ウンベルト・ボッチョーニ都市の成長』1910年。 Umberto Boccioni, The City

rises, oil on canvas, Museum of Modern Art, New York. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【32】 グラムシ ―― イタリアの「赤い2年間」:

工場評議会と自主管理

 

 

 「1910年代にグラムシは社会主義の指導的知識人とな」った。1919年に、トリアッティらとともに社会主義文化週刊誌『新秩序』を創刊している。彼らの主張の中心は、「工場評議会」による自主管理、ないし労働者の経営参加だった。

 

 1919-20年のイタリアは「赤い2年間 ビエンニオ・ロッソ」と呼ばれる労働運動・社会主義運動の高揚期だった。25万人だった労働組合員は 200万人に急増し、「ストライキはイタリア北部を圧倒し」、社会党が議会の最大政党に躍進した。

 

 グラムシにとって重要だったのは、「北部の工場における労働者評議会の登場であった。第1次大戦中にイタリアでは、他のヨーロッパ諸国と同様に、経営者だけでなく労働者代表も参加した「生産計画・編成の〔…〕組織が産業内部に形成されていた。イタリアではこの組織は[工場内部委員会]と呼ばれた。」(p.116.)

 

 

『こんにち、工場内部委員会は、工場における資本家の権力を制限し、作業場の仲裁や規律にかんする問題を解決する。〔…〕将来的に、工場内部委員会は、運営と管理にかんする〔…〕職務において、資本家に代わりうるプロレタリア権力の組織として機能するにちがいない。』

〔Antonio Gramci e Palmiro Togliatti, Democrazia Operaia,  1919.〕

 

 

 グラムシトリノで、「工場評議会を組織するさい」の「指導的役割を担った。「工場評議会」は経営者と労働者が参加する協議体だったが、グラムシの考えでは、将来は、労働者のみの工場「自主管理」制度となるべきであり、「同時に、政治的民主主義の基礎単位となるはずだった。その根底にあったのは、権力は生産者に与えられる必要があるという思想だった。〔…〕グラムシにとって評議会は、生産,立法,行政の機能を含む公的制度となるはずだった。彼は、[工場評議会がプロレタリア国家のモデルである]と主張した。〔…〕彼はまた、かなり楽観的に、工場評議会〔…〕国際共産主義的経済の最初の礎石と見ていた。」

 

 その一方でグラムシは、「テイラー主義の導入」を含む工場労働組織の近代化、つまり彼の言う「アメリカニズム」を推奨しました。「レーニンロシア人労働者に〔…〕ドイツ人になるよう望んだのと同じく、グラムシは、イタリア人がアメリカ人になることを望んだ。」理論的には、「アメリカニズム」は、「イタリアの国家と経済における封建的残滓の払拭を早めるであろうし、労働者の規律を高めるであろう」と論じられた。こうして「プロレタリア国家のもとで、労働はより効率を高め〔…〕より解放されたものになる」と言うのだ。

 

 

ジョルジュ・ブラックレスタックの陸橋』1908. Georges Braque,

Le Viaduc de L'Estaque.  Tel Aviv Museum of Art. ©Wikimedia.

 

 

 このようにして、今から振り返ってみれば、グラムシの中では2つの潮流が鬩 せめ ぎ合っていました。ひとつはレーニン主義で、当時のグラムシ自身は、自分は全的にレーニンの教条を実践する「前衛」だと信じていました。が、そのグラムシイタリアで推進し、大きな成果を収めつつあったのは「工場評議会〔レーテ,ソヴィエト〕」による「自主管理」運動であり、レーニンはそれとは逆に、すでに、「評議会」の弾圧・「党」官僚制の構築へと転轍機を切っていました。つまり、グラムシは一方では、(それがレーニン主義だと誤解しながら)「評議会・自主管理」運動に専心していたのです。

 

 他方グラムシが主張したのは、「アメリカニズム」の導入による・労働者の資本主義化・「効率」化であり、これは正しくレーニンのもくろむ方向と一致していました。

 

 「自主管理を通して強まる個人の自律性と」、党の「国家的計画を通して高められる効率性とが、どうすれば両立するのかという問題を」グラムシは解明しなかった。「アメリカ型の[合理化]と、彼が社会主義的な[規律ある社会]と呼んだものは、ウェーバーの言う[鋼鉄の容器]の厳しさを強化し、〔…〕労働の過程から永遠に労働者を疎外するかもしれない」。が、グラムシは、この時点ではそのことに気づかなかった。(pp.116-118.)

 

 

ロシアの場合と同様に、評議会〔レーテ,ソヴィエト――ギトン註〕による支配か、政党による支配か、という問題は、イタリアでもすぐに深刻なものになった。〔…〕グラムシの立場ははっきりしていた。〔ギトン註――評議会こそが、社会の自律的支配機構に成長すべきなのであり〕社会主義政党と労働組合〔…〕は、評議会の発展と強化に〔…〕有利な条件を作り出す』という脇役に専念すべきだった。しかし、もちろん政党も労働組合も、グラムシ〔…〕課した従属的役割に満足しなかった。


 結局のところ労働組合は、〔…〕問題を調査し』適当な法律を作る『という政府の約束に〔…〕丸め込まれてしまった。グラムシが社会主義への架け橋と見た評議会は、結局「労使関係」』の取引の『道具になり下がってしまった。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.118. .  

 

 

ジョルジョ・デ・キリコ愛の歌』1914年

Museum of Modern Art, New York. ©Wikimedia.

 

 

 

【33】 グラムシと反ファシズム「ヘゲモニー」

――「あらゆる人間が知識人だ」

 

 

『とはいえ「赤い2年間」は、イタリアにおいてロシア革命が繰り返される可能性を〔…〕実感させた。ファシズムは、そうした〔ギトン註――革命を防がなければならないという〕認識を糧 かて として急成長した。1919年、ファシストは社会党の建物を攻撃し』グラムシも身の危険を感ずるようになった。ムッソリーニは、すでに社会党を脱党して、彼の最初のファッショ政党を創設していた。

 

グラムシは、下からの統一戦線によってファシズムに対抗しようとしたが、このことは再び、国民的統一の問題を提起した。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.119. .  

 


 つまり、グラムシにとって「統一戦線」とは、たんに、共産主義者が社会民主主義や保守主義者と連合を組むということではなく、(19世紀の「イタリア統一」での分裂を引きずったままの)イタリアの「国民的統一」をやり直すことを意味していたのです。その背景には、産業発展から取り残され差別され続けているサルデーニャ島民としての彼の思いがありました。「文化と教育」「ヘゲモニー」「陣地戦」など、グラムシが唱えた理論概念の多くが、その道すじの上にあります。

 

 つまり、ミュラーによれば、グラムシを理解するキーワードは、「イタリアの国民的統一」なのです。

 

 グラムシは、保守的なカトリック農民に対して進歩思想を上から注入するような社会主義者のやり方に反対しました。「労働者と農民の同盟を形成」したいと望むならば、「庶民の希望と関心を軽視」してはならない。「農民を教育し指導するためには、司祭職に匹敵する」ような・庶民の心の襞 ひだ に分け入って苦楽を共にする人びとが必要だと主張しました。「知識人は、〔…〕[国民・人民としての大衆]と[有機的に]結びつけられねばならない。〔…〕知識人と人民・国民とのあいだに〔…〕感情的結束がなければ、歴史と政治を作り出すことはできない。]これは、〔…〕知識人による労働者の強化を意味するのではな」い。「本物の文化を創造すること」である。

 

 グラムシのこうした主張のカナメは、ひとりひとりの労働者,農民,大衆が自分の胸と頭で「自らの力で考えること」だったのです。政党や知識人の「指導」〔グラムシはなお・ソ連共産主義の範例に従って「指導」という言葉を使いますが…〕は、人びとのそうした自立能力を尊重し援助するものでなければならない。「[わたしには文化のソクラテス的概念がある。]〔…〕文化とは、自己認識、自己支配、そして何よりもまず自らの力で考えることだった。」「社会党の人民大学のような〔…〕ふつうの人民を見下すような〔…〕構想には、〔…〕彼は決然と反対した。」グラムシによれば、「重要なのは」革命ではなく、[あらゆる革命に先立って存在する・濃密な批判活動や新しい文化的洞察、そうして]、当初は知識に対して頑迷に抵抗する人びと[へ理念が普及するまでの長い期間]であった。「かくして、一種の情熱的な教育学が、グラムシが[歴史的同盟 ブロック]と呼んだものを形成する上での核心で」あった。「歴史的同盟」は、「[下部構造]と[上部構造]の結合を意味しており」、その一方が他方の「反映」であるなどという・マルクス主義の通俗的理解とは異なっていた。

 

 

マクス・エルンスト『ユビュ皇帝』1923年。Musée National

 d'Art Moderne, Centre Pompidou, Paris. ©Wikimedia.

 

 

 グラムシの・よく知られた「ヘゲモニー」の概念も、この文脈で理解する必要がある。「ヘゲモニー」という言葉のふつうの意味は、「覇権」「支配権」といったニュアンスを強く含んでいるが、グラムシの言う「ヘゲモニー」は、まったく異なっている。グラムシの概念では、上部構造が下部構造を支配するわけではないし、もちろんその逆でもない。

 

 グラムシの言う「ヘゲモニー」は、もとはロシア語で、ロシア革命での「労働者と農民の階級同盟」を意味しました。つまり、異なる階級や利害集団に属する人びとが、共通の目標に向かって手を結んで「前進」することを意味します。そのような「同盟」を可能にするのは「知的統一性」です。つまり、「誰もが正しいしかたで自らを革命連合の一部と見なす」ことであり、それが可能なのは、グラムシによれば「あらゆる人間は知識人だ」からです。

 

 もっとも、ミュラーも指摘するように、こうしたグラムシの「ヘゲモニー」思想は、その半面に不徹底な「前衛党」ドグマ思考を残していました。それは、レーニンらロシア共産主義からの強い影響を払拭できなかったためです。「グラムシは、社会主義革命とプロレタリアートの永続的支配には[ヘゲモニー]の獲得が必要だと論じた。」「ヘゲモニー」とは「革命的リーダーシップを意味した。」[あらゆる人間は知識人]ではあるけれども、「政党知識人が永続的な説得力を備えた専門家であるのにたいし」、被抑圧階級の「全メンバー」が「知識人」だという意味は、「永続的に説得され〔…〕確信を抱く力を備え」た存在であること、に止 とど まるのだと。

 

 が、グラムシは、さらに進んで「機動戦」と「陣地戦」の区別に及んだときには、このようなロシア的限界を突破したようにも思われます。「機動戦」とは、農民が人民の大部分を占めるロシアに適した中央突破の闘い方であり、それに対して、イタリアを含む西欧諸国に適するのは、広範な政治的・文化的連合によって支配者の権力「陣地」を包囲し・徐々に輪を縮めてゆく「陣地戦」だと言うのです。

 

 イタリアでは、コスモポリタン的傾向の「ブルジョワ知識人」たちは、「国民的統一」を前進させる努力など全くしなかった。彼らはいつも、英・仏・独といった世界の中心部を見ており、足もとの愚昧な大衆のことなど気にかけなかったからだ。その一方で、イタリアには、ドイツ人にもアメリカ人にも「なることを拒み、イタリア人のままでいたがる多くの農民大衆」がいた。しかし、それだからといってグラムシは、「自分のレーニン主義的方法が」イタリアに十分に適しているとも思わなかった。「先進国では農民の数は劇的に減っており、プロレタリアートの[集合的意志]を具現する政党は」ロシアとは「別のしかたで進まなければならない。」イタリアの状況はロシアと西欧先進国の中間にあるが、ロシアの方法がそのまま通用するわけではない。

 

 ロシアの場合には、「ブルジョワ的市民社会」は「ゼラチンのように脆弱で〔…〕国家がすべてであ」る。そこでは、「国家に対する正面攻撃」すなわち「機動戦」によってブルジョワ国家を打倒すれば、永続的な勝利が保証される。

 

 ところが、「ブルジョワ的市民社会」は「西側に行くほど〔…〕強力で」あり、たとえ国家を打倒しても市民社会は残る。「西には、国家と市民社会の適切な関係があり、国家が揺るがされても市民社会の頑丈な構造がすぐに姿を現わす。」そのようなところでは「国家に対する正面攻撃」は成功しない。ドイツの「共産主義者は、ブルジョワ国家を政治的・文化的に包囲する[陣地戦]に携わるべきだった。」

 

 とはいえ、実際には、イタリアでは「機動戦」も「陣地戦」も不可能でした。ロシア式の「機動戦」が失敗した一方で、ファシズムの抬頭に対抗して・より広範な層を巻き込んだ「統一レジスタンス」も、イタリア共産党〔1921年結成。グラムシは中央委員〕を「ボリシェヴィキ化」せよとのソ連・コミンテルンの方針によって阻害されてしまった〔1922-23年〕からです。(pp.119-122.)

 

 

ローマの「天の元后監獄 Carcere di Regina Coeli」。レジナ・チェーリ

は、カトリックで歌われる聖母讃歌のひとつ。もと女子修道院だ

ったのを19世紀に監獄に転用したので、この名がある。

グラムシは、1926年末にファシスト政権に逮捕され、

裁判の間ここに収容された ©Wikimedia.

 

 

 

【34】 グラムシ ―― 不在の国会議員当選、

帰国を強行、逮捕、暗号で書かれた『獄中ノート』

 

 

 1922-24年にグラムシイタリア共産党代表としてモスクワに滞在していましたが、国政を掌握したムッソリーニ政権が逮捕状を出したため帰国できなくなり、ウィーンに移って、弾圧で打撃を受けた党の再建に努めました。24年には党首に選出され、国外滞在のまま立候補した国会議員選挙で当選、国会議員の不逮捕特権を当てにして帰国を強行しました。議員として単独では何もできませんでしたが、ファシズムを正面から批判する演説はセンセーションを巻き起こし、イル・ドゥーチェ〔総統。ムッソリーニのこと〕にロビーで祝福されたとの伝説〔もちろん事実ではない〕を生んだほどでした。

 

 ムッソリーニ政権は、26年に「緊急措置法」を通過させて議員特権を剥奪し、グラムシを投獄。「われわれは 20年間、この頭脳の活動を停止しなければならない」との検事の表明に基いて、裁判所は 5年の禁固刑を即決宣告したあと、さらに 20年4か月5日の刑に処した。

 

 獄中でグラムシは劣悪な環境による虐待で衰弱したが、厳重な監視の眼を逃れて、独自の暗号で『獄中ノート』を書き続けた。「35冊にわたるノートは、ヘゲモニーを構築する必要性に関する彼の思想のほとんどを含んでいた。」『獄中ノート』は、量が膨大で内容も多岐にわたるうえ、“カギの無い暗号” で書かれていることもあって、現在もその解読と研究が続いています。「ヘゲモニー」思想に関しても、大きな進展があったと思われますが、本書で触れているの↑は、そのごく一部です。

 

 グラムシの釈放を求める国際キャンペインは広範な支持を得ましたが、そのためにムッソリーニ政権は、獄タヒさせるのはまずいと判断したものか、病院に移して〔治療に制限をかけて〕いたグラムシを 1926年4月に釈放します。グラムシは釈放の 6日後にタヒ亡しました。彼の葬儀は、参列者よりも監視の警官・諜報員のほうが数が多かったといいます。(pp.122-123.)

 

 

 

 

 

 

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