レフ・トロツキー【敵督】 出典:フリー百科事典Wikipedia 

 

レフ・トロツキー

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ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦の政治家

レフ・トロツキー

Лев Троцкий

Bundesarchiv Bild 183-R15068, Leo Dawidowitsch Trotzki.jpg

レフ・トロツキー(1929年)

生年月日 1879年11月7日
出生地 Flag of the Russian Empire (black-yellow-white).svg ロシア帝国、ヘルソン県
没年月日 1940年8月21日(60歳没)
死没地 メキシコの旗 メキシコ、メキシコシティ
現職 政治家
編集者
所属政党 ロシア社会民主労働党
スイス社会民主党
ソビエト連邦共産党
配偶者 アレクサンドラ・ソコロフスカヤ(Aleksandra Sokolovskaya)
ナターリア・セドーヴァ(Natalia Sedova)
サイン Leon Trotsky Signature.svg

ペトログラード・ソビエト議長

在任期間 1917年10月8日 - 11月8日

ロシア共和国外務人民委員

在任期間 1917年11月8日 - 1918年3月13日

ソビエト連邦の旗ソビエト共和国革命軍事会議議長

在任期間 1918年9月6日 - 1925年1月26日

ソビエト連邦の旗ソビエト連邦陸海軍人民委員

在任期間 1918年8月29日 - 1925年1月26日
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トロツキズム
第四インターナショナルのロゴ

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レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー(ロシア語: Лев Давидович Троцкий、発音例: リィエーフ・ダヴィーダヴィチ・トローツキー、ラテン文字転写の例:Lev Davidovich Trotsky、1879年10月26日(グレゴリオ暦11月7日) - 1940年8月21日)は、ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家、ボリシェヴィキの革命家、マルクス主義思想家。

本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン(ロシア語: Лев Давидович Бронштейн, ラテン文字転写: Lev Davidovich Bronstein)。晩年は後妻ナターリアの姓を取ってセドフロシア語: Лев Давидович Седов, ラテン文字転写: Lev Davidovich Sedov)に改姓した。ただし、一般に「レフ・セドフ」という場合は、トロツキーとナターリアの間に生まれた長男(愛称「リョーヴァ」)を指す。「レフ」は英語の「レオン」と同じで、「ライオン」という意味の名前である。英語風の綴りにもとづいたレオン・トロツキー(Leon Trotsky)の表記も多い。また、「トロツキー」という表記に関しては、日本の場合、古い文献や高齢の共産主義者などで「トロッキー」という表現も多く使われている(関連として、「トロッキスト」、「トロッキズム」という表現もある)。

 

目次

1概要
2生涯
2.1生い立ち
2.2革命活動と流刑
2.2.11896年 – 1902年
2.3最初の海外移住と2度目の結婚
2.3.11902年 – 1903年
2.4ロシア革命
2.5失脚
2.6晩年
2.7日本への亡命計画
3逸話
4著作
5入手しやすい日本語資料
6脚注
7関連項目
8外部リンク

概要

1917年のロシア十月革命における指導者の1人であり、ウラジーミル・レーニンに次ぐ中央委員会の一員であった。赤軍の創設者および指揮官として、ソビエト連邦の初期の頃には外務人民委員(外相)として外交問題を担当。ソ連共産党政治局員の1人でもあった。

1920年代、政策を巡って政治局内の多数派と対立、「左翼反対派」を結成した。しかし、権力闘争に敗れたトロツキーはソ連共産党を除名された。初期のトロツキーは、ヨーロッパのファシズムに対する赤軍による介入の提唱者であり[1]、1930年代にソ連とドイツが結んだ和平協定(en:Soviet–German relations before 1941)にも反対している。

メキシコに亡命したトロツキーは第四インターナショナルを結成し、官僚制に反対し続けたが、1940年、スターリンの刺客ラモン・メルカデルによって同地で暗殺された[2]。トロツキーおよびその継承者の思想を、トロツキズムと呼ぶが、この語自体は、対立者によって1905年の早い時期に作られた造語である。その意味するものも、1905年革命、その後のロシア社会民主労働党内での対立、1917年革命、スターリン派による権力掌握、といった時期によって変化してきた。

文芸評論家でもあり、イプセン論もある。

イスラエルの極右活動家ダヴィド・アクセルロッドは、トロツキーの曽孫である。

生涯

生い立ち

8歳のトロツキー(1888年)

トロツキー(1897年)

1879年、ロシア帝国時代のウクライナ南部のヘルソン県エリザヴェトグラード近郊の、最寄の郵便局から15マイル離れた小さな村ヤノフカにて父ダヴィード(1847年 – 1922年)と母アンナの第5子として生まれる。両親はユダヤ系の富農であった。父のダヴィードは、粘り強く、企業家精神に富む家長であり、ウクライナ・ヘルソン県のボーブリネツという小さな町の近くにある土地100ヘクタールを退役軍人大佐のヤノフスキーから買い受け、貯蓄に励み、その後は働きづめに働いて持ち前の如才なさで次第にのし上がって裕福となる。土地を次々に買い込み、賃借りし、大土地所有者となった[3]。母のアンナはオデッサ近郊の典型的なユダヤ人の町人階級出身で、同地で教育を受けた。後にダヴィードと恋愛結婚し、農民となる。アンナは読書に励み、子供たちに教養をつけさせるために努力した。ダヴィードとの間に子供を8人生んだが、夭折する子も多く、最終的には2人の姉妹、レフの兄、そしてレフと、4人のみとなった[4]

家族は民族的にユダヤ人であったが、信心深くはなく、自宅ではイディッシュ語ではなくロシア語とウクライナ語で会話していた。レフの妹オリガは、ボリシェヴィキの指導者の1人であるレフ・カーメネフと1900年代の早期に結婚し、子供を2人儲けることになる。レフが9歳のとき、父は教育を受けさせるために息子をオデッサに送り、ドイツ人学校に入学させた。これは母親の強い希望でもあった。ブロンシュテイン家の親類で、南部で出版業者として成功したシュペンツェルの援助により、レフは国費で勉強する有名校に入学できた。教育機関へのユダヤ人子弟の受け入れ数が制限されていた当時としては、これはかなり大変なことであった[5]。在学中に、トルストイ、シェイクスピア、プーシキン、ネクラーソフ、ディケンズ、ウスペンスキー、ヴェレサーエフらの作品を大方読破したほどの読書家であった。

アイザック・ドイッチャーがレフの評伝で書いているように、オデッサは当時の典型的なロシアの都市とは大きく違って、活気に満ちた国際的な港湾都市であった。この環境は、青年レフが国際的な視野をつちかう一因となった。レフは自伝『わが生涯』で「ロシア語とウクライナ語のほか、完全に流暢に話せる言語はなかった」と述べているが、レイモン・モリニエ(Raymond Molinier)は、トロツキーはフランス語を流暢に話していたと書いている[6]