大戦終結前夜の 1945年4月、コロンビア大学を訪問したジャン=ポール・サルトル

(中央)とアルベール・カミユら。アメリカの聴衆の前で「アンガージュマン」

即ち、政治とレジスタンスに「参加する文学」を表明するサルトル

Jean-Paul Sartre expounding on "littérature engagée", or committed

 literature, in 1945 April, at Maison Française of Columbia Univ., NY.

©The New York Times / Maurice Emerson.

 

 

 

 

 

 

 

 

【46】 「テクノクラシー」と「合意の政治」

――「階級闘争」と「大衆」の消滅か?

 


『1950年代と 60年代は「合意 コンセンサス の政治」という概念で特徴づけられることが多い。〔…〕極右がファシズムによって信用失墜し、戦後の左派が〔…〕ますます穏健化すると、中央が拡張した〔…〕。たしかに、異なる政治原理(および異なる政治的想像力)に基づく政策上の不一致が存続していた面』はあった。『が、共有された目標が実際に存在したことも事実なのだ。なかでも「安定」』は、『1945年以後、あらゆる』党派が右から左まで共通して掲げた目標だった。

 

『戦後の世界では、安定は、なかでも、より高い生産性とより大きな富を目標に労使が協働する「生産性の政治」によって保証されることになった。〔…〕一つの理由は「技術者支配 テクノクラシー」の強調にあった。社会的・経済的問題には技術的に正しい解答が実際に存在するのだから、』「階級敵」となって『争うのは無意味だ、というわけである。そして、自動的に捨て去られたのが、産業民主主義労働者自治の理想であった。決定権力を、〔…〕無資格の労働者に与えても意味がない、〔…〕資格のある専門家』こそが、社会と産業の決定に参与する能力を有している。『労働者は、〔…〕組合が手に入れてくれた最高限の賃金と労働条件で満足していればよい。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.35-36. .  

 

 

 「価値」は平準化し、国家は技術的機能だけが求められるようになり、「合意」は「安定」のための手段として、「安定」は、「安全」という圧倒的価値によって正当化された。すでに 1955年にスウェーデンの分析家ティングステンは、「価値の一般的基準が共通に受け入れられたので、国家の機能は技術的になり、政治の実践は応用統計学の一種〔…〕になる」と主張していた。ドイツのキリスト教民主同盟(CDU)の「有名な選挙スローガンは、[実験はしない]であり〔…〕[安全は安全だ]であった。なるほど、1966年には「社会民主党(SPD)が 1930年以来」の政権復帰を遂げた。が、その場合も SPD は、変化を「一層の安定を達成する手段として提示」するというやり方で初めて支持を得たのだった。

 

 この時期のヨーロッパ諸国では、諸政党、諸政府は、経済,社会にわたる大規模な「計画」を次々に掲げて実施した。「それは、左右の対立を超えて」流行した。「大規模計画」は、「政府が社会全体をみちびき、安定化させ、安全にするという信仰の最も明瞭な表現」であった〔★〕。「計画は、むろん[科学的]でなければならない。その際、〔…〕戦後このうえなく自信をもつようになった〔…〕社会学と経済学が、助けになると思われた。」

 ★註「安定化の手段としての[計画]」: たとえば、現在韓国李在明政権は「5か年計画」を打ち出しているが、過剰な陣営対立によってカオス化してきた韓国の政局と人心を安定化させる政策意図を見るのが正確なように思われる。「計画」だからといって社会主義的政策だとは、必ずしも言えない。それにしても、政権の政策ブレインは思いのほか強力なようである。

 

 

 もっとも、こうした「計画」万能→政府万能の考え方に対しては、とくにイギリスでは抵抗があった。イギリスでは、かつて政府の機能拡張を警戒する「多元主義」の考え方が、知識層の支持を集めていたからだ。「イギリスの労働組合は、福祉国家を支持する一方で、計画には抵抗した。」戦間期に「多元主義」の論陣を張ったG・D・H・コールは、いまや「国有化政策が[官僚主義と大企業との悪しき]」混血雑種「になっていると批判し」、かつて主張した「ギルド社会主義の原理に立ち返った。」アーネスト・バーカーは、「技術者支配 テクノクラシー、とりわけ計画に対して」反対し、「計画で生じる政治的緊張」は、英国人の伝統的な「多元主義的感性」とも「本能」とも調和しないと主張し、「経営と操作とを行なう国家」を批判した。「紳士にして学者」なる人びとによる「反専門家風の統治」こそが、「紳士のクラブとして理解された」英国国家には、ふさわしいのであった。(pp.36-38.)

 

 

ジョルジュ・ルオー『秋の終り Ⅴ』1952年。

Georges Rouault, Fin d'automne-V. ©Fondation George Rouault

 

 

『とはいえ、大陸では技術者支配 テクノクラシー、あるいはウェーバーの「鋼鉄の容器」は、恥ずかしげもなく推奨された。その「容器」の中に安全があるように見えたからである。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.38. .  

 

 

 こうして、「近代化」された「産業社会」の将来についてオプティミズムが支配するとともに、「国家」の意志決定と「民主主義」をめぐる尖鋭な対立は影をひそめ、「技術者支配」の万能性を信仰する楽観的な “政治無用論” が広がったのです。それは、つまるところイデオロギー対立と政党・議会の役割をお蔵入りにし、官僚制の統治権限を無限大に引き伸ばしてしまうものでした。

 

 

『産業社会、あるいは〔…〕「科学的」で「合理化された」社会は、いまや国家に依存しなくとも〔…〕自ら安定化できると断定したい空気があった。シュミットの弟子〔…〕エルンスト・フォルストホフは 1960年代末に、「社会総体の中核はもはや国家ではなく、産業社会である。〔…〕この中核の特徴は、完全雇用と GNP の増加である」と明言した。〔…〕西ヨーロッパが急速に近代化しており、近代化が、永くつづいたイデオロギー対立、端的に言えば階級闘争を終わらせるだろうという感覚は広く見られたのである。ドイツの社会学者ヘルムート・シェルスキーはこれを「平準化された中産階級社会」と診断した。〔…〕階級対立をめぐる言語表現は廃れつつあった。

 

 それどころか、「大衆」という表現も消滅した。〔…〕1960年代初頭には、価値中立的な「社会」や「産業社会」がそれに取ってかわった〔…〕。文化批判に代わって社会学が、その高度に抽象的な概念とともに、政治的思考の通奏低音となる傾向を見せた。


 だが、近代化が、およそ近代的とは言えぬものに保護されて進められた点も、忘れてはならないだろう。87歳まで西ドイツ首相を務めたアデナウアーや、最初に首相になった時すでに 64歳だった〔ギトン註――イタリア首相〕デ・ガスペリ、あるいはフランス大統領ド・ゴール〔…〕のような人物に体現された家父長的な政治指導がそれである。彼らの多くは〔…〕政治の脱演劇化を試みた。これらの老人たちは、意識的に反カリスマであり、因習的ブルジョワの風貌をもっており、ファシストや、広く戦前に見られた若さへの崇拝と〔…〕好対照を示していた。それは、〔ギトン註――ファシズムのカリスマに幻滅した〕多くの人をすこぶる安心させる好対照であった。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.38-39. .  

 

 

エルヴィン・フォルマー『ミソサザイ』1955-1965年。

Erwin Vollmer, Zaunkönige(Troglodytes troglodytes). ©Wikimedia

 

 

 

【47】 「民主主義」の全体主義化を防ぐには?

――「憲法裁判所」と「戦う民主主義」

 


安定が、「生産性の政治」や計画や消費主義から自動的に生じたと考えるなら、それは誤りである。政治制度にも、安定を担う役割が期待され〔…〕た。20世紀のヨーロッパ』『最も重要な技術革新の一つが、憲法裁判所の創設である。これは、アメリカの最高裁判所の単なる模倣ではなかった。〔…〕司法審査という』・違憲な法律・命令・規則などを裁判所が審査する慣行はアメリカ合州国にもあったが、それが「憲法裁判所」制度として確立されたのは、第1次大戦後の「オーストリア憲法」が初めてだった。オーストリアは、制定法の合憲性の司法審査制度〔…〕としては、アメリカ、オーストラリアについで3番目であったが、合憲性の審査を一元化し・独立の裁判所に委ねた最初の国であった。』この「オーストリア憲法」を起草したハンス・ケルゼン〔…〕は、1930年〔…〕まで自ら憲法裁判所判事として活躍した。〔…〕ケルゼンは、司法審査を、〔ギトン註――立法・行政府との〕抑制・均衡の観点から擁護し、〔…〕憲法裁判所は反民主的だ・という批判を否定しつづけた。『1930年代初頭のカール・シュミットとの有名な論争のなかで〔…〕ケルゼンは、〔…〕憲法裁判所だけが憲法の最終的「番人」たりうると主張した。それに対してシュミットは、その役割』は「反民主的」な裁判所ではなく、選挙で選ばれた『大統領に割当て』るべきだと主張した。シュミットの主張は、マクス・ウェーバーが述べた議論により近かったので、戦間期の『ドイツの政治的エリートたちは、ケルゼンよりもシュミットと歩みをともにした。〔その結果、ファシズムの国政掌握・憲法破壊を防げなかった――ギトン註〕

 

 1945年以後』になると、司法審査に懐疑的だった諸国――とりわけフランス〔…〕――でも、違憲立法審査権〔…〕は結局受け入れられた。憲法裁判所は、伝統的な人民主権に制限を加え、ときにはそれと矛盾するように見えたが、民主主義のもつ潜在的な全体主義の危険に敏感だった戦後の時期にあっては、抑制・均衡をもっと強化することに〔…〕主眼点が置かれた。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.40-41.  

 

 

 「憲法裁判所」による司法審査制度とともに、第2次大戦後の「制約された民主主義」を構成する重要な要素として「戦う民主主義」があります。「戦う民主主義」とは、かんたんに言えば、「民主主義」のしくみを利用してファシズムなどの全体主義が抬頭し・民主主義そのものを圧殺してしまうのを防ぐために、「民主主義」の原則自体を攻撃し破壊するような言論と政治活動は禁圧する――という考え方です。そのかぎりで、「集会・結社の自由」も「言論の自由」も制限する。「権力からの自由」を守るために権力を用いることを認める。そういう考え方であり制度です。

 

 もっとも、「戦う民主主義」は、ファシズムの復活を防ぐだけでなく、より現実政治的な用途として、共産主義政党や左翼過激派の活動に対する禁圧として行なわれました。

 

 

Felix Steinbrenner『戦う民主主義――政治&授業 2021

写真の建物は、ドイツ連邦議会議事堂。

 

 

 じっさいに、たとえば西ドイツで「戦う民主主義」を実施する決定権を握った機関は、「憲法裁判所」です。「憲法裁判所」は、ナチ党の復活をめざす「社会主義帝国党」だけでなく「ドイツ共産党」をも非合法化し、最終的に解散を命じています。

 

 しかし、「憲法裁判所」を最終形態とする「司法審査」制度は、「戦う民主主義」と同じではないし、かならず「戦う民主主義」を伴なうわけでもありません。「憲法裁判所」の創始者であるハンス・ケルゼンは、自由な「民主主義」を守るために一部の極端な言論や政治活動を制限する、という考え方には、最後まで反対していました。それでは自由の自刹となってしまうからです。そのケルゼンは、「1930年に反ユダヤ主義の攻撃を受けて」オーストリア憲法裁判所判事を辞任しています。そこから、ケルゼンのような無制約な自由主義は、全体主義にたいしては無力だ、と批判することは可能なわけで、それゆえに戦後は「戦う民主主義」が主流モードになるわけです。

 

 それでもやはり、「戦う民主主義」は、戦後「立憲主義」の当然の帰結ではないし、自由主義民主主義を守るために万能な手段というわけでもない。むしろ、それに賛成する場合でも「やむにやまれぬ必要悪」としてだ、と考えたほうがよいように思われます。(pp.40-41.)

 

 

『「戦う民主主義」とは、1938年に〔…〕亡命政治学者カール・レーヴェンシュタインが、民主的手段を使って民主主義を無力化させるファシストや権威主義者に〔…〕権力を奪われていった時代のなかで考え出した概念である。レーヴェンシュタインは、「民主主義の原理主義」「盲目的な法律遵守」「法の支配の形式主義」を堅持するだけでは、民主主義はファシスト運動から自らを守れない、と主張した。〔…〕ファシズムは、何ら固有の知的内容を持たず、一種の「情緒主義」に依拠しているのだが、その烈しい「情緒主義」に、民主主義が自らの土俵では対抗できないこと』に、ファシストの強みと民主主義の弱みがあるの『であった。したがって民主主義諸国は、反民主主義勢力に対しては〔…〕政党の禁止のような法的措置をとらなければならない。集会の権利や言論の自由も制限すべきである。〔…〕

 

 「戦う民主主義」は西ドイツで最も顕著だったけれど、民主主義の自己防衛の緊急性意識は西ヨーロッパ全域に浸透していた。イタリアではキリスト教民主党が、市民的自由を制限し・大政党に有利な選挙制度をも正当化する「保護された民主主義 ウナ・デモクラツィア・プロテッタ」を樹立しようと試みた』『上院で挫折した。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.41-42. .  

 

 

 イタリアで「戦う民主主義」が受け入れられなかった理由は、ヴァチカンが反対したからです。教皇庁は、「右派政党の禁止を阻止」して、右のほうにまで「政治選択の幅を広くしてお」きたいと望んだのです。戦後制定された「イタリア憲法」は「ファシスト党の再建を明示的に禁止したが」、事実上の「後継政党である[イタリア社会運動]」が設立され、禁止されることなく活動しました。「[戦う民主主義]の理論と現実は乖離し、〔…〕多くの場合、現実は右派に好都合だった。(p.42.)

 

 

アントニオ・シクレッツァ『受胎告知』1964年。Antonio Sicurezza,

 Annunciazione, Church of the Announced, Maranola di Formia. ©Wikimedia

 

 

 

【48】 「制約された民主主義」

――戦後憲政秩序の成立

 


『多くの欠点をもちながらも、戦後には独自の「立憲主義」精神を備えた新しい憲政秩序が成立した〔…〕。それは戦間期の教訓に学んでいた。ファシストとスターリンが新しい人民を生み出そうと試みたのに』対し、戦後憲政秩序の『主眼は、現存する人民を抑制することにおかれた。〔…〕政治指導者は、彼らの眼の前にいる人民』を、『そのまま放任するか、もしくは市場』『なすがままにまかせ、過去の悪夢を忘れさせようとした。戦争が国民をより均質化し、国民内部の階級差を減少させた〔…〕事実が有利に働いた。

 

 人民を抑制するという緊急な必要性は、具体的には〔…〕立法府の権力委任権限の制約の形をとった。議会は、二度とヒトラーペタン〔※〕の前に自己を放棄〔★〕してはならない。』

 

 その一方で、『拡大しつづける戦後の福祉国家・および規制国家の権限の多くは、行政機関に委任され、』行政機関は行政機関で、『強力な司法的,行政的監督のもとに置かれた。〔…〕1965年にカール・レーヴェンシュタインは、「19世紀には究極の政治的智慧と考えられた議会主義が、〔…〕広汎な価値低下を経験した」』が、その一方で、ウェーバーが議会の役目とした官僚制の抑制という課題』は、『いまでは裁判所の手で十分に果たされていると断定した。


 憲法裁判所はまた、この新しい秩序全体を、とりわけ個人の権利人権――ギトン註〕の保障を通じて保護した。これらの権利も、議会の手の及ばぬ・自然法のような絶対的諸価値に基礎づけられた。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.42-44. .  

 註※「ペタン」: フィリップ・ペタン元帥 Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain 1856-1951。第2次大戦中、フランスを占領したナチス・ドイツに対し、フランス政府首相として降伏を申し入れ、対独協力「ヴィシー政権」の主席を務めた。ヴィシーで開催された「フランス国民議会」は、全権限をペタン元帥に委任する決議を上げ、ペタンは、ドイツの占領下における独裁者となった。

 註★「議会の自己放棄」: ドイツ帝国議会が「授権法」を制定して、ヒトラー総統に全権限を委任し、同様に、フランス国民議会がペタン元帥に全権限を委任したこと。

 

 

 

 

 

 

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