オーストリア社会民主党政権時代に建てられた労働者住宅「カール・マルクス・

ホーフ」Karl-Marx-Hof . ウィーン。 © graphia76 / 123RF.com.

 

 

 

 

 

 

 

 

【29】 オーストロ・マルクス主義とオットー・バウアー

 

 

『改革か革命かという問い――そして、革命は同意と教育を通して達成できるのか〔…〕という問い――』が、『第1次世界大戦直後の時期に、社会民主党員を苦しめた。』それというのも、彼らの大衆政党は突然、『ヨーロッパ政治の支配をめざす明白な挑戦者』の地位に躍り出ることとなったからであった。『改革と革命の間の選択をめぐる〔…〕ディレンマが、〔…〕オーストロ・マルクス主義者の場合ほど鮮明に現れた例は、ほかになかった。

 

 〔…〕オーストロ・マルクス主義者とは誰なのか。〔…〕20世紀初頭に、ウィーンの知的で創造性にあふれた組織のなかでひとつになり、カフェ・ツェントラルで定期的に会うことを決めた〔…〕学生集団である。〔…〕「その時代のウィーンでは、新しいカフェへの移動は、新しい時代が始まりつつあったことの明確なしるしであった。」』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.106. .  

 


 彼らは、しかし「単なる理論家」やお喋り好きな青年のサークル「ではなかった。」まもなく国政政党を組織し、つづいて「国家指導者として政治的責任を引き受けている。」彼らのひとり:カール・レンナーは、オーストリア共和国初代大統領となり、第2次大戦後の第2共和政でも初代大統領となった。レンナーのもとで外務大臣を務めたオットー・バウアーは、彼らの政党:「オーストリア社会民主党」の党首であり、彼の独創的なマルクス主義理論は、さまざまな民族集団のナショナリズムを平等に扱い・肯定的に包摂するという極めて特異な枠組みを示した。同じく財務大臣を務めたシュムペーターについては、いまさら紹介するまでもない。

 

 バウアーは、「多民族帝国」だったハプスブルク帝国で燃え盛った民族紛争の問題に「正面から取り組んだ。〔…〕社会主義はナショナリズムの対極」ではない、むしろ社会主義は各民族の正当なナショナリズムを支持するものだと「大胆にも〔…〕宣言した。社会主義は、民族的差異を消し去るのではなく」、むしろ相違を「際立たせるだろう。」なぜなら、階級社会は、弱小な民族の民族性と民族文化共同体を排除してきたからだ。社会主義は「大衆」を解放するとともに諸民族を解放し、「大衆を〔…〕まず民族的な文化共同体へと〔…〕統合する」。社会主義は、「帝国」の被支配民族だけでなくドイツ民族をも解放する。「[われわれの労働者はカントについて知っているだろうか。われわれの労働者はゲーテについて何か知っているだろうか。]社会化された生産だけが、カントゲーテを読む」時間を労働者・農民に解放してくれる。こうして「社会主義だけが、総合的な国民教育を生み出し、〔…〕文化の創造者と消費者を兼ねる新しい人民を生み出す」。そして「民族を自律させる。」諸民族は、「自らの運命を自覚的意志によって決定できるように」なる。「諸民族はますます区分され、〔…〕ますますはっきりとお互いから区別される。」

 

 

カフェ・セントラルウィーン。Cafe-Central, Wien. © ablogvoyage.com.

 

 

 のみならずバウアーによれば、社会主義によって民族紛争の危険もなくなる。なぜなら、「行き過ぎたナショナリズム〔…〕は、偽装された階級憎悪の一形態」にすぎないから、「資本主義の終焉とともに消えてなくなる」、と言うのです。

 

 柄谷行人氏によれば(⇒:帝国の構造(10)【28】)、バウアーは、どの民族に所属するかは個人の自由意志によって決定される、民族集団は居住地域によって限定されない、としていました。ミュラーも、「一人ひとりの市民が自らその民族的立場を選ぶべきだ、〔…〕ある地域のマイノリティ民族は、団体として公的な法人格を」持って「自治を行なう」、というのがバウアーの構想だったとしています。

 

 バウアーは、「諸民族の偉大な多様性が大切に育まれ〔…〕るべきだと固く信じていた」が、これは「民族自決」とは異なるのです。「民族自決」とは、民族ごとに領域国家を形成し、1国家内では民族的同質性を強制しうる〔「主権国家」の原理は同質性の強制を要求する〕という考え方です。バウアーは「民族自決」に反対しました。なぜなら、「民族自決」は「〔「少数民族の同化」という形で現れた〕階級抑圧の〔…〕徴候」であり、「致命的な官僚集権制の〔…〕徴候」だからです。「社会主義のもとでは、諸民族は」、民族自決ではなく、「一つの連邦国家」を構成して・それぞれが「文化的自治を享受しながら、ともに生きることができる」と言うのです。(pp.106-108.)

 

 

『このような宥和的イメージは、オーストロ・マルクス主義者たちの一般的なマルクス主義観と合致するものであった。マルクス主義は科学であり、〔…〕怒れるプロレタリアートだけでなく、あらゆる[合理的精神]に潜在的に訴えかける普遍的な道徳的価値を表現するものだ、という』考え方である。この考えからすれば、『暴力革命が・こうした人間的価値を実現する最良の方法ではありえない』ことは、感覚的にも明らかだった。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.108. .  

 

 

 このようなオーストリア社会主義のマルクス主義観は、ルドルフ・ヒルファーディングの経済学理論によって、とりわけ強められました。「金融資本主義」のもとでは、「銀行と結託した独占企業とカルテルは、〔社会主義化に先立って〕すでに国家規模での経済の計画化にかかわっていた。金融資本は、経済を指導し計画する」さいに「、はるかに大きな役割を国家に認め」、実際には、国家が「かなりの自律性を保持し」て「自ら計画的に」金融資本を束ねて経済を運営している、とヒルファーディングは診断した。

 

 この「診断にしたがって、オーストロ・マルクス主義者たちは、革命家が国家を掌握し、計画を完全に実現するために国家権力を用いるべきだ、と論じた。こうして、〔…〕[組織された資本主義]が、比較的円滑な社会主義への移行を可能にするものと思われた。」

 

 「これらすべては理論であったし、しかもこうした理論は、もともと第1次世界大戦に先立つ時代に花開いていたものであった。」大戦後、君主制が倒れたあとの「ハプスブルク帝国」の枠組みを利用して、バウアーの〈諸民族連邦の社会主義〉…そのものでなくとも、民族政策の一部を実施してみる余地はあった。が、それを「試してみようという要求はほとんど無かった。」同様に、銀行・寡占資本・国家によって「組織された資本主義」からの社会主義化――も、理論的になお未成熟で「疑わしいものだった。」(pp.108-109.)

 

 

ジョルジョ・デ・キリコある王の悪魔的才能』1914-15年。Giorgio de Chirico,

 Le mauvais  génie d’un roi. Museum of Modern Art, New York. ©Wikimedia.

 

 

 

【30】 オットー・バウアー ――

「赤いウィーン」と、保守的カトリックの農村部

 


 しかし、勢力の面では、オーストロ・マルクス主義者たちは恵まれた環境にあった。「オーストリア社会民主党」という「巨大な党員数を誇」り「左派政党のモデルとして戦間期に広く認められた〔…〕政党を」彼らは「自由にできた。」しかも彼らは、ドイツの社会民主主義者と違って、「左側にいる」革命的「共産党」から「脅かされることもなかった。」ドイツ社会民主党の場合には、「レーテ」勢力を乗っ取った共産主義勢力や「スパルタクス団」の蜂起を鎮圧するために、国粋主義的な武装勢力と組まねばならなかった。そうして勝利した「ワイマル共和国」体制は、保守主義と急進主義の奇妙な混合物となってしまった。オーストリアのマルクス主義者〔マルクス・エンゲルスの直系だから、穏健な社会民主主義者〕にはこのような心配は無かった。が、そのぶん彼らは、自らの責任において進路〔革命か?改革か?〕を選択しなければならなかった。彼ら知識人は、「改革を通して革命の可能性を手探りしていたのである。」(p.109.)

 


『1920年代にバウアーは、民主主義〔…〕手詰まり状況が、社会主義者たちの支配下にあったウィーンと、農業的かつカトリック的で〔…〕保守的な〔…〕それ以外の地域・とのあいだに生じていると述べた。彼は、権力が進歩派と保守派の間で分有され〔…〕いずれも明白な多数派を得ることは望みえないとする「階級諸勢力の均衡理論」を考案した。しかしながら、』その一方で彼は、『教育、そして〔…〕首都に魅力的な社会主義文化を打ち建てる企てを通じて、社民党は次第にホワイトカラー層と中産階級を取り込んでいく〔…〕とも考えていた。そうして今や〔…〕「ゆっくりとした革命」について語るようになった。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.109-110. .  

 

 

 しかしながら、「階級諸勢力の均衡」ということが言えたのは、「オーストリア共和国」のみであった。まもなく 1922年頃からは、保守派は、支持者の減った社会主義派との「権力分有」には関心を示さなくなった。その一方で「社会主義者たちは、ウィーンをプロレタリア文化の展示場にすることに、持てる力のほとんどを集中させはじめた――それは、福祉と教育を通してなされ、」たしかに「この2つは、個々の労働者の成長、〔…〕バウアーが「魂の革命」と呼んだものに役立った。」労働者の交響楽団、労働者のスポーツ(つねに団体競技。個人間の競争は避けられた)、プロレタリアのヌーディスト・クラブから「ウサギ飼育クラブ」まで、「労働者の生活世界の大部分が、社民党によって組織化された」。「この文化は、同胞愛と相互扶助の価値に基いた健康で合理的な暮らしという」理想を示していた。が、結局のところそれは、「権力の現実的行使の代用品」にすぎなかった。というのは、「魂の革命は、政治制度の革命に〔…〕前進することは決して無かった」からである。

 

 

パウル・クレー夜間の祝祭』1921年。Paul Klee, Nocturnal Festivity.

The Solomon R. Guggenheim Museum, New York.  ©Wikimedia.

 

 

 「赤いウィーン」は「農民保守主義に〔…〕包囲された要塞のよう〔…〕になってしまった。」近代的な労働者向け集合住宅「カール・マルクス・ホーフ」〔↑トップ画〕は、たしかに要塞のように見える。保守主義に包囲された「社会主義者は〔…〕防衛的な態度をますます強めた。」

 

 オーストロ・マルクス主義の指導者たちは、一方では、「議会制民主主義のルールを維持し」ようとした。他方では、「社会主義的な準軍事組織である[共和国防衛同盟(Schutzbund)を組織し」た。後者は、「階級諸勢力の均衡」が破れた際には、自己防衛と、進んで体制の「暴力的転覆」を行なうためのものであった。しかし、指導者たちは、そのどちらにも決断しなかった。結果として、議会制民主主義の崩壊を食い止めることができず、かといって武力革命を遂行することもできなかった。社会主義は、圧倒的なファシズムの攻撃を受けて敗れた。

 

 理論的に言えば、社会主義とは、「普遍的合理的道徳性の問題」すなわち「政治意志の問題」なのか、それとも、必然的「歴史法則の問題」なのか。指導者たちは、そのどちらにも決断しなかったのである。

 

 オーストリア共和国の政権は、「キリスト教社会党〔国家社会主義=ファシズムの政党〕の首相エンゲルベルト・ドルフスのもとで[ポスト自由主義]〔…〕体制に変わっ」た。「議会は、事実上廃止され」た。社会主義者の「防衛同盟」は非合法化され、1934年2月、オーストリア政府は「防衛同盟」の残党に武力攻撃を加えた。バウアーは、「議会制共和国を維持するため」には「ドルフスのような権威主義者とも協力すべきで」協力は可能だと「最後の最後まで信じていた」が、それは非現実というほかなかった。「カール・マルクス・ホーフと他の社会主義者の要塞の周りで激しい」戦闘があり、「100人以上が亡くなり、労働組合の幹部も私刑によって刹され、」バウアーはじめ理論家たちは亡命した。

 

 イギリスの「多元主義」から出て当時はフェビアン協会の活動家だったラスキは、「ウィーンの殉教者たち」に心からの哀悼を捧げた。この悲劇は、ヨーロッパの各地で永きにわたって語られたが、社会主義者たちが「赤いウィーン」からどんな教訓を受け取るべきかは、意見が分かれた。

 

 一方の人びとは、労働者階級と都市プロレタリアートに局限された大衆運動の狭さが悲劇を招いたと考えた。彼らは、「労働者階級〔…〕に限定されない信念によってまとまった広範な連合の必要性」を胸に刻んだ。

 

 その一方では、ウィーン修正主義派の「あやまち」こそは、レーニン主義の正しさを再確認させたと、あらためて頷く人びとがいた。彼らによれば、「ブルジョワ民主主義〔…〕断絶」して「戦闘的な前衛政党」に結集する以外には道が無いのであった。(pp.110-114.)

 

 

アントニオ・グラムシ〔25歳。後列右端〕。1916年7月、

 社会党機関紙編集部の仲間たちと。

La redazione de "Il Grido del Popolo". Antonio Gramsci è

il primo da destra in seconda fila. ©Wikimedia.

 


 

【31】 グラムシ ――

「暴動と山賊の島」から先進工業都市へ

 

 

 イタリア半島の西に浮かぶ・四国より少し広い島サルディニア〔伊語:サルデーニャ、サ方言:サルヂーニャ〕。イタリア本土の産業化から取り残された・この「鉱山労働者の暴動と山賊の土地」で、20世紀は2人のマルクス主義者を生み出しました。ひとりは、ムッソリーニ・ファシズムと闘った革命理論家グラムシ。もうひとりは、イタリア共産党首として第2次大戦後、〈議会主義〉に立つ「ユーロ・コミュニズム」を確立したトリアッティです。

 

 20世紀における「マルクス主義政治思想家の一部は」、「ウィーンの悲劇」から2つの教訓を受け取りました。ひとつは、ファシズムに対抗するためには、戦闘力をもった「カリスマ的前衛政党」は、やはり必要だということ。しかし、その一方で、「階級的」政治闘争の狭い枠にとらわれることなく、広汎な大衆の思想と文化にコミットする幅広い運動こそが重要だということです。そして、「生産手段ではなく[文化]を征服することに集中する理論を完成させた。」彼らのなかで「もっとも重要なのは、アントニオ・グラムシであった。」

 

 サルデーニャで村役人をしていたグラムシの父は、アントニオが幼い時に、横領で告訴・投獄された〔村の有力者と争って陥れられたらしい〕ため、彼の家は貧窮のどん底に落ちた。アントニオは、小学校を出ると税務署に就職して働いたが、1911年 20歳の時に奨学金が支給され、トリノ大学に入学した。トリノは、イタリア統一のもとになった旧サルデーニャ王国の首都だった関係で、サルデーニャ島から奨学生を選抜してトリノ大学に入学させる制度があったようだ。当時、トリノは、イタリア自動車産業の中心都市として発展していた〔「フィアット」の本社工場がある〕アントニオは、「数えきれないほどの車と路面電車に撥ねられないようにするのに、〔…〕怖くて震えてしまいます」と故郷に書き送っている。


 グラムシは、大学に通って言語学を修めるかたわら〔サルデーニャ方言を解するので、教授に重宝がられた〕、社会党に入党し、第1次大戦の出征で人手不足になった社会党機関紙の支局で働いた〔編集長ムッソリーニは社会党の反戦路線を批判して 1914年10月辞任、のち離党,出征〕。仕事が忙しくなると大学には行かなくなり、退学した。

 

 サルデーニャ島で自ら体験し・また目撃した「抑圧と搾取」は、さしあたってグラムシを「サルデーニャ・ナショナリスト」として成長させた。が、「イタリア本土を〔…〕理解するようになると、グラムシはマルクス主義を受容した。」それでも、サルデーニャ島民「が抱える国民的・文化的分断を忘れることはなかった。〔…〕イタリアの国民的統一は不完全だったという鋭い感覚を生涯持ち続けた。」グラムシは、イタリアの統一国家制度を「法定イタリア」、社会的文化的分断を抱えたイタリア社会を「実定イタリア」と呼んだ。(pp.114-117.)

 

 

 

 

 

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