Thomas here and there『ローマ人を駆逐したゲルマン諸部族』@deviantart.com.
【24】 マクス・ウェーバー ――
なぜ、「自由」を? ‥‥されど、いかにして?
「大衆民主主義の時代に、自由主義を保持することはいかにして可能か?」――晩年のウェーバーが直面した課題は、そう要約することができます。が、それにたいするウェーバーの対処は、理論,実践の2面に分けて見る必要があります。理論面 ―― なぜ自由主義か? 自由にはいかなる価値があるか? という面にかんしては、かなり明確な解答を、彼の発言と著作の “すこし先” で、読みとることができます。しかし、政治的実践――つまり、いかにして「われらを自由にする」か ――にかんしては、ウェーバーの残した足跡は、「混乱」ではないとしても「未完」と言わざるをえない。
まず、理論面での「一般的考察」から。「自由主義」に、どんな価値があるのか?「自由であ」ろうとするのは、何のためか? 言い換えると、われわれはなぜ、自由主義者であろうとするのか?
現代の私たちは、「自由」と言うと、もっぱら自分の私的なことの追求だと考えがちです。“したいことをするのが「自由」ではないの !?” はいはい、今はそうでしょう。しかし、19世紀的なウェーバーは、そうは考えなかった。ウェーバーがめざしたのは「私的」ではなく、それを超えた「公的な」価値なのです。
「政治学と社会学で」ウェーバーが「張った論陣からすると」、彼にとって自由主義の価値は、「国民文化」の創造に関わる点にあった。世界大戦後の混迷した時代にあって、自由主義は、「新しい〔…〕国民文化〔…〕の把え方とその課題を作り出すべきであった。〔…〕それは、」自由主義の「政治によってのみ達成され」うることだからだ。「国家」「民族」「文化」にかかわる「最も崇高な価値」は、経済活動でも私的利害の追求でもなく、「公共圏」〔≒国家〕によってのみ体現されうる。「公共圏が、その尊厳を肯定され、その結果〔…〕たんなる権力政治と物質的便利さを超越できれば、」そうした最高の価値のいくつかは「回復できるだろう。」
「加えて、自由主義者は、価値多元主義に訴えることもでき」る。「価値の多元性」、そして「価値の選択を通じた意味の創出」は、「個人主義」および「寛容」へと人びとを導く。「各個人は、それぞれの価値を選択する自由な余地が与えられなければならな」い。もちろんそのことは、各個人が自らの「選択」によって生ずる「苦痛を伴う結果」を引き受けることをも意味する。
つまり、「個人それぞれの選択」は、「客観的に正しいという意味から」なされるのではなく、いわば各個人の「決断」としてなされることによって価値を持つ。「客観的な価値があるのは、[人格]の最深部の諸要素であり、われわれの行動を規定し・われわれの生に〔…〕意味を賦与する最高かつ究極の価値判断である、と考えられるべき」だ〔Weber, Die ›Objektivität‹ sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis. 〕、と。
実践面でも、ウェーバーは、象牙の塔に閉じこもっていたわけではありません。第1次大戦末期と直後の「ドイツ革命」期には、勤務先の大学がある居住地ハイデルベルクで、「評議会(レーテ)」組織に委員として参加しました。しかし、残された著作から判断する限り、ウェーバーは、「レーテ」の現実の動向には希望を持っていませんでした。それはミュンヘンの「バイエルン・レーテ共和国」に集約されるものでしたが、「レーテ共和国」は、あまりにも「心情倫理」にのみ忠実な――ウェーバーの言い方では「幼稚な」――人びとに指導されていました。
「バイエルン・レーテ共和国」を鎮圧するためミュンヘン市内に進軍する社会民主党
政権「ドイツ国」の「白軍」 1919年5月1日。 ©Bundesarchiv / Wikimedia.
その反面でウェーバーは、「レーテ」にかかわるなかで、「単純労働者や兵士が備えていた純粋な良識,規律,即物性,あるいは現実主義にたいして好感を」持ったと明かしています。つまり、彼は――「幼稚な」指導者を断罪する一方で――「大衆」の判断力を否定してはいなかったのです。「一般の人びとの理解力」は、国政上の判断をなす水準に達しない、と考えていたわけではなかった。
しかしながら、彼は決して「直接民主主義を信じなかったし、また、政治的自己決定の手段としての評議会」も、いわゆる「人民の代理」〔拘束委任。議員は自らの選出母体の意見に拘束され、それに反すればリコールされる代表類型〕も、「一瞬たりとも信じたことがなかった。」ウェーバーの考えでは、「代表」というものは、自らの判断によって、自らの責任において行動すべきものであり、選挙民の意見をただ伝える “子供の使い” であってはならない。自らの表決について・いかなる責任も負わない、選挙民の動向次第で「いつでも撤回可能な[人民の代理]」は、国政を、理念なき利害闘争の場に変えてしまう。‥‥
「ワイマル共和国」体制〔第1次大戦後のドイツの共和国体制。中部ワイマル市で「制憲議会」が開かれた〕の出立にあたって、ウェーバーの政治的論評と提案は、一定の影響力を持ちました。「ワイマル憲法」〔1919年8月制定の共和国憲法。社会権など進歩的な人権規定をふくむ〕は、「ウェーバーが望むよりもずっと多くの権力を議会に付与したが」、彼の見解に応じて、政府・官僚を「監督するための・多数派と少数派の[調査権]〔※〕が組み込まれた。」そして、強力な議会とバランスをとるために、国民の直接選挙による「強力な大統領」という「ウェーバーの提案も取り入れられた。」こうして憲法は、「比例代表に基づく自由主義的な議会、人民投票、大統領という形での疑似君主、の継ぎはぎ」となった。ワイマルの政治制度に一貫性はなく、それは、互いに矛盾した「社会政治勢力のあいだでの〔…〕妥協、とくに、労働者と資本家〔…〕、軍隊と国家のあいだの妥協以上のものではなかった。」
1920年にウェーバーは、「ワイマル共和制」の行く末を見ることなく没したが、彼は、「新しい統治者が官僚制の存在〔…〕を保障する限り、国家は官僚制を通じて誰に対しても〔どんな政治体制にでも?〕奉仕するだろう」との言葉を遺している。(pp.82-85.)
註※「多数派と少数派の調査権」: たとえば、その流れを汲むと思われる韓国の「特別検察官」制度では、大統領・政府高官の不正疑惑を審査する「特別検察官」は、国会の最大政党が1名、議員20名以下の少数政党のうち最大の政党が1名を推選する。このような制度でなければ、政府と多数与党が一体となった不正には対抗できない。
ゲルマン人の戦士。 ©historystreet.club
【25】 カール・シュミット ――
「議会主義」の危機、独裁的「指導者」体制への道筋
『ナショナリスト的な情熱』を抑制する『とともに、妥協を快く受け入れることが、新しい民主主義の時代に必要だった〔…〕。
戦争は新しい規範を残した。しかし、それらを履行し強制する・はっきりと機能しうる制度は残さなかった。新たに創られた多くの憲法は、〔…〕社会諸勢力間の脆いバランスの上に立つものだった。そして、〔…〕民族自決の理念は〔…〕調和的な関係を導くのではなく、さらなる「民族浄化」のための行動を要求し〔…〕た。〔…〕ウィルソン』が「平和原則 14カ条」によって『描いた〔…〕国際秩序は〔…〕最初から対立に悩まされることになった。〔…〕1919年に創出された脆弱な諸国家〔「民族自決」を中途半端に適用されて成立したポーランド等東欧諸国――ギトン註〕では、〔…〕集団安全保障の失敗――そして国際連盟』が構築した国内『マイノリティ集団の保護制度の失敗――が、自由民主主義〔…〕の質の低下をただち〔…〕に引き起こ』した。『早くも 1922年にケインズは、「国際統治の最初の実験〔「国際連盟」による軍縮など――ギトン註〕が、ナショナリズムを強化する方向に作用するという逆説」を見てとった。
もしウェーバーが生きていれば、〔…〕指導者民主主義を作り上げるはずだった制度〔大衆民主主義時代の「議会」が、政治闘争を通じて、理想的なカリスマ的指導者を育てる場となること――ギトン註〕の運命には失望しただろう。国家官僚制への』議会の影響力、『そして〔…〕経営者と労働者の代表への議会の影響力〔公的立場から労使の妥協点を裁定し、強制する――ギトン註〕は失われていったである。これは一転して〔自由主義的な議会の代表が労使の上に立って統治するのでなく、逆に、国会が階級闘争の場になってしまう――ギトン註〕、まだ残っていた議会主義へのわずかな信頼を動揺させた。
すでに 1923年に〔…〕カール・シュミット〔…〕は、議会とその中核的原理,すなわち公開性と討論に対して、思想上のタヒ亡診断書を書いていた。
近代の大衆民主主義の発展が、公開の討論をひとつの空虚な形式と化してしまったために、こんにち議会主義の立場は危機的なものとなった。〔…〕代議士の独立性と会議の公開に関する〔ギトン註――議会法の〕規定は、〔…〕何らの実益も無いだけでなく〔…〕見るに堪えないものとなっている。〔Carl Schmitt, Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus. 1923.〕
〔…〕真の権力は〔ギトン註――議会にも政府にも無く、〕強力な社会集団に存在した。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.86-88.
古代ゲルマン人。生け贄(にえ) を捧げる儀式。Samson J. Goetze画。
©Der Spiegel / Thorsten Moor.
カール・シュミットは、「ウェーバーが立法府に割当てた・他の役割」つまり、ルールを守った政治闘争を通じて・すぐれた「カリスマ的指導者」を育成するという役割をも全否定しました。「議会のみが政治エリートの教育を保証するという彼ら〔ここでシュミットは、ウェーバーを名指しする〕の希望をこんにち共有する者は誰もいない」、と。
ウェーバーとは逆に、カール・シュミットは、古代ゲルマン部族の「直接民主制」こそが民主主義の理想だと主張した。そこでは「討論」などというものはありえないし、必要が無い。指導者による戦いの呼びかけにたいし、人びとはただ、盾を鳴らして賛意の喝采をするのだ。
カール・シュミットは、のちにはナチス政権に思想的基礎を与えたとされ、第2次大戦後の「ニュルンベルク国際軍事裁判」では、検察団の取調べ対象となりましたが、不起訴となっています。
そのためか、アメリカでも日本でも、カール・シュミットの信奉者は(左翼を中心に!)今でも多いのですが、彼らには要注意です。↑上の・わずかな引用からも判るように、カール・シュミットの特徴は、思想と言葉のはしばしに現れる「少数者蔑視」「多数至上主義」「権力崇拝」です。そして、現在の日本でも、信奉者たちの言動を注意深く見ていれば、彼らは気を抜いた時には「少数者蔑視」を “うっかり” 口走っている。それは、「権力崇拝」と「独裁への誘引」の徴候だと疑ったほうがよい。
「他の自由主義的な諸制度も危機に晒されていた。〔…〕多くの新しい仕事〔社会保障,経済のコントロール,国境警備,‥‥〕を国家に求める考え方」が、「法の支配」の「侵食」に手を貸しているのではないかという不安が増大した。それは、「自由主義者の見るところ、ますます多くの権力を、本質的に説明責任を負わない官僚に移譲してしまうことを意味した」。(pp.88-89.)
1929年、『イギリスの首席裁判官スチュワート卿は、〔…〕行政国家の抬頭は専制的権力を生み出している、「その権力は政府の省庁を、議会主義の上に〔…〕、裁判所の管轄の届かない場所に置いてしまう」。「省庁専制」すなわち「科学的であると同時に慈恵的な」専門官僚による支配は、「自己統治(自治)」を破壊し、「行政による無法状態」を生み出している、と〔…〕市民に向けて警告〔…〕した。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.89. .
マクス・ウェーバーとカール・シュミットの思想的関係については、2つの見方があります。ひとつは、ファシズムに思想的基礎を提供したシュミット、あるいはより広く、レーニン主義やナショナリズムまで含めた「意志の政治」に対して、ウェーバーをそれらの対極に置く見方です。その場合、ウェーバーは、「理性的な妥協に価値を置く自由主義政治」の守護者として、全体主義にたいする抵抗の根拠として称揚されます。
その一方では、マクス・ウェーバーからナチス・ファシズムまでを、ひとすじの道として把え、カール・シュミットをその行程上に置く見方があります。
カール・シュミットの故郷プレッテンベルクにある
シュヴァルツェンベルク城砦遺跡。 ©DPA / Horst Ossinger.
前者の見方については、本書のこれまでの部分で示唆されてきましたので、著者がここで指摘するのは、後者の見方に根拠を与えるウェーバーの一面です:「ウェーバーの近代大衆政治のイメージも〔…〕、その関心は、指導者への信頼の必要性に集中していた」だけでなく、ウェーバーは、すぐれた「カリスマ的指導者」が出現することに期待を寄せていました。また、「国民を統合しうる」自由主義の新たな政治戦略においても、「ナショナリスティックな対外政策を必要としていた」。つまり、ウェーバー自身の政治思想のなかに、自由主義を否定するファシズムの勝利へとつながってゆく巨大な道すじが胚胎されていたと言わなければならないのです。
こうして、第1次大戦後の大衆「民主主義の時代に対する自由主義からの回答は、1920年代半ばまでには一つも出て来なかった。そしてこの頃には、民主主義形成の潮流が逆転しはじめ、」国から国へと「独裁が[伝染]していくようになった。」(pp.89-90.)
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