パウル・クレー『やつらが食いついている』1920年。
©Minnesota Marine Art Museum.
【14】 ジンメルとマクス・ウェーバー ――
「文化の悲劇」、「官僚制」という「人間機械」
ところで、「近代の人間生活」にたいするウェーバーの見方は、同時代の社会学者ゲオルク・ジンメルと共通する点が多くありました。それは、↑上とは別の意味での・「近代生活」にたいする二面的な見方でした。
ウェーバーにとっては、資本主義経済のしくみだけでなく、近代のあらゆる制度が、「鋼鉄のように堅い容器」であったと言えます。それは、人間を取り囲んで保護してくれる容器であると同時に、「高度に抑圧的」な桎梏にもなりかねないものでした。ウェーバーが剔抉した問題の核心は、「合理化」と・その結果である「官僚制」にありました。
ジンメルは、同様の・人間生活にとっての二面性を、「文化の悲劇」と名づけました。「ジンメルによれば、人間は・客観的な文化の[形式]と構造を生み出したが、それは蓄積して、後の世代に重く伸 の しかかる」。しかし、人間は、「一方ではこうした[文化の結晶化]」によって初めて「自己を発見」することができる。「他方で、近代の秩序の中で生まれた個人は、結晶化した文化の断片以上のものを本当には把握することができないまま、文化の形式に対峙する」ことになる。そのため、「文化の形式を抑圧的なものとして認識」することになるのです。そこで、人間の「生は、自らをふたたび主張するべく、これらの文化の形式をバラバラに引き裂」いてしまうだろう、と言うのです。しかし、文化というものは、バラバラでは成立しない、「文化は〔…〕形式なしには生まれえないものなのである」と。
ウェーバーの見るところでも、「すべての近代的制度には2つの側面があ」りました。「官僚制は高度に抑圧的でありえたが、」反面、「最も合理的な権威の形式として正真正銘の」近代化の「成果でもあった。」ウェーバーが「近代官僚制の非人格的な人間機械」と呼んだものを、もしも解体するとするならば、前近代的な「より恣意的な支配の形式を復活させる」以外に道はなかった。したがって、「大衆民主主義を〔…〕官僚制から切り離」して・それだけを保存することなどできない。なぜなら、官僚制によって成立している「合理的」な支配の権威だけが、大衆の民主主義に正統性を与えているのだからです。
つまり、この「容器」から逃走する道は、もはや残されてはいないのです。「ゲマインシャフト〔共同社会〕,すなわち・より単純で・全体が結びついた生活を約束する・有機的な共同体・へ回帰する道は、〔…〕もはや利用可能」なもの「でも、望ましいものでもなかった。」
ところが、ウェーバーもジンメルも、第1次世界大戦が開始された時には、彼らの学者としての言に反して、「ゲマインシャフトへの回帰」に向かったかのようでした。もちろん、そのゲマインシャフト――「民族共同体」という名の――は、集団幻想の産物にすぎませんでした。2人は、同世代の大多数のドイツ人とともに、ナショナリズムに浮かされていたのです。「ウェーバーは第1次世界大戦を[偉大]で[すばらしい]戦争と呼び、ジンメルともども歓迎した。」そして、「政治」およびその「一側面としての戦争の決定の究極的目的は、特定の文化の形式を創造〔…〕維持することであると彼は考えていた。〔…〕ドイツが[より高い誉れ]と望ましい文化の形式を伴なって戦争から立ち現れるのであれば、国家の形式がどうあろうと〔民主主義であろうとなかろうと〕[非難しない]と」さえ主張した。「また、文化を創造する[支配民族]」たりうるのは、ドイツなど「少数の強国に限られる、とも明言した。」
エドヴァルド・ムンク『病気の子』(1907年) 。
このようなウェーバーの主張は、彼自身が指摘したのとはまた別の経路での「近代からの逃走」であったように思われます。しかし、この文脈で彼が、「経済」とは独立した「政治」領域の意義を認めたことは言及に価するでしょう。「こうした文化的」価値――近代の「公共生活から消失しつつある〔…〕[崇高で究極的な価値]――の探究はまた、政治が他の近代的な生の領域、たとえば経済から分離されなければならない理由を説明する。政治は決して、物質的利益に基いた〔…〕単なる交渉〔…〕であってはならない。国家と公共領域は、独自の特別な尊厳を有している。〔…〕国家は、将来の人民の福祉〔…〕よりも、将来の人民の特性の[質]」を高めることに「専心すべきである」、とウェーバーは主張したのです。
このようなウェーバーの主張は、おそろしく反民主的で権威主義的で国家主義的で話にならないと思われるでしょうか? しかし、これと同様の「民族の質を高める」という方針のもとに社会民主主義政策を推し進め、第2次大戦後に高度の福祉国家を実現したスウェーデンの例を、私たちは後ほど見るでしょう。(pp.58-60.)
【15】 レーニン ――
ドイツ帝国に支援された策士の「クーデター」
ロシア革命の翌年 1918年当時のウェーバーは、レーニン率いるボリシェヴィキの執権はロシアの人びとに恐ろしい犧甡をもたらすだろうと確信していました。このことで、オーストリア社会民主党政権のシュムペーターと激論した件は、すでに2回触れています。
しかし、ウェーバーはなぜそう思った(予見できた)のでしょうか? その問題に入る前に、じっさいのロシア革命とその後の過程を、かんたんに見ておく必要があります。当時ウェーバーが知りえなかった事実もふくめてです。また、そこではレーニンが重要な役割を果たしている以上、レーニンの共産主義思想にも触れておかなければなりません。
それというのも、この時代のロシアについては、ソ連があまりにも自己都合の宣伝をし過ぎたせいで、とんでもないウソが世界中に振り撒かれてしまったからです。ソ連崩壊以来、隠されていた断片的事実は少しずつ明らかになっていますが、大きく歪められてしまった全体的な歴史認識は、容易に変わるものではありません。私たちは、著者ミュラーに倣って、まず基本的な認識を正して(つまり、著者に認識を合わせて)おかないと、前に進むことができないのです。
周知のように、「1917年のロシア革命」は2回あって、2月と 10月に起きています。これらの日付はユリウス暦〔+13日=グレゴリオ暦〕で、現行グレゴリオ暦に直すと、3月と 11月です。〔以下、ロシアに関する日付はユリウス暦〕
ロシア2月革命。Hulton Archive / Getty Images / Wikimedia. 1916-17年冬は
異例の酷寒だったうえ、首都ペトログラードでは食糧供給が止まった。
17年2月、ウィボルク地区の女性労働者がストライキに入り、食糧要求を
掲げてデモを行なった。群衆が加わって 15万人に膨れ上がり、軍が発砲
すると、ストとデモは全市に広がった。
「2月革命」は、自然発生的に起きました。レーニンはロシアにいません。第1次大戦の敗色濃い状況で、ロシア帝国の機構はほとんど崩壊状態だったようです。食糧を求める民衆の自然発生的なデモ行進を、軍隊も警察も止めることができなくなりました。軍は大部分が戦線に出払っていますし、当時のロシアの官僚制は、ゴーゴリやドストエフスキーの小説でわかるように、ほとんど実の無いものでした。皇帝の側近や貴族の決めたことを、ただ機械的に下に伝えるだけです。
首都ペトログラート〔サンクト・ペテルブルク〕に残っていた軍がデモの鎮圧に差し向けられましたが、民衆が撃たれて倒れる姿は、兵士に衝撃を与えました。デモ隊が、銃を向けるなと叫ぶと、兵士たちは鎮圧をやめ、一部は指揮官に向かって銃撃しはじめました。ほぼ同時に、首都の公的機構は動かなくなりました。こうして、一種社会心理的な「支配の空白」が生じたのです。
支配の機構が動かなくなっただけで、もう衝突もありません。「無血革命」というものがあるとすれば、「ロシア2月革命」は、まさにそれです。史上で無血革命と言われるイギリスの「名誉革命」も、革命側の軍の侵攻とロンドン入城(議会政府に歓迎されてですが)がありましたし、「フランス革命」は、多数回の民衆の流血惨事や軍対軍の戦闘を伴なっています。そういうものがない「ロシア2月革命」は、世界史上最初の「無血民衆革命」と言えるかもしれません。
実際の状況を知るには、当時その場にいた人のルポルタージュを読むのがよいのですが、「ロシア革命」について書かれたルポルタージュの大部分は「10月革命」に関するもので、しかもボリシェヴィキの宣伝工作を真 ま に受けて書かれています(たとえ意見は批判的であっても)。しかし、幸いなことに、当時モスクワやペトログラートには、日本の商人や留学生が多くいました。今の日本人はなぜ、こんな大切な遺産を無視しているのかわかりませんが、彼らの体験記を探して読むのが、もっとも素早く真実に至る方法です。ロシア史家菊地昌典氏の著書にはそれらが引用されていますが、これも公共図書館か古書店を探さないと見れません。
「ボリシェヴィキ」は、「ロシア社会民主労働党」の中の派閥で、レーニンに従う左派が「ボリシェヴィキ〔多数派の意〕」、その他の右派が「メンシェヴィキ〔少数派の意〕」です。実際の人数は名前と逆で、「ボリシェヴィキ」は極く少数。最後まで(政権を取っても)多数派になることはありませんでした。
「2月革命」の結果として皇帝ニコライⅡ世は退位、後継に指名された皇族は即位を拒否したので「ロシア帝国」は終ります。共和国として臨時内閣政府が組織され、7月には「社会革命党(エスエル)」のケレンスキーが首相となります。しかし、「2月革命」は↑あのように崩壊として始まり、そのまま「帝国」の国家機構は瓦解してしまったので、ケレンスキー政府には、ほとんど統率力も統治力も無かったと思われます。それでも、戦争を継続しました。
ウェーバーは、「1905年ロシア革命〔「第1革命」とも言う〕」以来、ロシアの動向に関心をもっていましたが、「信頼できるロシア型の自由主義が登場することを待ち望んでい」ました。1917年の「2月革命」は、「ウェーバー邸では歓呼をもって迎えられた」。
「しかしながらウェーバーは、〔…〕ケレンスキーや、〔…〕農民を抑圧するために設計された[富豪支配の国会 ドゥーマ]の勝利には懐疑的だった。」ボリシェヴィキの「10月革命」については、「いっそう懐疑的だった。」
「冬宮」とネヴァ川。サンクト・ペテルブルク。
「ウェーバーは知るよしもなかった」ことですが、「2月革命」当時スイスに亡命していたレーニンを、「封印列車」を仕立ててロシアに送り込み、活動資金まで与えてロシアの政権を奪取させた〔それが「10月革命」〕のは「ドイツ帝国」です。その狙いは、ロシアを降伏させて・ドイツの兵力を西部戦線に集中させることです。おそらく「ドイツ帝国」との密約に基いてでしょう、レーニンは政権を取ると早速ドイツと停戦交渉に入り、翌18年3月「屈辱的な講和」ブレスト=リトフスク条約を締結します。もちろんレーニンは表向きの名分も用意していました。世界は同時革命になるから、各国の労働者は自分の政府を倒して、「帝国主義戦争を一連の内戦に」変えろと言うのです。
じっさい、ドイツでもまもなく「革命」が起き、帝政は倒れます。ただ、ドイツでは、社会民主党の共和国政府の統治把握力が強く、レーニンに近い路線をとった「ドイツ共産党・スパルタクス団」を弾圧し、自由主義の「ワイマル共和国」を成立させました。
レーニンらボリシェヴィキがケレンスキー政府を襲撃して政権を奪取した「10月革命」は、議会制民主主義のルールに反する権力掌握なので、クーデターだと言われます。が、「実のところ、革命やクーデターというより、他に誰も権力の座を欲していなかった瞬間に権力を掌握しただけのことではないか。」「冬宮」に置かれていたケレンスキー内閣は、「若干の士官学校生と女性大隊」に警備されているだけだったので、ボリシェヴィキ〔が多数派の「軍事革命委員会」〕が襲撃する前にケレンスキーは逃げてしまい、ボリシェヴィキは戦闘も流血もなく他の閣僚を逮捕して「冬宮」を占領し、「臨時政府は打倒された」と宣伝したのです。〔正確に言うと、占領より宣伝のほうが1日早かった。〕
「10月革命」とは、これだけの事件です。翌 11月〔ユリウス暦〕の「全ロシア・ソヴィエト大会」でも、ボリシェヴィキは相変わらず少数派でした。
レーニンらボリシェヴィキは、「冬宮」占領の前から「憲法制定議会」の開催を要求してきましたが、11月の「憲法制定議会」選挙で「たった4分の1の票しか集めることができ」なかったので、翌18年1月には、同議会を強制的に解散してしまいます。レーニンらが「憲法制定議会」の開催を要求してきたのは、ケレンスキー政権を追いつめるための〈ご都合次第〉の主張にすぎなかったことが分かります。利用できそうなリクツは何でも利用する。が、利用しているだけで本気ではないから、自分に都合が悪くなれば、切り捨てて知らんふりする。そんな身勝手なことしかできないレーニンが、ろくな国家も政策も創れるはずはありませんが、現在も各国に残っている「共産党」はみな、多かれ少なかれこの〈ご都合主義〉に侵されています。が、それは各自の自己責任で確かめていただきたいと思います。
ちなみに、レーニンのソヴィエト政権〔じつは、ボリシェヴィキは「労兵ソヴィエト」で多数派を占められなかったので、暴力で打倒して自分が「ソヴィエト」を僭称した〕が当初行なった政策のなかで、比較的評判が良いのは、「無賠償,無併合,民族自決」を原則とする講和の提案〔平和に関する布告。1917年10月〕です。ウィルソンの「14カ条の平和原則」〔1918年1月〕の2か月前に発表されています。しかしこれも、もとはメンシェヴィキが唱えていたものをレーニンは剽窃して唱えたのです。つまり、〈ご都合主義〉のひとつです。
アレクサンドル・ケレンスキー〔左〕。臨時政府首相当時か。
Hulton Archive / Getty Images.
「10月革命」、つまり〈議会主義〉…どころかいかなる民主主義のルールをも踏みにじり・少数派が武力襲撃で政権を奪取するというレーニンのやり方に対しては、ボリシェヴィキの内部でさえ反対が多かった。しかし、レーニンは、ボリシェヴィキの「中央委員会を脅迫と妥協で丸めこみ、党内での指導者の地位を危機に晒してまで、自らの即時蜂起計画を押し通した。」(pp.61-62.)
【17】 レーニン ――
「革命家」という「新しい人間」
ヤン=ウェルナー・ミュラーによれば、レーニンがこのような強圧的・反民主的・武力的手法による権力統一にこだわったのは、彼の「大きな政治思想」に基くものです。それは、第1次大戦後に争われた「新しい人間」観にかかわっているのです。それは、個別な人それぞれのことではなく、一国,一民族といった集団的な人間造形が問題になる場面での「人間」観です。「将来の人民の性質、もっと言えば、まったく[新しい人間]の可能性が争われた。」ウェーバーに、そのような思考があったことは、すでに見ました。ニーチェの「超人」も、このコンテクストに置いて見ることが可能でしょう。
レーニンは、「身をすべて革命に捧げ、特殊技能と高い水準」の「社会主義者意識を兼ね備えた人びとからなる前衛〔…〕に信をおくべきだと〔…〕少なくとも世紀転換期以降」は「主張してきた。〔…〕そのような職業革命家がいなければ、労働者はいくら抑圧されていても、せいぜいイギリス風の[労働組合意識]〔賃上げと労働条件改善だけを求め、一定の改善があれば満足して保守化する〕しかもてない」と言うのだ。同じ考えからレーニンは、「経済主義」ないし「改良主義」を嘲笑した。労働者の物質的条件の改善を目指す社会民主主義者や社会改良家の試みは、「真の社会主義には遠く及ばない」と言うのだ。また同時に、「自然発生的行動」つまり・前衛党の公式理論によって導かれていない労働者大衆の自主的政治行動を排斥した。前衛党に指導され公認された行動だけが「意識的行動」である。つまり、労働者とは、「意識」も頭脳も無い自然発生生物のような存在なのだ。
このような「新しい人間」観から、レーニンは、「[新しいタイプの政党]の党員として、一般大衆」ではなく「革命にすべてを捧げるひと握りの革命家」を選んだ。レーニンお気に入りの・チェルニシェフスキーの小説『何をなすべきか』は、そのような「新しい人間」を祝福していた。それは、「強い意志を持ち、究極的に合理的で、自らの精神と肉体を完全にコントロールしている人びと」だった(チェルニシェフスキーによると彼らは、「生焼けの肉だけを食い、針の筵 むしろ で眠」って自己を鍛えなければならない)。レーニンは、これを範型として、「革命に専心する専門家」の理念を具現化しようとした。
「革命への献身」だけでは不十分だった。「党員は、正しい革命理論〔…〕によって導かれなければならなかった。穏健勢力との理論的な妥協〔…〕は、確実に革命事業」を「失敗させる道だった。」 (pp.62-63.)
このように、レーニンの革命論は、「人間観」として固められたのです。その核心には、「合理的人間」という、すでに古びた近代的人間観〔理想ないしフィクション〕を、強烈な自己管理によって無理やり現実化させようとする執念がうかがえます。同時にそれは外部に対しては、一切の妥協を排した政治的急進主義と、厳格な教条主義となって現れるでしょう。
『それは、エリック・ホブズボーム〔1917-2012:歴史学者で英国共産党員〕が共産主義運動の内部から述べたように、[規律,事業効率,完全な感情的同化,全身全霊の献身の感覚]の組み合わせであった。人は「事業効率」をふしぎに思うかもしれない』が、『レーニンが党を「大きな工場のように」厳格に中央集権化しようと〔…〕欲していたのは事実である』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.64. .
レーニンの前衛党「人間観」の核心には「合理的人間」があるのですから、「事業効率」が「党員」のエートスの重要要素となることはむしろ必然的です。しかも、レーニンはそれを「厳格な中央集権化」とイコールだと思っていた。こんにち、「共産党」やその周辺諸団体は、いかに無駄が多く非効率に見えているとしても、内部では常に、硬直した「厳格な中央集権化」を追求していることは明らかでしょう。それこそが、レーニン流の頭で考えた「効率化」なのです。
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