→ドキドキしながら、面談をしにスクールへ行きました。
主任先生と担任の先生と3人での面談です。
なんだか、ただ事ではない張り詰めた空気間
担任の先生、とっても優しい方なんです。
ジュリ男に愛情をもっていつも接してくれていて
その先生が、下を向いていて、困っているような表情
お話が始まりました。
まずは、ジュリ男がスクールに入ってからできるようになったこと。
とっても細かく、分かりやすいようにおひとりずつ先生が話してくださり、写真もモンテッソーリの作業をしているところを一つずつ写真を撮ってくださったものを見せてもらいました。
「ジュリ男くん、お仕事のルールも理解して、準備も自分でできていて
すごい!!ジュリ男
このスクールのために、近くに引っ越してきて、本当に良かったと思いました。
先生方、こんなにもちゃんとジュリ男のことを見てくださっているんだ。と安心しました
ですが。。。
これからの話が怖くて
「早くはなしてくれ~」とヒヤヒヤ。
すると、いったん間があり、本題へ。
言いづらいことだったと思うのですが、ちゃんと言ってくださいました。
ジュリ男は先生の一斉指示をきけていないこと。
指示が聞けないので、ほかの子はできている中、ジュリ男だけに先生一人がとられてしまうこと。
人数がいる中、先生の数も限られている為、しっかりとジュリ男のことをみることができない。
ジュリ男には、マンツーマンでみてもらえるような環境がいいと思う。
との話を、私が傷つかないように、遠回しに話してくださっている。ということは、わかりましたが。。。
ここを、やめなければいけないんだ。ということは話の中で理解していましたが、頭の中がぼーっとして。
やっぱりほかの子と違うんだ。
と、涙が止まらなくなり、先生方にこんなに気を遣わせていること、自分、看護師のくせに気づけなかったこと、
全部が恥ずかしくなりました。
とってもとっても言いづらいことを言わせてしまったこと。
半面、こうやって誰かに指摘されないと受け入れようともしていなかった自分。
他の子と違うと言ってくれて、感謝しています。
私がスクールの担任の先生をしていたとしても、
「他の子と、あなたのお子さんは違います。」なんて言いたくないから。
担任の先生は、最後に私に手紙をくださいました。
そこには、「とってもかわいいしジュリ男くんが、ゆっくり成長していくことを楽しみにしている。」ということと、
「お母さんはとってもがんばっていて、尊敬します。」
なんて書いてありました
そんなこんなで、わざわざモンテッソーリ教育を受けるためにスクールの近くに引っ越しをしたのですが、辞めることになったのです。
離婚したモラハラ夫に、面談のことを報告すると、「やめてしまえ~」と。
「ジュリ男はジュリ男のままでいいんだよ。もっといいところ、いけばいいんだよ」
と。ジュリ男はジュリ男のままでいい。
その言葉に私は救われました。
(モラ夫はジュリ男のことを、この時は受け入れているのだと思っていたのですが、、、)
このままを愛すればいいんだと。
今まで通り、このままのジュリ男を愛そう!!
愛だけは、自信がありますから
でも、、、
なんだか孤独な気持ちはずっとありました。
だって、
私だって、わが子と気持ちが通じているんだ。と思いたい!!
目と目が合い、笑いあいたい。
名前を呼んで振り返ってほしいし。
私の声に反応してほしい。
一方通行の独り言のような会話が寂しい。
ママ!と呼ばれたいよ
こんなに愛しているのに。
他の家庭と違うところは、私がジュリ男のことを、愛していること。
そこだけは自信があるし、できないことだらけだけど、愛しているんだ。しか、その頃は自信がありませんせした
スクールを辞めてすぐ、ネットでさらに検索しまくりました。
どこにまず行けばいい!?
そんな時、ジュリ男は風邪をひき、近くの小児科を受診しました。
その時、診察時にベテランの60代の女医先生から言われたのです。
「この子、療育受けているの・・・?」
私、ハッと鳥肌がたちました。
「えっと・・・。最近、プリスクールの先生から、ほかの子と違う。マンツーマンがいいと言われ、そのスクールを辞めたばかりなんです。」
と伝えると、
「たぶん、発達障害だと思うけれど、市の専門の検査は時間がかかると思うから、この辺で一番近い療育機関の冊子を渡すから、療育を先に始めながら、市の検査を待てばいいよ。」
と、優しく、的確に教えてくれました。
とてもありがたかったです。
私は帰宅後すぐに療育機関のことを調べて、そこに連絡しました。
息子の状況と経緯をお話すると、療育を始めることは可能だとのお返事。
嬉しいやら悲しいやら、でも、前へ進んでいけるんだと思い、そこから、療育!!が、はじまりました。
市の発達検査と専門の先生との面談は、予約してから数か月後となり、モヤモヤしながらも必死に療育に取り組む生活でした。
→続く