預言者エズラ。Gustave Dore (1832-1883)『人びとに律法を読み聞かせる
書記エズラ』 ©MeisterDrucke-924806.
【18】 レーニン ――
「カリスマ」と「組織化」
ロシア革命の翌年 1918年当時のウェーバーは、レーニン率いるボリシェヴィキの執権はロシアの人びとに恐ろしい犧甡をもたらすだろうと確信していました。このことで、オーストリア社会民主党政権のシュムペーターと激論した件は、すでに2回触れています。
しかし、ウェーバーの指摘が当たったのは、「社会主義実験」の悲惨な結果だけではありませんでした。それを行なったボリシェヴィキという「前衛」組織が孕む大きな問題は、ウェーバーが当時・純学問的に考究していた古代ユダヤの預言者共同体の問題性に通底していたのです。
「ウェーバーが念頭においた個人の指導者、とくに古代預言者」――モーセ,エズラ,エゼキエルら――と、彼らに「鼓舞された人びと」の強固なつながり。それと同じように、ボリシェヴィキの「党員たちは」党にたいして「熱心な献身と自己犠牲の意思を示すのが通例だった。」とは言っても、「党は、カリスマ的な人格」を喧伝したわけではなく、「カリスマ的な制度を求める人びとに」対して、何がしかを与えようとしたのだ。
レーニンも、またボリシェヴィキ党の公式見解も、個人崇拝を決して歓迎しなかった。が、じっさいに党の内部で、宗教的セクトと同様の「人格的カリスマ」――レーニンの「教祖」カリスマ――が機能していたのは事実だった。それは、「ウェーバーがカリスマ的リーダーシップの最たる例として挙げた古代預言者」と変らなかった。そして、ボリシェヴィキのみならず一般に「共産党」員には、古代ユダヤ教と同様の強い「選民意識」が見られるのです:(pp.64-65.)
『歴史家ラファエル・サミュエルは、イギリス共産党での党〔…〕生活を〔…〕次のように〔…〕描いた。
共産党の野望――そして党員の自己認識――は、まちがいなく神権政治的なものだった。われわれは、自分たちが・神聖な目的のために盟約した・選ばれた者たちの霊的共同体 コミューニオン であることを、組織として自己認識した。〔…〕党の権威も神権政治的だった。それは、〔…〕党生活のあらゆるレベルで機能した。〔Raphael Samuel, The Lost World of Britisch Communism.〕
〔…〕レーニン自身の判断では、10月革命が成功したのは「指導者」のカリスマではなく〔…〕正しい組織化のおかげだった。真の「英雄」とは、指導者ではなく、特定の理論を備えた党のことであり、真の革命家は、個人にではなく、正しい党の方針に従うのである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.64-66. .
レーニンにとっては、「正しい組織化」は「正しい理論」を意味した。党内に異論が無い、ということがすなわち、党の理論が正しいことを証明しているのである。だから、レーニンは、異論に対しては厳しく対処しただけでなく、「組織統一のための妥協を考える者に」は、「表立った反対者」に対する以上に厳しく断罪した。つまり、党の見解への服従と忠誠という点にかんして、レーニンは党員「に対して極度に厳しい規律を課した」のです。
その結果彼は、「定期的に自らの党〔…〕を分裂させた。」また、連携を組んでいる他の党を分裂させた。そして、「理論はつねに具体的な」政治課題に「対応して形づくられねばならなかった。」彼の政治理論は、体系的理論から論理的に演繹して判断を下すものではなく、具体的な政治的難題をめぐる党派的闘争の結果として創造されてゆくものだったのです。
そこで、じっさい、「ボリシェヴィキが権力を確立する上で本当に役立ったのは」、体系的マルクス主義といった意味での「正しい理論」でもカリスマでもなく、①「土地を農民に再分配する決定」、および ②「帝国主義」との停戦・「即時講和」でした。① は、一部の地方では、「すでに自然発生的に起きていた」農民の地主からの「土地の奪取を」追認する決定でもありました。しかし、ロシア国家の権力奪取に、より重要な意味をもったのは ② でした。(pp.65-66.)
ゴッホ『麦畑の収穫』(1889年) 。Vincent van Gogh "Wheat Field with Reaper
(Harvest in Provence)" 1889. Museum Folkwang, Essen.
【19】 レーニン ――「民主主義」の廃止と世界革命
「社会主義革命は、イギリスやドイツのような資本主義の発展した国で」こそ起こりうる、ロシアのような資本主義がまだ未成熟な国は、社会主義革命ではなく、資本主義のための自由主義革命すなわち〈ブルジョワ革命〉を、まず経なければならない、――
という反対論に対して、「レーニンは、ロシアは戦争によって社会主義へ即座に移行する準備を整えた」と主張した。そして、自分たちのような「前衛党」が権力を掌握すれば、「ブルジョワ段階を一足跳びして、ただちに[プロレタリアートと農民の独裁]〔…〕を開始できると主張した。」
しかしその一方でレーニンは、「ロシア革命の完成には西欧での革命が不可欠」であるとし、「それによってロシア革命は〔…〕世界革命に至る、と主張した。」
1917年4月3日にペテルブルクに到着してから 10月までの間、「レーニンは、経済を再組織化し、[寄生]国家を廃止し、[真の完全な民主主義]を構築するという野心的な計画の概略を述べた。彼はとりわけ郵便事業を、[社会主義経済体制のモデルである]として褒め称えた。」
これ↑だけならば、単なる「国家独占資本主義」のようにも見えます。「寄生国家の廃止」という言い方があいまいで、まっとうなブルジョワ民主主義国家にすると言うのか、あるいは「国家」の無い社会を創るというのか、よく解りません。
もっとも、レーニンは 1917年8-9月の潜伏期間に、『国家と革命』の執筆を終えています〔発表は「10月革命」直後〕。その内容は、「ブルジョワ議会主義」を廃止して、「近代国家の官僚制度」を廃止すれば、「団結した労働者自身」による「メカニズム」が「いとも簡単に起動しはじめる。」労働者たちは自ら管理者を雇って、全「労働者の賃金を支払うだろう。」というのです。こうして、「支配階級」が「人民を抑圧する」ための「寄生国家」は廃止される、と言う。しかし、「ブルジョワ的定義」での「民主主義」とは、「少数者の多数者への従属を認める状態」であり、それは、社会主義が「共産主義に発展する〔…〕につれて」消滅する。その結果、「正統な暴力手段を独占する〔…〕公的権力」としての「国家」〔つまり、ウェーバーの定義での「国家」〕は必要が無くなり、消滅する、のだと。
その一方でレーニンは、『国家と革命』のなかで、違うことも言っています。「われわれは、プロレタリアートの民主主義においてすら、代表制無しの民主主義を想像できない。」「官僚制をただちにあらゆる場所から完全に根絶するなどは話にもならない。それはユートピアだ。」‥‥だとすると、「プロレタリアートの民主主義」というのは、「議会主義」とどこが違うのか分かりません。けっきょく、「議会主義」も「官僚制」も廃止しないのだとすると、「国家」はそのまま残るし、〈主人〉が入れ替わっただけの「国家独占資本主義」が続くのではないか?
いずれにせよ、「『国家と革命』のこれらの主張を、あまり真剣に受け止めてはならない。」『国家と革命』は、なんといっても、党員にたいするアジテーションとして書かれたものだからです。レーニンは、ケレンスキー政権の弾圧を受けていた党員たちに、社会主義→共産主義の将来展望を与えて「奮い立たせる」ために、これを書いたのです。アジテーションとは煽動であって、煽っている本人も、自分の口から出る言葉を本気で信じているわけではない(そういう言動を、日本語では「いんちき」と呼びます)。
『国家と革命』には、革命後の政権が、国家行政を首尾よく遂行するかのように書かれているが、レーニン自身、ボリシェヴィキ党にそんなことができると本気で考えていたわけではない。(pp.66-69.)
つまり、書いたレーニン自身は「本気」ではなかった。にもかかわらず、党の組織と理論に忠誠を誓う前衛集団は、それを絶対的に正しいものとして固く信じるのです。こういう党を信用するか、それとも、もっと誰にでもウソだと判るようなウソをつく・トランプや立花孝志を信用するかは、はっきり言って趣味の問題でしょう。
ゲオルギィ・コンスタンチノヴィチ・サヴィツキィ『10月革命(10月の最初の日)』
制作時期不詳。 MeisterDrucke-1428123.
ちなみに、「プロレタリア独裁」の国家体制を建設し正統化するという考え方は、『国家と革命』には、明確には出ていないようです。ミュラーによれば、それはむしろレーニンではなくトロツキーによって唱えられたのを、レーニンも取り入れて行き、最終的にスターリンによってソ連型「社会主義」の国家原理とされました。このことは、次節で詳細に述べられます。
【20】 レーニン ―― 民主主義の放棄、
強権国家の構築、「大規模テロ」の指令
『『国家と革命』のなかの最もユートピア的な幾つかの主張では、マルクスが 1871年のパリ・コミューンについて書いた文章が〔…〕取り上げられた。パリ・コミューンでは労働者たちは〔ギトン註――工場・企業の〕自主管理を始め、警察官をふくむ役人たちを自分たちのなかから選び、伝統的な国家構造を解体して立法と行政の融合をめざした。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.69. .
レーニンは、こうした内容を引用しているのですが、パリ・コミューン自体は「フランス政府によって迅速に粉砕され」てしまったので、↑それらはパリ・コミューンの・あくまでも「理念」として宣言された諸原則であって、じっさいにどのような「実践」が行なわれ始めたのか、行なわれる見通しがあったのか、「決して明確」にはならなかったのです。また、パリ・コミューンを率いていた人士の中心はマルクス主義者(インター派)ではなく、ブランキ派等の「無政府主義者」たちでした。パリ・コミューンは、「プロレタリアート独裁」を掲げはしたものの、その内容は不明確でした。そして、マルクス自身の「共産主義社会〔…〕の記述も曖昧だった。」
しかし、レーニンはそれに基いて「[共産国家]の理想を描こうと願ったのである。」その結果レーニンは、「10月革命」後「ただちに、生産を労働者が管理する労働評議会 ソヴィエト や、軍隊で自分たちの将校を選出する兵士評議会 ソヴィエト を支持した。」この・(ボリシェヴィキの指導ではなく、「権力の空白期」に自然発生的に組織された)「評議会」体制は、あるいは「パリ・コミューン」の理念に近いものであったのかもしれません。(p.69.)
「ソヴィエト」は、ドイツ語の「レーテ〔Räte:複数形。単数は Rat ラート〕」にあたる言葉で、第1次大戦直後に軍単位,工場,企業,市町村で組織された・多かれ少なかれ直接民主制的な自治組織です。日本語ではどちらも「評議会」と訳されます。ドイツの場合、「ラート」には中世以来の自治都市の伝統が、なにがしか流れていました〔ウェーバーも、居住地ハイデルベルクの「ラート」に参加しています〕。しかし、これら「評議会」を土台に樹立されたドイツの「レーテ共和国」〔バイエルン,ブレーメンで成立〕は短期間で崩壊。ロシアの場合は、レーニンのボリシェヴィキ政府に取り込まれ、ほぼ完全に換骨奪胎されてしまったと言ってよいでしょう。その羊頭狗肉が、「ソヴィエト連邦」成立後の「各級ソヴィエト」です。
「10月革命」後、反ボリシェヴィキ派の近衛将校によって組織された義勇軍歩兵中隊
1918年1月。 ©Wikimedia.
『しかしその後彼〔レーニン――ギトン註〕は、この種の「評議会民主主義 ソヴィエト・デモクラシー」が〔…〕ユートピア的である、あるいは少なくとも新体制』が生き残ること『と両立しない、と判断した。そして彼は、「パリ・コミューンの原理からの撤退」を表明した。』
レーニンによると、「撤退」の理由とは、『「西欧の労働者階級に比べて、ロシアの労働者階級』が『革命を〔…〕継続する』ことは『はるかに難しい」』。なぜなら、ロシアの労働者は『「先進国の人びとと比べると質の悪い労働者」で、彼らに労働者民主主義を委ねることはできない、ということだった。〔…〕「質の悪い」ロシアの労働者たちは、良質のドイツの労働者に変えられねばならなかった。〔…〕
マルクスとエンゲルスの著作には、プロレタリアートが権力掌握後、大規模な産業化を推進すべきである、という曖昧な提案がいくつかあった。レーニンはいまや提案に同意し、こう主張した。「〔…〕最良の技術,組織,規律,最良の機械を備えた人びとが頂点に立つのだ。〔…〕」そして、こともあろうに「ドイツの国家資本主義」が具体的なモデルとなった。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.70-71. .
こうして、「権力奪取」後のレーニンにとっては、〈工業先進国〉ドイツがお手本となったのです。それは、「産業化」だけでなく、それを担うべき労働者を、ドイツ風の「良質」な労働者に変えねばならない、できればウェーバー言うところの「天職に身を捧げる」プロテスタント倫理を身につけた労働者に変えたい。ということを意味しました。またそれと平行して、ドイツ風の「良質」な「合理的」官僚群からなる新しい国家「官僚制」を構築することを意味しました。「ウェーバーは、革命家は成功するために独自の官僚を伴わねばならないだろうと考えていた。」
しかし、ドイツ式「官僚制」構築の方面では、レーニン以上にトロツキーが初期の施策を推進していました。
フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』1889年。
「[ドイツの国家資本主義]モデルを遂行するには[専門家]が必要だと」いうことは、レーニンも気づいていました。ところが、「こうした専門家は、」鋼鉄の前衛人間、ボリシェヴィキ党員「のなかには簡単に見つからなかった。そこで、赤軍の長であったレオン・トロツキーは、兵士評議会〔ソヴィエト〕を解体し、将校の選挙を禁止して、[軍事専門家]」であるロシア帝国軍の将校を元の地位に戻したのです。
『国家と革命』で「国家の死滅」という〔レーニン自身本気ではない〕ユートピアを描いて「鋼鉄の前衛党員」を闘いに奮い立たせたレーニンとは違い、トロツキーは、革命後の国家は中央集権化・強大化・権威主義化して、市民生活を抑圧しなければならない、という方針を、包み隠さず表明し実行したのです。トロツキーによれば、革命後の国家は「[プロレタリアート独裁の形をとる。〔…〕それは、国家の最も無慈悲な形式であり、あらゆる方向で権威主義的に市民生活を包摂する]。[国家の最も無慈悲な形式]は、革命後の体制が・敵対的な外部の世界」との「内戦を生き抜くために、あらゆる手段を使う必要がある」として、人民の異論分子に対する「組織的な[大規模テロ]が指令された」。これはレーニンによっても許可された。「[最も無慈悲な国家]は、革命的暴力の倫理」すなわち革命的暴力は正当であるとの倫理「によって鼓舞され、〔…〕目的が手段を正当化した。トロツキーは、〔…〕[われわれは生命の尊さなどという〔…〕無駄話には全く関心が無い。〔…〕この問題は、血と鉄によってのみ解決可能なのだ]」と、半世紀以上前のビスマルクの言葉をくりかえした。ある意味で、ボリシェヴィキはロシア帝国を廃棄して、より強大で抑圧的なドイツ帝国を蘇らせたのです。(pp.70-72.)
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