各所で起きていた。強盗たちが根城としたのが薩摩藩の三田屋敷

  現在のJR山手線田町駅近くに広がっていた同藩の上屋敷だ。江戸市中を騒がせただけではない。

  関東各地にも出没し、騒乱を引き起こしていた。

  11月29日、三田屋敷から下野国(しもつけ:(ブログ主)現在の栃木県界隈)に向かった浪士たちは、

  尊王攘夷を唱えて出流山(いずるさん:現・栃木県栃木市)で挙兵。近隣から同市が集まり、たちまち

  一大勢力となった。 しかし、幕府の命により出兵した近隣諸藩や、関東取締出役(しゅつやく)が

  組織した農兵隊の攻撃を受け、12月13日壊滅する(㊟ 12月12日、慶喜二条城から大坂城に退去)。

   江戸まで逃げ戻れたのは、僅か20名ほどだった。

  相模では愛甲郡萩野村(現・神奈川県厚木市)の山中陣屋を焼き払った。甲州では甲府城の攻撃を

  はかるも、事前に露見し、未遂に終わった。江戸だけでなく、関東一帯が騒然とした状況に陥って

  いく。幕府の後方攪乱(こうほうかくらん)を狙う薩摩藩士たちが、裏で糸を引いていた。
199ページ、【薩摩藩邸焼き討ち
  そうしたなか、江戸城でも火の手があがる。12月23日の早朝に、二の丸御殿から出火したのである。

  二の丸御殿には13代将軍家定の御台所(みだいどころ)天璋院が住んでいた。薩摩藩から将軍家に

  嫁いだ女性であり、奥女中には薩摩出身の者もいた、このため、薩摩藩の放火ではないかという噂

  が流れ、江戸市中の動揺はさらに高まる。
   同日夜、今度は市中取り締まりの任にあたっていた庄内藩(現在の山形県鶴岡市)酒井家の屯所

  に鉄砲が打ち掛けられた。酒井家、同家に属していた新懲組(しんちょうぐみ)や幕府歩兵も応戦し、

  浪士側は三田屋敷に逃げ込む

  ここに至り、江戸城の留守を預かる徳川家首脳部は庄内藩などに命じて、25日早朝より三田屋敷を

  包囲する。同藩屯所に発砲して三田屋敷に逃げ込んだ者の身柄引き渡しを要求したのだ。しかし、

  交渉は決裂して戦闘状態に入り、三田屋敷は焼失する。ついに、徳川家は薩摩藩と交戦状態に

  入った。 同日、大目付の滝川具挙(ともあき)が歩兵を連れて軍艦に乗り、大阪に向かう。薩摩藩邸

  焼き討ちを伝えるためである。
200ページ、滝川が大阪に入ったのは12月28日。当然ながら城内は沸き立つ。 (:二条城にいた徳川

                                                軍と会津藩士・桑名藩士)
  松平春嶽側近の中根雪絵は次のように語っている。

    大目付滝川播磨守殿其外(そのほか)、江戸表(おもて)より兵隊と共に汽船にて着坂(ちゃくは

    ん)これ有り。東地(あずまち)薩藩(さつはん)之悪説、且(かつ)甘五日薩邸(さつてい)攻撃之

    始末等敷演(ふえん:広く説き述べること)これ有り。此表之奸状(かんじょう:わるがしこい。)を

    合わせて伐薩(ばつさつ:薩摩を討つ)之儀を主張し、下地除姦之説も起りたるを、内府公御恭順

    の御誠意を以て(もって)、無理無理ながら御鎮圧成し置かれたる坂地麾下(はんちきか:大阪の

    地の指揮下の部下)之人心、一挙に煽動(せんどう:あおり誑惑(きょうわく:人をだまし惑わす

    こと)せられしかば、満城立地(大阪城内)に鼎沸(ていふつ:議論が盛んにわきたつこと)之勢い

    となり、憤慨激烈(ふんがいげきれつ)之党奮興(ふんこう:ふるい立つこと)して、板閣(ばんかく:

    老中板倉勝静)その他を圧迫説倒し、事遂(こと つい)に敗れに帰し、形勢一変、専ら(もっぱら)

    伐薩 除姦(ばっさつ じょかん)の兵事に及び、内府公といえども如何と為し給うべからざるに至り

         しなりとぞ。天、徳川氏に(さいわい)せず。嗚呼(ああ)。「引用」(『再夢紀事』
          ▲ 【下地】げ じ -ぢ(下等の地位。)▲ 【除姦】じょかん(自分の都合をはかった不正を除く


  薩摩討伐を唱える滝川に刺激され、城内は興奮の坩堝(るつぼ)となったようだ。(略)
  慶喜と薩摩藩の間に立って、戦争にならないよう奔走(ほんそう:かけ回って、物事がうまく運ぶように

  努力すること。)していた春嶽の努力は、ついに水泡に帰する。残念でならないとう中根の気持ちが

  行間(ぎょうかん)から滲み出ている。

201ページ12月23日・24日、この案が総裁・議定・参与の三職会議で、納地問題は期日も数字も明記

  されず調査の上で「天下之公論」をもって確定するという線で決着した。12月28日、慶喜はその旨が

  記された沙汰書に請書(うけしょ)を提出した。
  あとは、慶喜が御所に参内すれば、慶喜が議定に任命される予定だった
  この日、慶喜の新政府入りが内定したわけだが、(く:偶然にも)しくも同日、薩摩藩邸焼き討ちの

  報が入る。
205ページ慶応4年(1868)元日。徳川家との戦争危機を感じた岩倉具視は福井藩の中根雪江に

  対して、慶喜が上京すれば議定に就任させる意思を伝えている。何としてでも、戦争を回避したいと

  いうのだろう。翌2日に、中根は岩倉のもとを訪れ、慶喜の御所参内について打ち合わせている。
   ところが、同じ日、大坂湾で徳川家は薩摩藩と交戦状態に入った。榎本武揚(たけあき)が艦長を

  勤める軍艦開陽が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦に砲撃を加えたのだ
206ページ、海だけではない。陸でも戦争が始まろうとしていた。同日、大坂城から続々と、幕兵などが

  京都へ進軍していく。
  江戸からやって来た瀧川具挙(ともたか)は、慶喜が起草した「討薩の表」(とうさつのひょう)を携え、

  京都南郊の上鳥羽に向かった。(略)
207ページ1月3日には、大坂に駐在している各国公使に薩摩藩討伐の意思を伝えている。

  慶喜は明らかに、薩摩藩との戦争に踏み切った。
- - - - - - - - - (『大久保利通伝』)- - - - - - - - - - - - - - - - - -
≪ 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 発行所:株式会社立風書房 ≫  
300ページ慶応4年(1868)1月3日は、三職悉く(ことごとく)宮中に在り、大久保利通は、西郷と共に

  頻り(しきり)に討幕の英断を主張せしが、之を賛成するものは、僅かに薩・長の参与、及び公卿等

  数人にして、多くは両端(りょうたん:どっちつかずの態度) を抱き、三々五々各所に集り、利通・西郷

  等に対しては、殆ど言葉(ことば)を交うる(まじうる)者もなき形勢にして、後藤の如きは、岩倉

  迫り、薩・長征討の勅書を請いて、幕兵の憤激(ふんげき:怒りを爆発させること)を宥む(なだむ:

  事が荒だたないようにとりなす)べしと建言せしと云う、愈々(いよいよ)、開戦せりとの報達するや、

  洛中洛外(らくちゅう らくがい:京都の市街と郊外)は人心紛紛(ふんぷん:入り乱れてまとまりのない

  さま) たりしが、会々(たまたま)、市中に火を失し、(ほむら:怒りなどの激しい感情をたとえていう

  語烟天に漲り、(えんてんに みなぎる:炎が空一面をおおう)満都騒然(あたかも)湧くが如く、

  朝廷に於いても、人心恟々(きょうきょう:おそれてふるえあがるさま)として、殆ど皆色を失えり、

  (のち)官軍奮戦勇闘して、遂に幕軍を撃退せりとの報到達するに及び、宮中の形勢(ようやく)

  変じたり。 (『大久保利通伝』