ニルス・ダルデルメキシコの少年 1940年』1943年。Nils Dardel,

Mexicain 1940, 1943. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【40】 ルカーチ ―― レーニンに「小児病」と断罪され、

「前衛党」路線に転向する。

 


レーニンや彼の仲間は、マルクス主義に関するルカーチの初期の著作を、「左翼共産主義の小児病」の表れだとして、基本的に斥けた。とくに〔…〕、共産党は議会に参加すべきではないという立場をルカーチがとったことの責任を問うた。彼の幼児的〔…〕称賛者〔ルカーチ――ギトン註〕が考えていたのとは違って〔…〕先進ヨーロッパ諸国では議会が「歴史的に見て時代遅れ」ではないという教訓を、〔…〕レーニン〔…〕革命の熱狂者に教えようとした。ロシア革命から 5年たった 1922年、レーニンはまた、党員たちに〔…〕最も重要なのは「座って勉強する」ことだと告知した。〔…〕


 ルカーチは、〔…〕指導者レーニンによって強く非難された「左派セクト主義」を克服しようとし、〔…〕諸論文を、レーニンの思想に沿う方向で修正することに努め』た。それらの論文は、修正されたうえで、『最終的に『歴史と階級意識』を構成することになる。〔…〕この本は、1923年にベルリン』『出版された。『歴史と階級意識』は、〔…〕――マルクス主義「科学」と対比される――マルクス主義哲学の可能性を実際に開いた。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.137-138. .  



 ルカーチは、「第2インターナショナルと結びついた経済決定論と、ベルンシュタインほか社会民主主義〔…〕者」の改良主義の「双方に対抗して〔…〕弁証法を展開した〔…〕。彼は、 正統派マルクス主義は教義 ドグマ ではなく一つの方法だという〔…〕。たとえマルクス自身の提案と予言のすべてが〔…〕誤っていたとしても、それでもなおマルクス主義者であることは可能である。これが、ベルンシュタインなど、マルクスの予言の誤りを指摘する者」への批判であったことはたしかだが、ルカーチの理論的主張はそれ以上に、マルクス主義には「科学」を超えるものがあることを示していた。それによってルカーチは、“修正主義者” といえども自らの「方法」に従っているかぎり正統でありうるのであり、マルクス主義を裏切っているかのような自責を感じなくてよいのだ、と、長期的には彼らを勇気づける効果を及ぼした。「スウェーデンの社会主義者の一部が、〔…〕ルカーチと、程度の差はあれ同じことを語っていたのは示唆的である。」

 

 ルカーチは「経済決定論」を批判して、 エンゲルスが「発展の歴史法則」からの演繹を促したことは、彼の弟子たちに「ブルジョワ的な[静観的]態度」をとらせることとなったと批判した。そのせいで彼らは、「歴史をつくるよりも〔…〕、自然法則」まがいの趨勢に従うようになってしまった。しかしながら、「先進諸国で観察できるものは、」物理法則のような決定論的自然法則の支配などではなく、「資本主義」という・この時代に固有の現象の帰結である。「[自然法則]は、政治行動によって突破できる」と。

 

 

マクス・エルンストピエタ、または夜の革命』1923年。Max Ernst, Pietà or

 Revolution by Night (Pietà ou La révolution la nuit), 

 Tate Gallery, London. ©Wikimedia.

 

 

 「こうしてルカーチは、〔…〕革命的意志の役割を再建することで」、これこそが「真のマルクス主義的な処方」だと「彼が考えたものを示した。」つまり、「科学としてのマルクス主義と、世界の実際の変革〔つまり「革命」の実現〕、との関係をめぐる長年」の論争に「一挙に決着をつけようと」した。ルカーチによれば、両者は「解きほぐせないほど」固く「結びつけられている」のであって、分けようとするのが無理なのだ。

 

 ③ ルカーチによれば、プロレタリアートだけが、自らを抑圧する諸力を正しく理解できる。〔…〕プロレタリアートは、〔…〕資本主義にかんする真実を独自のしかたで知ることができる人間として、〔…〕世界を全体として理解できるのである。」こうして、現実を理解する契機は、必然的に、変革の契機でもある。変革を求め、「歴史的解放の客観的可能性」に「自らを委ねる」プロレタリアートだけが、世界を全体として理解することができる。「人間は、〔…〕自分たちが創造した世界を、」自ら理解することができる、というジャン・バッティスタ・ヴィーコのルネサンスの理想は、このようにして初めて実現される。そのとき初めて、「人間は、この世界」の中で「くつろげるようになるだろう。」

 

 「すなわち労働者は、認識の主体であると同時に客体であり、歴史の主体であると同時にその客体であった。」マルクス主義を、客観的法則の科学」と、レーニンの武装蜂起主義のような「鉄の意志の政治とに、〔…〕分けることは」できないとされた。

 

 しかしながら、ここでルカーチが言う「プロレタリアート」とは、何なのだろう? その点の解釈が読者を紛糾させた。ルカーチ自身、労働者大衆が自ら・誰の指導も受けることなく「世界を理解」し「変革を実現」できるとは考えていなかったからだ。 彼はレーニンに同意して、「前衛党」の指導的役割を強調した。「ある種の兄弟的な共同体として理解された共産党だけが」プロレタリアートにたいして道を示すことができる、というのだった。じっさい、ルカーチによって、「前衛政党の支配にかんし、哲学的に最も洗練された正当化」が行なわれたのだった。ルカーチは、レーニンの・臨機応変に〔場当たり的に〕執筆された主張に「哲学的洗練を加え〔…〕首尾一貫したもの」に仕上げたのだった。

 

 ④ⓐ レーニンと同様にルカーチも、革命が成功するためには「党組織が正しい革命理論に基いていなければならないと主張した。」そして、「純粋なプロレタリア革命」などというものは空虚な理論としてのみ存在する。現実に勝利しうる「革命」とは、「」が指導する路線のみである。「党は、他の階級や」、プロレタリアートのなかでも「反抗的な部分を、まとめて引っ張って行かねばならない。」もしも「プロレタリアートが、党の正しい路線に導かれることを拒んで」、その歴史的役割を果たすことに失敗すれば、「その結果は野蛮状態」の支配である、とルカーチは何度も強調した。

 

 ④ⓑ このような「組織としてのの役割」だけでなく、「世界史的な切迫した状況」が、個人の自由に対する抑圧を正当化する、とルカーチは主張した。「プロレタリア」の独裁権力は、ブルジョワ階級を抑圧するだけでなく、個人を抑圧し、個人に「ブルジョワ的自由」を断念させなければならない。「共産党の特徴である規律や全体的参加、そして何よりも[〔…〕集合的意識へと自己を意識的に従属させること]こそが必須であった。この「意識された集合的意志」こそが共産党なのであった。

 

 

パブロ・ピカソパンの笛』1923年。Pablo Picasso, Pipes of Pan. 

Musée Picasso, Paris. ©Wikimedia.

 

 

 

【41】 ルカーチ ――「コミンテルン」に忠誠を誓い、

ソ連に亡命して粛清を生き延びる。

 

 

 ⑤ⓐ ルカーチは、このようにしてレーニンの「前衛党」独裁を理論化しただけではなかった。彼は『歴史と階級意識』を公表して以来、自分の宣明した理論に忠実に行動した。彼は、「圧倒的な非人格的カリスマをもつが彼に命じた〔…〕すべてを」実行した。「反革命の支配するハンガリーに」潜入し「密命を果たした。」イデオロギーの方向転換を命じられれば、そのたびに「自己批判」して従った。

 

 ⑤ⓑ 他方、レーニンはと言えば、すでに病床にあり、もはや『歴史と階級意識』を読む体力は残されていなかった。まもなくレーニンがタヒ亡すると〔1924年1月〕ロシアの彼の後継者たちは、ルカーチを激しく批判しはじめた。「コミンテルン」議長ジノヴィエフは、「このような理論的修正が処罰も受けずに通用しているとはけしからん。」と、怒りを露わにした。「前衛党」からの批判に直面して、ルカーチは自著を否定し自己批判した。

 

 ⑤ⓒ 1920年代半ば、ルカーチは故レーニンに倣って、権威主義的ブルジョワ体制の支配するハンガリーでは、「民主的改革のために小農や穏健な社会主義者と協力しようと」提案したが、これも、「コミンテルン」の反撃によって潰された。当時「コミンテルン」は急進的な方向に転換しており〔※〕、「社会民主主義を[社会ファシズム]として攻撃する路線へ舵を切って」いたからだった。ルカーチはまたもや激しく批判され、自らを「日和見主義者」として自己批判した。ルカーチ自身、この自己批判は「完全に偽善」であったと、のちになって吐露している。(pp.138-142.)

 註※「コミンテルンの路線転換」: この方向転換が世界中の共産主義運動に致命的影響を及ぼしたことはよく知られている。日本でも、コミンテルンの「1932年テーゼ」によって「天皇制廃止」を掲げることを強いられ、厳しい弾圧を招いて小林多喜二など多くの犧甡者と転向者を生んだ

 


   1933年にナチスが権力を握ると、ユダヤ人であったルカーチはベルリンからモスクワに逃れ、ソ連に亡命した。ソ連に亡命した多くの共産主義者が 1930年代のスターリンの「粛清裁判」で命を落としたが、ルカーチは、かろうじてタシュケントへの1年間の流刑で済んだ。彼の息子〔妻と前夫の間の子〕は強制収容所に送られた。

 

 にもかかわらず、ルカーチの「前衛党」への確信的従属は揺らぐことがなかった。「スターリンおよび共産党の非人格的カリスマこそ、ヒトラー〔…〕に対抗する唯一効果的な勢力である」というのが彼の確信だった。「」のもとにいてこそ、「ファシズムとの戦い」の側にいることができる。それゆえ、どんなに偽善的な自己批判であろうとも、「」に屈服して自己批判することは、「ファシズムとの唯一有効な対決に参加するため」の「入場券」だった。

 

 

インゲ・ベッカー取壊し作業 ベルリン 1945』1945年頃。

Inge Becker, Zerstörung und Abrissarbeiten Berlin 1945,

  Tuschzeichnung. ©Wikimedia.

 

 

   1945年、ハンガリーを占領したソ連赤軍によってハンガリー共産党書記長に任命されたラーコシ・マーチャーシュ〔Rákosi Mátyás. ラーコシが姓〕から、ルカーチは手紙を受け取った:「[我々は、党がインテリゲンツィヤの最良のメンバーを動かすのを支援していただきたく、ハンガリーで貴方をお待ちしています。]ルカーチは故郷へ飛んだ。」ルカーチはブダペシュト大学の美学・文化哲学教授に迎えられ、かつて 1920年代後半に主張していた「ブルジョワ勢力との協働」路線に戻り、「多くの聴衆に講演した。」

 

 ラーコシ政権は、スターリン主義を踏襲して一党独裁体制を確立し、徹底した恐怖政治を敷いたことで知られるが、ルカーチにたいしては「党は彼が戻ったことを喜んでいるよう」であり、彼の活動に抑圧を加えることはなかった。ルカーチはその一方で、「近代ドイツ思想における[理性の破壊]を論じた本〔『理性の破壊――シェリングの非合理主義からヒトラーへの道』1954年〕を完成させ、「かつての師〔…〕ジンメルについて、[帝国主義的な不労所得生活者の寄生の哲学]を拡大したと非難した。」(pp.142-144.)

 

 ルカーチは 1956年の「ハンガリー動乱」で成立したナジ・イムレ政権に参加したが、ソ連軍の侵入後、ルーマニアに亡命した。〔wiki〕

 

 

 

【42】 エルンスト・ブロッホ ―― マクス・ウェーバーにも

理解されなかった独特の社会思想

 

 

 エルンスト・ブロッホは、共産党に入党することも、政治家になることもなかったが、ルカーチとともに若くして「ロシア革命とレーニン」の心酔者となった。2人が親交を結んだのは、ベルリン大学のジンメルのゼミナールにおいてだった。ブロッホは、虚弱そうなルカーチとは好対照で「活力にあふれ、古代の預言者」の役回りを演じて、人を驚かすような「預言を怒鳴る」ことを好んだ。彼が「大声で怒鳴っているのを聞かなければ、ブロッホを本当に理解することはできない〔…〕、と彼の学生たちは主張した。」

 

 ブロッホは、ライン河畔「ルドヴィヒスハーフェンのプチブルジョワ〔…〕ユダヤ人の両親のもとで生まれ」育った。当時ルドヴィヒスハーフェンは、無残な工業都市で、ブロッホは其処で「資本主義の醜悪な相貌に圧倒されたと」述懐している。「夕方、抑圧され真っ青な顔をしたプロレタリアートが通りを歩いてゆく姿を」見た時に、彼は「マルクス主義者となることを決めた」のだった。

 

 「ブロッホは、彼の時代のあらゆる哲学を非難することから始め、まったく新しい形而上学を求める時が来た〔…〕と語った。」彼の主張によれば、この課題を果たすために必要なのは、ヘーゲルと、西部劇風の大衆冒険小説だけでよかった。ジンメルのもとで、ルカーチは「文化の悲劇」という師の理念にすぐに飛びついたが、ブロッホジンメルから得たのは、「生はつねに自らを超えようとする」という洞察だった。

 

 フロイトの精神分析が発見した「無意識」――もはや意識されなくなった過去の経験――からヒントを得て、ブロッホは、それとは逆に、「いまだ意識されないもの」「いまだ無いもの ノッホ・ニヒツ」に注目した。また、それを「希望」と名づけた。「希望」とは、人類が太古の昔に忘れ去り、中断されてしまった道を再開することであり、未来における解放への飛躍なのだった。そうした「中断された道」の痕跡は、哲学者の思惟よりも、少年冒険小説やお伽話のなかに蔵されており、くりかえしくりかえし、人びとを解放へと煽り立てているのだった。

 

 

エゴン・シーレ崩れかかった水車場』1916年。

Egon Schiele, Old Mill. ©Wikimedia.

 

 

 ベルリンからハイデルベルクに移った2人は、ウェーバーのサロンでも互いに好対照な論客だった。ブロッホは、「意識的に・ある種のメシアニズムを選び取り、ウェーバーを激怒させた。」もっとも、ウェーバーは、極端なもの、風変わりなものに惹かれたので、ブロッホにも関心をもった。そこでブロッホは、「私の使命を受け取る人間は、自らのうちに神の回帰を経験し理解するであろう」などと触れながらハイデルベルクじゅうを歩き回ったので、ウェーバーはまたもや、この手に負えない弟子の「マナーの欠如と〔…〕度を越したレトリックに」立腹することとなった。

 

 ドイツ帝国が第1次大戦の開戦を布告した時、ウェーバーは、「予備役将校の制服を着て客にあいさつ」したくらいナショナリズムに熱狂したが、これを見て戦慄したのはブロッホルカーチだった。多くの労働者が「好戦的愛国主義 ジンゴイズム〔※〕に熱狂する姿も、2人を失望させた。

 

 そこで、ブロッホは、「ロシア革命」が勃発すると、これを熱狂的に歓迎し、まるで救世主を讃えるように「レーニン居るところ、エルサレムあり」と告げ、また、ボリシェヴィズムは「連発拳銃を持った定言命法」〔★〕だ、などと吹聴した。(pp.144-146.)

 註※「ジンゴイズム」: 国益のために、他国,他民族,国内少数民族〔ユダヤ人,ジプシー〕を憎悪し、自国政府にたいして他国への武力行使を要求、脅迫・迫害を賛美する好戦的な愛国心。19世紀後半イギリスのヒット曲の「by gingo〔強気で〕」という歌詞に由来する。ブロッホとルカーチがこれを恐れたのは、もちろん彼らがユダヤ人だからである。

 註★「定言命法」: カント哲学の根本原理。実践倫理の絶対的根本命令。≒「公準(Postulat)

 

 

 

 

 

 

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