100日後に死ぬワニが、とうとう死んでしまった。

 

残り100日という限りある日々を、そのタイムリミットを知らずにただただ生きたワニ。

 

友達と遊んで、バイトして、恋愛して、普通の若者と何も変わらない日々を過ごす。4コマ漫画としては、何かオチがあるとか、すごい展開があるとか、シュールすぎる世界観とか、そんなものがあるわけではない。

だけど、確実にくる「死」を意識するだけで、何でもない日常がとても大切なものに思えてくる。かけがえのないワンシーンに見えてくる。

人はいつ死ぬか分からないし、その死の時は確実にやってくる。それは、ワニも人も生き物は皆同じ、避けられない宿命なのだ。

 

 

自分が死を意識したのはいつだったか。

初めて経験した死は曾祖母の葬式だったけれど、まだ子供だった自分にはそれをきちんと理解することもできてなくて、葬儀の場でも年の近い親戚の子たちと一緒に遊んで笑い合っていた記憶しかない。

それから十年ほど経ち、中学か高校の国語の授業で読んだ物語に死を意識するものがあった。それが何という小説だったのか、どういう物語だったのかをはっきりと思い出せないのだが、死は普段の日常のすぐ隣にいることを気づかされる瞬間だった。

そのさらに数年後、友人の死を経験した。彼はまだ20代前半だった。若くして亡くなったその友人の妹とも知り合いだった。あまりにも早すぎる死は、衝撃的だったし、そんな死に対しての人間の無力さを思い知らされたものだった。

 

 

ワニが、僕たちの前に現れて生活を共にするようになったのはわずか100日だ。その100日の中に、映画やドラマみたいな大きなストーリーはなかったのかもしれない。それが日常だ。僕らの生きる世界そのものだった。だが、残り〇〇日と死へのカウントダウンを意識する度に、その何でもない日常が大切なものに思えてくる。

 

僕らは今まで何日間、生きてきたか。何千、何万日を生きてきた。そのすべてに本当は死へのカウントダウンが隠されている。死はすべての生き物に平等だ。いつ死んでしまうか分からない世界を生きていることを忘れてはいけない。

毎日を大切に生きなくてはいけないし、後悔のないように生きなくてはいけない。

 

今日が人生最後の日だと思って過ごすことができる人はなかなかいないと思う。

でも、一日一日をちゃんと大切に生きていきたいと思う。自分の人生を生きられるのは自分だけだし、その人生を素晴らしいものにする責任があるのも全て自分だ。

ガンジーは「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」と言った。

1960年代のアメリカで流行した「Today is the first day of the rest of your life(今日という日は、残りの人生の最初の日である)」という格言。

 

死を意識するということは、生を意識することでもある。

死と生は相反するものでなく、表裏一体だ。

 

自分の人生は自分しか生きられない。

この世界にたったひとつしかない人生を、しっかりと生きたいと思った。

 

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余談だが、僕の大好きなギャグは、FUJIWARA原西さんの「生きる!」だ。