【前回】⇒ 明治の表象空間(15)

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Michail Alexandrowitsch Wrubel, Die Kartenlegerin, Tretjakow-Galerie, 1895.

 ミハイル・ヴルーベル『カード占い師』1895年。 ©Wikimedia.

 

 

 

 



 

 

【38】 『にごりえ』と『たけくらべ』――「泥」の主題系

 

 

 「」とは、樋口一葉の小説に、しばしば象徴的意味を帯びて繰り返し現れる主題系です。『にごりえ』にも『たけくらべ』にも、決定的な場面で「泥」の主題が繰り返し現れます: 買ったばかりのコメを「どぶ」にざらざらと落としてしまったという「お力」の幼時の原体験。息子が「お力」にもらったカステラの切れ端を、憤激のあまり「どぶ」に投げ捨ててしまう・源七の妻「お初」の行為。長吉美登利を「何を女郎め〔…〕姉の跡つぎの乞食め」と罵りながら、「泥」のついた草履を投げつける行為。信如が、美登利のいる「大黒屋」寮の前で下駄の鼻緒を切ってしまい、「泥」にまみれて困惑する事態。長吉が自分の履き物を信如に貸し、自らは裸足で「泥」を踏んで往く行為。

 

 『にごりえ』の2人のヒロイン「お力」と「お初」が「期せずして共通に行なう行為」がある。それは、「食べ物をにまみれさせること」です。「お力」のほうは、7歳の少女が雪に滑って転んだ過失であるのにたいし、「お初」のほうは、息子の手から菓子を奪い取っての故意行為という違いがありますが、その違いは問題になりません。重要なのは、「食べ物」が「」にまみれて価値をなくしてしまうという結果であり、結果が本人と周囲の人々に及ぼす心理的影響の重大さだからです。一家が「断食」することになる〔∽ 呪われた家系の発端である祖父は、自ら「断食」タヒを選んだ。〕という・「お力」のもたらした「結果」と、夫に離婚を言い渡され・幼な子を連れて家を出ることになる「お初」の「結果」とは、心理的重大性において拮抗するでしょう。

 

 貧困な一家にとって貴重な「食べ物」が「泥水」の中で崩れてしまう「崩壊感覚と取り返しのつかなさ」が共通しているのです。「ここで問題なのは、狂気にまで通じる絶望的な不倖の引金を引くものが、いずれの場合も[]だという点である。」

 

 「お力」は、結城朝之助を前にした身の上話のなかで、「泥の中の蓮」という言葉をふと口にするや直ちにそれを否定する。「[蓮]は[口奇麗]な世辞にすぎない〔…〕結局は[悪業]に染まった自分なのだと[お力]は〔…〕自嘲する。〔…〕[新開]地の銘酒屋街というこの[悪所場]」が、さらには、自己の「遺伝的運命」によってそこに「身を沈めざるを得なかった」「お力」の「宿世 すくせ」が、「[]に似た何かとして観念されている」。

 

 『たけくらべ』についても、同様のことが指摘できます。「貴重な何かが[]と接触しそれにまみれ、〔…〕その価値が修復不能なまでに毀損される〔…〕そうした[濁り]の出来事は、『たけくらべ』のプロットの流れにおいて決定的な」2つのシーンで起きています。

 

 まず、 長吉美登利にたいする「草履投げつけ」事件〔第5節〕ですが、この事件は美登利の心を「深く傷つける。」祭りの「翌日より、美登利の学校へ通ふことふつと跡たえしは、〔…〕額の泥の洗ふても消えがたき耻辱 ちじよく を、身にしみて口惜しければぞかし」。そして「この屈辱は、物語の結末〔14節以下〕で彼女の肉体が蒙る不意の変調」につながっていく、「その象徴的な前兆といったものだろう」:つまり、14節以下で美登利は、「島田髷」に「鼈甲〔…〕 ふさ つきの花かんざしを挿した[極彩色]の」花魁 おいらん の「盛装で[郭内]から戻ってきて後、すっかりふさぎこんでしまう」。その「肉体的変調」の原因が、「初潮」か「水揚げ」か「初店」かをめぐって「一葉研究者のあいだで喧々囂々の議論があるが、〔…〕

 

 思春期の牧歌的な小世界に[濁り]をもたらし〔…〕少年少女の誰彼に楽園からの訣別と大人の世界の過酷な現実への覚醒を迫る何らかの腥 なまぐさ い[血の体験]がそこに含意されている」と読んでおけば十分である。「[色白]の彼女の額への、男物の[草履]による侵犯」は、「最終的に彼女の肉体に出来 しゅったい する」異変を予告する素描 スケッチ であった。

 

 

吉原公園」付近の「大黒屋」寮跡。「第2の泥事件」の舞台。

 

 

 『たけくらべ』の第2の「」事件〔12節〕では、「」を蒙るのは、寺の跡取り息子信如ですが、美登利信如の苦境を見ても手を差し伸べることができず、かえって、難なく信如を救い上げるのは、乱暴者の長吉なのです。この場面で美登利信如から遠ざけているのは、「泥草履」の一件での〔筋違いな〕恨みなどではなく、雨の往来で立ち往生している人が、近づいて見れば「仄かな恋心を抱いていた男友達だと気づい」たことによる「気おくれ」なのです。

 

 雨でぬかるんだ道を、裸足で歩くことはできない信如は、切れた下駄の鼻緒をうまく繋げないために、雨に濡れながら悪戦苦闘します。そこへ、「郭内」から朝帰りして通りかかった長吉は、苦も無く自分の履き物を貸し与え、自分は裸足で歩いていきます。

 

 信如は、「[]にまみれることを〔…〕必死に回避しようとしている」。長吉は、第1の「事件」で「美登利を[]にまみれさせ」、第2の「事件」で「信如を[]との接触から救」う。かくして長吉は、「[]をめぐる2人の運命に決定的な裂け目をもたらすことで、2人のあいだに仄かに」あった「恋情の顕在化を阻害し、それをあえなく潰えさせるという物語的機能を担っ」ています。(『明治の表象空間 下』,pp.32-36.)

 

 

『吉原の芸妓になるはずの「美登利」と、龍華寺の跡取りの「信如」は、やがて成人したあかつきには(美登利〔…〕は成人を待たずに)平俗な市民社会から逸脱』する『ことを運命づけられた存在である。ひとりは「濁り」の極へ向けて、もうひとりは「浄さ」の極へ向けて、「俗界」〔…〕の秩序を超えていかねばならない宿命が彼らを待っている。

 

 徹底的に「世間」内に自足した存在である「長吉」のこの物語での役割は、 一方には「」を付着させ、 他方は「」から守り、かくして両者を引き裂き乖離させつつ、両者の人生のヴェクトルをそれぞれの極に向かって〔…〕強化し加速させることなのだ。

松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,p.36.  

 

 

 松浦氏は、美登利信如の人生が両極に乖離していく点を重視しているようです。しかし、私の見るところでは、この「両極」はいずれも、戦前の日本「市民社会」を構成する必須の要素であったのです。彼らは「俗界の秩序を超え」るのではなく、あくまで「秩序」の枠内にあって「秩序」を両側から支える存在となることを運命づけられていたのです。「両極」の存在が、その間に横たわる「平俗な市民社会」の秩序を安定させていました。仮に、〈聖職者〉と〈娼婦〉のどちらか一方でも無くなったら、何が起きたかを考えてみれば、明らかなことでしょう。

 

 したがって、「平俗な」一般市民である「長吉〔「火消し」の棟梁の子でもある〕の役割とは、市民としてそれら「両極」を〈利用〉するとともに、 一方に「」を塗り、 他方を――あくまでもタテマエ上――「」に触れさせないようにして社会の秩序を維持する〈監視〉〈保安〉機能であったのです。

 

 

Alexei Harlamov, Woman and child, 1894. ©Wikimedia.

アレクセイ・ハルラモフ『女と子供』1894年。

 

 

 

【39】 「婦徳」と「衛生」の教え

 

 

『ここで、明治20年代の日本で、「にまみれる」ことがいかなる意味をもっていたかを改めて問うてみたい。

 

 教育勅語の婦女道徳版の鼓舞者として明治・大正の教育界に重きをなした下田歌子は、婦女子の国家的使命を謳った〔…〕小冊子『にはのをしへ』〔明治25[1892]年〕で、「凡そ女子の為すべき要務中、其最大なる職務は、家事経済に過ぐる者あらず」と断定したうえで、〔…〕「家事経済宜しきを得ば、其夫を助け、其子を教へ、其国を富ませ、其世を開明にするの基礎を為すに足るべし」と〔…〕。「修身斉家治国平天下」の儒教倫理と同型の〔…〕この世界観は、女性の役割を「斉家」の部分にのみ限定しつつ、しかしそれが自動的に「国」や「世」の発展に寄与するのだとすることで、性的分業と、女性における皇民アイデンティティの啓発とを都合よく折り合わせる〔…〕強力なイデオロギーである。

 

 〔…〕注目すべきは、この「家事経済」の具体的な内実として、下田が真っ先に「衛生」を挙げている点である。

 

 次に、婦人の、最も、注意せざる可 べか らざるものあり、他無し、衛生の一事即ちこれなり。衛生は、多く家政に関聯して、消長最も婦人の任に属す フジンノセキニンデアル

 

 衣食において、また「室内灑掃」において、清潔を保ち、家族が「身神疾病」に冒されないよう絶えず留意するのが主婦の務めだと下田は言う。女性とは、「」に代表される「汚穢」の排除を通じて自身の夫と子供を幸福にし、それを通じて国を富ませ世の中をより良くする存在でなければならないのだと、』

松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.37-38. .  

 

 

 そうだとすれば、一葉の「の主題系」で描かれたような〈食べ物を泥にまみれさせる行為〉は、それがコメであろうと一片の菓子であろうと、家庭内での「婦人の職務」にもとるだけでなく、「国を富ませ」「世を開明にする」ことに貢献すべき「臣民女性としての失格を意味する」こととなる。

 

 なお、「開明にする」と言っていることから明らかなように、下田は、一方では儒教倫理に立脚しながら、他方で「啓蒙」思想の宣布者をもって任じています。皇民イデオロギーに適合するように「理性」を限定的に使用し、「小さな正論」として教義の正当化をはかっていると言えます。

 

 『たけくらべ』の「 第2の事件」のさいに、美登利が、寮の外の往来で下駄の鼻緒を切って難渋している通行人がいるのを見て――それが信如だとは気づかぬまま――、「紅入りの友禅の切れ端を手に〔…〕飛び出してきたのも」、[徳義心]――〔…〕下田歌子の偏愛する語彙〔…〕――の一種たる[衛生]的配慮から発する身振りであったとも言える。美登利は幼いなりに、男性の」身づくろいに常々配慮し整えるべき「婦人」の「使命を果たそうとしたのである。」

 

 

「台東区立台東病院」。台東区千束3-20-5。1911年に警視庁が娼妓の治療のために

設けた性病専門の「吉原病院」を前身とする。おそらくそのさらに前身は、

『たけくらべ』にも描かれた明治年間の「黴毒検査場」であろう。

 

 

 ところが、いざ「通行人」に近づいて、それが信如であることを認めるや、美登利は、思わず顔を赤らめて格子門の陰に身を隠してしまいます:

 

 

『昨日も今日も時雨 しぐれ の空に、〔…〕信如は雨傘さしかざして出 いで ぬ。

 お齒ぐろ溝
 どぶ の角より曲りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで來し時、〔…〕前鼻緒のずる\/と拔けて、〔…〕大事に成りぬ。

 

 信如こまりて舌打はすれども、〔…〕大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇に厭ふて鼻緒をつくろふに、常々仕馴れぬお坊さまの、これは如何な事、心ばかりは急 あせ れども、〔…〕事の成らぬ口惜しさ、ぢれて、ぢれて、〔…〕膝へ乘せて置きし小包み意久地もなく落ちて、風呂敷は泥に、我着る物の袂 たもと までを汚しぬ。

 

 〔…〕美登利は障子の中ながら硝子ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母さん切れを遣つても宜う御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍 もど かしきやうに、馳せ出 い でゝ椽先 えんさき の洋傘 かうもり さすより早く、庭石の上を傳ふて急ぎ足に來たりぬ。

 

 それと見るより〔信如だと認めた途端に〕美登利の顏は赤う成りて、何のやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後 うしろ の見られて、恐る\/門の侍 そば へ寄れば、信如もふつと振返りて、此れも無言に脇を流るゝ冷汗、跣足 はだし になりて逃げ出したき思ひなり。

 

 平常 つね 美登利ならば信如が難義の體を指さして、あれ\/彼 あ の意久地なしと笑ふて笑ふて笑ひ拔いて、言ひたいまゝの惡 にく まれ口、よくもお祭りの夜は正太さん〔の「表町組」〕に仇をするとて私たちが遊びの邪魔をさせ、〔…〕お前は高見で采配 さいはい を振つてお出なされたの、さあ謝罪 あやまり なさんすか、〔…〕私の事を女郎女郎と長吉づらに言はせるのもお前の指圖、女郎でも宜いでは無いか、塵一本お前さんが世話には成らぬ、〔…〕さあ何とで御座んす、と袂を捉 と らへて捲 まく しかくる勢ひ〔…〕もあるべきを、物いはず格子のかげに小隱れて、さりとて立去るでも無しに唯うぢ\/と胸とゞろかすは平常の美登利のさまにては無かりき。』

樋口一葉『たけくらべ』, 12節,青空文庫. .  


 

 この場面における美登利の態度の変容については、淡い恋心を抱いていた信如をいきなり男性として意識したため、と解するのが通常の読み方です。そして、その前兆ないし伏線として、「千束神社」の祭礼での ひと悶着のあと美登利が登校しなくなった理由についても、初潮による身体の変調のため、水揚げ〔遊女志願者に性交を初体験させる儀式〕のため、などの憶説が唱えられているわけです。

 

 

台東区竜泉3丁目。

 

 

 松浦氏は、それを否定するわけではないのですが、同時に考えられる別解釈として、美登利信如の前で躊躇させた原因は心中の煩悶もあり、男性にたいする「徳義心」の実践を命ずる〈婦人倫理〉と、自らは〈婦徳〉の埒外の遊女であるという意識とが、彼女のなかで相剋していた、と指摘するのです。

 

 というのは、上のテクスト↑にもはっきりと表れているように、美登利は心の中で、「私の事を女郎女郎と〔…〕言はせるのもお前の指図、女郎でもいいではないか」と頻りに「女郎」に拘った啖呵を考え、口には上せずに圧し刹しているからです。そもそも信如美登利やその家族を罵ったことなどなく、信如長吉らを「指図」したなどというのは、美登利のまったくの邪推であるにもかかわらずです。(『明治の表象空間 下』,p.39.)

 

 

『このとき彼女のうちで、「賢媛節婦」の守るべき行動規範として下田の宣揚するような〔…〕正しい「をしへ」』と、そこから『根本的に逸脱した「濁り」の異界に入っていかざるをえないみずからの宿命への思いとが、葛藤していたことは明らかだろう。そして、その葛藤が彼女を立ち竦ませているうちに、「信如」の難儀は他人〔ギトン註――長吉がさっさと救ってしまう。「女子の為すべき要務」を果たせずに終わた「美登里」は、自分が下田流の〔…〕通俗道徳の支配する市民社会の外に弾き出された存在であることを、改めて』思い知る。

松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.39-40.  

 

 

 彼女の敗北感の「端的な象徴たる友禅の端切れ」は……

 

 

〔…〕思ひの止まる紅入の友仙は可憐 いぢら しき姿を空しく格子門の外にと止めぬ。』

樋口一葉『たけくらべ』, 13節,青空文庫. .    

 

 

 ここで「第13節は締めくくられ、その直後の第14節で、いよいよ髪を島田に結った「美登利」の吉原入りが語られることになる。」

 

 

『第13節から第14節への移行に、あえて彼女の心理の内的必然性を透視してみるなら、好きな男の身なりを清潔に保つという一般社会の「にはのをしへ」〔家庭の訓戒,婦人道徳――ギトン註〕をついに実践しえなかったことの挫折感が、芸妓としての人生へ向けての決定的一歩を踏み出させたとも言えるし、あるいはまた、男を「」から救いえなかった無力感への贖罪として、彼女みずからが「」にまみれることを受け入れたとも言える。

松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,p.40. .  

 


 

 

 


 こちらはひみつの一次創作⇒:
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