Karl Schmidt-Rottluff『堤防決壊』1910年。©Brücke-Museum, Berlin/Nick Ash.
世界大戦の前夜、堤防が決壊して水が溢れ出ているが、人は気づかず歩いている
【7】 もう一つの「19世紀ヨーロッパ」
――「議会君主制」と、「帝国」の君主たち
第1次大戦前のヨーロッパには、㋑ 強大な諸帝国が並立していただけでなく、支配的な政治体制は共和制ではなく ㋺ 君主制だった。皇帝,王侯,貴族たちが「根強い正統性」を保持していた。
彼らの「正統性」は、個人個人の資質つまり「人格的カリスマ」によるものではなかった。「ウェーバーの言葉で言えば、彼らが継承し致命的な政治的失敗を犯さぬ限り」保持し子孫に伝える「血統のカリスマ」が、彼らの「正統性」のすべてだった。「ますます複雑化する政治」の実際においては、「統治したのは王族ではなく官僚だった」が、「官僚と軍隊を牛耳ったのは、土地貴族層の出身者だった。〔…〕イギリスでさえ」大臣はみな貴族だった。英国「内閣の多数」を「非貴族階級出身者」が占めたのは、「ようやく 1906年」のことだった。
「ヨーロッパにはまだ、王族の国際社会があった。」バルカン半島で、ギリシャ,ルーマニア,ブルガリア,アルバニア等、小国が独立すると、決まって列強の合議でドイツ貴族の有閑子弟が君主に任命され、「赴任」して行った。列強の君主,貴族の合議に逆らえる者は、第1次大戦前のヨーロッパにはいなかったのだ。
「君主制が正統性形式として主流を占めたことが、安定と安全という」この時代の「感覚を支えたかもしれない。」『エコノミスト』誌の編集者でイギリス憲政史の解説者であるウォルター・バジョットによれば、「君主制が強い統治体制たる所以は、それが分かりやすい統治体制だからである。大衆は君主制を理解するが、」君主制以外の「統治体制は、世界のどこにあっても理解され難い。」
「㋺ 君主制にも、2つの種類があった。ⓐ ひとつは議会君主制であり、」ⓑ もうひとつは、「王権神授説をいまだに信じて」いる「大陸帝国の君主たち」であった。
ⓐ イギリスなど、立憲議会制諸国の君主たちは、「人民の奉仕者〔…〕,国民統合の象徴として」意識して「自らを提示した。」彼らは「ますます、どうしたら人民に最も良く訴えかけられるか〔…〕を意識するようになっていった。」「王室の伝統」は、「公衆に与える印象を意識して〔…〕改良され」、こうして「君主制は大量生産され」この時はじめて「人格的カリスマが作り上げられた。」これが、第1次世界大戦以前の数十年間」に進行した過程だった。「端的に言えば、」君主の「正統性は、国民 ネイション や帝国を維持する上での君主の有用性に基いていたのである。」
「立憲君主が求め〔…〕獲得した人気は、権力増大の徴候ではなく、」むしろ「政治的影響力の減退の帰結であった。」バジョットが言うように、「われわれは、民主主義に近づけば近づくほど、粗野な大衆」のように「威厳や見世物が好きになっていく。」
他方、ⓑ「大陸帝国の君主たち」は、(プロイセン・ドイツのように)たとえ憲法が存在しても「単なる紙切れ」としか見なさなかった。彼らは「国家や帝国を〔…〕自分個人の所有物〔…〕と考えていた。〔…〕とくにロシアでは、こうした見方が、臣民は統治者の本来的な敵である」との「想定に基づいた統治スタイルを強化した。」ニコライ2世は「人民の[参加などという馬鹿げた夢]〔…〕を繰り返し拒絶し嘲笑」した。(pp.28-32.)
ワシーリィ・カンディンスキー『青い騎士』1910-11年。 ©Wikimedia.
【8】 第1次世界大戦 ―― 自由主義の終焉
『第1次世界大戦によって、安定の時代が依拠した制度〔…〕政治理念〔…〕道徳的な直観すべてが疑われるようになった。楽観的な自由主義的世界観は二度と立ち直れなかった。しかし〔…〕権威主義は、さらに大きな打撃を受けた。王朝主義と王権神授説は、政治的支配を正統化する〔…〕手段としては事実上消滅した。戦争は大陸の4つの帝国すべて〔…〕を一掃したのである。
〔…〕いずれも多民族帝国であった〔…〕大陸の帝国は〔…〕戦争中、多様な国民の忠誠心を継続的に惹きつけることに見事に失敗した。〔…〕
王族の国際的な姻戚関係は、大国政治の緊急事態に直面して〔…〕機能不全ぶりを晒した。戦争が終わるころには、非立憲君主たちは、わずかに残った〔ギトン註――血統の〕オーラさえも失いつつあった。〔…〕ドイツのルーデンドルフ将軍のような戦争指導者たちは、独裁者のようにふるまった。〔…〕君主は行動しなければ無力と見なされ、行動すれば無能ぶりを露呈した。〔…〕当時ウェーバーが主張したように、カリスマはカリスマであることを立証し続けなければならないのに、多くの君主は明らかにそれに失敗した。〔…〕
正統性を失ったのは、君主だけではなかった。貴族たちは、おおむね良き 19世紀を経験し、権力と特権、そして彼らを一般人から〔…〕区別する名誉の慣習に執着していたが、彼らもまた正統性を失った。〔…〕
〔ギトン註――戦後、〕中・東欧の後進諸国では、ただ1国だけが君主制となった。ユーゴスラヴィアである。そして、戦間期に作られた君主制の国は、アルバニア1国だけだった。〔…〕ヨーロッパ史上はじめて、君主なき共和制が〔…〕通例の政治体制となった。
その結果、ヨーロッパの人びとは「憲法制定のお祭り騒ぎ」に突入する羽目になったのである。多くの憲法起草者が主要な課題と見なしたのは、君主制という「超越的要素」なしに、いかにして国家を安定させるかであった。〔…〕19世紀の自由放任 レッセ・フェール 的な自由主義の物語が勝利した〔…〕わけではなかった。むしろ、それとは程遠かった。① 戦争は、国家から自由な時代の終焉を画したのである。戦争は、人民の未曽有の動員を要求し〔…〕、国家権力の例を見ない増大を必要とした。ルーデンドルフが最初に命名した「総力戦(全体戦争)」が意味したのは〔…〕兵員と資金の全体的な動員であったが、戦争が長引くにつれ、さらに一般市民の動員も意味した。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.32-36.
「第1次大戦」がヨーロッパ諸国の政治体制に与えた影響の第一は、この ①「国家からの自由の終焉」だったのです。
マクス・ペヒシュタイン『黄と黒のトリコット』1910年。
©Brücke-Museum, Berlin / Nick Ash.
著者は、「第1次大戦」がもたらした影響を、計8項目に分けて示します。①「国家からの自由の終焉」、②「国家と経済の混合」、③「官僚制国家」の構築、④ 選挙権と政治参加の拡大、⑤ 農民勢力の抬頭、⑥「民族自決」、⑦ 地球規模での「ヨーロッパの優越性」の失墜、⑧ 「塹壕民主主義」と「政治の軍事化」。以下、② から順に述べられていきます。
『② 国家はまたかつてないやり方で、経済とも混ざり合った。とくにドイツでは、産業生産の極端な集中が事実上のカルテルを生み出し、これが諸官庁によって調整された。労働者の代表は包括的な〔ギトン註――経済〕計画に参加するよう求められた。資本家と労働者の交渉は公けに制度化され、ときには国家によって監督された。観察者たちは、「組織された資本主義」について語りはじめた。〔…〕オーストリアのマルクス主義者カール・レンナー〔オーストリア共和国初代首相,社会民主党――ギトン註〕は、「見渡せる限り社会主義だ」と熱く語った。〔…〕① 各国内で、社会生活と経済生活がそれまでよりずっと厳しく制限されるようになった〔…〕。国境をまたぐ生活についても〔…〕同様で、1918年以降、すべてのヨーロッパ諸国が市民にパスポートの携帯を求めるようになった。
しかし、増大する国家権力は、たんに個人の自由を制限』した『だけではなかった。国家権力とともに、社会的〔…〕政治的可能性の感覚も増大した。国家と社会を分離する〔…〕境界線は、〔…〕いっそう曖昧になった。
教育を受けた「責任ある」社会の一部が、きわめて制限された選挙権に基づく議会を通して・彼らの利益を理性的に表明する〔…〕考え方に代わって、③ 社会全体が、自ら〔社会――ギトン註〕を根本的に変えるために、国家を利用しうるという考えが広まった。このことは、強力な官僚国家の構築が・民主化や市民権の拡張〔…〕に先んじ〔…〕た国、つまり大陸ヨーロッパ諸国に、とりわけ当てはまった。〔…〕
④ これらの諸国』でも英米でも『選挙権が大規模に拡大された。〔…〕大戦以前に女性の投票が認められていたのはフィンランドとノルウェーだけだった。1918年には、イギリスは男子普通選挙を導入し、30歳以上の女性にも選挙権が認められた。〔…〕選挙権の性急な拡大を常に恐れてきた自由主義者たちは、〔…〕「大衆」の抬頭を声高に嘆くばかりであった。〔…〕
「大衆」についての不安は、量というより質の問題だった。「大衆的人間」は、〔…〕欠けている性質によって特徴づけられた。
良き 19世紀・の自由主義的な自己は、とりわけ合理性と自己抑制という性質をもっていると想定され、大衆的人間にはそれが欠けているとされた。さらに悪いことに、「大衆的人間」は国家と近代技術を操作するレバー〔…〕を握りかけていたが、他方で、国家と近代技術が「大衆」の同質化を進めていた。国家、「機械」、「大衆」が、ほとんど不可避にまとまってひとつの脅威として立ち現れた。オルテガは、「大衆は、国家という匿名の機械を通じ、またそれを手段として自ら行動するのである」と警告した。このような宣言によって自由主義は、政治に対する自らの疑似貴族的な立場を明らかにした〔…〕。つまり、〔…〕大衆民主主義〔…〕にまったく抵抗できない立場になったのである。
エドヴァルド・ムンク『家路につく労働者』1913-15年、ムンク美術館(オスロ)。
とはいえ、〔…〕ヨーロッパ大陸の多くの場所で、新しい集団や階級が政治に参入したのは事実であった。
⑤ 中・東欧では、農民が初めて政治的に能動的になり、彼らの動員によって「農地改革運動」という明示的なイデオロギーが登場した。ブルガリアでは、農民の指導者〔…〕アレクサンドル・スタンポリスキーが首相にさえなった。彼は大規模な土地の再分配を実行し、〔ギトン註――ヨーロッパ全体の農民を糾合する〕「緑のインターナショナル」を創り出そうとした。〔ギトン註――しかし、都市民,インテリ,労働者には?〕小農への偏見は根強く、農地改革運動が・より強力になるという見込みが火に油を注いだ。1923年にスタンポリスキーは暗殺され、〔…〕両耳を切り落とされ〔…〕た頭部が首都ソフィアに送りつけられた。〔…〕高度に産業化していたチェコ・スロヴァキアを除き、どの国も、農民を統合して民主主義を機能させることに成功しなかった。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.36-40.
「自由主義」から「民主主義」へ、第1次大戦の「総力戦」体制による「大衆」政治への流れと・戦後の選挙権拡大の趨勢によって、「農民」〔その大部分は地主でも労働者でもなく「小農」〕もまた一勢力として国政の舞台に登場しました。これは、「中・東欧」で(日本でも)顕著な現象でした。
しかし、「農民」が、「労働者」のように、独自の勢力としても、大衆〈統合〉の核心としても大きな力を持ち得なかったのは、彼らの力を正統化するイデオロギーが無かったからだと思います。たしかに、世界の各地域には、農民を正統化する古来の思想があります。そのなかには、「農民ユートピア」や革命思想さえあります。が、それらの理論的根拠は伝統的なもので、「労働者」の場合のマルクス主義や各種社会主義のような・〈選挙と議会〉の時代に通用する説得力はありませんでした。インテリたちは、「愚鈍な」農民に、ただ感情的に同情するのでなければ、心底からの侮蔑を投げつけました。
けれども、それらの国々では、人口の大部分は「農民」なのです。「農民」を理解できないこと、統合できないことが、国家を握って社会を変革しようとする人びとの転倒の原因となりました。農民への土地再分配を政策に掲げたレーニンも、けっきょくは、農民の多くを〔「クラーク」という名の〕“敵” に回してその「絶滅」をはかるようになり、「ウクライナの悲劇」をもたらしたのです。
ヴィルヘルム・モルグナー『枯れ木の道』1891-1917年。
【9】 「民族自決」主義
『新しい集団が国内政治での発言権を要求するとともに、国の資源の取り分も要求した(あるいは、戦争でのコストの負担を拒否した)。多くの観察者にとって、新しい種類の人民が政治に参入してきたからには、⑥ 国家がより積極的に諸人民(peoples)をひとつの国民に造り変えるべきだというのは、もっともだと思われた。〔…〕そうしたアプローチを〔…〕正当化しうる〔…〕原理も存在した。すなわち、民族自決という規範である。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.40. .
「民族自決」は、「プリンストン大学の政治学者で自由主義の情熱をもつ」アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが、1918年に連邦議会で述べた「14カ条の平和原則」の第5条で提唱し、「頑固なヨーロッパの政治屋に力説」した結果、「民族自決」は、翌年のヴェルサイユ講和条約の原則となった。(p.41.)
第1次大戦中の「挙国一致」のスローガンのもと、『階級を越えた国民の統一という理念は、〔…〕民主主義への要求を促進し、〔…〕実現に手を貸した。
しかし、ナショナリズムは、既存の国家や新たに創られた国家と地図上でぴったりと一致したわけではなかった。〔…〕
この〔ギトン註――民族自決〕原理は、民主主義の名のもとに、民族や言語という基準にもとづいて、同質的とされた人民をもつ・入念な国家の建設として実施されるはずだった。〔…〕民族自決の規範と、住民の同質性に基く国家のあり方は、新たに設立された国際連盟によって支えられ〔…〕た。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.41. .
ところが、「ウィルソンの思い描いた自由主義革命は〔…〕、[諸民族の純化]」あるいは「民族浄化」と呼ばれるものを「呼び出した」。「脅し,迫害,強制移住,さらには」大量刹害などの暴力手段が動員されて、既存の・または建設中の「国民国家」の住民を同質化する名目で使用された。ロシアの作家ナジェジダ・マンデリシュタムは、「階級単位であろうと、民族集団単位であろうと、大規模な強制移住には、必ず自発的な移民の波が続いて生じた〔「強制」から漏れた人々が、家族や同胞を追いかけるため〕。子供や老人が蝿のようにタヒんだ」と語っている。(pp.41-42.)
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー『モーリツブルクの水浴者たち』1909-26年
『ヨーロッパは、表向きは共和制の国民国家群として再編されたが、各国内にはきわめて多くのマイノリティを抱えていた。ポーランドの人口の3分の1はポーランド語を話せ』なかった。『パリ諸条約〔「ヴェルサイユ条約」はじめ第1次大戦の講和諸条約――ギトン註〕は 6000万人〔…〕に自分たちの国家を与えたが、同時に 2599万人〔…〕をマイノリティに変えたのである。〔…〕マイノリティは、集団的権利を通じて保護されるはずだった』が、その権利は『パリ諸条約の一般的合意に含まれていなかった。』マイノリティの権利は「二国間条約」で規定することとされ、実際には『大国同士の政治的な気まぐれに翻弄され〔…〕た。勝者たちは、マイノリティにいかなる種類の団体の地位も認め』なかった。『他方、マジョリティの側から見れば、不満を抱えるマイノリティを国内に永住させ』たくなかった。そこで、ギリシャ・トルコ間の『1923年のローザンヌ条約は「住民交換」を正統化する前例となった。条約の結果、100万人ものキリスト教徒がトルコからギリシャへ強制的に移送され、35万人ものムスリムがギリシャからトルコへ移動した。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.42-43. .
当時、「住民交換」の措置をとることは、少数民族を抱える各国の義務であり、ウィルソンの「義務的行動原理」を「完全に実行に移すため」の「分かりやすい手段」であると見られていました。しかし、こうした分離措置の正当化が、かえって種族 エスニック 間の反目・闘争を激化させるものであることは、インド・パキスタン間のカシミール紛争の経過を見ても明らかなことでしょう。
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