{1CAA2745-5DB9-4FA3-A1CA-185CD6996721}

  会社に飼いならされている人を社畜などと揶揄しますが、現代の日本社会で主体性を持たずに流されている人も社会の家畜という意味で社畜です。まあ、私もそんな社畜の一匹なのですが、このままではいけないと、いつか、あの柵をぶち破るか、飛び越えようと考えています。

  決して収入の多寡だけではありません。私の周りにもそれこそ配当収入で年間数億円を手にするような人から、年収で数千万円というサラリーマンの中ではまあまあ恵まれた人々もいます。そんな方々から「我々経営陣は・・・」などという言葉を聞くたびに、「我々も立派なサラリーマンだよ」と我にかえるようにしています。

  例えば、数千万円の年収があっても税金により手取り収入は思いのほか貧弱なものです。そして、それ相応の家に住み、それ相応の車に乗り、子供達を私立に通わせて、様々な習いごとをさせ、年に2回もハワイへ行けば、「もっとお金があれば!」ということになります。家族を振り返ることなく、女性が優しくしてくれるようなところへ飲みに行けばなおさらのことです。

  つまりは、現在何とはなしに稼いでいようと、何となく浪費して、社会に踊らされ、罹りたくない病で、思ったより早くこの世を去る以上、それは実質的に家畜の生涯と何ら変わらないと思うのです。

  それではその差は何なのでしょうか。私は追っているか追われているかの差だと思います。いくら収入が多くても利己的な方は自己の利を追うが故に、その欲望の代償たる数字に追われることになります。

  ところが、主体を自分からはずし、社会や顧客、従業員に向けて、他を利することを追求している人は何からも追及されることはないように思います。たとえ追われていたとしても、追うことに夢中で気がつかないのかも知れません。

  自らお金を使うことが悪いわけではありません。その方が銀座へ行ったり、好きな車に乗ることで、より体に力が漲って、他を利することに没頭出来るなら、それも良いでしょう。勿論、自身の収入と全体の収支、将来設計を考え、コントロールすることは必要ですが。

  踊らされるのではなく、自ら主体的に踊っているなら良いのです(笑)。

  なにが言いたいのかと言いますと、自分が家畜であると自覚することが全てのスタートということです(笑)。


人気ブログランキングへ