マクス・ウェーバー『経済と社会』(遺稿)
【22】 社会は自己組織的であり、人間には創造力がある
『よりよい社会に向けた実質合理性の探究において、私たちの側にある〔…〕ものは、人間の創造性である。ここではその可能性に何の制限もない。複合的システムについてわたしたちが知っていることは、それが自己組織的であり、くりかえし新しい方式を――つまり〔…〕新しい解決法を――発明する、ということである。
しかし〔…〕創造性というのは必然的でもないし、つねに明確なものでもない〔…〕。作用するのは、〔…〕道徳的に善であるものとはかぎらない。〔…〕神はわたしたちに自由意志を与えて、それゆえ善と悪双方の本質的な可能性を与えた。それゆえわたしたちは、〔…〕次の 25年から 50年のあいだに、〔…〕より実質合理的な史的社会システムに導くような何ができるのか、という政治的な問題にたどり着く』
ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.137-138. .
ウォーラーステインが述べる〈未来のシステム〉プログラムの概要は、以上です。
このあと、次の章では、〈システム〉の変換期にあたって、世界のトップの富裕層がとる戦略、それに対抗して「相対的に平等主義的」なシステムにしようとする側がとる戦略、それぞれが予測されます。が、そこに行く前に、【24】以降では寄り道をして、「実質合理性」というウェーバーの用語を少しく掘り下げておきたいと思います。
【23】 消費税減税,所得再分配,「そのさき」
政治に関心の高い読者には注意していただきたいのですが、ウォーラーステインの「ユートピスティクス」は、付ければ今すぐに効く特効薬でもなければ、すべてを一変させるような革命綱領でもない、ということです。今度の選挙でどこかの政党が公約の一部として掲げるようなものでもありません。「そのさき」の話なのです。
「消費税減税が書いてないじゃないか」「平等にすると言いながら、所得再分配はどうするんだ?」等々言われそうなので、「消費税」「所得再分配」と「ユートピスティクス」の関係を、すこしだけ説明しておきましょう。
「消費税」,「所得再分配」,いずれも、現在の〈システム〉つまり「このままの資本主義」の存続を前提とする方案です。だから意味がないというのではない。さしあたって(自民党でも民主党でも)政府にやってもらいたいのは、それらです。
財務省解体デモ。霞ヶ関 財務省前 2025年4月29日 ©faktcheckcenter.jp. / 古田大輔
日の丸や海軍旗を掲げる参加者もおり、無党派層~保守層,陰謀論右翼まで含む。
たとえば、赤字国債を財源とする「消費税減税」は、どうでしょうか?「そんなことをしたら国の借金が増える」「インフレになる」と言って反対する人たちがいます。「国の借金」が増えて困るのは、「国の金庫」を守っている官僚たちだけです。国民は困らない。カネの使い方をまちがえて私たちに迷惑を被らせた金庫番は、おおいに困ればよい。
「インフレ」にもなりません。↓こちらにシミュレーション結果が出ています。食料品の消費税率を恒久的にゼロにする程度の減税なら、インフレ率はほとんど変わらずに、景気浮揚効果が生じます。ただし、立憲民主党のように、1年だけ、2年だけ、というのでは、もとの税率に戻したとたんに景気は落ち込みます。下げるなら永久に下げなければダメです。食料品に付加価値税(消費税)をかけないのは、EUでは主流です。日本の消費税がどうかしているのです。
「消費税減税すると物価が上がる」って本当なの?
もっとも、食料品だけ消費税率ゼロにする程度では、景気浮揚効果も、たいしたことはありません。とりあえず毎日の買い物で 8% 節約できるのはいいとして、それ以外の経済効果の「おこぼれ」が庶民にまで及んでくるかどうかは分かりません。
消費税を全面的に廃止すれば、大きな効果が見込めますが、さすがに赤字国債では、副作用インフレも大きくなります。財源として有望なのは、富裕層への増税,企業内部留保への課税,法人税率の累進強化,各種の大企業優遇税制の廃止,などです。これらの財源による消費税廃止ならば、景気浮揚と同時に「所得再分配」効果もある点で、格差是正に資すると言えます。共産党の辰巳議員が国会で質問して、石破首相も(どこまで本気か知らないが)賛成みたいな答弁をしていました。「れいわ」の山本議員が前から言っている「有るところから取れ」政策です。
しかし、これもあくまでも、「このままの資本主義」を前提とする方案ですから、限界があります。たとえば、「所得再分配」を強めすぎると、大企業は日本の税制を嫌って、他の国に足場を移してしまう。つまり「資本の逃避」が生じると言われてきました。10年前までならば、「だから、経団連が嫌がることはやめよう」ということで諦めていました。ところが、今は「このままの資本主義」自体が、ドンヅマリに近づいています。たとえば、トランプの米国に逃避して、何かいいことがあるでしょうか? ‥関税の “悪あがき” が適当なところで決着したとしても、関税のせいで、米国の成長率は日本・韓国を下回ると予想されています。だからといって中国に逃避したら、もっとひどいことになるでしょう。それならインドは? やはり日本企業の “パラダイス” ではない。つまり、もう「逃げ場」が無くなりつつあるのです。
事ここに及んで、世界の「富裕層」のなかでも「上位1%」と云われる頂上トップは、現存の〈システム〉をすっかり改造して自分たちだけが生き残るための「ディ・ランペドゥーザ戦略」を、さまざまに考究しています。そのどれかが「移行期」を支配した場合、相当範囲の「世界庶民」を儀夝にするのは必定です。
どんなプランが仕掛けられているかを分析し、それらに対抗して・少しでも「民主的で平等主義的」なシステムにしようとする「そのさき」の戦略が、ウォーラーステインの「ユートピスティクス」なのです。
マクス・ウェーバー『古代文化没落の社会的原因』(1896年)
【24】 ウェーバー ――「実質合理性」
ウォーラーステインが使う「実質合理性」という語の意味は、すでに何となく想像できていますが、これはもともとウェーバーの用語で、「形式合理性」の対語です。ここで少し寄り道をして、この2語の意味を掘り下げておきたいと思います。
『経済行為の形式合理性(formale Rationalität eines Wirtschaftens)とここでいうのは、その経済行為にとって技術的に可能でもあり・また現実に経済行為に適用されてもいる・計算の度合い(das Maß der Rechnung)のことを指すものとしよう。
これにたいして、実質合理性(materiale Rationalität)というのは、経済的指向をもった社会的行為(ein wirtschaftlich orientiertes soziales Handeln)による・一定の人間集団のそのときどきの財供給が、一定の価値評価の公準(bestimmte wertende Postulate)という観点から・そのような公準のもとで観察されて行なわれている・または行なわれうる度合いのことを指すものとしよう。この価値評価の公準は、高度に多義的である。』
マクス・ウェーバー,富永健一・訳「経済行為の社会学的基礎範疇」, in:『世界の名著 61 ウェーバー』,中公バックス版,1979,p.330. .
これが「形式合理性」と「実質合理性」の定義ですが、いきなり読んでも何やらわからないでしょう。なぜわからないかというと、このなかで使われている「経済行為」「経済的指向」「価値評価」といった用語には、それぞれの意味があって、それらの意味から理解して積み上げていくように、‥ちょうど数学の教科書のような建付けで書かれているのです。
まず、訳書について一言しますと、これはウェーバーの長大な著書『経済と社会』の一部を切り取って中公『世界の名著』に収録されているものです。『経済と社会』は、ウェーバーのタヒ後にマリアンネ夫人が編んだ遺稿集ですが、ウェーバーは、原稿の配列について指示を言い残してはいませんでした。それで、何人もの弟子や研究者が(日本人も)、「本当の配列は、こうだ」という構想を公にしているほどです。じっさいにマリアンネ夫人の配列では、先にある定義に含まれている用語の定義が、後のほうにあったりします。また、ウェーバーの原文は草稿ですから、語句の繰り返しなどを省略した箇所があちこちにある。訳文を原文と照合してみると、訳者はそれらをすべて穴埋めして訳しているのが分かります。
なので、『経済と社会』を読む作業は、一種の謎解きと言ってよいほどです。
そこで、「経済行為」などの用語の意味を、まず確かめておきます。
『行為が「経済的な指向をもっている(wirtschaftlich orientiert)」というのは、それが主観的に思念された意味のうえからいって、効用サーヴィス(Nutzleistungen)の欲求への配慮に向けられている場合、そのかぎりでの行為を指すものとしよう。
「経済行為(Wirtschaften)」というのは、財の処分力の平和的な行使であって、第1次的に(primär)経済的な指向をもっているものを指し、
「合理的な経済行為(rationales Wirtschaften)」というのは、目的合理的に、したがってまた計画的に、経済的な指向をもっているような経済行為のことを指すものとしよう。〔…〕
「経済行為」とは、主観的かつ第1次的に経済的な指向をもつ行為(die subjektive und primäre wirtschaftliche Orientierung)である。』
ウェーバー,富永健一・訳「経済行為の社会学的基礎範疇」, in:『世界の名著 61 ウェーバー』,pp.301-303. .
節分祭の豆撒き。2024年2月3日 横浜市青葉区しらとり台 神鳥(しとど)前川神社。
©townnews.co.jp.
最初から、「効用サーヴィス」というウェーバー特有の用語が出てきます。
ふつう経済学では、生産,流通などの対象を「財」と「サーヴィス」に分けます。「財」とは、パン,上着,宝石などの「モノ」であり、「サーヴィス」は、モノではなく、美容院,医療,宅配のように・人間に何かをしてもらうことです。が、「財」にしても、これを消費する側から見ると、人間ではなく「モノ」から、空腹をいやすとか寒さを防ぐといった効用を与えてもらうことにほかなりません。つまり、「財」も「サーヴィス」も、消費側から見れば等しく「効用サーヴィス」です。
「効用サーヴィス」を定義すれば、「現在または未来における使用可能性の機会」(p.308.)ということになります。
あらゆる経済的な活動は「効用サーヴィス」にかかわるものですが、ウェーバーはここに、「経済的な指向をもつ行為(wirtschaftlich orientiertes Handeln)」「経済行為(Wirtschaften)」という広狭2つの概念を立てます。「経済行為」は、「経済的な指向をもつ行為」に含まれますが、そのなかでも最も経済指向の強い中核的な行為です。
たとえば、農民が自分の畑でダイズを生産する行為,市場 いちば にダイズを並べて売る行為は、「経済行為」です。
しかし、節分の日に神社の宮司が参拝客に向かってダイズを播くのは、どうでしょうか? これは、ダイズという「財」の単なる贈与ではありません。参拝客は、ダイズを拾って食べたいから集まっているのではない。節分の豆まきの第一の目的〔最優先の目的〕は、経済的なものではなく、宗教的なものです。農家に押し入ってダイズを奪い取る行為は、どうでしょうか? たしかに、第一の目的はダイズという「財」を手に入れることで、経済的なものですが、平和的手段で行なわれる生産や購買とは区別したほうがよさそうです。
そこで、「経済行為」という場合には、「処分力〔財の所有権など〕の平和的な行使」「第一次的に経済的指向を持つ」という2つの条件を要求するのです。
そのような・狭い意味での「経済行為」(生産,売買,運輸など)のまわりに、「経済的な指向をもつ行為」というあいまいな範囲が広がります。節分の豆撒き,食糧の窃盗・強盗,‥‥そしてもちろん、あらゆる財・サーヴィスの生産,売買,運輸は、「経済的指向をもつ行為」です。
「経済行為」の場合には、「経済的指向」は第一次的〔最優先〕ですが、その外側の行為では「経済的な指向」は副次的です。
歴史的に言うと、古い時代には・かなりの経済活動が、狭義の「経済行為」の外側にありました。年貢の収納は、習慣にしたがって平和裏に行なわれれば「経済行為」ですが、しばしば暴力や脅迫を手段として行なわれました。皇室への進上品の献上は、宗教的畏敬を表わすことに主要な意味がありました。それらはみな、「経済的指向を」副次的に「もつ行為」です。
近代になるほど、行為の・明らさまな暴力性や「呪術的」意味は薄れて、純粋な「経済行為」が多くなり、それが社会の中心となるのです。
「合理的な経済行為」と言う場合の「合理的」とは、行為と目的とのあいだに、リクツに合った関連性があるという意味です。ダイズを生産する場合に、わざわざ収量を減らすようなことをするのは、経済目的との関係では「非合理的」です。「経済行為」の場合には、「目的」とは経済目的〔「効用サーヴィス」への欲求を満たすこと〕です。
しかし、より広い「経済的な指向をもつ行為」の場合には、経済目的とは限りません。神社の豆まきのダイズは、安価な海外産よりも、値段は張っても地元でとれたダイズを使うかもしれません。これは、宗教目的との関係では合理的な配慮です。そこで、最初に掲げた「実質合理性」の定義が理解されます。
「形式合理性」は、もっぱら狭い意味の「経済行為」で問題になることです。それにたいして「実質合理性」とは、その外側にあるさまざまな目的の行為でも問題になる「合理性」なのです。
遊牧民世界文化祭で騎射を披露する騎手。2023年8月19日 モンゴル国、ウラン
バートル、ナライハ地区。©Xinhua News. かつて遊牧民にとっては、農耕
地域の襲撃・掠奪も、交易と並ぶ通常の経済活動だった。
『経済行為の形式合理性と〔…〕は、〔…〕計算の度合い〔…〕を指すものとしよう。
これにたいして、実質合理性というのは、経済的指向をもった社会的行為〔…〕が、一定の価値評価の公準〔…〕のもとで〔…〕行なわれうる度合い〔…〕を指すものとしよう。この価値評価の公準は、高度に多義的である。』
マクス・ウェーバー,富永健一・訳「経済行為の社会学的基礎範疇」, in:『世界の名著 61 ウェーバー』,中公バックス版,1979,p.330. .
「形式合理性」のほうは、行為の経済目的をいかに効率よく実現するかということですから、つまるところ「計算合理性」と同じことになります。
これにたいして「実質合理性」は、そのような経済的効果にかぎらない・さまざまな価値の一つを基準として立て、その基準に照らして見た場合の「合理性」です。しかもその基準は、経済目的のような明確で一義的なものとは限りません。多義的な目的を追求している場合が多いと言えます。豆まきの例で言えば、純粋な宗教目的だけでなく、地元住民の親睦,娯楽といった目的が混じり合っているのがふつうでしょう。多義的なだけでなく、追求されている複数の目的のあいだに相剋があって、政治闘争が起きている場合もあります。「社会主義」国家における政治論争と闘争の多くはそこに根があります。(pp.331-332.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!