パウル・クレー『ホフマンへの話』1921年。ニューヨーク、メトロポリタン
美術館蔵。Paul Klee, Tale à la Hoffmann. ©Wikimedia.
【38】 ルカーチ ―― 裕福な銀行家の家庭から
ロマンチックな資本主義批判へ
「西ヨーロッパの共産党の多くは、」とくに知識人を好んで仲間に入れようとしたわけではなかった。ところが、西ヨーロッパの「知識人は、共産主義に多大な関心を抱いた。〔…〕彼らにとって第1次世界大戦は、生まれつつある新しい世界への炎の前触れ」に見えた。「安定の時代の終焉は〔…〕、息苦しいブルジョワ的旧習から」の解放でもあった。
しかし、彼ら西ヨーロッパの知識人が「共産党に参加した場合」、モスクワの「前衛党」から「恐るべき挑戦」状を突きつけられることとなった。片や「自由に思考する知識人」という自らの存在と、片や、革命の正しい道筋を示せるのは党だけだ・と宣布する鋼鉄の「前衛党」組織とのあいだで、「とりわけ2人の人物が〔…〕[ディレンマの実例]」となった。ルカーチ・ジェルジュ〔※〕とエルンスト・ブロッホである。
註※「ルカーチ・ジェルジュ」: 「ルカーチ」が姓。マジャール人(ハンガリー人)はアジア系なので、姓・名の順である。
ルカーチとブロッホは、彼らに共通する・マルクス主義の新しい理解を打ち出しており、それはモスクワの「党」が公認したがらない “プチブル的おしゃべり” だった。ヘーゲルとマルクスが、それぞれの著作で時おり口にした「疎外」という言葉の含蓄を、彼らは展開して見せた。「労働者は、搾取されているだけでなく[疎外]もされている。」
当時、一般の芸術/思想界では各種アヴァンギャルドが盛んであったのに比べ、マルクス主義者の文化論は、かなり遅れた保守的なものだった。ルカーチ,ブロッホの議論は、マルクス主義文化論に、従来の水準をはるかに超える斬新な旋風を吹き込み、「急進的な文化的想像力」の源泉となった。
ルカーチとブロッホは、ユダヤ人だった。ユダヤ人家庭という特別な知的環境で育った点、また、青年期にハイデルベルクのウェーバーのもとに出入りして思想を育んだ点が、2人に共通している。癇癪持ちとして知られるウェーバーは、彼らのうち比較的穏健なブロッホにたいして、ことあるごとに激昂していた。ところが、まもなく共産党に入党して武装闘争に決起することとなるルカーチにたいしては、なぜかその発言に驚嘆し賞賛するのが常だった。しかし、まずはルカーチの生い立ちから始めよう。
ルカーチの生時の姓名は「ジェルジュ・ベルナート・レーヴィンゲル」で、父はユダヤ人の富裕な銀行家。ジェルジュはハンガリー語とドイツ語のバイリンガルとして育った。1890年、ジェルジュが5歳の時に、父は一家の姓を、「レーヴィンゲル(Löwinger)」というドイツ風のものからマジャール〔ハンガリー〕式の「ルカーチ(Lukács)」姓に変えた。帝国〔オーストリア=ハンガリー帝国〕内務省に願い出て許可された。続いて父は、1899年にはハンガリー貴族として爵位を受けた。〔Wiki独語版で年代を修正〕
こうして一家は、コスモポリタンなユダヤ人の出自から脱して、ハンガリーの新興支配者層の一員として上昇しようとしていたが、ジェルジュは、結果的にはこの傾向に反発して「知識人」として浮遊することとなる。
ジョルジュ・ブラック『ラ・ロシュギヨンの城』1909年. スト
ックホルム近代美術館。Georges Braque, La Roche-Guyon,
le château. Moderna Museet, Stockholm. ©Wikimedia.
ジェルジュは、ブダペシュトで、はじめ父の意向に従って法学・経済学を学びますが、学生時代に劇団で脚本兼演出を務めて文学に関心を深め、文芸批評をめざすようになります。ルカーチが好んだ劇作家はゴーリキィ,イプセン,ハウプトマン,ストリンドベリらで、ハンガリー,オーストリアの作品には興味が無かったようです。多くの富裕なユダヤ人の子弟と同様に、彼はブルジョワジーとして身を立てることを拒み、「父親からの惜しみない援助によってヨーロッパじゅうを周りながら、自由に浮動し、自ら急進化していく知識人の一翼を担った。〔…〕1906年、ルカーチはオーストリア=ハンガリー帝国の重苦しい雰囲気から逃れるためにドイツへ向かった。」
その頃から、彼の文芸批評は、小説史と演劇史の分野で注目されるようになった。のちにルカーチは、当時の自分は「ロマンティックな反資本主義」に「どっぷり浸かっていた」と回顧しています。「近代の合理化された生・に直面した悲劇感情に苦しめられながら、悲劇を〔…〕克服する〔…〕処方」を知らぬの「はもちろん、近代の生〔…〕の」解明さえできない状態でした。
ルカーチは、「ベルリンのジンメルのもとで研究し」、「生は自らを表現するために形式を必要としながら、しかし形式はつねに生のほんとうに重要なものを欠いている」、というジンメルの思想を自分のものにした。ルカーチが、生涯の畏友となるエルンスト・ブロッホと知り合ったのも、ジンメルのゼミナールにおいてだった。
ルカーチは、「小説を、ブルジョワ文明の典型的な芸術形式として分析」し、小説というジャンルの「中核にある[問題ある人間]の[新しい孤独]を診断した。「[新しい孤独]は、資本主義とともに到来した〔…〕。小説の中で、主人公は〔…〕[超越論的故郷喪失]〔…〕を経験する。主人公は、〔…〕[第二の自然]」すなわち「[生家に代わる監獄として自らが形成した環境]〔…〕によって束縛」され、「抑圧すらされ」るのだ。この「第二の自然」は、「ジンメルが指摘した[圧倒的な文化形式]」、また、ウェーバーが予言した・非人格的力の[鋼鉄の容器]の・もうひとつの変種であった。」
「ルカーチによれば、このような」近代人の危機は、「小説の内部で」・すなわち芸術によって「克服されるものではなかった。それどころか、〔…〕小説自体が、」資本主義による「物象化」の進展を示す徴候にほかならなかった。
「物象化」は、ルカーチがロマン主義批評時代に「第二の自然」と呼んでいた問題系を、マルクス主義の角度から把え直したキー概念だったと言える。彼は、マルクスの著作から「物象化」の概念を発掘することによって、ジンメルの枠組みを脱出した。「物象化」〔※〕とは、「人間を、たんなる事物へと矮小化する過程」であり、ルカーチは、「マルクスによる商品物神化〔※〕の分析――資本主義の商品が、ある種の呪術的性格を帯び〔…〕その製作者や使用価値から抽象された[事物]として」人間「相互間に関係を生み出す現象の分析――を足場と」して、独自の「物象化」理論を構築した。「ルカーチは、物象化が資本主義のもとでの人間の意識をも特徴づける、と論じ」た。「商品が物神として崇拝されるところで、意識は物象化される。」このような・本来の人間性からの「疎外」・という現実に捉えられているのは、近代人すべてであって、「労働者だけに限定されるものではなかった。」(pp.129-132.)
註※「物象化」「物神化」: これらの概念系は、マルクスからの読みとり方も、ルカーチからの読み取り方も、論者によって大きな違いがあって混乱しています。柄谷行人,斎藤幸平,廣松渉ら、それぞれがまったく異なることを、これがマルクスの主張だ、あるいはルカーチの言だ等々主張して争っています。が、ここではミュラーの説明にのみ従い、論争には言及しません。
ハンナ・ヘヒ『ワイマル・ビール腹文化のキッチン・ナイフ・カット』1919年,
コラージュ。ベルリン美術館。Hannah Höch, Cut with the Kitchen Knife
Dada through the Beer-Belly of the Weimar Republic, collage
of pasted papers, Staatliche Museen zu Berlin. ©Wikimedia.
【39】 ルカーチ ―― ハイデルベルクから、
ハンガリー革命の武闘へ
ベルリンのジンメルのもとから離れて、ルカーチはハイデルベルクに移り、マクス・ウェーバー夫妻のサロンに出入りするようになります。
ルカーチにハイデルベルク行きを勧めた友人エルンスト・ブロッホとともに、彼はウェーバー・サロンでは「ロシア通」として通っていました。「ルカーチは、有機的なロシアの村落共同体のなかに、ある種の社会的ユートピアの前兆を見た。それは、兄弟愛の倫理であって、ウェーバー」の言う「信条倫理と、きわめてよく似ていた。」ブロッホとルカーチは、「西洋で支配的な道具的合理性」に代わりうるものとして・「ロシア的理念の力」を主張する・「ハイデルベルクにおけるスラヴ文化の代弁者」となった。
が、ウェーバーによれば、「信条倫理」のみを一面的に追求するのは危険であって、とくに政治の領域では・それは「幼稚」で「無責任」な行動を正当化してしまう。ところが、ウェーバーの警告はルカーチの耳には入っていないようだった。ウェーバー自身、ルカーチの前では舌鋒を鈍らせてしまい、師のほうが考え込んでしまうのだった。「ルカーチと話した後はいつでも、私は何日間もそのことについて考えなければならない。」とウェーバーは語っている。
ルカーチは、1918年12月に『道徳問題としてのボルシェヴィズム』と題するエッセイを出版しました。レーニンの「ロシア革命」を道徳的見地から強く否定するもので、↑上記の(ナロードニキ的な?)ミール共同体・兄弟愛の倫理からは、当然の評価だったと言えます。「レーニンのアプローチ」は、「善は悪からやって」くる、「階級闘争は、無階級闘争に行き着く」という本末転倒した考え方である;ボリシェヴィキ革命は、このような「不道徳な賭けに依存」するものだ、とルカーチはレーニンを激しく非難しました。
ところが、その出版された月のうちに、ルカーチは突然「前触れもなく、〔…〕創設されてまだ1週間しかたっていないハンガリー共産党」に入党し、「ハンガリー革命」に身を投じたのです。
これに先立つ第1次大戦中、ルカーチは、ロシア帝政の崩壊を予想し、オーストリア=ハンガリー帝国,ドイツ帝国が西欧に敗れる可能性も受け入れつつ、その場合「いったい誰が我々を西洋文明から救ってくれるだろうか」との疑問を吐露していました。そもそも、政治は「魂全体を満たす」ことができるのか? どんな政治であれ、「第二の自然」による抑圧を結果することなく・新しい「別の文化を創造」することが、はたしてできるのだろうか? ‥‥
このような切羽詰まった隘路からの脱出を求めて、ルカーチは、自ら否定していた「政治」の世界に、しかも「不道徳な賭け」とさえ非難していたボルシェヴィキ共産主義に、突如として飛び込んだのかもしれません。
ルカーチ自身、自らの「決断」を説明して、「ひとは回心するか、さもなければ[ブルジョワ的偏見]にへばりつくかだ」、「10月革命」は「答えを与えてくれたのであり、西洋文明や〔…〕[絶対的罪深さの時代]〔…〕から自分を救ってくれるだろう。」と述べています。(pp.132-133.)
『プロレタリア独裁万歳』1919年、ハンガリー絵画。
"Éljen a proletár diktatúra", painting, 1919.
Museum of Modern Art, New York. ©Wikimedia.
『共産主義者が 1919年3月にブダペシュトで権力を手中にした時、』ルカーチは『文化教育副委員長に任命された。多くの熱狂的活動のなかで、ルカーチは、時間を見つけては若い労働者たちに「あなたたちの人生の主要目標は文化でなければならない」と忠告した。彼はイプセンの戯曲を上演させ、労働者の子供のために公衆浴場を開設した。
ハンガリーの社会主義共和国は不運な実験であることが』まもなく『分かった。――オットー・バウアーが書いたように、それは「自暴自棄の独裁制」であり、すぐに大混乱に陥った。西側同盟国のウィルソン的計画〔民族自決――ギトン註〕に反対し』て『ハンガリー人のナショナリズム』からの支持『を確保した。しかし同じ理由で、主にルーマニアとチェコスロヴァキアの軍隊による恒常的な軍事攻撃に晒されていた。〔※〕
〔…〕ロシアの革命家とは異なり、彼らは多くの戦術上の過ちを犯した。彼らは土地を再分配し損ねたし、〔…〕すぐれた文化政策はアルコールを禁止することだと考えた。彼らは内戦に敗北し』たが『テロルを解き放った――それに続いたのが残酷な白色対抗テロだった。
ルカーチは前線でいくつかの戦闘に加わり、〔…〕〔ギトン註――臨時の野戦〕軍法会議を設け〔…〕市場で 8人の脱走兵を射殺させた。政治委員として〔…〕、彼はこう兵士たちに説教した。
〔…〕われわれは、流れる血に全責任を負わねばならない。〔…〕要するに、テロルと流血は道徳的義務であり、もっとはっきり言えば、われわれの美徳なのだ。
〔…〕彼が最終的に展開した論理は〔…〕単純なものだった。〔ギトン註――ハイデルベルクのウェーバー邸で自ら言っていたのとは真逆に〕善は悪からやってくることがありえたし、党の路線には従わなければならなかった。なぜなら、共産党は「プロレタリアートの意志の客観化」』にほかならないから、というのだった。
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.133-136. .
註※「1919年ハンガリー革命」: 第1次大戦まで、オーストリア=ハンガリー帝国は、ルーマニア,スロヴァキア,チェコなどを支配していた。1918年のブダペシュト暴動で帝国が倒壊し、11月に、カーロイ大統領の「ハンガリー民主共和国」が成立したが、翌年3月には、社会民主党と共産党の連合政府に取って代わられ、共産党が実権を握って「ハンガリー・ソヴィエト共和国」樹立を宣言。共産党政府はレーニンのモデルに従って共産主義化を進めたが、対外政策では、帝国時代の国境線の回復〔ルーマニア・チェコスロヴァキアに対する異民族支配の継続〕を公約してハンガリー国民の支持を得た。
アバ=ノヴァーク・ヴィルモシュ『生』1919年頃。
Vilmos Aba-Novák, Life. Hungarian National Gallery. ©Wikimedia.
「ハンガリー・ソヴィエト共和国」(評議会 タチーチ 共和国)が崩壊すると〔1919年8月〕、共産党のほかのメンバーは我れ先に国外逃亡してしまい、ルカーチはブダペシュトに取り残された。彼の家族が、鎮圧軍の中佐に賄賂を贈って、ルカーチをウィーンに逃がした。その後も、ルカーチは何度か、オーストリア政府によるブダペシュトへの強制送還の危機に晒されたが、同政府のオットー・バウアーや、トーマス・マンのような国外の名士たちが介入したおかげで、かろうじて難を逃れた。
しかし、マクス・ウェーバーは、ルカーチ救済の嘆願書への署名を拒んだ。ウェーバーにとっては、ルカーチの武闘共産主義への “転向” は、文化に責任を負うべき知識人として、到底許されない裏切り行為だったのでしょうか。(pp.136-137.)
『ウェーバーは、〔…〕次のような手紙を彼に送った。
〔…〕これらの実験は、今後 100年間、社会主義の信用を失墜させる結果になるうるだけだし、そうなるだろうと私は完全に確信しています。〔…〕1918年からつづく現在の政治的変動が、〔…〕シュムペーターや、いままた貴方をも犧甡にしながら、〔…〕最低限の成果をも生み出していないことを考えると、〔…〕私はこの無意味な運命について、苦い思いを禁じ得ないのです。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.137. .
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