では人間が<人間>になるためには、生まれた時点では<ヒト>でしかない人間を、<人間>にするための作業が必要になる、ということになる。


 この作業とは、もちろん教育のことである。このばあいの教育とは、国語、算数、理科、社会といった知育教育をさすのではない。人間を<人間>たらしめるための教育、つまりしつけと道徳教育のことをさす。人間は行動プログラムが規定されておらず、どうとでもなってしまう存在であるがゆえに、しつけと道徳教育によって<ヒト>から<人間>へと育てあげる作業が必要となるのだ。


 古今東西の賢人たちは、口をそろえて教育が大事だと唱えつつ”けてきたが、これは人間としての教育のことであり、人間は感化と教育しだいでどのようにでもなってしまうということの危険性を経験から見抜いた啓蒙であり、また警告なのだ。


 人間は、教育によってのみ<人間>となることができる。


 そしてその教育とは、伝統によるものしかありえない。


 なぜなら価値観や文化とは、根本的には感覚によって受け継がれるものだから。何が正しいことなのか、何が善いことなのか、何が美しいことなのか、こういった価値観の根底にはかならず感覚が横たわっている。価値観や文化とは、実はこの感覚によってはじめて存立し、また受け継がれて行くものだから、他の集団や民族、または国の伝統は、そこに属さない人間には意味をなさない。


 例えば、親が潔くふるまうことをこのうえもなく美しいことだと感じていれば、その感覚がその子に伝わり、その子も潔くふるまうことをこのうえもなく美しいことだと感じるようになる。

逆に、親がどんな汚いことをしてでも成功することをこの上もなく重要だと感じていれば、その感覚がその子に伝わり、その子もどんな汚いことをしてでも成功することをこの上もなく重要だと感じるようになる。


 あらゆる価値観、文化とは、このように根本的には感覚によって数百、数千年にわたって受け継がれていき、それが個人の世界観や精神性、つまりその人そのものを形つ”くっていくものであるから、人間にとってはその属している集団なり民族なりの伝統文化しかその人を真に生かすことはできない。


 人間にとって文化とは、より優れているとか、より美しいとかいうことより、合うか合わないかが最も重要である。


 そして行動プログラムの規定されていない、どうとでもなってしまうようにできている人間は、この伝統文化によって教育され、それを体得することによってのみ、人間らしくなることができるのである。


 この伝統文化をしっかりと体得していなければ、人間はこの世界がどのようなものであるかが明確に認識できず、したがってどのように生きればよいのかも、どのようにふるまえばよいのかもわからず、自分自身もあやふやで、生きる気力すら失い、ついには現実に不適応の状態になってしまうだろう。


 アメリカのある先住民の居住区では、成人男児の60%がアルコール中毒である、というおどろくべき調査結果がある。 


 これは、自分たち独自の伝統文化をもろに破壊されてしまったがために適応不全におちいり、堕落してしまった民族のあわれななれのはての姿である。


 伝統文化とは、損なわれた本能の代替品であり、究極の精神的よりどころなのである。


 動物が本能が破壊されたら適応不全におちいり、滅亡するしかないのと同じく、民族も、その伝統文化を破壊されれば適応不全におちいり、堕落し、あとは滅亡していくしかなくなる。


 くどいがここでもう一度おさえておきたい。


 教育なくして<人間>なし。 そして、伝統なくして<人間>なし。

 



 ポチっとお願いします!


人気ブログランキングへ