ピーテル・ブリューゲル(後継者)『聖アントニウスの誘惑』1550-75年頃。

Pieter Bruegel nachfolger: The Temptation of St. Anthony.

 

 

 

 

 

 

 

 

【26】 「政治的実験」の時代

 

 

 「1918年以後のヨーロッパ」では、「政治の世界にあまりに多くの新しい人びとが関わり、〔…〕あまりに多くの新しい主張が噴出していたから、自由主義の復興が望めないことはあきらかだったが、レーニンが理論化した社会主義革命も望み薄だった。」

 

 終戦前後の時期には、ヨーロッパ各国に「労働者・兵士評議会(レーテ,ソヴィエト)」による評議会民主主義が広がったが、ロシアではレーニンらによって魂を抜き取られて名前だけが残り、ドイツなどでも、1920年までには「解体」されるか、議会の一勢力として吸収された。「レーテ」は、「権威主義的な前衛政党なしでも革命が達成されることを約束」しているように見えた。その挫折は、1920年以後の政治思想に深い影響を及ぼした。「左翼の知識人たちは〔…〕行き詰まりに直面し〔…〕、議会制民主主義〔…〕の内部で活動すべきか、それとも」なおも議会外で「革命に挑戦し続けるべきなのか、決断を迫られていた。」

 

 第3の道を「模索し始めた者も多い。」彼らの眼は、「文化」や「教育」に向けられました。左翼も右翼も、退潮する時期になると、なぜか「教育」に眼を向ける。それが、これ以降の「大衆民主主義」時代にくりかえされる現象となりました。「根本的変化をもたらすため」には、経済の転換よりも「政治制度を用いる」よりも前に、まず、人びとの性質を変えることが「先決」だ、と言うのです。革命派と「同じ価値観を共有するよう」に、人びとを「再教育」しなければならない。

 

 「社会主義的法学者オットー・キルヒハイマー」によれば、「多数決原理というものは、市民が〔…〕同じ道徳的価値観を共有し」ていて、ただ、それを「実行する最善の方法」の選択に争いがある場合にだけ、正当に機能する。バラバラな価値観のあいだで、どれにするかを投票によって決定するのは、民主主義ではない。「多数派」による「少数派 マイノリティ の抑圧」にすぎない。だから、「真の社会主義的民主主義は、何よりも〔…〕価値観の合意を粘り強く創造することにかかってい」る、と彼は主張しました。そこで言う「価値観」とは、「道徳的特徴と文化的特徴」の両面を備えたものでした。(pp.93-95.)

 

 

 

【27】 「国家主義の時代」に逆行する「多元主義」

 

 

 第1次大戦後のヨーロッパは、その表て面においては「国家主義」ないし「集団主義」の時代であったと言えます。ムッソリーニは、「いまこそ集団の世紀であり、したがって国家の世紀なのだ」と宣言しましたが、彼はこの時まだ、社会主義者を自認していました。「中央集権的な国家主導の経済発展として把えられた社会主義が」西ヨーロッパ各国で注目され、東では、レーニンが「分権的コミューン国家の理想を」捨てて「ドイツの戦時社会主義を」模倣しはじめていました。

 

 しかし、ヨーロッパの目立たない裏面では、これと逆行するように、「国家を」たんに抑制するどころか「完全に分解することによって」社会を変革しようとする構想が主張されていました。それは、「イギリスの紳士的知識人の一部、つまり多元主義者たちによってもたらされたのである。」

 

 「多元主義者」たちの舞台は、イギリスのオクスフォ-ド、アメリカのハーヴァードであり、政治運動とは距離を置いた大学人として彼らは論陣を張りました。彼らは、「多元主義」の思想的源流を、19世紀ドイツの法制史家オットー・フォン・ギールケに求めたのです。ギールケの「反国家主義」の着想は、ドイツ統一をめざすビスマルクに対抗する南ドイツ・カトリック勢力の「文化闘争」の理念にありました。「国家主権」というものは、そもそも幻想にすぎない。統一「国家」が、全体を同質化することによって中央集権化を達成できていると思うのは幻想であって、むしろ「国家」は、「労働組合や教会のような中間集団に自由裁量を与えること」によってようやく、「全体の文化的同質性が欠けていてもなお」統一国家として「機能しうるように見えた」にすぎない。

 

 このような観察の上に立って、ギールケは中世に遡り、「法共同体の古い形式」を掘り起こした。古代および近代に優勢な・国家の「ヘルシャフトすなわち法的支配」に対比して、中世に優勢であった「ゲマインシャフトつまり共同体ないし仲間団体」による社会的統合・秩序維持が比較された。「仲間団体の古ゲルマン的理想は、」社会的「集団生活のモデルとして役立」つものであり、「ローマ法に基いた上からの画一的な法規制」を強化する「近代的傾向」に対抗するものとして、再発掘されるべきである、と。

 

 

中世ドイツ市参事会(ラート:都市ギルド)の会合。

©alltag-im-mittelalter.ideenset.ch.

 

 

 「イギリス多元主義者たち」がギールケから受け継いだのは、「国家という状態を解体し、単一主権の概念」を否定しようとした壮大な「野心」にほかならなかった。彼らは、イギリスはヨーロッパ大陸よりも、「多元主義」の計画を実施するに適していると論じた。「イギリスは、統一的公権力としての国家という大陸的伝統に従ったことは一度もない、と彼らは論じた」。「1915年にアーネスト・バーカーが」主張したところでは、「イギリスにおける生活のあり方は、部分的に重なり合う・複数の参入資格・を認めるような、風通しの良い集団を創ることにとりわけ適している」。バーカーがその典型例として挙げているのはオクスフォード大学で、そこでは、大学という全体が、「素早い分裂過程によって、学寮や常任委員会を即座に作る」。いわば、多数の「クラブ」で構成される社会を、彼らは理想と考えた。

 

 こうした「反国家主義」への思索の背景には、戦争が国家を「専制的支配者〔…〕に変えてしまうのではないかという恐怖」があった。

 

 「多元主義者たちは、できるだけ多くの集団の間と内部における分権化と民主主義を模索した。〔…〕政治学教授にして〔イギリス〕労働党の政治家であったハロルド・ラスキは」第1次大戦中の一時期、「ハーヴァード大学で連邦主義研究」に従事した。彼は、「国家は服従というものを自動的に調達することはできない」、国家は人々の服従を獲得するためには「自ら存在を証明しなければならない」と主張した。彼はこの文脈で、「1916年の兵役法に対する良心的兵役拒否者の抵抗」を支持し、「全権力を掌握した国家主権という概念」は擬制にすぎないことを暴露する例だとした。「1919年のボストンの警察のストライキを支持し、警察官の労働組合結成を主張した」時には、ハーヴァードの「政治学科の同僚から[サロン・ボリシェヴィスト]と非難され」、激怒する世論や同窓会からの教授解任要求に直面して大学を逐 お われることとなった。(pp.95-98.)


 

多元主義の実践にかんして最も急進的な(そして最も首尾一貫した)案は、ロンドンおよびオクスフォード大学人のコールによって提示された。ラスキと同様にコールは、国家を階級抑圧の手段と見な』した。が、それだけでなく『そもそも真の民主主義を実現できない制度として見た。彼は、「万能な議会を持った万能な国家は、〔…〕実際の民主的共同体には〔…〕まったく適さないので、〔…〕消し去られなければならない」と論じた。代わりにコールが提唱したのは「ギルド社会主義」であった。〔…〕労働者は、自らをギルドの形に組織し、産業の実権を握るべきだ、という主張である。〔ギトン註――労働者による〕直接管理が最も好ましいが、どうしても必要なら、〔…〕大きな課題』は、労働者たちから委任を受けた「代表」〔の議会?――ギトン註〕が審議・決定することも『容認された。ここでコールは、領域〔選挙区――ギトン註〕ではなく職能に基いた新しい代表の原理を要求している。これは、人びとを〔…〕住んでいる場所〔…〕ではなく、職業その他の共有利益にしたがって〔選挙単位に――ギトン註〕区分することを意味していた。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.98-99. .  

 


炭坑労働者を中心とする英国1926年ゼネラル・ストライキ

Britain 1926 General Strike ©Socialist Apeal / marxist.com.

 


 ジョージ・ダグラス・コール〔1889-1959〕は、「複数選挙権」というものも提案している。人は複数の「個々別々の」集団に属し、複数の「社会目的あるいは利害関心を持っているので、それと同じだけの・個々別々に行使される投票権を持つべきである。」なぜなら、「生産者でも消費者でもある」個人の「すべての利害関心と目的が代表される場合」、すなわち、所属各結社における利害が代表される場合に限って、「本当の民主主義」、つまり個人の全活動に及ぶ「自治的な共同体〔…〕が存在することになる」からだ、と言うのです。

 

 実際的には、このような提案は、「一人一票」の原則に反するなど多くの問題を抱えています。ともあれコールは、「社会主義」の「国家中心的モデル」でもなく、「自由主義的な個人主義」でもない代案として、このような民主主義の形を構想したのです。

 

 ラスキコールらの「多元主義」は、理論的にも実際的にも多くの課題を抱えており、寄せられる批判に対して十分に応えることができませんでした。ある論者は、そのような「自治的集団」の寄せ集めのようなところでは、それらをまとめて・とりわけ軍事や外交を担当する「権威を動かす公務員」が、「[朕は国家なり]とほくそ笑むことだろう」と皮肉っています。「近代の複雑な社会は、ウェーバー的な〔…〕中央集権的官僚制国家以外の手段では立ちゆかないように見えた。」

 

 「多元主義」を多少は評価する論者も、「多元主義が可能となるのは、多くの相互的寛容と政治の限界に関する包括的な道徳的合意とが存在する場合だけだろうと指摘した。」「多元主義」は、オクスフォード大学の構内では実現したかもしれないが、「国家がますます強くなり、相容れない目的をもった集団が恒常的に動員され、政治に関する〈全体としての合意〉がまさに欠如していた時代の根本問題を〔…〕解決することができなかったのである。」

 

 「ラスキコールは、〔…〕1920年代半ばには〔…〕多元主義的理念と距離を置きはじめる。その頃には、戦後の好況は〔…〕終っていた。1926年の〔イギリス〕炭鉱労働者による大ストライキは失敗に終り、産業民主主義の〔…〕構想〔…〕はことごとく退却を余儀なくされてしまった。」その後、多元論者たちは〈議会主義〉に戻り、「フェビアン協会と結びつい」て「改革努力の中央集権化」すなわち「国家による社会主義」に回帰した。

 

 その傍らで、「コールラスキは、成人教育、とくに労働者教育に」たいへんな努力を注いだ。「それは、社会主義へのゆっくりとした道のように思われた。」(pp.99-102.)

 

 

 

【28】 カウツキーとベルンシュタイン

 


 すでに見てきたように、レーニンらボリシェヴィキは、理論的にも運動と政治のスタイルにおいても、マルクス・エンゲルスの直系の後継者とは言えない存在でした。理論的には、レーニンの政治思想は、その時々の場当たり的な方針選択――レーニンの天才的な政治嗅覚による――の寄せ集めと言ってよいものです(のちには、彼の後継者たちによって、「マルクス=レーニン主義」の名のもとに・あたかも首尾一貫した思想体系であるかのように糊塗されたとしても)。他方で、少数の戦闘的前衛党員による・ボリシェヴィキの急進的武力闘争は、マルクス・エンゲルスの大衆的政治運動の対極にあるものでした。

 

 

マルクスのタヒ後、エンゲルス老人を取り合うカウツキー(Karl Kautsky)と

ベルンシュタイン(Eduard Bernstein). ©gattungs-wesen.tumblr.com.

〔クリックまたはピンチアウトして、英語のセリフを読んでね^^〕

 

 

 マルクス・エンゲルスのタヒ後、その衣鉢を継いだのは、カウツキーベルンシュタインら、ドイツにおける彼らの “直系の弟子” たちでした。彼らの運動理念は、「社会主義」を奉ずる「大衆政党」に大衆の力を集中し、政治変革を通じて徐々に社会の転換を実現する、というもので、1871年「パリ・コミューン」の敗北以後は、「大衆蜂起の無政府主義的理想」とは距離を置いていました。

 

 しかしながら、その運動理念は自由主義的〈議会主義〉との関係をめぐってあいまいであり、マルクス・エンゲルス自身があいまいであっただけでなく、後継者の間ではその点をめぐって内部闘争と分裂が生じました。すなわち、〈議会〉を通じた改革に手段を限定し、「議会主義的なブルジョワ的制度を内部から改革することに」運動の核心があるのか。それとも、㋺ 運動の「最終目標は」依然として、現存のブルジョワ的「制度を完全に転覆する」ことにある(その場合、〈議会〉活動は、当面の手段であって、「踏み石」にすぎない)のか。という点です。㋑ ベルンシュタインによって、 ㋺ カウツキーによって代表されます。

 

 「エンゲルスによって体系化された〔…〕マルクス主義の正統な解釈によれば、資本主義が転形して社会主義に移行するのは「歴史的必然」であり「人間の歴史の発展法則」である。それは、「ダーウィンが有機的自然の発展法則を発見した」のと何ら異ならない。‥‥ ㋺ そうだとすれば、「社会民主党員にできることは、資本主義が没落するのを、ただ待つことだけ」であり、「その間、労働者の運命の不快さを」多少とも「改善するために、議会」を通じて「ほんの少し貢献できるだけであった。」これを受けてカウツキーは、「われわれの課題」は「革命を組織することではなく、革命に備えて自分たちを組織すること〔…〕である」と説いた。つまり「革命にコミットすることは、革命を起こすことにコミットするのとは」わけが違う。自分たちは「革命的政党」であるが、「革命を起こす政党ではない」。この立場は、「革命派」の旗幟を美しくはためかせながら、「反社会的暴力集団」の烙印を捺されることも・明からさまな弾圧を受けることも回避できる点で、「かなり居心地の良い」ものでした。

 

 これに対して ㋑ ベルンシュタインの主張は、結論においては・より穏健でしたが、内部論争においてはある意味で・より過激でした。それというのも、彼はカウツキーのような正統派的な “お行儀良さ” を拒否したからです。

 

 ベルンシュタインは、「いわゆるマルクス主義科学から推論できる予言の多くが〔…〕誤りだった」とし、「イギリスのプロレタリアートはますますブルジョワ的になっている。〔…〕社会」は、二極化に向かってはおらず、むしろ格差は緩和しつつある。そして、ブルジョワジーは「社会改革に真剣に取り組んでいる」、と指摘しました。賃金は上昇しており、しかも「最高の利潤をあげた産業分野で」最も上昇している。これは、資本家は労働者には分け前をやらない、生存最低限まで搾取する、というマルクスの想定とは、まさに正反対ではないか。

 

 

ジョルジョ・デ・キリコ『赤い塔』1913年。

Peggy Guggenheim Collection. ©wikimedia.

 

 

 そこで、ベルンシュタインは「マルクス主義の概念を修正」し、「その結果、彼のマルクス主義は、議会制民主主義の完全な承認を組み入れることになった。議会は、革命への踏み石〔…〕ではなく、最終的な社会主義」システム「の構成要素」となった。彼はさらに進んで、「民主主義は」社会主義の「手段であり目的である」と述べ、「社会民主主義」とは、「個人の自律のような自由主義的な諸価値の完全な実現をめざ」すものだと主張した。

 

 ベルンシュタインは、議会制民主主義における〈妥協〉を重視した。「民主主義は[妥協の学校]」であり、「そこに参加する人びとを道徳的に高める」。「選挙権は」民主主義国家の構成員を「共同体における潜在的なパートナー」とし、「この潜在的な協力関係が、ついには真の協力関係」となる。それこそが社会主義の実現であると主張した。

 

 このようなベルンシュタインの主張は、マルクス主義陣営のほとんど全党派から激しく非難されました。チェコ・スロヴァキア初代大統領〔在任:1918-1935〕マサリクは「マルクス主義の危機」と評し、ローザ・ルクセンブルクは「社会主義の完全な放棄」だと断罪した。「第2インターナショナル」は、ベルンシュタインに反対して、「ブルジョワ政府に参加しない」という原則に固執した。「ブルジョワ内閣に参加するような社会主義者は、敵陣へ脱走したか〔…〕降伏した」に等しいと見なされたのです。(pp.102-105.)

 

 

 

 

 

 

 

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