河回〔ハフエ〕マウル。慶尚北道・安東市の「河回むら」は、16世紀以来の同族

集落で、農村両班の屋敷・生活様式を保存している。世界遺産。 ©4travel.jp.

 

 

 

 

 

 

 


 貧しい少年工から身を起こした李在明氏は、どんな大統領になるのだろうか? 「小学校しか出ていない」「底辺から身を起こした」と言えば、故・田中角栄首相の名が浮かぶ。しかし、↓この記事を読むと、だいぶ違うようだ。

 

 「利権」に立ち向かう強いリーダーシップを発揮するのか? 底辺の非正規労働者,女性,マイノリティにまで眼が届くのか?‥‥『ハンギョレ新聞』から。

 

 

 

4日未明、当選確実となり、仁川の自宅を出て国会前での支持者の集会に向かう

在明氏と金恵京夫人。女優紛いの尹錫悦夫人とは対照的な活動家風の夫人に、

まず驚く。 =聯合ニュース

 

 

 

 

貧しい少年工から韓国の大統領へ…

既得権に立ち向かった李在明の「反骨の歴史」
 

 

2025年6月4日 .

 

 

 

李在明氏が城南市長だった2016年、政府の地方財政改編計画に反対し

ソウル光化門広場で 11日間ハンガーストライキを行なっている

=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社。

 


 マイナス10度の冷たい風が吹き荒れる2017年1月のある月曜日の朝、京畿道城南〔ソンナム〕の隅にある時計工場で、作業服姿の労働者10人余りがズボンに手を突っ込んだまま、工場の前に集まった一群の人たちを、不思議そうに見下ろしていた。数台のカメラが映し出していたのは、かつて・この工場で 15歳の少年期を過ごした一人の政治家と、その家族だった。

 「李在明
〔イ・ジェミョン〕! 李在明!」と連呼する人々に囲まれて、その政治家は語り出した。「元少年労働者が、今日まさに、その残酷な記憶の工場で、大韓民国最初の労働者出身大統領になろうと決意します」。

 

 それは、昨日・第21代大韓民国大統領に当選した「少年工」出身の元城南市長李在明氏が、中央政界に初めて自身の名前を刻んだ日であった。

 

 

 

■ 「少年工が来る」…初の労働者出身大統領

 


 「少年工が来る」。―― 氏の参謀は、氏の当選の意味について、そう説明する。

 

 李氏が最初に大統領選挙に挑戦した2017年に出馬宣言を行なったのは、城南市上大院洞〔サンデウォンドン〕のオリエント時計工場だった。

 

 慶尚北道安東〔アンドン〕の山奥で、7人兄弟の5番目に生まれた氏は、小学校を卒業した後、家族と一緒に城南に移り住んだ。1976年、12歳で少年工として工場に就職した氏は、その後、野球グローブを作る工場でプレス作業をしていたところ、腕が機械に挟まれる障害6級の労働災害に遭った。氏の左腕は今も曲がっている。

 

 

1979年、李在明氏(左上目)がオリエント時計工場

働いていた頃、南怡島にピクニックに行き、座って歌う姿

=共に民主党提供//ハンギョレ新聞社

 


 「土の匙〔「銀のサジを咥えて生まれる born with a silber spoon in one's mouth」という英語の慣用句と逆に、貧乏な家庭に生まれるの意〕でもない、匙なし〔極貧〕」と自らを説明してきた氏にとって、貧困と労働、暴力は、小説や社会科学書籍で学んだ言葉ではない。春窮期〔農村で備蓄食料が無くなる春季〕になれば飢えをしのぐためツツジの花を摘んで食べ、工場では殴られながらも中卒・高卒認定試験を受けることを夢見ていた氏だったが、雑役夫だった父親は、氏の向学心さえ許さなかったと、氏は自伝『共に歩む道は寂しくありません』で明らかにした。

 生活が厳しかった幼年の記憶は、氏の政治家人生において相反する二つの意味を持っている。人生の節々に刻まれた貧困と苦痛の記憶があるため、弁護士出身の有力政治家という地位を築いてからも、非主流のアイデンティティを捨て切れないというのが政界の一部の評価だ。

 

 周りを広く抱擁する指導者ではなく、主流秩序に反旗を翻す闘士気質が強いのではないか、ということだ。一方、どの政治指導者よりも貧困と疎外の経験が多く、弱者に対する共感の幅が広いだけに、大統領になった後も初心を失わないだろう、と期待する人もいる。「仕事を失った人、貧しい人たちがどんな苦しみを味わうか、共感と没入のレベルが違うだろう」という説明だ。

 

 

 

■ 非主流・アウトサイダー・辺境

 


 自ら「非主流であり、アウトサイダーであり、辺境だった」と語る氏は、1978年と1980年に中卒・高卒認定試験に相次いで合格し、1982年に中央大学法学科に入学した。判事や検事になったり、お金をたくさん稼げる弁護士の道を選び、主流の道を歩むこともできた。ところが、氏の気質がそれを許さなかった。

 

 司法試験に合格した後、氏は司法研修院内の「労働法学会」でチョン・ソンホ〔のち議員〕など同期たちに会い、「弁護士になって社会変革運動に跳び込もう」と決意した。氏は、盧武鉉〔ノ・ムヒョン〕元大統領との縁も、その決定に影響を及ぼしたと語った。研修院に招かれた「人権弁護士盧武鉉」の講演を聞いて、「私もあの方のように人権弁護士になろう」と決意したのだと言う。

 1989年、城南で弁護士事務所を開業した後、氏は社会運動家としての道を歩み始めた。その後の行動は、主流との絶え間ない闘いだった。氏の参謀たちは、これを「モグラゲーム」に喩える:

 

 「李在明はいわゆる『トンビが鷹を生む』ということわざの標本だった。韓国社会の既得権は、それを快く思わず、主流社会に進入しようとすると、踏みにじり始める。モグラゲーム。頭を突き出して不満を言うと、すぐにハンマーで叩きつけてしまうモグラゲーム。商業高校出身の盧武鉉〔のち大統領〕も、そうやって叩かれた。国民学校(小学校)を卒業しただけの李在明には、この過程はより過酷だった」(ザ・民主全国革新会議企画『李在明の準備』)

 

 

1982年、中等以上の学校にはじめて入学した

中央大学の入学式に、大学の制服を着て出か

けた李在明氏。母親と記念撮影をしている

=共に民主党提供//ハンギョレ新聞社

 


 撤去民の土地〔軍事政権時代に形成されたスラムの住民を、地上げして再開発した〕である城南は、各種開発事業の不正が横行したところだった。ここで氏は開発不正を暴露・告発し、土建勢力と闘った。地域運動の経験をもとに政界に入門した後、2010年から城南市長を 2期務める間、氏は「産後調理院〔産後ケア施設〕の無償化」や「制服の無償化」など、無償化シリーズ政策を推し進め保守政権の牽制を受けた。

 初めて大統領選挙に挑戦した2017年以後、氏は政治的浮き沈みを繰り返した。ところが、危機の度に起死回生し、「不タヒ身の政治力」を発揮してきた。3年前の第20代大統領選挙で、尹錫悦
〔ユン・ソギョル〕前大統領に 0.73ポイント差で敗北した後、氏は党内で主流権力と闘う一方、党外では「尹錫悦検察」とタヒ闘を繰り広げた。尹錫悦政権の 3年間、「叩けば埃は出るもの」と言わんばかりの捜査と裁判で、自分はもとより周辺の人々まで崖っぷちに追い込まれる経験を何度もしてきた。

 

 

 

■ 既得権に立ち向かいながら築いてきた「不タヒ身の政治力」

 


 絶体絶命の危機の度に、氏は「起き上がりこぼし」のように立ち上がった。2020年、実兄の強制入院と関連した公職選挙法「虚偽事実公表」容疑の裁判では、大法院〔最高裁〕の破棄差戻しで起死回生した。2025年3月には、ソウル高等裁判所が、別の公職選挙法裁判の1審で当選無効刑を受けていた氏に無罪を宣告し、氏の政治生命を蘇らせた。ところが、大統領選挙を目前にした 5月1日、大法院が、その公職選挙法裁判を有罪趣旨で破棄差戻し、氏は瀬戸際に立たされたが、破棄差戻し審の高裁が、公判を大統領選挙後に延ばしたことで、劇的に危機を逃れた。

 

 

城南市民の会(現城南参加自治市民連帯)を創立し、市民運動家として城南市

「盆唐柏宮・亭子地区用途変更」特恵疑惑などをめぐり闘っていた時期の

李在明氏。=共に民主党提供//ハンギョレ新聞社


 

 氏は、タヒ線に立つたびに、自ら復活のきっかけを作り出しもした。氏が初めて大衆の関心を惹いたのは、李明博〔イ・ミョンバク〕朴槿恵〔パク・クネ〕政権の弾圧に対抗し、2016年ソウル光化門〔クァンファムン〕広場でハンガー・ストライキに出た城南市長時代だった。朴槿恵政権の地方財政改編案に反発してハンガー・ストライキを始めた氏は、その年の冬に続いた「朴槿恵弾劾政局」までの間、広場で最も熱い支持を受けた政治家だった。

 第20代大統領選挙で敗北
〔尹錫悦が大統領に当選〕した後、氏は「自粛の期間を持つべき」という党内の圧力にもかかわらず、2022年6月に仁川桂陽〔インチョン・ケヤン〕乙・選挙区の国会議員補欠選挙に出馬して当選し、同年8月には党代表に出馬した。大統領選挙の敗北後も、政治の一線から退くことなく、尹錫悦政権に対する闘争戦線の第一線に立ち続けた。ある親李在明派議員は、「結局、その時の李在明の判断が正しかったのではないか。退かなかった李在明は一人で尹錫悦政権と闘い、自らの道を切り開いた」と評価した。

 2023年、民主党議員の一部が尹錫悦与党に同調して・国会本会議で検察の逮捕同意案
〔李在明議員を逮捕〕を可決させた時も、氏はハンガーストライキで対抗した。その結果は、裁判所による拘束令状〔逮捕状〕の棄却だった〔韓国では、拘束令状はしばしば棄却される〕。2024年の総選挙で氏が率いた民主党は171議席を確保し、圧倒的勝利を収めた。これを通じて、2002年の盧武鉉大統領当選後、親盧武鉉派と親文在寅派が主導してきた20年間の民主党秩序を一気に覆した。

 少年工出身のアウトサイダー政治家は結局、3度の挑戦の末に大統領に当選し、5年任期の間、大韓民国の国政運営の責任を負うことになった。「厳しい言葉で画策する分裂の政治はもう止めなければなりません。国民を一つにして希望を植え付ける温かい手、それが政治です」。選挙運動期間中、氏がこう語りかけてきた。その言葉に責任を持つべき「李在明の時間」の幕が上がった。

 


オム・ジウォン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

 

 

 

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4日午前、国会で大統領就任宣誓のあと、清掃スタッフを訪ねて記念撮影

する李在明大統領と金恵京夫人。 =ニュース1//中央日報。

 

 

 論評は余計だと思うのであえてしませんが、一つだけ、暗刹未遂の事実を付け加えておきます。

 

 李在明氏は、2024年1月2日釜山へ視察に赴いた際、記者と「ぶらさがり」会見中、「共に民主党」支持者の帽子をかぶって近づいてきた男に、首の左側付近を刃物で刺され、血を流して倒れた。犯人はその場で取り押さえられたが、氏を党首とする「共に民主党」・の党籍を持っており、「李在明が大統領になるのを防ごうと思った」と自供した。入党は、氏に接近して暗刹するのが目的だった、との推測も流れた。氏の生命には別条がないとされたが、1週間余りの入院を余儀なくされた。

 

 なお、訳文に疑問のある箇所をいくつか、もとの韓国語記事と照合して直しました。

 

 

 

 

 

 

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