セルゲイ・ヴィノグラドフ郊外の家にて』1932年。Sergey Vinogradov,

Auf der Datscha, anagoria, Ekaterinburg Museum of Fine Arts. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【28】 スターリン ――「恐怖」体制の “馴れ” と安定。

 

 

 「資本主義世界にたいする恐怖、テロル〔大粛清〕、憲法の制定、そして[人民]概念の新たな振興は、1936-1937年に同時に生じた。」その結果、ソ連はもはや「プロレタリアの社会」として「自らを提示することは」なくなった。代わって、〈同質化〉された「人民」からなり・けっして内部からは「異議」を生じさせない社会へと変えられていった。

 

 の公式イデオロギーとして、あいかわらず「マルクス・レーニン主義」――スターリンによって教条として整備されたヴァージョン――が行なわれていたが、ミュラーの理解では、それは必ずしも「マルクス・レーニン」である必要はなかった。たとえばナショナリズムでも代替可能だった。要は、〈同質化〉された「人民」を創り出し、「すべての社会的対立」を「終焉」させ、社会全体を「国家」にしてしまうこと、すなわち「国家と社会の全体的溶解」がめざされ、そしてあらゆる制度的/心理的/暴力的メカニズムを動員して・それが実現されたのです。そのことこそが、理論として書かれることのなかった歴史的現実としての「スターリン主義」でした。(pp.166,173.)

 

 しかし、ここで結論に進んでしまうのはまだ早い。まずは、最前から気になっていたひとつの疑問に、答えを出しておきましょう。これほど不合理で理解しがたく、相互監視と相互密告,無差別の迫害と処刑・追放を伴なう体制は、「支配の正統性」を失なって崩壊してしまわないのか? …崩壊どころか、「スターリン主義」体制は、数十年間にわたってきわめて安定していたように見えるのは、なぜなのか? …という問題です。

 

 1937-38年に敷かれた新たな体制〔テロルを必須の構成要素として含みこんだ〕が定着してゆくにつれて、「指導者たちは、テロルが・体制への忠誠を〔…〕危険に晒すことはない〔…〕ことを〔…〕確信するようになった。〔…〕檥甡者たちでさえ、ソヴィエト臣民としての自らのアイデンティティに疑問をもつことはなかった」からだ。エヴゲーニヤ・ギンズブルク〔1937年投獄され、1956年に解放されるまで 18年間を強制収容所で過ごした〕は、1937年末でも「まだ、つぎのように考えることができた」:

 

 

『われわれに起こったすべてのこと〔37年2月に共産党を除名され、秘密警察に逮捕されて 10年の刑と全財産没収を言い渡されて収容所に送られ、両親と夫も逮捕・投獄された――ギトン註〕のあとでさえ、われわれは、われわれの心臓と同じくらいわれわれの一部であり・呼吸と同じくらい〔…〕自然なものであるソヴィエト体制・以外の何かに賛成票を投じるだろうか。わたしが世界のなかで保持しているすべてのもの〔…〕をソヴィエト体制が、そしてわたしが子供だったころにわたしの世界を変えた革命が、わたしに与えてくれたのである。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.167. .  

 

 

ヴラヂーミル・グリンベルクネヴァ河。霧』1935年。Vladimir Grinberg,

Нева. Туман, The Anna Akhmatova Literary and Memorial Museum.©Wikimedia.

 

 

 「自分たちが、すでにあまりに多くの・体制の規範や解釈を・内面化してしまったのではないかと自問する者もいた。」

 

 ナジェジダ・マンデリシュタムは、自身の「迫害と、夫〔オーシプ・マンデリシュタム。詩人として著名〕」の「労働収容所におけるタヒ」を耐えながら、こう述べた:「われわれの体制は厳しく残酷だったが、それが生活だ」と感じていた、と。「私は、公式のプロパガンダにはかんたんに取り込まれなかったが」、それでも「彼らの野蛮な正義の理念をいくらか鵜呑みにして」おり、体制の「公然の反対者」〔彼女と同様の「でっち上げ」檥甡者なのだが〕が復活することを「容認できなかった」と。(pp.167-168.)

 

 ブハーリンは、拷問を受けながらの裁判のあいだに、つぎのように書いている:

 


『社会主義の祖国は、世界史における最も偉大な勝利に向けて、闘争場へと英雄的行進を開始した。〔…〕広汎な社会主義的民主主義がスターリン憲法にもとづいて登場しつつある。偉大で創造的かつ実り豊かな生活が開花している。できる限りこれに参与するために、監獄の鉄格子の背後であっても、チャンスを与えてほしい。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.168-169.  

 

 

 

【29】 スターリン ――

個人崇拝と愛国主義、無謬のイコン。

 


 たしかに、「スターリン主義は、個人崇拝である。」が、スターリンには、20世紀に多く現れたカリスマ的指導者――彼らもまた意識して個人崇拝を創り出した――とは、およそ異なる点がある。地味で目立たない。「存在感」が希薄で、まるで「隠遁者」のように、大衆の前に出ることはほとんど無かった。

 

 そのことは、ヒトラーと比べれば明らかだ。「ヒトラーはつねに国のあちこちを移動し〔…〕たえず話していた〔…〕ヒトラーは純粋なカリスマ的正統性を足場にした。」

 

 ところが、「スターリンは、押し黙ったままパイプを吸いながら、もっぱら他人を観察するだけだった。」スターリンは「明確なカリスマでもなかった。」「スターリンには人格的存在感は無かったが、〔…〕イコン〔聖像画〕であったし、〔…〕象徴、または[ソヴィエト権力]という理念だった。〔…〕共産主義者たちの心の中では純粋な理念、それゆえに無謬にして無原罪なものに変貌した。」スターリンは、演説をした後、自分で拍手をする習慣があった。彼は、自分という人間ではなく「スターリン」という「理念」に敬意を表していたのであり、演説したのは自分ではなく、崇められるべき・その無謬の理念なのだった。ヒトラーには、こんなやり方は思いもつかなかった。

 

 

A・D・シリチ冬の都会風景』1938年。А. Д. Силич, Зимний городской

 пейзаж, A. D. Silich, Winter Cityscape. ©Wikimedia.

 


スターリンは、第2次世界大戦中に純粋な愛国主義 パトリオティズム を動員したが、それは彼自身のイデオロギーと一致したものではなかった。「ソヴィエト権力」ではなく、ロシア正教とロシアナショナリズムが決め手となった。〔…〕若きスターリンが主張していたナショナリズム概念は、〔…〕オーストロ・マルクス主義の影響〔★〕を受けて、民族 ネイション を、保護に価する「文化共同体」と見るものであった。』そこから、『「内容においては社会主義〔…〕、形式においては民族的な民族文化の開花」という〔…〕1930年の決まり文句に行き着いた。

 

 しかし、〔…〕国家への全体〔主義〕的統一という『彼の真のイデオロギー的野心は、〔…〕自身がかつて「大ロシアへの盲目的愛国主義 ショーヴィニズム〔※〕と嘲笑したものを通じて達成されたのであった。


 ファシズムに対する勝利こそが、体制の正統性根拠となった。それは「大ロシアナショナリズム」によって達成されたのであって、『マルクス主義には』ほとんど全く『負っていなかった

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.170-171. .  

 註※「ショーヴィニズム」: 排外的愛国主義。単なる「盲信」ではなく、外国・外国人・少数民族を憎悪し、意識的に、迫害と対外戦争を賛美する。「ジンゴイズム」などの政府主導の排外イデオロギーを、批判して呼ぶ言い方。和訳は不正確。「スターリン時代」から現在のプーチン政権までの「大ロシア・ナショナリズム」には、たしかにショーヴィニズムの要素がある。

 註★「オーストロ・マルクス主義の影響」: ミュラーは、スターリン個人の「ナショナリズム」概念〔体制的「スターリニズム」とは異なる〕を、オーストリアのオットー・バウアーに近いものだとしているが、私の見るところでは、相違点も多い。バウアーは、民族への所属は究極的には個人の意思によって決定されるとし、したがって、特定の居住地域を持たない「民族」〔ユダヤ人,ジプシーなど〕も尊重されなければならないという考え方だった。バウアーの言う諸民族の平等とは、そうした「民族」観に立つものだ。しかし、スターリンは、「国土,言語,文化」が「民族」であるために必須の要素だとする。つまり、特定の「郷土」ないし居住領域を持たない民族は認めない。第2次大戦後のソ連でのユダヤ人迫害〔というより否定〕は、そこから生じている。また、スターリンの思想は、「36年憲法」でも明らかなように、「個人」というものを認めない。すべての権利および価値は、個人ではなく集団のものだ。スターリン個人の「ナショナリズム」概念は、バウアーのような根底的熟考をへた理論ではなく、無反省な通俗的常識に立脚したものにすぎない。が、それはそれで、ソ連の少数民族保護政策の公式的・肯定的な面を支えてきたのは事実であり、その面は、今日でも高く評価することができる。

 

 

 

【30】 チャウシェスク ――「恐怖」体制の輸入と模倣。

 


『ナチズムとは異なり、スターリン主義は輸出可能であることが〔ギトン註――第2次大戦後に〕わかった。1945年以降の中・東欧で用い』られたのは、『個人としてのスターリンとは無関係な雛形だった。そのなかには、強制収容所,粛清,見世物裁判〔すべての判決を、1930年代ソヴィエトから盗用した――著者註〕が含まれていた。個人崇拝も〔…〕助長された』が、『およそカリスマ性を欠いた人物が』崇拝対象とされた。彼らは、スターリンと同様に表てには出ず、深夜まで人民に奉仕している官僚というイメージ』をまとった。

 

 

ロマーン・イストヴァーン『ロシア,スズダル収容所の聖エウテュミウス修道院

1945年。 修道院内に設けられた捕虜収容所に、ソ連軍の捕虜として

抑留されていたハンガリーの兵士が描いたもの。Román István,

  Monastery of Saint Euthymius in Suzdal, Russia.  ©Wikimedia.

 

 

『その〔訳者註――中・東欧の〕体制には、社会全体を〔ギトン註――相互監視・密告の奨励によって〕原子化しようとする試み〔…〕、強制的工業化も含まれていた。〔…〕大規模なテロル〔…〕よりも、〔…〕個別のテロルを伴なった。〔…〕暫くのあいだは、すべてが順調に〔…〕見えた

 

 ――それが明らかに機能しなくな』ると、体制への『支持が消費財と交換されるような・暗黙の社会契約に路線を変更した。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.171. .  

 


 このような中・東欧の「模倣スターリニズム」体制のなかには、ソ連・ロシアではすでにスターリンがタヒ亡し、「スターリン批判」が公式に行なわれるようになった後で、亡霊を呼び出すかのように開始されたものもありました。ルーマニアチャウシェスク政権は、その最たるものです。

 

 1960年代半ばにルーマニアの指導者となったニコラエ・チャウシェスクは、ソ連では放棄されたスターリン主義を本格的に採用し、「モスクワと注意深く距離をとった。」彼は、1988年になっても、「スターリンの正しさは歴史によって証明されたと主張し〔…〕北朝鮮からも刺激を受けていると」『ニューズウィーク』に述べた。チャウシェスクによると、スターリン金日成から受け継いだのは、「重工業の重視」と「社会の・ゼロからの完全な再構築」だという。とりわけ、「伝統的な村落や都市近郊を大規模に破壊し、その後に、新築の・しかし完全に機能不全に陥っている集合住宅へと人民を移動させる〔…〕再定住である。」スターリン金日成と同様に、彼は、「内外の敵によって国が脅かされているという感覚を掻き立て、〔…〕ナショナリズムを効果的に利用し」て、体制への官僚と人民の支持を調達しようとし、一定の成功を収めた。

 

 チャウシェスクは、「このような政治スタイル全体を飾る」ために、耐久性のある巨大な記念碑的建造物を建てることに執着した。ブカレストの「共和国宮殿」は、「いまなお世界最大の文民行政の建築物である。〔…〕それはすべて、ルーマニア産の材料で造られねばならなかった。」

 

 チャウシェスクは、「指導者 コンドゥカトール」「舵取り」と自称し、人びとにそう呼ばせた。5年ごとに、『賛辞』と題するコンドゥカトールの事績を讃えた1巻本を出版し、そこには世界の指導者からの称賛が引用された。国家建設を讃える・さまざまな新たな概念も案出されたが、「再定住」を「多面的に発展した社会主義社会における体系化」と言い換えるなど、概してごてごてと長たらしくて無内容なものばかりだった。

 

 チャウシェスクは、北朝鮮の金一家と同様に「指導者」権力の「世襲」をもくろんでいた。(これは、スターリンにはまったく考えられないことだった。彼は息子に向かって、「スターリンとは理念であって、私でもお前でもない」と言っていた。)ただ、チャウシェスク王朝は王朝とは違って、1代で人民に打倒されて終った。チャウシェスク体制は、「専制の伝統的形式に」近づいていったし、国家は「唯一の個人の私的気まぐれ以外」のものではなく〔マルクス〕なったが、その体制の打倒もまた、「残酷で復讐心に燃えた伝統的な暴君刹害の」それであった。

 

 

ゲオルゲ・ペトラシュク『古い家』1930年頃。Gheorghe Petrașcu,

Casă veche, Brukenthal National Museum, Sibiu, Romania. ©Wikimedia.

 

 

 以上のような・「スターリン主義」の第2次大戦後における新たな展開を見ることによって、「スターリン主義」の本来の性格が改めて明らかになる。

 

 それは、「ツァーリ帝政」のような単なる専制的支配ではない。国家への単なる全体主義的服従を市民に要求したのではない。「――人民を全面的に再形成し、同質化しようとする野心がそこにあった」ことが「重要であり、」人民の改造と同質化「に役立つ」多くの「制度的・心理的メカニズム〔…〕が導入された」ことが重要である。「国家と社会の全体的溶解」(スターリンは、「国家と大衆の融合」と呼んだ)、「すべての社会的対立の終焉」、もはや支配者が「どんな行動をしても抵抗に遭わない」ような・「一つの人格へ」の「あらゆる社会的権力」の吸収――「エゴ・クラシー」。これらが、「全体主義的なソヴィエト的理想の特質」である。

 

 「スターリン主義は、〔…〕それ自体の政治的ロジックを持つ・一つの体制〔…〕である。しかし、それを設計した1冊の著書というものもなければ、それを練り上げたひとりのイデオローグという者もいない。」ナチズムが、きわめて荒っぽい滅裂なものではあっても「明確な主張を」言葉にして明示していたのに対し、「スターリン主義には、そのような理論は無かった。」あったのは、圧倒的かつ継続可能で、輸出入さえ可能な体制の現実と、それにかんする「さまざまな解釈だけだったのである。」(pp.171-174.)

 

 

 

 

 

 

 

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