「80日間世界一周」、1956年アメリカ映画。原作ジュール・ベルヌ(1873年)。

イギリスの貴族がインド人の従僕を相棒に、金力にものを言わせて、気球,鉄道,

蒸気船などの近代技術を駆使して世界一周旅行をするというジュール・ベルヌ

小説は、19世紀後葉の安定した自由主義・資本主義時代を象徴する物語だった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

【4】 古き良き 19世紀 ―― 平和と安定の時代

 

 

 19世紀後半から第1次大戦前までつづいた「この理性と安定の時代は、3つの中心的な理念(ときにたんなる道徳的直観〔…〕)に依拠しており、それらは政治的・経済的制度によって強固なものとなっていた。」

 

 「3つの中心的な理念」とは、「平和」とその結果としての「自由」、進歩」の楽観的な観念、そして 「世界のヨーロッパ化」という確信、です。 

 

 

『第1に、安定が意味したのは、戦争および〔…〕大規模な暴力の不在であった。〔…〕 1871年から 1914年は、歴史上、ヨーロッパの内部〔バルカン半島と黒海周辺を除く――ギトン註〕平和が最も長く続いた時代となった。ヨーロッパの人びとは、〔…〕安定を単なる幸運な休息とは考えていなかった。モノ、カネ、そしてヒトの循環を通じて、ヨーロッパの諸国家と諸帝国の相互依存が深化しており、平和はそのことと結びついていると思われた。〔…〕それは、自由貿易や、経済的利益のために標準を制定し、主権を共同管理する〔…〕国際協調という点で、国際主義の黄金時代だった。〔…〕欧州郵便連合や、スカンジナヴィア通貨同盟およびラテン通貨同盟が存在した。何より、すべての主要通貨を結びつける金本位制が存在した。加えて、移動の自由が皮膚感覚と現実の両面において存在し、その結果として移民の大きな波が生じた。〔…〕実際、19世紀末にパスポート管理を行なっていたのはトルコロシアだけであり、それも国内の移動を統御するためのものだった(』2国と『モンテネグロ〔…〕だけが 1900年時点で〔…〕議会を持っていなかったが、〔…〕このことは偶然ではないと思われた)。〔…〕これほどまでにヨーロッパの人びとの関係が緊密で、相互に訪問し合い、お互いをよく知っている時期は無かった〔…〕

 

 移動の自由は、万人の自由を拡大するという・一般的な自由主義的信条の一側面だった。自由という言葉が主に「国家からの自由」を意味するならば、とりわけそうだった。〔…〕1914年8月までは、〔…〕市民は好きな場所で生活できた。身分証明書やパスポートなど必要無かった。〔…〕外国の通貨や品物も好きなだけ購入することができた。ジョン・メイナード・ケインズは、〔…〕「人種や文化の対立を生むような軍国主義や帝国主義の計画ないし政治は〔…〕国際化した日常的な社会・経済生活の軌道に、ほとんど全く影響を及ぼさないように見えた」と述べている。

 

 

アントン・フォン・ヴェルナー『ドイツ帝国の成立』 ビスマルク博物館蔵。

©Wikimedia. フランスに戦勝し、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」でドイツ皇帝

に即位するプロイセン王ヴィルヘルムⅠ世(1871年1月)。この普仏戦争は、

以後、第1次大戦勃発まで、西欧内部で戦われた最後の戦争となった。

 

 

 〔…〕  ほころ びなき進歩への確信、とくに科学的進歩への確信が、およそ第一次世界大戦まで存在した。〔…〕自由主義者のあいだには同様に、個人の自己決定と集団の自己決定が調和的に同時に進行するという・強固で原理的な確信も存在していた。


 ただし、〔…〕社会が何を必要とし、何を欲しているかについては、共通善の感覚を持った名望家 ジェントルマン 層が運営する議会を通じて最も適切に表現される、と考えられていた。「安定の時代」はまた「議会主義の時代」でもあった。たしかに、〔…〕選挙権はほとんどのヨーロッパ諸国で厳しく制限されたままだった。自由主義者は、〔…〕教養あるいは財産を持たない人びとには、政府の選択を任せるわけにはいかなかった。彼らは、「安定の時代」が依拠していたまさに根幹の部分を破壊するように思われたからである。〔…〕自由主義者にとって、完全な民主化は、〔…〕理論上の可能性にとどまっていたのである。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.20-23.  

 

 

 

【5】 古き良き 19世紀 ――

エリートが操縦する「進歩」、妥協と懐柔

 

 

 「19世紀から 20世紀初頭にかけて」選挙権拡張と「代表の本質をめぐる」運動が「ヨーロッパじゅうで起きた。女性は投票権を要求し、平和的なデモ〔…〕、ついで財産への攻撃、さらに〔…〕ハンガー・ストライキに打って出た。〔…〕担税力」を基準とする投票資格の配分は、いよいよ批判にさらされた。「広大な多民族帝国」〔ハプスブルク・オーストリア等〕では「さまざまな民族集団が」統治への参加権を要求した。「イギリス〔…〕は、貴族院の役割が問題になり、1911年に貴族階級の特権が削減された」。

 

 けれども、自由主義者保守主義者のエリートは、」このような「代表制の危機」は「制御できると」楽観していた。(pp.23-24.)

 


『典型的な例はイタリアだった。イタリアの自由主義者は、ゆっくりと選挙権を拡張しつつ、変容主義 トランスフォルミズモ という戦略を通じて、社会紛争を封じ込める方法に賭けた。変容主義 トランスフォルミズモ とは、より多くの集団に権力を分有させて体制の内側に引き入れる戦略であり、〔…〕体制側に入った集団に報酬として利権を与え、それによって彼らの主張を穏和なものに導くことである。そこで自由主義者たちは、〔…〕農民にも投票権を与えた。農民は政治的に不活発なままであり、〔…〕制御可能だろうと踏んだのである。反対者の取り込みを通じたこの種の変容は、たとえばイギリス『凝集性の高い自由党による責任内閣制とは程遠かった。実際、イタリアには 1920年代初頭まで自由党が存在せず、自称自由主義派の名望家集団がいただけだった。

 

 〔…〕ヨーロッパの周辺部の諸国は、名目的には自由主義的な立法府によって統治されていたけれども、実際には、名望家や郷紳的行政官によって統制されていた。彼らは〔…〕新たに選挙権を得た集団を統制下に置くべく、地方の権力を行使していた。

 

 

1899年、オランダ、デン・ハーク市、ハウス・テン・ボス宮殿で開かれた

第1回万国平和会議。 ©Wikimedia.

 


 この種の微温的な民主主義への不満は、〔…〕煮えたぎっていた。だが、それにもかかわらず、 参加への要求は、秩序立って平和裏に処理されるだろうと』思われていた。『それが「安定の時代」を根底から脅かすとは思われていなかった。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.24-25. .  

 

 

 このような「安定と平和と自由」のイメージは、当時のヨーロッパの人びとの偽らざる実感だったのかもしれません。私たちは、西洋史のイメージを少し修正したほうがよいかもしれません。第1次世界大戦へと続く 19世紀後半は、私たちの世界史の教科書や参考書では「帝国主義」「植民地争奪戦」「侵略戦争」といった文字が躍っているために、当時の人びとの生活実感からは懸け離れた歴史観を抱きがちです。しかしそれでは、文化史,思想史はもちろん、政治過程を “眼に見えるように” 把握することは困難です。

 

 

1905年、フランス、ブーローニュ=シュル=メールで開かれた第1回世界エス

ペラント大会に創案者ザメンホフ博士(緑矢印)一家を招待した開催地の

エスペラント語普及活動家アルフレド・ミショー(黄矢印) ©Wikimedia.

 

 

 考えてみれば、「普仏戦争」(「パリ・コミューン」の敗北)から第1次大戦勃発までは、“世紀末の暗い時代” どころか、少なくともヨーロッパでは、底抜けに明るく素朴で楽観そのものの時代だったのです〔ヨーロッパの外で何が起きているか、見ないようにしていたからこそ、なのですが…〕。1887年に東欧の片田舎の医者が「発明」した人工国際語が、「世界平和をもたらす妙薬」として、ヨーロッパじゅうで持てはやされていました。1899, 1907年には、〔当時のヨーロッパの君主で唯一、戦争に明け暮れていた〕ロシア皇帝ニコライⅡ世の提唱で、2回の「万国平和会議」がオランダで開催され、今日「ハーグ陸戦規則」と呼ばれる国際人道法条約を成立させていました。

 

 が、象徴的なのは、この平和会議〔第2回。1907年〕に、日本帝国による植民地化の危機に晒されていた「大韓帝国」が、3人の代表を送って日本の無法と「保護条約」〔1905年。韓国の外交権を奪取〕の無効を訴えた事件です(ハーグ密使事件)。ヨーロッパ各国代表は、何ら関心を示さず、3人の代表は会議場に入ることもできませんでした。

 

 

ハーグ密使事件。第2回「万国平和会議」(1907年)が開かれた「騎士の館」

(Ridderzaal, 1900年)と、大韓皇帝高宗の命を受けた3人の密使:左から李儁、

李相卨、李瑋鍾。©Wikimedia. 李儁は現地で急死し、「日本に抗議して

割腹した」との伝説も生じた。遺族は現在もオランダに住んでいる。

 


『時代の底流には第3の直観が存在した。それは、 世界が最終的にヨーロッパ化されるという・ほとんど信念と呼べる感覚であった。すなわち、世界はヨーロッパに支配され、ヨーロッパの文明が模範として世界中で受容されるというわけである。ヨーロッパ人は、世界の他の地域を、〔…〕その地域の善のために支配していると思い込んでいた。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.25. .  

 

 

 「このように、〔…〕すべて自由主義化が進み民主化さえされた諸国」の「安定的秩序として理解されたヨーロッパでは、〔…〕[安定の時代]が生み出した」政治問題は、何であれ、すべて、爆発に至る前に「封じ込めることができる」と思われた。(p.26.)

 

 ところで、こうしたヨーロッパの「安定の時代」――1871-1914年――は、日本の「明治時代」とちょうど一致しています。つまり、日本の「文明開化」と近代化は、たまたまヨーロッパが「楽天的な平和の国々」だった時代に、その恩恵を全幅に浴びて遂行された、ということがわかります。

 

 これは、他の国にはあり得なかった運の良さなのです。中国は、同じ過程を歩むのが早すぎたために「アヘン」の餌食となりました。韓国は遅すぎたために、日本の餌食となりました。ヴェトナムは、歩み始めた時にはすでにフランスの植民地でした。

 

 

 

【6】 「19世紀ヨーロッパ」のもう一つの顔

――「帝国」と君主制

 


 しかし、この時代のヨーロッパについては、自由主義的でも楽観的でもない別の見方もありえます。それは、 強大な諸帝国の争い、 君主制の支配、という2面に見ることができます。

 

 

『巨大で対立しあう帝国の存在こそ、20世紀初頭の世界を彩る最大の特徴だった〔…〕

 

 2種の帝国が優位を争ってい』た。『一方で、古くに確立し、海外で植民地獲得を試みた国民国家〔…〕があり〔「大英帝国」,フランス,ベルギー,ポルトガル,オランダ――ギトン註〕、他方では、大陸の、〔…〕広大な領土を抱え込んだ帝国〔ロシア帝国,ドイツ帝国,オーストリア・ハプスブルク帝国,オスマン帝国――ギトン註〕が存在した。両者の違いは、帝国を保有しているものと、自らが帝国であるもの、と要約できる。後者は〔…〕権威主義的で、自らの宗教的権威を誇示した。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.26-27. .  

 

 

 オスマン帝国は、一面でイスラム教のカリフの権威に依拠していましたし、ハプスブルク帝国は形式上「神聖ローマ帝位」の継承者でした。他方でプロイセン「ドイツ帝国」も、「神聖ローマ帝国」の実質的後継者を自認していたのです。ロシアも、「正教」の保護者として「第三のローマ」を称していました。「これらの大陸帝国の内部では、強力な運動が拡大を後押ししていた。」「汎トルコ主義」「汎スラヴ主義」「汎ゲルマン主義」「全ドイツ運動」です。そして実際には、すべての帝国が多数の「民族的少数派 エスニック・マイノリティ 」を含んでいました。

 

 

Fred W. Rose『激流の魚釣り』1899年。

 

 

 「国民国家」と「帝国」の違いは、臣民の種族・文化の〈同一性〉をタテマエにできるかどうかです。プロイセン・ドイツの場合は複雑で、一面では「ドイツ民族」の統一国民国家でしたが、他面では、西にはフランス人住民、東にはポーランド人等を含む「準帝国的統一」でしたし、国境線も「曖昧なフロンティア」というべきものでした。そして、「国民国家」としての「植民地主義の野望」を追求することが、国内の「ドイツ人」の不十分な国民的結束を補っていました。「こうしたドイツの特異性は、次第に不安定化の源泉となった。」
 

 イギリスなど、ヨーロッパ外での植民地獲得に集中した諸国は、ヨーロッパ人の「文明化の使命」を負っていましたし、ドイツ人は、「世界民族 ヴェルト・フォルク としての普遍的使命」を自覚していました。(pp.27-28.)

 

 

 

 

 

 

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