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「高畑充希めっちゃ可愛いやん。」

とは、弟が少し前に見ていたのが気になって、映画『アズミ・ハルコは行方不明』を見た時の僕の一言。
高畑充希演じるアイナが、憎たらしいほどにウザい女なのだが、それ以上にとても愛くるしいのだ。
こういう女の子に心奪われることも、ああ幾分歳をとったんだなと思うけど。

映画が(予想以上に)面白かったので例に漏れず、原作も読んでみました。


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原作は山内マリコさんの小説『アズミ・ハルコは行方不明』
作中にLINEが出てくるなど、割と最近の小説で現代の話。時代はどんどん変わるなあ。いずれInstagramも小説の中に普通に出てくるんだろうなあ。

映画版では、時系列もバラバラに場面が切り替えられていく作りでしたが、小説では3部に分けて書かれてました。

冒頭プロローグで語られる、少女ギャング団。
ずいぶん前に流行ったオヤジ狩りから時代は変わって、餌食は男に、捕食者は女子高生へと変わった。
プロローグ~作中~エピローグと物語全編にわたって登場する女子高生たち。
近代の女子高生の強さを表しているように思う。
それこそ若い頃は、女子高生といえば同世代の可愛い存在であったが、歳をとるにつれてどんどん脅威の存在になっていった。(個人の感想です)
女子高生はこわい。彼女らは最強ゆえに最恐なのだ。
少女や女子であるということはとても戦闘力の高い戦闘民族サイヤ人なみに強いのだが、そこにさらに女子高生というステータスが加わる。
女子高生という最強の武器を手にし、制服という最強の装備を身にまとう、恐るべき存在なのだ。
物語中盤で出てくる「女子高生でなきゃダメ」という台詞も強いインパクトを放った。
そしてこの脅威は、恐れでもありながら強烈な憧憬でもあるように思う。


それに比べて、木南愛菜はとても愛すべき存在に思える。
19歳~20代前半の制服を脱いだ、脱サイヤ人は少しずつ地球人になっていく。(さらにとんでもない化け物に変身していく場合もあり。フリーザフリーザ)
憎たらしい存在ではあるが、愛菜は憎さ余って可愛さ100倍なのだ。
軽い女の子のように見えて、やはり中身は乙女で傷ついたりもする。
男2人と女1人のグループというこの絶妙なバランスも加わってすごくいいキャラクターで描かれてるんです。
この物語で一番好きなキャラクター。


物語の舞台は、とある地方都市。
登場人物は、田舎に住む若者と、大学進学で都会へ出たもののまた田舎に帰ってきた者。
自分も田舎出身であり、大学進学で田舎を出たり(進学先も同等の田舎だったが)、その後帰郷し、次は上京という経験から心が共鳴する部分もあった。
田舎を離れ都会に出たり、そして戻る者には自分の過去や未来を重ね、田舎に残った者には地元の友人たちを重ねたりした。
Facebookで同級生たちと繋がり、そこからLINEへの繋がりと移行する。(都会ではTwitterInstagramで繋がることが多いかもしれない。)
20歳そこそこで車を所有することも車が無いとやっていけない田舎あるあるであるある。
作者 山内マリコのデビュー作「ここは退屈迎えに来て」にも地方を舞台にした作品がある。
山内マリコと地方との関係がとても気になった。富山県生まれの彼女だから書けたのか。
とにかく、山内マリコは地方を描くことに長けているというか、彼女の特色なのかもしれない。(まだ一作しか読んでないくせにそういうことを言ってのける)
そこが僕の心に深く共鳴することの一因になったことは間違いない。
この手の作品を、ロードサイド小説とも言うらしい。なるほど。


そのロードサイドというキャンバスに描き込まれる、何かをやりたいという若者のすべて。
「なにかやりてえ」という創造性は、若者すべての持ちうるものであり、歳をとった後も一生のテーマとなることさえもある。
もちろん都会の若者にも同じものは溢れているけれど、ここでは地方という閉塞的な場所だからこそ、彼らなりの青春が生まれたのかなーとも思う。
東京では、いろんな物がありふれていて青春を見つけれる若者も少ないのかもしれないと思う。
夢に向かっている若者は多いが、それが青春と呼べるものなのかは良く分からない。
(東京で青春時代を過ごしていないだけかもしれないけど。個人差があります)

また、次第に認められていく彼らのグラフィティ。
拡散力の威力については、現代の表現というものの本質が見える。
どんなにいいものを作ったとしても、今、それより威力があるのは拡散力や宣伝力など、売り出す力やプロデュース力、人に存在を知らせるBUZZらせることだ。
SNSやネット社会の現代らしい文化の流れなのかもしれないが、本当にそう思う。拡散社会。


さらにそこに色を添えるのが、男と女の関係。

この作品の中で最も好きな描写のシーンが、
ユキオと愛菜の初めてのセックスのシーンだ。

ーー果てしなくつづくフリータイム。ソファに座る二人の距離が、少しずつ近くなる。お互いが放っている微量のエロい気分が空気感染し合い、ゴーサインになって、よーいドンと誰かに背中を押されたようにキスがはじまった。子供同士のようなふざけたキスからはじまり、やがてべちゃべちゃと唾液が絡み合う。愛菜が飲んでいた甘ったるい酎ハイの糖分がユキオの舌をねっとり湿らせた。お互いの髪を指で梳く。二人とも同じくらいの長さだ。愛菜の髪はブリーチ剤でかなり傷んでキシキシする。ユキオの髪はコシがあって太い。

単にエロいだけのセックスではなく、リアルなセックスの描写。
今まで00:00のまま動いていなかった関係性の時計が、00:01に動き出した瞬間を描いている感じがして好きだ。
(数字が描かれた板を回転させて時刻を表示する機械型パタパタ時計の表示がパタンと変わるイメージ!)


春子と曽我氏も、セックスから始まる恋愛だった。
同じようなはじまり方だが、そこで感じる2人の女子の違いも面白かった。
動き出した時計を見て、若さゆえに一直線に走れる愛菜と、「これは果たして恋愛なのか?」と考えてしまう春子。

どうでもいいが、セックスの話が好きすぎるだろ俺。。。
セックス、セックス、ありがとう。



そして終盤に登場する、この作品で最も印象的な言葉。

ーー「優雅な生活が最高の復讐である」
ーー死ねばみんな、あたしのこと愛してくれるじゃん。
ーー忘れるだけだよ。


誰でも悔しい思いや、悲しい出来事に、死にたくなったりすると思う。
でも死では無く、そこから逃げ出す事で、新しい生活を手に入れて、
最高の復讐を果たす事も可能になるというメッセージに思えた。

【死にたい】はどこかに逃げることで、何か変えられるのかもしれない。
自分を行方不明にするという生き方。
その欲望は分からなくも無い。誰にも知られない所で、周りの目が気にならない環境で、自由に生きたい。
そこに踏み込めない自分の弱さを知りつつも、憧れている自分も感じている。

逃げるは、生きるための最強のコマンドになる時もある。


  たたかう
  ぼうぎょ
  どうぐ
にげる



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嗚呼、また気になる作家が増えたと思いながらの衝動買い。。
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