ビアンカ・ワーリン『スコーネ県アリルドの海岸風景と岩』1946年。
Bianca Wallin, Kustlandskap med klippor i Arild, Skåne, 1946. ©Wikimedia.
【43】 ブロッホ ―― ユートピアの静かな復権
ファシズムの抬頭を、どう見るか? 同時代の “左” からの評価は、ソ連・コミンテルンの公式見解と、エルンスト・ブロッホのような・当のドイツの知識人とでは異なった。コミンテルン「共産党の公式の分析」によれば、ファシストは、ソ連という社会主義国家の出現に恐れをなした「瀕タヒの資本主義」が雇った用心棒ないし「代理人」だった。これに対して、ブロッホは、ファシズムとは、プロレタリアとは別の資本主義の被抑圧者である「農民や中産階級」独特の心情と「反近代的な憧れ」に根ざす独自の政治勢力であって、マルクス主義者が彼らの「憧れ」の感情を理解しないならば、ファシストの抬頭に対抗することはできない、と論じた。
『ブロッホは、みずから「非-同時代性」と名づけた現象を指摘した。〔…〕農民や中産階級の社会的・経済的状況は、プロレタリアートのそれと類似して〔ギトン註――貧困化して〕きているにもかかわらず、これらの集団は、プロレタリア意識を発達させることはなく、〔…〕工業化以前の生活様式にしがみついていた。彼らの〔…〕正当な不満は、過去へのロマン主義的で反近代的な憧れ・という形で表現された。
それゆえ共産主義者は、彼ら〔…〕の客観的利害について講義』してやっても、彼らを説得することはできない。『むしろ、こうした憧れ〔…〕のなかに含まれているユートピア的契機を真剣に受け取るべきだ、とブロッホは主張した。神話,ロマン主義的象徴,〔…〕お伽噺といった領域を〔…〕ファシストの手に委ねる』のではなく、それらの領域が持つ『革命的潜在力を取り戻さねばならない。〔…〕
ルカーチとは異なり、ブロッホは党員になることもソ連で暮らすこともなかった。〔…〕彼は、ひどく嫌っていたアメリカを亡命先に選んだ。〔…〕彼は、滞在国〔アメリカ合州国――ギトン註〕の生活から意識的に孤立して暮らしていた〔…〕
ブロッホはルカーチ以上にきっぱりと、科学的社会主義の経済決定論を拒否した。そのかわり、意志だけでなく感情と直感、とりわけ「いまだないもの」の重要性を強調した。通俗的な感情と、芸術や宗教のうちに』とりわけ『見いだされる真のユートピア的希望とを区別することに意を用いた。〔※〕〔…〕
ブロッホの主張では、真の創世記は、〔ギトン註――世界の〕始まりではなく終りにあるのだった。すべての真の宗教は、この意味でメシア的であった。〔…〕ベートーヴェンの第九のような偉大な音楽』だけでなく、『ヒット曲「The Big Rock Candy Mountains」や、シャーウッドの森でのロビン・フッドの隠れ家〔…〕もふくめて、人びとが過去に形成してきたすべてのユートピア的イメージもメシア的だったのだ。このすべてが、故郷 ハイマート という一つの言葉で要約される。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.137-138. .
註※「真のユートピア的希望」: ミュラーの説明は、やや誤解を招く。ブロッホが、「真のユートピア的希望」「革命的潜在力」を秘める「芸術や宗教」として見出したのは、主に「神話」「グリム童話」「少年冒険小説」など大衆的な通俗文化の一部(『ドン・キホーテ』なども含む)であって、洗練された高名な芸術家の作品ではない。それら通俗芸術もまた、「いまだないもの」・〈もう一つの世界〉への希求を大衆に抱かせ、現実からの飛躍と変革を求める感情的土台となるからだ。
イヴァン・イヴァンソン『果実の収穫、サン・ジョルジュ・ド・ディドンヌ』
1939年。Ivan Ivarson Fruktskörd, Saint-Georges-de-Didonne. ©Wikimedia.
ブロッホの謎めいた言い方で、「いまだ無いもの」が「故郷」だというのは、現実の資本主義世界は、「農民や中産階級」にとっては――「プロレタリアート」にとっても勿論――耐えがたく、くつろげない〔いつも何かに追い立てられている〕世界だということです。「いまだ無い」世界とは、ある場所へ移動して行けば、そこには・おあつらえ向きの店が営業している、というような世界ではない;そこへ行っても、まだ何も建ってはいない。が、その空き地に、もし何かが建てられるならば、それこそが、誰もがほんとうに・くつろいで暮らしていける「ハイマート」(ホーム・カントリー)にちがいない、という静かな・しかし飛躍にみちた「希望」なのです。
【44】 20世紀社会主義が直面した難題
―― 農民との同盟
「文化共同体の探究と、故郷へのある種の感覚は、こうして戦間期の左翼思想家の心を奪い、しばしば失望させた。また、他の政治的イデオロギー――とくにファシズム――が、自分たち〔…〕より魅力的な帰属と連帯のヴィジョンを提示できるのではないかという懸念も続いた。」
「社会主義者と農民層との関係」は、社会主義者にとって「戦間期における決定的な戦略上の問題」であることが判明した。ところが、この・労働者と農民との同盟、あるいは「労働者と[貧農]の同盟」を実現し、その上に立って「ヘゲモニー」を獲得しうるような「答え」を持っていたのは、ボリシェヴィキでも、グラムシのイタリア共産党でもなく、「皮肉なことに、最もプラグマティックな社会主義者か、最もユートピア的な社会主義者であった。」スウェーデンの社会主義者は「状況に恵まれて、〔…〕農民を労働者の同盟者に変えることに成功した。」ブロッホが、「奇妙なレトリックを用いて〔…〕暗示した」のは、「手工業者と農民に」、彼らの価値が認められるような「居場所を与える」という「(ロシアの村落共同体から着想した)保守的社会主義であった。」
「しかし、これらは例外」だった。大部分の社会主義者は、「マルクス主義は農業問題に答えを示すことができない、というウェーバーの信念」を確証して見せる結果となった。
農業・農民が挫折の原因となって〔保守的農民層の離反,食糧問題の解決不能,…〕、「社会主義」と「社会民主主義の諸政党は、1920-30年代に、ヨーロッパの多くの国で敗北に直面した」。代わって抬頭したイタリアのファシズムは、当初においては、社会主義よりも優れた社会変革プランであることを示すために、「[農民のための主権]を約束した」。
このような事態になってもなお、「多くの左派の人びと」は、ソ連を、「ファシズムと権威主義の上げ潮」を防ぐ「最後の防波堤と見な」し続けた。たとえ、その「ソヴィエト」が、本来の評議会〔レーテ,ソヴィエト:「コミューン国家」〕とは似ても似つかない「前衛党-官僚」体制に変質してしまったと知った後でも、彼らはソ連を信じつづけた。
なるほど、1918年「ロシア・ソヴィエト共和国憲法」は、「都市と農村のプロレタリアートおよび極貧農民層の独裁」を規定していた。が、実際のボリシェヴィキの国家で「極貧農民」が統治したことはなかった。その後の経過においては、ソ連政府の統治は「農民のためにか、農民とともにか」それとも「農民に敵対してか」――という「農民問題」が、決定的な争点となった。そして結局のところ〔スターリンのもとで〕勝利を占めたのは、最後の選択肢だった。(pp.148-150.)
ワシーリィ・カンディンスキー『ある中央』1922年頃。
Wassily kandinsky, ein Zentrum, Kunstmuseum Den Haag. ©Wikimedia.
【45】 スターリン ―― どこから語りはじめるか?
「スターリン主義」とは何か? 答えは決して自明ではない。そもそも、この言葉を最初に使ったのは、スターリン自身の側近で、1920年代。もちろん讃辞としてだった。しかも、スターリンは、こう言って毒づいたという:「どうやったら君は、ペニスを物見櫓に喩えることができるのかね?」
日本の読者に、さいしょに言っておかなければならないのは、「スターリン主義」とは「レーニン主義」とイコールだということ。せいぜいその延長にすぎないということだ。「トロツキズム」などというものが、もしあるとすれば、それも、「スターリニズム」および「レニニズム」とイコールだ。こんなことはアメリカやドイツでは常識なのだろう。ミュラーは、とくに断りなく、これを前提としてその先から始めている。
「スターリニズム」に反対する「トロツキスト」、「トロツキスト」を攻撃する「マルクス=レーニン主義」者、‥‥どれもこれも似た者同士、無知蒙昧愚者の群れだ。互いに手を引き合って落とし穴に落ちてゆくピーテル・ブリューゲルの教訓画↓をよく見たほうがよい。
そして最後には、「スターリン主義」は、蔑称として、スターリンの敵対者が使う言葉になった。が、それは主に、スターリンのタヒ後のことだ。
あえて定義をしておくとすれば、「スターリン主義」とは、「スターリン自身のもとにあった体制」、および「1945年以降、ソ連によって事実上占領された中・東欧に存在した体制を指す。」ということになろう。それ以外の、毛沢東の中国,あるいは日本,フランス,イタリアなどの共産主義政党を指して言うのは、単なる比喩だと思ったほうがよい。
「スターリン主義」の特徴としてよく言われるのは、「大規模なテロル〔犧甡者の数はナチスをはるかに上回る。ナチスと違って、犧甡者の範囲も無差別だ〕、個人崇拝、官僚制化、強制的工業化、〔…〕そして[一国社会主義]という理念への世界革命の従属」。もちろん、これらはすべて事実だ。が、全体として「スターリニズム」の本質は?…ということになると、それほど自明ではない。↑これらの特徴の集合態は、異質なものが集合したコングロマリット、ないし不定形な怪物に見える。
他方、もうひとつの見方として、「スターリン主義」とは、ドイツ,イタリア,日本のファシズム,スペイン,ポルトガルの権威主義体制とともに「開発独裁」の一種である、という理解がある。おそらく、これはこれで当たっている。
ピーテル・ブリューゲル(父)『盲人が盲人を導く』1568年。Pieter Brueghel
de Oude, l'Ancien, The Blind leading the Blind, De parabel van de blinden,
Blindensturz, Museo di Capodimonte. ©Wikimedia.
上↑の〔 〕内で述べたように、「スターリン主義」の最大の謎は、1930年代半ばの「大テロルと粛清」およびそれ以後の強制移住・強制収容等に現れた「高度の非合理性」、別の言い方をすれば「無差別性」だ。
わかりやすいエピソードとしてよく引かれるのは、秘密警察の各部署は、銃刹刑にする犧甡者の検挙数について、月ごと(あるいは週ごと)のノルマを課されていた。そこで秘密警察員は、逮捕しに行った場所に「国家反逆者」が在宅していないと、その隣の家の住人や、たまたま洗濯物を届けに来たクリーニング屋を逮捕して、罪名をでっち上げた。…
「ナチの強制収容所の囚人は」共産主義者であれユダヤ人であれ「なぜ自分たちがそこにいるのかを知っていた」。ところが、「スターリン主義の下での政治的被追放者」,強制収容や銃刹の犧甡者は、それを「知らなかったし、自分たちの運命を理解できなかった。」つまり、ナチスには「狂気が存在した」が、その狂気には一種の「合理性」があった。大量刹戮も、あらかじめ予想できないことはなく、それゆえに、辛うじて逃れることもできた。ところが、「スターリン主義」の「狂気」には、そうした「合理性」さえ無かった。
もっとも、ミュラーは知らないのかもしれないが、東洋の私たちは、こうした「非合理性」の先例を知っている。「法」を・あえて意識して気まぐれに適用する・ことによって人びとを恐れさせ、権力支配を容易にする支配方式だ。しばしば、秦の商鞅など「法家」に属する政治家が、こうした手法を用いたと言われている。
しかし、史実ではないようだ。これは「法家」の敵対者がでっち上げた非難であって、実際の「法家」の理論(『韓非子』など)も実践も、これとは正反対であったからだ。そもそも、「法をあえて気まぐれに適用する」などというやり方をすれば、ウェーバーの言う「支配の正統性」が崩壊してしまい、人民が進んで従うことはなくなる。それを暴力で従わせようとすれば、莫大なコストがかかり、体制は早晩崩壊する。そのことは、『韓非子』でも、正しく指摘されている。
だとすると、私たちが考えてみなければならないのは、「スターリン主義」のもとでは、無差別な「非合理的」支配が、なぜ「正統性」を崩壊させなかったのか、という点だろう。ミュラーが提起している「組織のカリスマ」による「正統性」という説明は、たしかにヒントになる。が、十分ではない。――
アクセル・トルネマン『暗がり』1925年。Axel Törneman, Skuggor. ©Wikimedia.
「スターリン主義を理解するには、なによりもスターリン自身から始めねばならない。〔…〕スターリンは 1920年代に家庭教師」を雇って「マルクス主義を学んでいた。」党の競争者たちのあいだで勝ち上がって権力を握るためには、イデオロギーの理解が不可欠だと考えたからだった。「その後、家庭教師は銃刹された。」王様がロバの耳を持つ〔西洋でロバは愚昧の象徴〕ことを知った床屋が刹されたのと同じ理由からだろう。
「スターリンは、彼の特殊な[レーニン主義]の解釈を体系化しようとした――〔…〕それによって、いかなる路線が真に[レーニン主義的]として正当化されるかを決定する・究極の裁定者に」自分が、なった。その過程で、生前のレーニン自身が寵愛したブハーリンを排除し、銃刹に追いこんだ。
スターリンの「裁定」は、――レーニンのそれが常に場当たり的に、天才的な政治的状況判断としてなされたのとは異なって――常に、〈壮大な理論的正当化〉を伴なってなされた。最も情勢順応的「日和見主義的な短期の策略ですら、最も壮大で最も抽象的な理論的概念によって説明され、推進されねばならなかった。」――このような〈壮大な理論〉が罷り通っている政党が、いまの日本にも無いだろうか? それこそは 20世紀から続いている「タヒに至る病 やまい」だ。
スターリンは、「同志カード・インデックスと渾名 あだな されるほど優秀な官僚として頭角を現した」。そうして「委員会を通じて権力の座に上り詰めた。よりカリスマ的」で「大言壮語する革命家たちとは異なり、この究極の委員人は、党のさまざまな委員と初期の配置こそが、ソヴィエト体制のなかで権力を確立するのに決定的に重要」であることを「早い段階で理解したのである。〔…〕レーニンが彼を共産党の書記長に任命したことが」、スターリンにとって決定的チャンスとなった。革命の闘士の集まりである初期の「前衛党」において、「書記長」は重要な役職ではなかった。レーニン自身、「書記長」には一度もなったことがなかった。しかし、スターリンは、「書記長」に就くや、その地位を利用して配下に「巨大な被護者集団を築き上げた。」これこそが、スターリンの・党と国家に対する支配が確立し、それとともに「書記局」が、党と国家を独裁的に支配することとなる第一歩だった。(pp.150-153.)
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