花巻は、ほんとうにひさびさなんですね。新幹線の「新花巻」駅ではなくて、こちらの在来線の駅から街に入るのが好き。
駅前は、ちっとも変わってない。「風の鳴る林」というモニュメント↓。説明板にも、空が映るしかけになっていて、なかなか凝ってる。
↓とりあえず、お城へ行ってみようか。お城散歩の出発点は、れいによって「イトーヨーカドー」――この町唯一の大規模スーパー、‥‥と思ったら、名前が変わっていた。
「シーナシーナ」だって。↓地図にはまだ「イトーヨーカドー」と書いてあるけど、現地ではバス停の名前も変更済み。バスの中で乗客が、
「シーナシーナって‥‥」
「はあ? ‥何だかね」
町の人もまだ馴染まないようだ。
↓なるほど、店が「イトーヨーカドー」から「ロピア」に入れ替わったわけね。
‥‥いやいや、これはいったい何だ??
「オイ CiiNA CiiNA タノCiiNA CiiNA ウV CiiNA CiiNA」??
「オイタノウV」?? って名前の店? ビル? ‥‥
それとも 「老いた農ヴイ」? 「置いたの売れ」?
「なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」
宮澤賢治『注文の多い料理店』序. .
このスーパー、宮沢賢治の読み過ぎじゃないかしらん。。。
↓回れ右すると、「花巻城」のほうは、どうやら無事らしい。下で工事してる以外は異常なし。。。。白壁・瓦葺きは、最近復元した「西御門 にしごもん」。昔の建物は残っていません。
↑坂を上がっていきます。↓案内板。
「花巻城(鳥谷ヶ崎 とやがさき 城)」は、「前九年の役〔1051-1062〕」で安倍頼時が城柵を設けたのが始めと伝えられるが確証はない。戦国時代にこの地域(稗貫郡)を支配していた国人領主稗貫 ひえぬき 氏が、享禄年間〔1528-1532〕にここに本城を築いたが、豊臣秀吉の「奥州仕置」〔1590年。秀吉の小田原征伐に参陣しなかった奥州等各地の国人から所領を没収した〕により豊臣氏の武将浅野長政が入城。城と所領を奪われた稗貫広忠は、隣郡の和賀 わが 氏とともに蜂起し「鳥谷ヶ崎城」を攻囲したが(和賀稗貫一揆 1591年)、豊臣勢の再征服軍に鎮圧された。戦後、稗貫郡は、盛岡(不来方 こずかた 城)の豊臣方・南部氏の領地に編入され、「鳥谷ヶ崎城」は「花巻城」と改称され、南部氏の城代北 きた 信愛 のぶちか・秀愛 ひでちか 父子が入城した。
その後、「関ケ原の戦い」(→慶長出羽合戦 1600年)に際して、南部氏は東軍(徳川方)に属したが、出征の隙を狙って和賀氏の残党が、仙台・伊達氏の後ろ盾を得て再蜂起し、「花巻城」を襲撃した(花巻城の夜討ち)。城内の兵は圧倒的に少数で苦戦したが、夜明けとともに南部勢の援軍が到着して形勢は逆転し、和賀勢を胆沢 いさわ 地方(奥州市:仙台藩領)に押し返した。
江戸時代の「花巻城」は、南部氏の代官が拠って和賀・稗貫2郡を支配した。1613年に北信愛が死去すると、「花巻城」は南部藩主利直 としなお の次男政直 まさなお の居城となり、その後は(世襲領主は無くなり)南部藩の城代が置かれた。
ところで、花巻市藤沢町の「天満宮」境内にある江戸時代の石碑には、「花巻」を「花牧」と書いているものがあります。おそらく、地名の起こりは「花牧 はなまき」または「ハナ牧 まき」〔「奥のマキ」に対する「ハナの牧場」〕ではないか〔宮城県「石巻」も元は「石ノ牧」?〕と、私は想像します。
↑坂を上がって入ったところは「二の丸跡」で、「御長屋跡」という標柱が立っています。
復元された「西御門」から「本丸」へ入って行きます↓。
↑「本丸」側から「西御門」を振り返る。↓「本丸」。
「本丸」は、へりの「土手」↑が見どころなんです。農学校教師になった頃の賢治は、授業の空き時間になるとよくこの城跡に来て、土手に寝転んで空を眺めていたようです。新米の先生は、心労が多かったんでしょうね。
『 休 息 〔1922.5.14.〕
そのきらびやかな空間の
上部にはきんぽうげが咲き
〔…〕
(よしきりはなく なく
それにぐみの木だつてあるのだ)
からだを草に投げだせば
雲には白いとこも黒いとこもあつて
みんなぎらぎら湧いてゐる
帽子をとつて投げつければ黒いきのこしやつぽ
ふんぞりかへればあたまはどての向ふに行く
あくびをすれば
そらにも悪魔がでて来てひかる
このかれくさはやはらかだ
もう極上のクツシヨンだ
雲はみんなむしられて
青ぞらは巨きな網の目になつた
それが底びかりする鉱物板だ
よしきりはひつきりなしにやり
ひでりはパチパチ降つてくる』
宮澤賢治『春と修羅』. .
「キンポウゲ」が茎を高く伸ばして咲いているとか、「ぐみの木」が生えてるとか、枯れ草が「極上のクッション」だとか、当時の「本丸」は、放置されて草ぼうぼうのヤブになっていたのが分かります。
↑下に「シーナシーナ」が見えます。その向こうの山々は、花巻温泉~紫波山塊方面。火山性の溶岩残丘でごつごつしています。『春と修羅』には、「岩頸」「岩鐘」という専門用語で出てきます:
『 雲の信号 〔1922.5.10.〕
あゝいゝな せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
〔…〕 』
宮澤賢治『春と修羅』. .
農学校の「実習田」で、生徒たちと作業中にメモした「スケッチ」のようです。「実習田」跡は「シーナシーナ」の向う側で、案内の標柱が立っています。
↓「本丸」の一角で、発掘作業をしていました。あらたに建物か門の遺構が発見されたようです。発掘地の向こうの低いところは、お堀です。
↓「鐘搗堂前御堀 かねつきどうまえおほり」いまも水をたたえている唯一の堀。
お堀のわきを通ってグランドに出ます。建物は、「花巻小学校」。
タイムレコード 20250726
「シーナシーナ」バス停1004 - 1026花巻城「西御門」- 1045「鐘搗堂前御堀」- 1049花巻幼稚園 - (2)へつづく。