カニバリズム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動検索に移動
曖昧さ回避    生物学における種内捕食については「共食い」をご覧ください。

1557年にブラジルで行われたカニバリズムを描いた絵画
カニバリズム(英: cannibalism)とは、人間が人間の肉を食べる行動、あるいは習慣をいう。食人、食人俗、人肉嗜食ともいう。

文化人類学における「食人俗」は社会的制度的に認められた慣習や風習を指す。一時的な飢餓による緊急避難的な食人や精神異常による食人はカニバリズムには含まず[1]、アントロポファジー(英: anthropophagy)に分類される。また、生物学では種内捕食(いわゆる「共食い」)全般を指す。

転じて、マーケティングにおいて自社の製品やブランド同士が一つの市場で競合する状況や、また、航空機や自動車の保守で(特に部品の製造が終了し、入手困難である場合に)他の同型機から部品を外して修理に充てることなどもカニバリズム(共食い整備)と呼ぶ。

目次
1    語源
2    分類
2.1    文化人類学による説明
2.2    薬用としての人肉食
2.3    緊急事態下での人肉食
2.3.1    栄養学的に見た人肉食
2.4    人肉嗜食
3    各地のカニバリズム
3.1    オセアニア
3.2    ヨーロッパ
3.3    アメリカ
3.4    アジア
3.4.1    日本
3.4.1.1    薬用としての人肉食
3.4.1.2    葬儀としての人肉食
3.4.1.3    骨かみ
3.4.1.4    戦争中の人肉食
3.5    中国
3.6    朝鮮

4    家畜のカニバリズム
5    自然界でのカニバリズム
6    フィクションにおけるカニバリズム
7    聖書中におけるカニバリズム
8    カニバリズムを題材にした作品
8.1    小説
8.2    ノンフィクション
8.3    戯曲
8.4    映画・ドラマ
8.5    漫画・アニメ
8.6    ゲーム
8.7    音楽
9    脚注
9.1    注釈
9.2    出典
10    参考文献
11    関連項目
12    外部リンク
語源

タンナ島における食人の饗宴(1885-9年頃)
スペイン語の「Canibal(カニバル)」に由来する。「Canib-」はカリブ族のことを指しており、16世紀頃のスペイン人航海士達の間では、西インド諸島に住むカリブ族が人肉を食べると信じられていた[1]。そのためこの言葉には「西洋キリスト教の倫理観から外れた蛮族による食人の風習」=「食人嗜好」を示す意味合いが強い。

発音が似ているため、日本ではしばしば謝肉祭を表す「カーニバル (carnival)」と混同されるが、こちらは中世ラテン語の「carnelevarium(「肉」を表す「carn-」と、「取り去る」を意味する「levare」が合わさったもの)を語源に持つ。

「食人」、「人食い」という意味の語としては、ギリシャ語由来の「anthropophagy(「人間」を意味する「anthropo-」と、「食べる」を意味する「-phagy」の合成語)」が忠実な語である。

分類
習慣としてのカニバリズムは、大きく以下の2種類に大別される。

社会的行為としてのカニバリズム
社会的行為ではない(=単純に人肉を食す意味合いでの)カニバリズム
文化人類学による説明
特定の社会では、対象の肉を摂取することにより、自らに特別な効果や力、または栄誉が得られると信じられている場合がある。しばしばその社会の宗教観、特にトーテミズムと密接に関係しており、食文化というよりも文化人類学・民俗学に属する議題である。自分の仲間を食べる族内食人と、自分達の敵を食べる族外食人に大別される[1]。

族内食人の場合には、死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いがあると指摘される。すなわち、親族や知人たちが死者を食べることにより、魂や肉体を分割して受け継ぐことができるという考えである。すべての肉体を土葬・火葬にしてしまうと、現世に何も残らなくなるため、これを惜しんでの行いと見ることができる。日本に残る「骨噛み」は、このような意味合いを含む風習と考えられる。

なお人身供養と考えるか、葬制の一部と見るのかによって意味合いが変わってくるが、ニューギニア島の一部族に流行していたクールー病と呼ばれるプリオン病は、族内食人が原因であったことが判明している。

族外食人の場合には、復讐など憎悪の感情が込められると指摘される。また族内食人同様、被食者の力を自身に取り込もうとする意図も指摘される。代表例は各国で見られる戦場における人肉食である(兵糧の補給という合理的見地から行われた場合を除く)。先住民族に捕らえられ食されるヨーロッパ人の探検隊の逸話などもこれに相当する。これは何も未開地域の話ではなく、例えばジョン・ジョンスンは、妻を殺したインディアンに復讐した時、その肝臓を食べたという話が広まり、レバー・イーティング(肝臓食い)という渾名を付けられた。実際には、インディアンをナイフで殺した時、刃先に付着していた肝臓の欠片を食べる「ふり」をしただけともされるが、いずれにせよ、殺した相手の肉を食らうという逸話は、復讐を完了したことを象徴的に示しているとされた。

戦争によるカニバリズムは、集団の規模が首長制など比較的小規模な条件では高まり、国家と呼べる規模まで成長すると逆に禁止、縮小される傾向がある[2]。マーヴィン・ハリスは、戦争によるカニバリズムを許すと相手の降伏が望めなくなり、戦争後の統治や収奪を難しくさせるなどデメリットが大きいために、国家レベルの社会では戦争によるカニバリズムを禁止したとしている。

なお、タンパク質の供給源が不足している(していた)地域では、人肉食の風習を持つ傾向が高いという説がある。実際に、人肉食が広い範囲で見られた上述のニューギニア島は、他の地域と比べ豚などの家畜の伝播が遅く、それを補うような大型野生動物も生息していなかった。

こういった地域での族外食人には、もとは社会的意図がなかった可能性が示唆される。

薬用としての人肉食
死者の血肉が強壮剤や媚薬になるとする考えも欧州はじめ世界中に見られ、これは族内食人の一環として説明する研究者もいる。人間のミイラには防腐処理剤に瀝青・ハーブ・スパイスが用いられ一種の漢方薬として不老不死や滋養強壮の薬効があると信じられていて、主に粉末としたものが薬として飲用され、日本にも薬として輸出されていた。また中国や日本では肝臓・胆嚢や脳などを薬にして摂取していた。現在でも胎盤は健康や美容のために食されたり、医薬品として加工される(胎盤#産後の胎盤の利用、胎盤食を参照)。

ジャック・アタリやレヴィ=ストロース、鷲田小彌太らは、他人の臓器を取り出して別の人の体に移植する臓器移植はカニバリズムのカテゴリーに含まれると主張している[3]。臓器移植は経口摂取ではないものの、他人の体の一部を取り込む行為にはある種の不気味さを感じる人もあり、例えば吉本隆明は『私は臓器を提供しない』のなかで、臓器移植には「人食いのイメージが強い」と述べている[3]。

緊急事態下での人肉食

1921年にソビエト連邦で発生した飢饉における人肉食・・モンゴル一位
緊急事態下を生き延びる手段としての人肉食は、食のタブーを超えて古今東西でしばしば見られる。近年の著名な例としては、1972年のウルグアイ空軍機571便遭難事故が挙げられ、遭難した乗客らは、死亡した乗客の死体の人肉を食べることで、救助されるまでの72日間を生き延びた。このような事例は厳密にはカニバリズムには含まれないが、常習化すればそうと捉えることができる。

他の例として、1846年のアメリカにおいて、シエラ・ネバダ山脈山中トラッキー湖畔における西部開拓者のキャラバン・ドナー隊の遭難事故は、発覚までに既に隊の中で死亡者を食べるという緊急避難措置が行われていた。さらに悪天候や当時の救助技術により完了するまでに長期間、数回に分けての救助となった。そんな折、最後の被救出者は、先の救出作業の際に渡されていた牛の干し肉があったにもかかわらず、共に残った婦人の肉を食べていた。これは緊急避難が人肉嗜食に転じた典型例である。彼はその婦人の殺害を疑われたが、証拠不十分で放免された。

生存のために仲間の死体を食べる事例は、

1816年 メデューズ号の遭難事故 - テオドール・ジェリコーによる絵画「メデューズ号の筏」で広く知られた。
1845年 ジョン・フランクリン探検隊遭難事故(フランクリン遠征)
1846年 ドナー隊 - アメリカ合衆国東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民の一行。旅程の遅れのためシエラネバダ山脈での越冬を余儀なくされる。
1918年 デュマル - アメリカ合衆国の貨物船。落雷による爆発沈没のため、複数の救命艇に避難するも、乗員数に極端な偏りが生じた。
1943年 ひかりごけ事件 - 太平洋戦争中、真冬の北海道知床岬(ペキンノ鼻)に大日本帝国陸軍の徴用船が難破した。食料が殆どない極限の場に置かれた船長が、船員の遺体を食べて生存した事件。武田泰淳の小説『ひかりごけ』や映画化作品で知られる。
1972年 ウルグアイ空軍機571便遭難事故 - 『アンデスの聖餐』、『生存者』やこれを原作にした『生きてこそ (1993年の映画)』などの映画で知られる。
など。

また飢饉や戦争など、食料不足による人肉食も、歴史上世界各地に見られる。

栄養学的に見た人肉食
2017年4月6日、人肉の栄養価は、旧石器時代の人々が食べていたほかの動物と比較して高くないことが『サイエンティフィック・リポーツ』に発表された。「ほかの動物に比べて、ヒトは栄養学的に優れた食品ではありません」と、論文著者であるイギリス・ブライトン大学のジェームズ・コールは語っており、コールの推定値によると、イノシシやビーバーの筋肉は1kgあたり4000kcalあるが、現代人の筋肉は1300kcalしかないという[4]。この研究によって、コールは2018年のイグノーベル栄養学賞を受賞した。

人肉嗜食
人肉嗜食とは、特殊な心理状態での殺人に時折見られる人肉捕食等のことで、緊急性がなく、かつ社会的な裏づけ(必要性)のない行為である。多くは猟奇殺人に伴う死体損壊として現れる。文明社会では、直接殺人を犯さずとも死体損壊等の罪に問われる内容であり、それ以前に、倫理的な面からも容認されない行為(タブー)である食のタブーとされる。そしてタブーとされるがゆえに、それを扱った文学・芸術は多く見られる。フィクションでは「青頭巾」、「スウィーニー・トッド」、「ハンニバル・レクター」などがある。

またカニバリズムは、しばしば性的な幻想をもって受け止められ、またそのようなフェティシズムを持つ者も多数存在する。実際に性的なカニバリズムを行った例としては、連続殺人者であるアルバート・フィッシュ、エド・ゲイン、ジェフリー・ダーマー、フリッツ・ハールマン、アンドレイ・チカチーロなど。中国の正史『晋書』の載記には、後趙の皇太子・石邃の食人性愛嗜好に関する記述がある。性的なものをベースにしながら、より「食人」を重視したカール・グロスマン(英語版)、ニコライ・デュマガリエフは犠牲者も多数となった。ほか、パリ人肉事件がある。犯人の佐川一政は自著の中で、女生徒の肉の味を「まったり」と「おいしい」と記述し、また被害者に憎しみはなく憧れの対象であり、事件時の精神状態は性的幻想の中にあったと記述している。原理基督教徒極東半島・・古代ブードゥー主体アンデッドゾンビグールズゲルショッカー価害妄創公害明悪骸骨付喪神空海リッチノーライフキングアンチライフエンペラー黄金バットマン

2001年にはドイツに住むアルミン・マイヴェスが、カニバリズムを扱うインターネット上のサイトで自分に食べてもらいたい男性を募集し、それに応じてきた男性を殺害し、遺体を食べている[5]。

2007年には、フランス北部ルーアンの刑務所で35歳の男性受刑者が、別の男性受刑者を殺害し、あばらの周辺の胸部の肉と肺など遺体の一部を監房に備え付けられていたキッチンやストーブで調理して食べたとされる事件が起きている[6]。

近年はロシアの若年層に人肉嗜食が頻発しており、2008年には、悪魔崇拝を標榜する少年少女8名が同年代の4名を殺害してその肉を食する事件が、2009年には、メタルバンドを組むユーリ・モジノフら青年2人がファンの少女を殺害してその肉や内臓を食する事件が起きている[7]。いずれも犯行動機は要領を得ず、「悪魔から逃げたかった」「酩酊して腹が減っていた」などと不可解な供述に終始している。

各地のカニバリズム
以下、狭義にはカニバリズムの定義に該当しないものも含まれる。

オセアニア

人肉食用フォーク(フィジー諸島、19世紀後半製作)
イースター島では1600年頃から1700年頃にかけて人口が約70%減少した。その要因として現地住民の人為的環境破壊(モアイ像作成のための森林伐採など)が挙げられるが、結果として野生の動物の肉の供給源が失われることになり、最終的に人肉を食すようになったといわれ、当時のゴミの集積地跡からは人骨が発見されている[8]。

ネルソン・ロックフェラーの息子で人類学者のマイケル・ロックフェラーが、1961年にニューギニアの奥地で原住民に殺され食べられたと報じられた[9]。

ヨーロッパ
スペイン北部のアタプエルカ遺跡で発掘された「最初のヨーロッパ人」の遺骨から、この先史人類たちが人肉を食べており、しかも、とりわけ子どもの肉を好んでいたことが明らかになった。遺骨などの分析によると、食人は、儀式としてではなく食用で行われていた。当時、食料や水は豊富にあり、イノシシやウマ、シカの狩猟も可能であり、食料不足で食人が行われたのではなく、敵対する相手を殺し、その肉を食べたと考えられている[10]。

のちに、ヨーロッパでは戦争、飢饉、貧困、宗教的理由でカニバリズムは広く行われた。第1回十字軍において、十字軍の軍勢がシリアのマアッラを陥落させた際(マアッラ攻囲戦)に、人肉食が行われたという記録が残っている[11]。アラブ、フランク(西欧)双方から同内容の証言が出ており、信憑性が高い。当時、十字軍の食料状況は非常に粗末で、現地調達の略奪の一環として現地住民を殺害し、その肉を食べたとされる。

1274年にフォッサヌォーヴァ修道院で死んだトマス・アクィナスの遺体も修道士たちによって食されている[12]。ホイジンガによれば、修道士たちは、当時高価であった聖遺物の散逸を恐れ、師の遺体を加工保存し、頭部を調理したとしている[13]。

また、1315年から1317年にかけての大飢饉の際、人肉食があったと言われるが、それがどの程度のものだったかについては議論が分かれている。また近世以降、船の難破による漂流中に人肉食が行われたという事例が時折記録されている。

15世紀のスコットランドにおいて、ソニー・ビーンとその家族は山岳を通過する旅行者達を食べて暮らしていたという記録があるが、その記録は19世紀以降のものであり信憑性は低い。

肉を食べたわけではないが、1805年のトラファルガー海戦で戦死したイギリス海軍提督ホレーショ・ネルソンの遺体は、腐敗を防ぐためラム酒の樽に漬けて本国に運ばれたが、偉大なネルソンにあやかろうとした水兵たちが盗み飲みしてしまったため、帰国の際には樽は空っぽになっていたという。この逸話からラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれることがある。しかし、実際にネルソンが入れられたのはコニャックの樽であり、盗み飲みの逸話もただの噂話だとする説もある。

アメリカ大陸に移民したヨーロッパの植民者が、ジェームズタウンにおいて食人をしていたとの研究結果がある。新世界に到着した植民者たちが、厳しい生活環境によって食人行為を強いられた可能性は、古くから指摘されている[14]。

「性的なカニバリズム」の項のフリッツ・ハールマン、カール・グロスマンなどの犯行が行われていたのは第一次世界大戦後の後遺症下にあったドイツである。極度のインフレーションに襲われていたドイツでは慢性的な肉不足となっており、その中で行われた2人の犯行は性的なものがメインでありながら、若干の経済的目的の側面も持ち合わせていた。その経済的目的に特化したカール・デンケは、人肉を市場に流通させるための商品開発における過程で犯行が明るみに出て逮捕されている。3人の犯行は、戦後の浮浪者にあふれていた当時のドイツにおいて、いずれも数十人単位の犠牲者が出るまで発覚しなかった。

その後ドイツでは第二次世界大戦中に強制収容所内で収容者が人肉を食することがあったことがヴィクトール・フランクルの『夜と霧』に記されている。

アメリカ

アステカの絵文書に描かれた、人肉を食べる人々。土鍋の中に人の頭部や手足がうかがえる
アメリカ大陸では宗教的儀礼として広く人身御供が行われていた。また、戦争捕虜を食糧とする慣習も多く存在した。

アステカ帝国は国家レベルで食人を制度化していた稀有な国家であり、各所で発生する戦争や反乱で得た捕虜を首都に送り、食糧として消費していた[2]。生きた状態の生贄から黒曜石のナイフで心臓を抉り取り、神に捧げ、体の部分は投げ落として切り刻み、トウモロコシとともに煮込んで食された。ただし、人肉を食すことが許されたのは上流階級のみだった。

北アメリカのイロコイ族やヒューロン族といったアメリカ先住民たちも戦争捕虜を食糧にしていた[2]。イエズス会士の報告によれば、戦場での食糧とする他に、自分たちの村に連れ帰り拷問や訓練に使用した後に食していたと言われる。

アジア
飢饉や戦争における人肉食は他の地域と変わらないが、宗教儀式に人肉食が利用されるケースが特筆される。

ヘロドトスは『歴史』の中で、アンドロパゴイという部族の食人の風習や、メディア王国の王アステュアゲスが将軍ハルパゴスにその息子を食べさせた逸話を紹介している。これらは伝説的ではあるが、ヨーロッパの視点からのアジア人(をはじめとする異民族)の「食人」に関する記述である。

インドではシヴァ教の一派であるアゴーリ(英語版)の行者が人肉食を行う。彼らは神通力を得るためにガンジス川から水葬遺体を引き上げ、その肉を食する。近年、撮影が行われた[15]。社会的行為でないケースとしては、2009年にハリヤーナー州で火葬場の職員らが遺体の焼肉で晩酌をするという事件が起きている。

チベットでも、1930年代にシャンバラを標榜する宗教団体が信徒を御供にして人肉食儀式を行っていたという報告がある[16]。

ベトナムでは、1950年代から1960年代にかけてベトナム共和国(南ベトナム)政府軍が、反政府勢力の掃討作戦において、人間の生きた肝臓は精力がつくとして反政府勢力と目されたベトナム民衆を殺害し、肝臓を取り出して食べたとされる[17]。

日本
日本[18]には綏靖天皇が七人の人を食べたという故事(『神道集』)をはじめとして、伝説の酒呑童子説話中の源頼光一行や、安達原の鬼婆の家に立ち寄った旅人など、説話にカニバリズムが散見される。

「遠野物語拾遺」第二九六話と第二九九話には、遠野町で5月5日に薄餅(すすきもち)を、7月7日に筋太の素麺を食べる習慣の由来として、死んだ愛妻の肉と筋を食べた男の話[注 1]が記録されている。また、中国のカニバリズムにある割股の話は、日本にも類話が見える(『明良綱範』)。

『信長公記』によると、戦国時代に織田信長の武将・羽柴秀吉が鳥取城を兵糧攻めした際、城の兵たちは草木や牛馬を食べ尽くした末、城を脱走しようとして織田軍に銃撃されて死んだ人間を食い争ったとある[19]。

随筆『新著聞集』では、江戸時代の元禄年間に増上寺の僧が、葬儀にあたって死者の剃髪をした際、誤って頭皮をわずかに削り、過ちを隠すためにそれを自分の口に含んだところ、非常に美味に感じられ、以来、頻繁に墓地に出かけては墓を掘り起こして死肉を貪り食ったという話がある[19]。戊辰戦争の折には幕府側総指揮官松平正質が敵兵の頬肉をあぶって酒の肴にしたといい、また薩摩藩の兵が死体から肝臓を取り胆煮を食したという[20]。

確実な記録には、江戸四大飢饉の時に人肉を食べたというものがある。また天明の大飢饉の際には1784年(天明4年)弘前で人食いがあったと橘南谿が『東遊記』で述べている[21]。

薬用としての人肉食
人間の内臓が、民間薬として食されていたという記録がある。

江戸時代、処刑された罪人の死体を日本刀で試し切りすることを職とした山田浅右衛門は、死体から採取した肝臓を軒先に吊るして乾燥させ、人胆丸という薬に加工して販売したとされる。当時は人胆丸は正当な薬剤であり、山田家は人胆丸の売薬で大名に匹敵する財力を持っていたと言われている[22]。

明治3年(1870年)4月15日付けで、明治政府が人肝、霊天蓋(脳髄)、陰茎などの密売を厳禁する弁官布告を行っている[23][24]。しかし闇売買は依然続いたらしく、たびたび事件として立件、報道されている(東京日々新聞など)。作家の長谷川時雨は『旧聞日本橋』で明治中期の話として「肺病には死人の水-火葬した人の、骨壺の底にたまった水を飲ませるといいんだが…これは脳みその焼いたのだよ」と、「霊薬」の包みを見せられて真っ青になった体験を記している[21]。明治35年に発生した臀肉事件は、当時は不治の病とされたハンセン病の治療目的で、被害者の臀部の肉を材料としたスープが作られている。

昭和40年代まで全国各地で、万病に効くという伝承を信じて、土葬された遺体を掘り起こして肝臓などを摘出して黒焼きにして高価で販売したり、病人に食べさせたりして逮捕されていたことが新聞で報道されている[25]。

中沢啓治の自伝的漫画『はだしのゲン』には、日本への原子爆弾投下直後より被災地では人骨を粉末状にしたものが放射線障害に効くという迷信が信じられていたという描写がある。

このように人間の内臓が薬として利用されていたことについては、いまだ明らかにされてはいないが、曲直瀬道三の養子曲直瀬玄朔は医学書『日用食性』の中で、獣肉を羹(具がメインのスープ)、煮物、膾、干し肉として食すればさまざまな病気を治すと解説しており、肉食が薬事とみなされていたことを示している[26](日本の獣肉食の歴史参照)し、また漢方薬(東洋医学)においては、熊の胆は胆石、胆嚢炎、胃潰瘍の鎮痛、鎮静に著効があるといわれ、金と同程度の価値がある高価な薬品だった。江戸中期の古方派の医師後藤艮山は、熊胆丸を処方して手広く売り出したといわれる[27]。また中国からこのような薬学的な考えが伝わったともされる。

葬儀としての人肉食
伊波普猷は昭和13年当時那覇他で観られていた葬儀の際に会葬人への豚肉料理を提供する習慣の起源ではないかと、ある民間伝承を参考の為に書き記している。
那覇で金持の家になると、七十歳以上の人が死ぬ場合には、今日でも女子の会葬人だけに豚肉料理を主にした御膳を出すが、……同治元年(即ち我が文久二年、一八六二)頃までは、久米島では葬式の時に牛や豚を屠って会葬人一同に振舞つたが、……なほ国頭郡にもさういふ言伝へがあるとのことだから、この風習が、かつて南島全体にあつたことは、最早疑ふ余地がない。之に就いてはかういふ民間伝承がある。昔は死人があると、親類縁者が集って、其の肉を食った。後世になつて、この風習を改めて、人肉の代りに豚肉を食ふやうになつたが、今日でも近い親類のことを真肉親類(マツシヽオエカ)といひ、遠い親類のことを脂肪親類(プトプトーオエカ)といふのは、かういふところから来た云々。
—伊波普猷、「南海古代の葬制」葬送墓制研究集成第一巻,2004年[28]
骨かみ
葬儀の場面でお骨を食べる社会文化的儀礼または風習としての「骨かみ」を行ってきた地域も存在する。長寿を全うした死者や人々に尊敬されていた人物などが被食対象となっていることから、死者の生命力や生前の能力にあやかろうとする素朴な感情が根底にあるとみられる。最愛の配偶者の遺骨をかむことは、強い哀惜の念からと思われ、これらは素朴な感情表出として受けとめられている[29]。

俳優の勝新太郎は父の死に際して、その遺骨を「愛情」ゆえに食したと、本人が証言している。いわゆる「闇の社会」では骨かみの特殊な習俗が継承されているとの推測もある[30]。

戦争中の人肉食
太平洋戦争中南洋や東南アジア戦線(インパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナルなど)の日本軍では、兵站が慢性的に途絶したことで、大規模な飢餓が頻繁に起こり、死者の肉を食べるという事態が発生した。

グアム島では敗走中のある陸軍上等兵が逃避行を共にしていた日本人の親子を殺害してその肉を食べるという事件が発生。事件の目撃者がアメリカ軍にこのことを密告したため、上等兵は戦犯として逮捕され、アメリカ軍により処刑された[31]。1944年12月にニューギニア戦線の第18軍司令部は「友軍兵の屍肉を食すことを罰する」と布告し、これに反して餓死者を食べた4名が銃殺されたという。また、ミンダナオ島では1946年から1947年にかけて残留日本兵が現地人を捕食したとの証言があり、マニラ公文書館に記録されている[32]。

なお、連合軍兵士に対する人肉食もあったとされるが、多くが飢餓による緊急避難を考慮され、戦犯として裁かれることはなかった。一方で、処刑したアメリカ軍捕虜の肉を酒宴に供したとされる小笠原事件(父島事件)では、関係者がBC級戦犯として処刑されている。罪状には人肉食は含まれず、捕虜殺害と死体損壊として審理された[33]。ただし、当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の土屋公献は事件について証言し、人肉食などの事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している[34]。

1944年の北海道では、難破した徴用船の船長が死亡した船員の遺体を食する「ひかりごけ事件」が発生した。

中国
中国におけるカニバリズムについては、日本においては桑原隲蔵による先行研究がある[35]。相田洋は桑原論文を紹介する形で「南北宋後退期の武装集団ほど頻繁に食人肉を行なっている例は、以前には見当たらないように思う」と評し、「食人肉は武装集団の習慣として定着」したとしている[36]。

古くは『韓非子』に「紂為肉圃、設炮烙、登糟丘、臨酒池、翼侯炙(あぶり肉)、鬼侯臘(干し肉)、梅伯醢(塩漬け肉)」という人肉料理の記述が見られる。もっともこの「醢(かい)」なる言葉は塩漬け全般を指す語でもあり、獣肉の料理を指すこともあれば、見せしめのために塩で防腐した遺体を指すこともあり、必ずしも人肉食を指すものではない。

小室直樹によれば、中国では古代から近世にかけて食人の習慣が非常に盛んであったとされる。小室は、この食人と纏足、科挙の三つは、日本に全く伝わらず、また日本人はそれらを全く理解できなかったとしている。また小室は、中国が他文化の食人と比べ特徴的なのは、食人が精神異常行為、宗教的行為、緊急避難行為などではなく、恒常的な食文化として根づいていたことであるとし、「孔子は人肉を好んでいた」という例や名君といわれた斉の桓公が「自分はいろんなものを食べてきたが、まだ人間の赤ん坊を食べたことがない」と言ったのを聞きつけた料理人の易牙が、自分の子供を殺害し調理して桓公を満足させた例など、膨大な文献が中国における日常的な食人行為を伝えているが、桓公と易牙の有名な件も含め、中国の道徳規範である儒家も道家もまったく非難していない事を指摘し、中国社会では食人が道徳違反にあたらない事を示すとしている[37]。

『史記』にも、飢饉や戦争により食料がなくなると、自分の子を食うに忍びなく、他人の子供と交換したのち絞め殺して食べたという記述が残っている。三国志 (歴史書)14巻『魏書 程郭董劉蔣劉傳』の程昱伝[38]に引用された『世語』(『魏晋世語』)逸文に「世語曰 初 太祖乏食 昱略其本縣 供三日糧 頗雜以人脯 由是失朝望 故位不至公」と、略奪した糧食の中に人肉が含まれていたために程昱が出世を逃した、という記述がみられる。

唐代以降は人肉食へのハードルが下がったという議論があり、例として引かれるのは『資治通鑑』の人肉の市場価格が20年で数十分の一に暴落した記録である。また自らの肉を病気の夫などに食べさせることが美談として称賛され、元代の『事林廣記』には、その行いに政府が絹や羊や田を与えて報いたという記述がある。

明の時代の李時珍による『本草綱目』人部[39]には、人肉をはじめ人間由来の漢方薬が記されている。特に宮廷を中心として、女人の血から作った薬(仙丹)が強壮剤としてもてはやされた。不妊で悩む世宗の代には、宮女に投薬してまで出血を強要したため、多くが衰弱死したという[40]。

民間では、同時代の『南村輟耕録』に、戦場での人肉食の実例と調理法が多岐にわたって紹介されている[41]。この食事方式を採用した隊では戦果が食事に直結するため、大いに士気が高揚したという。

清の時代にも依然として人肉食が残っていた。宮廷でもしばしば人肉食が行われ、高官が赤ん坊の肉を好んで調理させた逸話が伝わる[42]。著名人では、西太后が病の東太后の歓心を買うため肘肉を羹に供したという(左の肘に包帯を巻いた上での自己申告であり、真偽は不明[43])。黄昭堂によれば、台湾原住民族は「生蕃」と呼ばれ、その肉である「蕃肉」は滋養に富むとして食され、中国大陸に輸出されていた[44]。また、古来より凌遅刑(千刀万剐)という全身を切り刻む処刑方法が存在したが、刑場近辺で死刑囚の肉片が食用ないし薬用に供されていた記録があり、廃止された1905年には北京で撮影が行われている[45]。なお、著名人が同処刑後に食された事例としては、明朝の劉瑾・袁崇煥のものが挙げられる。ただし劉は酷吏、袁は名将であり、食の意図は異なるものと思われる(差異は前項参照)。

近代に入ると、この食人文化を中国の前近代性として非難批判する知識人が登場する。魯迅がその代表で、彼は小説「狂人日記」や「薬」で、中国の食人文化を厳しく指弾した。「狂人日記」は正確には強迫性障害の主人公がカニバルの幻想を抱くという内容、「薬」は人血にひたして食べる肉饅頭が肺病をなおすという風習についての内容である。

文化大革命時にも粛清という名目で人肉食が広西等で白昼堂々と行われていたという報告がある[46]。

なお、現在の中国では食人はタブーとされており、違法である[要出典]。堕胎された胎児などを食べる文化が現存するとの指摘[47]もあるが、トリック写真やパフォーマンスの一部だと判明した事例も多い。香港やマカオでもしばしば食人事件が噂され、盛んに作品に翻案された。香港映画『八仙飯店之人肉饅頭』[注 2]はその一例である(映画の題材となったのは1985年にマカオで起こった八仙飯店一家殺害事件だが、実際には被害者十名の胴体が発見できなかったことに留まり、人肉食は立証されていない)。また2008年には香港でもこの映画を思わせる事件が発生した。少女を殺害し、遺体を切り刻み肉と内臓をミンチ機で細切りにしトイレに破棄し、手足の骨は肉屋の店頭に並べたという[48]。

「zh:中国食人史」も参照
朝鮮