甲州高尾山 大滝不動尊 羅漢石像
【1】 周辺基礎知識のおさらい
タイトルは「東アジア」だが、インド,中央アジアについてもひととおりは解説している。「アジア仏教史」という膨大な範囲を、新書のサイズに圧縮して要領よく、しかも他の本に書かれていないような目新しいデータまで網羅している。人名・神仏名索引が充実しているので、辞書のようにも使えます。
しかし、全体をレヴューしようとすると、もとの本と同じ量になってしまいそうなので、目についたところだけ、さらっと紹介することにします。いきおい、インドの仏教が、伝わってくる過程でどう変容して、日本の各種宗派という、もとの仏教とは相当違うものになっていった過程――その変遷史をたどることになります。
とは言っても、じっさいの「仏教の歴史」は、決して日本に伝えるために発展してきたわけではない。日本に伝わった経路も、その結果も、膨大な「仏教史」から見ればごく一部のことにすぎません。
たとえば、仏教には「大乗」と「小乗」があって、北伝仏教〔北西インド→中央アジア→中国〕は「大乗」で、南伝仏教〔南インド→東南アジア〕は「小乗」だ、などと言われますが、これは明治以後の日本で広まったフェイクです。南インド・スリランカからビルマ・タイ方面へは、「大乗」宗派も、「小乗」とされる宗派も伝えられています。シュリーヴィジャヤ王国〔マレーシア・スマトラ島〕には「大乗」仏教の本拠地があって、中国の義浄はインドからの帰路、ここに数年とどまって研究しています。
「大乗」をふくむ「南伝」の先は、中国,日本に達しています。東大寺・大仏開眼法要で導師を務めたのはインド僧菩提僊那であり、僊那とともに来日した林邑〔ベトナム〕僧仏哲は、大安寺でサンスクリット語を教えました。仏典の一部である真言〔マントラ〕をサンスクリット音で読むことは、当時の僧には必須の教科だったからです。
インド,中国という “センター” と周辺諸国との関係も、センターから周辺に仏教が伝わる・というような一方的なものではありませんでした。というのは、2つのセンターではしばしば仏教弾圧が行なわれて僧尼が大量に刹害され、寺院も経典類も、そのたびに焼き払われたのです。弾圧がやむやいなや、失われた経典も、知識と精神も、周辺から逆輸入されました。その過程で、周辺国の土着信仰の影響を受けて変容した仏教がもたらされ、センターの仏教が発展していく刺激となることもありました。これは、韓国と中国のあいだ、日本と中国のあいだでも見られます。
センターのあいだでも、中国→インドという逆方向の伝播が珍しくありません。唐時代には、玄奘〔三蔵法師〕のような中国僧がインドへ赴いただけでなく、インドから中国へ、進んだ教義と信仰を求めてやってくる僧も多かったのです。中国の「五台山」には「文殊 もんじゅ 菩薩」がいるとの信仰が、インドに広がっていたほどです。インドでは失われた経典が、漢文からサンスクリットに再翻訳されてもたらされた例〔『大乗起信論』など〕も少なくない。
弥勒菩薩交脚像 ガンダーラ、2-3世紀。龍谷大学龍谷ミュージアム。
©読売新聞 / 川崎公太.
【2】 シャカの出現から「大乗」成立まで
『仏教の歴史は、釈尊〔シャカ〕観の変化の歴史にほかならない。それぞれの時代の〔…〕人々が、自分にとって好ましいイメージを釈尊に投影してきたのだ。』
石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,p.1. .
もともと、シャカ生前の「僧伽 サンガ」〔出家者の集団〕では、「釈尊の指導によって悟った修業者は、ひとしく[ブッダ]と呼ばれた。」「サンガ」とは「合議制の集団」という意味の語で、つまり成員の平等が含意されており、カースト最下層の「シュードラ」やそれ以下のカースト外身分の者も、シャカに入門を認められれば「サンガ」に入ることができた。「サンガの内部では、生まれや身分や年齢はまったく問題にされず、入門を認められた順番を上下の序列としていた。」ただ、性別に関しては、シャカは当初、女子の入門を認めなかった。その後、側近弟子のアーナンダに説得されて条件付きで認め、女子出家者(尼)は、男子とは別の「サンガ」を構成した。
しかし、シャカ入滅 100年後とも 200年後とも言われる「部派仏教時代」になると、シャカだけを「ブッダ(仏)」と見なすようになり、しだいに出家者・信者のあいだに、修業の進行程度で区分した階層制が設けられるようになります。
ガンジス川中流域で誕生した仏教が、西北のインダス川流域にまで広がったころ、各サンガのあいだの意見の相違が大きくなり、「長老たちが集まって協議した結果、金銀や銭の布施を認める」多数派(大衆 だいしゅ 部)と、認めない伝統派(上座部,長老部)に分離した。これ以降を「部派仏教」時代という。上座部,大衆部は、それぞれがまた「律」〔教団規則〕の細かい解釈で多くの派に分かれ、上座部からは「説一切有 せついっさいう 部」「軽量部」「法蔵部」などが生じた。
部派仏教を代表する「説一切有部」の教義は、シャカの本来の教えである「事象の無常さ」を強調しつつも、無常な〔変化してやまない〕事象を「構成している・微細な諸要素」は、実在する・と説いた。変化する世界の根底に、不変な微粒子の実在を見るギリシャの「原子論」にも似た考え方だと言える。シャカ入滅からこの頃までの間に、西北インドでは、アレクサンダー大王の遠征に率いられてきたギリシャ人が多数移住してきており、彼らの思想的影響があったようだ。
この時代には、シャカの人間像――釈尊観――もさまざまに分かれ、シャカを「気さくで親しみ深い人物として描く」経典もあれば、空を飛んで身体から火や水を放つ超人として描くものもあった。同時に、誕生前の前世のシャカについても伝説が創られ、「ジャータカ(本生譚 ほんじょうたん)」が書かれた。「ジャータカ」の多くは、厳しい捨身の行 ぎょう〔動物であった時に、猛獣や、餓えた人間に食われて利他を行なったこと〕に耐えてブッダ〔仏〕となる道を歩んできた姿を語っていた。釈尊が「悟り」に達したのは、「数限りない前世において修業を積んできたためだと考えられるようにな」った。
弥勒菩薩立像 2-3世紀、片岩、
ニューデリー国立博物館 ©kawai3.sakura.ne.jp.
教義が世界観を含んで体系化されると、シャカ以外の「仏」の存在も主張されるようになる。最も早く現れたのは「弥勒」で、「弥勒」は天上の「兜率天 とそつてん」に住んで修行を続けているとされた。そして、遠い将来に地上に誕生し、シャカと同様に出家して「菩提」に達し、ブッダとして人びとを教化する――という「弥勒下生 げしょう」信仰が生まれた。
修業者のあいだのヒエラルヒーは、まず「菩薩 ぼさつ」という聖人的な修行者が分別される。「菩薩」は「菩提薩埵 ボーディサットヴァ」のことで、菩提〔ボーディ:悟りの智慧〕を求める者という意味。もとは、悟りを得る前のシャカを指したが、「仏」の範囲が拡張されると、ブッダとなるべく修業中の者にも、「菩薩」と自称する者が出てくる。(pp.1-2,24-25,27-29,32.)
『釈尊の弟子もブッダになりうることを認めていた最初期の仏教と違い、部派仏教は釈尊だけを、独自の智慧に基いて教化するブッダとみなし、自分たち〔ギトン註――出家修行者〕は、煩悩を断ち切って輪廻から脱する「アルハット(阿羅漢 あらかん)」となることを修業の目標とした。
在家信者については、僧侶や仏塔などを供養して生天〔天人に生まれ変ること。つまり、輪廻から脱することはできない。――ギトン註〕を願うことが求められた。
しかし、紀元前後頃になると、こうした〔ギトン註――在家信者は解脱して仏になることができない〕状況に満足できず、仏に会って教えを聞くことを熱望し、さらには菩薩として修業を重ね、自らが仏になること(成仏)を願う在家の男女の求道者が登場する経典群が、インド各地で生まれた。
やや後になって〔…〕「マハーヤーナ(大乗)」と名乗る〔…〕そうした経典類では、伝説化が進んだ仏伝やジャータカなどに基いて造形された釈尊や、他の仏や超人的な菩薩たちが登場している。〔…〕
各地に実在していた有力信者も、初期の大乗経典では在家菩薩として登場して〔…〕いる。〔…〕在家信者たちと親しく、部派仏教の現状に不満を抱いていた僧などが、要望に応えて大乗経典を作成していった』
石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.31-32. .
大乗仏教で最も古い経典群は「浄土経典」で〔後1世紀~〕、その教義は、娑婆世界〔この世〕のはるか「東方」に、「浄土(極楽)」という世界があり、その世界には悪人も病気もなく、誰もが安楽な生活をしながら修行をすることができ、容易に「輪廻」から解き放たれて「阿羅漢」となる、というものだった。
初期の浄土教典では「東方」とされたが、その後現れた経典では、阿弥陀仏が主宰する「西方浄土」とされ、「阿弥陀仏の名を称 とな えれば極楽に生まれることができる」とシャカが賞賛して語ることになる。また、「仏に会いたいなら、心に強く願えば、阿弥陀仏などそれぞれの仏国土に現存する諸仏が目の前に立ってくれる。〔…〕仏は心が作り出すものだ」と説く経典もあった。「浄土経典は西北インドで成立しており、イラン系の光明信仰の影響が指摘されて」いる。
観音菩薩立像 清水観音堂、岩手県花巻市。
少し遅れて成立した『法華経』では、釈尊は永遠の存在であって亡びることはなく、年老いて「涅槃」に入ったの(入滅)は、人びとを教化するための単なる「方便」にすぎない、と説いた。『法華経』はまた、「三乗を包含する[一乗]説を打ち出して大乗思想を進展させた」。この「一乗」説も、「方便」の論理を応用したものと言っていい。
「三乗」とは、部派仏教で説かれた3種類の修行方法で、「煩悩を断じた聖者になることをめざす[声聞乗 しょうもんじょう]、一人で悟って森の中などに住み・教えを説かずに亡くなる聖者となるための[独覚(縁覚)乗 えんがくじょう]、仏となるための修行の道である[仏乗]」。「仏乗は、釈尊だけのものとされていた。」「大乗」の「般若経典」群は、「仏乗」を、一般の男女が誰でも実践できる「菩薩乗」に置き換えた。
『法華経』は、これをさらに先へ進め、「声聞乗,縁覚乗,菩薩乗」の「三乗」をシャカが説いたのは、「人それぞれの能力に合わせて導くための方便であ」る。つまり、シャカはそれぞれの教えによって人びとを成熟させたのちに、それらは実は、仏になるための「仏乗にほかならな」かった、ことを明かして「一乗の教えを示し、仏の智慧を得させるのだ、と説いた。」
観音菩薩は、『法華経』のうち最も成立の遅い章「普門品 ふもんぼん」で出現した。観音は、「慈悲の眼で人々を観察し、その人にふさわしい姿に変化して現れ、苦難に陥った者を救う」とされ、現世ではシャカ,アミダ以上に頼りになる存在だった。このように、『法華経』は「現世利益」でも信徒を惹きつけようとした。
「十方世界の国土に仏として姿を現わす・光り輝くヴァイローチャナ(毘盧遮那)仏を中心とする『華厳経』は、さまざまな内容を含む長大な経典だ。菩薩の修行の階梯を説いて、[この世界は心のみからなる]と」の「唯心思想を説く[十地品]、仏の智慧はすべての人々のうちに浸透していると説く[性起品]、善財童子が各地を遍歴し、医師や国王や船頭や遊女など〔…〕さまざまな階層の男女から教えを受ける[入法界品]など」がある。「入法界品」からは、のちに密教が生まれた。(pp.32-33,36-37.)
【3】 「如来蔵」思想の成立
「如来蔵」〔タターガタ・ガルバ〕は、中国で「仏性 ぶっしょう」と言い換えられました。つまり、ブッダの本質は・すべての人のなかに「蔵」されている、という考え方で、しかもその範囲は、仏教伝播の過程で 人間→有情〔うじょう。≒動物〕→植物・無生物も‥‥と、しだいに拡張されてきました。
しかし、人について考えても、あらゆる人は「煩悩」を抱えていますから、「煩悩」と「仏性」は矛盾するのではないか? …ここで仏教は、西洋流の「矛盾」という考え方を避けようとします。「煩悩」にみちた人間の中に「如来(仏)」が蔵されている、と考えるわけです。それがどうして「矛盾」ではないのか、という説明は流派によって異なります。たとえば、「仏性」というものは本質的に「煩悩」と結びついている。「仏」自身が「煩悩」をかかえているからこそ、「仏」の教えは凡夫をも感銘させることができるのだ、という解釈も中国では現れます。
大聖歓喜天 ©kosho.or.jp 「歓喜天」または「聖天」は、
ヒンドゥー教の「ガネーシャ」に相当する神格で、しばしば
2体の人(異性または同性)・象頭の人が交わる像で表現さ
れる。埼玉県日高市の聖天院は、7世紀に高句麗から亡命し
た「高麗王若光」の守護仏だった歓喜天像を本尊とする。
日本で歓喜天信仰が盛んになるのは近世以後で、斑鳩・
法起寺の聖天堂(1863年)、京都山科の双林院(山科
聖天)、横浜市の弘明寺などがある。
「如来蔵」思想は、中国に伝えられてから大きく発展したので、東アジア仏教の特質のようにも言われます。が、その前身はすでに西北インドの「大乗」教派のなかで成立していました。それが「如来常住」です。
「大乗」以前の初期経典『大般涅槃経 だいはつねはんぎょう』では、シャカの超人性や神通力を主張する一方で、その臨終に至る実情を赤裸々に伝えており、「病気を気力で抑え、心の安らぎを保つ」さまを描き、「下痢しながら」遍歴説法の旅を続けたと記しています。「部派仏教の僧たちは、これを、人の身の無常さを説いた釈尊の教えの正しさを示すものとして受け取り、信仰を深めていたのだ。」
しかし、「大乗」の『涅槃経』は『大般涅槃経』を「全面的に改め」、「如来〔真理の体現者としての釈尊――著者註〕は〔…〕永遠」の存在であって、釈尊が「入滅した」などと考えてはならないとし、シャカの火葬の場面なども削除している。釈尊は、釈尊が「ここにいる」と「観想する者の家にいる」。――これが、「如来常住」の思想です。
「如来常住」の思想は、インド「大乗」のなかで直ちに拡大・深化します。「ブッダ・ダートゥ(仏性)」とは本来、①ブッダとなる原因、②仏の骨、を意味する言葉でしたが、『涅槃経』の「如来常住」は、「ブッダ・ダートゥ」が「すべての人々の体のうちにあると述べ」、仏舎利を埋めた仏塔(ストゥーパ)を拝むよりも、ブッダを内蔵する「自分自身を礼拝すべきだと説い」た。そして、「帰依の対象である仏・法・僧の[三宝]のうち」法も僧も、仏と一体であり「ブッダ・ダートゥのうちにある」としたのです。
「そのうえで、この『涅槃経』の教えを否定する者たち〔…〕は、邪悪なイッチャンティカ(一闡提 いっせんだい)であって、仏になれない者だ、と警告」しました。つまり、あまねくすべての人が「仏性」を蔵しているとは言っても例外はある。誰でもが成仏できるのではない、というわけです。《誰でもが成仏できる ←→ 成仏できない者もいる》という論点は、のちのちにわたって大きな論争を引き起こしていくこととなります。
「『涅槃経』のややのちには、すべての生き物は如来を蔵した[タターガタ・ガルバ(如来蔵)]であって、煩悩にみちた人々の身中に如来が坐していると明言する『如来蔵経』や」、「如来蔵」を疑うべきではなく、「如来蔵」とは「仏のみが知りうる境地」なのであるから「ひたすら信ずべきである、と述べる『勝鬘経 しょうまんぎょう』なども生まれた。」
「如来蔵」思想と並行して、「大乗」のなかで形成されていった思想に、「肉食の忌避」があります。すべての動物までが「仏性」を備えているのだとすれば、人を刹してはならない(シャカの「五戒」の第1)のと同様に、動物も刹して食物にしてはならないことになります。
もともと部派仏教では、「三種浄肉」という一定の条件のもとで・肉食を認めていました。出家修行者(僧)も「三種浄肉」の摂食は許されていたのです。が、「すべての生き物は仏性を有するとする『涅槃経』は、食肉自体を禁じた。こうした考えは、教団規則である[戒律]とは別に、利他の心得を説く[菩薩戒]として大乗仏教で発展していった。」(pp.39-40.)
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