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本谷有希子「生きてるだけで、愛。」を読んだ。
めっちゃ本谷有希子読むやん。100円で買い漁ったからである。

小説の主人公全てに共感するというか、共鳴してる所があるなと思った。

奇行に走る寧子はどうだか分からないけど、鬱というモードには少なからず共鳴している部分はあるし、仕事先でもバイト先でも何だか上手くいかない所もガンガン共感する。津奈木の味の薄さはこれまた自分に共鳴する部分がある。そして過眠症という事象。

感情の共鳴も多いだけでなくて、描写の素晴らしさも感じた小説だった。


【自分という女は、妥協におっぱいがついて歩いているみたいなところがあって、津奈木と付き合ったのも当然のように妥協だった。】

【雪と氷の中間みたいな白い固形物を踏みしめると、凶暴な生き物が骨ごとえさを咀嚼しているような音が夜の住宅街に鋭く響き渡る。】

【早く家に帰って寝逃げしたい。】

【家の玄関でスニーカーを脱ぐなり裸足になったあたしは盗塁選手のようなすばやさでこたつに滑り込んだ。】

【熱さに耐えきれず汗びっしょりになってこたつから這い出ると、誰が時計をすすめたのか一時間経っていた。】

【受け入れがたい行為に面食らったあたしは、ユニバーサルスタジオのあらゆるアトラクションが公然と水をぶっかけてくる意味の分からなさを目の当たりにした時のようなショックを受けた。】

こうやって見ると、つくづく比喩表現みたいなもんが好きなのだなと思った。


読んでいて、惰性の様な日々でも、その中には〈生きてるだけで、愛。〉的な部分が溢れてると思わされる。
人間関係のきっかけなんて劇的なものはほんの少しで、何でもない始まりや妥協によるものだったりする。でも、そんな感じに始まったとしても、「五千分の一秒」というわずか一瞬の間だけでも、奇跡的な瞬間が訪れる。葛飾北斎が富嶽三十六景が描いたような奇跡的な一瞬が。

タイトルに引用した文章を、自分なりにオマージュしてみせると。

〔自分という男は、後悔にちんこがついて歩いているみたいなところがあって、全ての行動に対して5分後にはすでに後悔をしている。〕
となる。

自信のなさの表れなんだろうけど、ネガポジのネガが付いて回ることになってしまった。
(これまた関係ないんだけど、ネガってのは自分に正直な人であって、ポジってのは少なからず自分に嘘をついている人だと思う。それが良い悪いは別として)

でも、寧子が言う通り
【でも「あたし」は「あたし」と一生別れることができない。】
自分以外の相手は、あたしと別れられるけれど、あたしは一生あたしでしかないのだ。

自意識という牢獄が、牢獄じゃなくなる為に自分で鍵を作って、出て行くしかないんだ。



この記事もまた5分後に後悔へと変わるだろうけど。