例えば、仕事では立場の弱い者ほど理不尽な目に遭う。長年の真面目な努力も、上流にいる人間のひとつのミスの身代わりになって追放されて終わりというような光景はどこにでもある。
他の誰よりも頑張り、死ぬほど苦労した上で、責任を全て被せられて悪者となり追放されることもある。しかしこれは人間という集団がある限り、どこででも起きている道理なのだ。

ある人がミスやトラブルで責任を追及される立場に立った時、その責任をなすりつけられる人間が下流にいて、それで丸く収まるならそうするのが道理なのだ。その下の者を不憫に思って自分が罪を受けるという選択は通常ない。
なぜなら、その者もまた上流から責任を押し付けられているからだ。自分や家族と、仕事上の関係でしかない下流の者のどちらを優先するかを考えれば答えは決まっている。
そこで自分で罪を認めて責任を取る清廉な人間がいれば、その人は早々に社会から脱落する。
(ただし、軽微な過ちや罪なら認めたほうが自分の利益になる場合もあり、認めることもある)

戦争は分かりやすい理不尽であろう。
戦争することを決めるのは上の者である。しかし、実際に戦場で死ぬのは下の者だ。下の者は徴兵を拒否すれば厳しい罰を受けることになる。逆らえない。

戦死した若者にはなんの罪もない。自分で戦争することを決めたわけでもない。
それでも死を強制されるのだ。
そうなるのは良い悪いで世の中が動いているわけではないからだ。善悪ではない。ただ、強い者が弱い者に理不尽を強いることができるという組織の仕組みがあるだけだ。

近年のロシアとウクライナの戦争もそうだ。
ウクライナの後ろでアメリカが戦争を焚き付けているのは明白だろう。アメリカは自国は戦争当事国にならず、他国を操って戦争をさせることで、自国民の犠牲は出さずに安全保障にかかるコストの効率化や経済的利益を手にすることができる。
ようは、アメリカ国民の金儲けのために、ロシアとウクライナの多くの国民が悲惨な死を強制されているのである。とても理不尽だが、これが世の中の仕組みなのだ。

強さとは、権力であり、財力であり、知力であり、暴力である。
それらが強い者が、弱い者に理不尽を押し付けて利益を得て生き残るのだ。
その社会の仕組みをありのままに見れば、理不尽を強いられる根本的な原因は、自分が弱いからだと気づくだろう。

正義などというものは、立場によって全くの正反対になるものだ。
もし、共通する真理となる正義が存在するなら戦争は起きない。争いは起きないのだ。
戦争をする両国は、互いに相手を殺すことを正義だと主張する。
しょせんは人間がそれぞれの立場で決めたものが正義なのである。

このような道理を理解すれば、何をすべきかも明らかになるだろう。
強くなることだ。

理不尽な目に遭うことを恐れ、他人の目や評価を気にして嫌われないように努力することは本質ではない。
組織や他人に依存している度合いが高いほど、理不尽を強制されるのが人間という集団の仕組みだ。
その理不尽を強いられるのが嫌なら強くなるしかない。

権力、財力、知力、暴力、人間力、そしてそれらを適切に用いることができる判断力を高めることが本当の重要な目的なのだと気づくだろう。
会社組織であれば、会社の利益により大きく貢献し、それを認めさせるというのも、強くなるための具体的な方法の一つである。
会社内のあなたの存在価値を高めれば、理不尽を強要される可能性が低くなる。

そして、あなたの正義を実行すれば、それは必ず誰かしらの悪になる。
嫌われ、恨まれ、攻撃されることになる。
それは避けられない。
もし、誰からも嫌われずに生きることを望むなら、何もせず、すべて他人に服従して従うという道しか思い浮かばない。しかしそんな事をしても自分自身が苦しむだけで実利も得られず、さらに嫌われるだけだ。

自分自身の人生を生きている限り、誰かから嫌われ、憎まれ、攻撃されることは避けられない。
より大きな影響力を持てば持つほど、より自分の人生を生きるほど、抵抗は苛烈になる。
他人に嫌われたくないなどというのは単なる世捨て人のファンタジーを望むようなものだ。
そんなことにうつつを抜かしていたら、本質である強さを育てることを放棄しているも同然である。
そして理不尽を強要され続けるだけだ。

上記のような私の主張を悪い考え方として嫌う方も当然いる。