1522年「ロドス島の攻城戦」で聖ヨハネ騎士団(上部,城内)と戦う
オスマン帝国のイエニチェリ。from "Süleymanname " (1558),
Topkapi Palace Museum. ©Wikimedia.
【76】 「インター・ステイト・システム」への組み込み
『「世界経済」に組み込まれるということは、必然的にその政治体がインターステイト・システムに組み入れられることを意味する。それはまた、〔…〕当該地域にすでに存在している「国家」が「インターステイト・システム内国家」に変身するか、同様の〔…〕別の政治体に代位される〔…〕か、あるいは、すでにインターステイト・システムに組み込まれている既存の国家に吸収されるか、〔…〕を意味した。統合されたかたちの分業体制がスムースに機能するためには、モノ,カネ,ヒトの国境を越えての流れが・ある程度経常的に保障されているのでなければならない。〔…〕流れに制約をかける〔…〕国家自体が、インターステイト・システムを構成する国家集団によって――〔…〕実態は、一握りの強国によって――強制される・一定のルールの制約の下で動く〔。それによって、いちおうの流れが保障される――ギトン註〕のである。
コーヒー・ハウスで語る講談師(Meddah)。
オスマン帝国時代、1600年頃のミニアチュール。 ©Wikimedia.
既存のインターステイト・システムの側から見れば、〔…〕組み込みの過程にある地域には、強すぎもせず弱すぎもしない国家機構が存在することが理想である。〔…〕強すぎると、「世界経済」における資本蓄積の極大化以外のことを考えて、国境を越える流れを阻止でき』てしまう。弱すぎると、『その領土内において他の権力〔地方勢力など――ギトン註〕が〔…〕流れに干渉するのを阻止できない〔…〕。組み込みが完了した時点では、〔…〕国内的には強力な官僚制を持っていて〔…〕生産過程に影響を与えることができ、対外的には〔…〕外交および通貨にかんするインターステイト・システムのネットワークに連結されているような国家が〔…〕そこにあることを期待すべき』こととなる。
『貿易は、どこででも既存の国家機構によって奨励されるものだとは言い切れない。』「世界=経済」の外の国家の『軍事優先主義は、貿易商の平和主義とは相容れなかったのである。〔…〕国家は、その行政手段――輸送手段,通貨,公共の秩序――が商業の手段となる場合に、貿易の促進に積極的な役割をはたすようになる。この傾向によって、商人が国家の臣民として統合され、商人の「外国人」という立場が解消されることになる。〔Claude Meillassoux, "Introduction", in The Development of Indigenous Trade and Markets in West Africa. 1971.〕
ある地域が「世界経済」に組み込まれると、その国境越え貿易は、「世界経済〔…〕内部」の活動〔…〕にな〔…〕った。貿易は、非常に危険なものから、インターステイト・システムによって奨励され保護されるべきものになった。〔…〕
ここで分析してきた4つの地域〔インド,オスマン帝国,ロシア,西アフリカ――ギトン註〕は、』「組み込み」『に先行する状況が〔…〕まったく違っていた。〔…〕にもかかわらず、〔…〕組み込み〔…〕が完了した時点では、その違いは〔…〕小さくなっていた。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.190-191. .
オスマン帝国のウィーン攻囲戦(1683年)Frans Geffels "Entsatzschlacht von
Wien 1683", 1683-94, Wien Museum Karlsplatz. ©Wikimedia.
ウィーン攻城戦での敗退は、オスマン帝国の膨張から凋落への転換点となった。
【77】 オスマン帝国の国家機構
『オスマン帝国は、1683年にウィーン包囲が失敗に終って以来、全国境でつねに圧力に曝されていた。続いて起った・主としてオーストリアとロシアを相手とする戦争では、18世紀(さらには19世紀〔…〕)をつうじて徐々に〔…〕領土を喪失』、19世紀末には『ほぼ今日の〔…〕トルコ共和国〔…〕であるアナトリアに限定されることになった。〔…〕
版図の縮小は、〔…〕拡大の時期にこの帝国が創出した諸制度をもってしては・帝国を政治的にコントロールできなくなって過程でもあった。とりわけ、国家当局は生産〔…〕流通手段、暴力と行政などの管理能力を著しく低下させた。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,p.191. .
「帝国版図の拡大〔…〕停止〔…〕は、帝国構造の礎石」であった「ティマール(知行)制度に〔…〕大きな打撃となった。」この制度は、「中央政府の徴税官の役割を」する「中間官吏〔…〕シパーヒー〔※〕」に・新たに獲得した土地をばらまくことで成り立っていたからだ。中央政府がシパーヒーに新たな領地を与えられないということは、徴税が難しくなることを意味した。
註※「シパーヒー(sipāhi)」 オスマン帝国のトルコ系在郷騎士。スルタンからティマール(封土)を与えられ,その見返りとして戦時には禄高に応じて軍備を整え出征した。16世紀末以後戦力の中心はイェニチェリ(常備軍)に移り,シパーヒーは重要性を失った。(コトバンク)
「その原因の一部としては、〔…〕オスマン帝国が[ヨーロッパ世界経済]の「外延部」となったことからくる影響〔…〕[世界経済]から流出する銀の受け入れ先となったため生じた物価上昇」があった〔中央政府も、シパーヒーら地方有力者も、奢侈がかさんで財政が苦しくなった?〕。「いまひとつには、〔…〕ヨーロッパ世界経済」が成立したため、レヴァント交易など・これまでオスマン帝国の財政を支えていた貿易ルートが衰退した「事実があった。」
これらの「困難に対処するためにオスマン帝国当局は、徴税請負制度〔シパーヒーより独立的な封建領主的な徴税請負人「アヤーン」など?〕に眼を向けるようになった」。ところが、「その結果、皇帝領の半私有地化を引き起こ」した〔皇帝領の代官が私領主化?〕。
「これと平行して、〔…〕商業活動を緻密に管理してきた帝国の管理能力も、同様に低下し〔…〕た。政府は、〔…〕帝国の中枢部への供給を優先させ」るべく「すべての商取引を管理しようとしたが、〔…〕困難になった」。そこで「新しい制度に移行した」が、その「結果、ヨーロッパの通貨が帝国内で〔…〕流通するようになり、官吏への〔ヨーロッパ商人からの?〕資金貸付けも広範に広がった。」(pp.191-192.)
イエニチェリの軍楽隊メフテラン Mehterân の演奏に合わ
せて行進するイエニチェリ。Ottoman miniature painting
from "Surname-i Vehbi" (1720), Topkapı Palace Museum.
©Wikimedia.
『軍事面でも、オスマン帝国は、17世紀の初めからヨーロッパ勢力に後れをとるようになった。』そこで『中央政府は、地方行政官に傭兵隊――セクバン軍――の創設を認め、みずからも傭兵隊――イェニチェリ――を発展させた。財政事情が〔…〕悪化するなかで傭兵隊を拡大することは、長期的に見れば、管理のしにくい、手に負えない従者群の増加を意味することになった。
〔…〕オスマン帝国では、徴税請負による収入とセクバン軍の軍事力によって、地方官吏と地方の有力者――アヤーン〔※〕――の権力が増大した。〔…〕「キュチュク・カイナルジャ講和条約〔★〕」〔…〕までには「多くの地方でアヤーンが実質的な支配者」として「権力を争う」立場に立った。』
註※「アヤーン」(a`yān): 18世紀以降のオスマン帝国において、中央政府に対し半ば独立した勢力を維持した地方有力者。重層的な徴税請負制のもとで、地方の実質的な徴税権を獲得していくが、彼らは名目上の徴収額と実際の徴収額の差額を集積して財をなし、政府の地方官職を購入し、土地を集積し、経済活動に投資して財を蓄え、18世紀末には在地勢力として顕在化するに至った(Wiki)。つまり、半ば独立した権力をもつ秩禄保持者。
註★「キュチュク・カイナルジャ条約」: 露土戦争〔1768-74〕の講和条約。オスマン帝国は黒海北岸の領土を失った。
【78】 オスマン帝国――地方権力の増大
「地方権力の抬頭は〔…〕オスマン帝国各地で見られた〔…〕が、もっとも劇的」なのは、エジプトにおけるムハンマド・アリの支配権掌握だった。アリの支配権掌握は、ナポレオンのエジプト占領とその没落の結果であり、英仏間の「世界戦争」のおかげで可能になったものである。しかし、アリは、オスマン帝国に対抗する新たな帝国の創建には至らなかった。というのは、彼の権力は、「[世界経済]への組み込みの過程にあって」オスマン帝国の内政に干渉する英仏およびオスマン政府との力のバランスの上にあったからだ。アリがナポレオンの権力を継承してまもなく、「彼が〔…〕新たな帝国を確立することのないよう、その勢力を 40年以上にわたって」抑制したのは、ほかならぬ「イギリスであった。」
第2次エジプト・オスマン戦争(1839-41)、トルトザの戦い。Captain J. W. Anderson
"Tortosa, 23. Sept. 1840, attack by boats of H.M.S.Benbow, Carysfort and Zebra",
1861. ©Wikimedia. ムハンマド・アリのエジプト軍がオスマン・トルコ軍を圧倒
するのを見て、英・仏・露はオスマン帝国の解体を防ぐために介入し、エジプトを
攻撃した。1841年「ベルリン条約」において、アリのエジプト・スーダンにおける
世襲支配権は認められたが、オスマン帝国の名目的宗属関係の下に留めおかれた。
バルカンでも地方権力が抬頭した。「18世紀末までに、バルカン諸州に対するオスマン帝国の支配は[純粋に名目的なもの]になっていた。」オスマン帝国の辺境であるセルビアやヨアニナ〔ギリシャ北西部〕で半独立の「パシャ」が割拠した。「彼らの権力基盤は〔…〕大地主階級にあったが、〔…〕地方商人の階級からも十分な支援を受けていた。」というのは、商人たちは、もはや当てにならないオスマン帝国に代わって・商業活動の障害になる無政府状態の出現「を阻止できる・強力な統治機構」を望んでいたからだ。
「マフムトⅡ世〔在位:1808-39〕の改革は、」このような中央権力の凋落傾向を食い止めようとしたものである。彼は、「ティマール制」「アヤーン」「イエニチェリ」をすべて廃止した。そして、「中央集権化された官僚制と、庶民から」徴募された「国家の軍隊とによって支えられた絶対王政を築いた」。「ムハンマド常勝軍」と名づけられた・この新式陸軍は、ヨーロッパの兵制に倣った一元的な指揮系統を持つ・初めての軍隊だった。在地騎兵「シパーヒー」は、この新式陸軍に編入された。1834年には、国民から人材を集めて軍人を養成するために、陸軍士官学校を設立した。
マフムトⅡ世は、「インターステイト・システムとつながった近代国家」を創り上げる・その基を築いたと言える。しかしそれは、かつての《帝国》よりもずっと小さな領域〔アナトリア=現トルコ〕においてこそ可能なのだった。
マフムトⅡ世の「改革と再集権化の試み」が直ちに惹き起した結果は、ギリシャの反乱〔1821-30:ギリシャ独立戦争〕だった。この運動には、西洋人が付与する自由主義ないしナショナリズムの大義とは別に、「オスマン帝国の再集権化への抵抗」という意味があった。同じことは、ルーマニアでの抵抗運動についても言えた。
「オスマン帝国が[ヨーロッパ国家系に加わった最初の非キリスト教国となり、その外交方式を無条件に受け入れた最初の国となった]のは、[中央権力の衰退を食い止め・外部からの軍事的圧力を回避しようとする]」マフムトⅡ世らの「改革」の「文脈においてのことであった。」(pp.192-193.)
コーヒー・ハウスで語る講談師(Meddah)。
オスマン帝国時代、19世紀以前。 ©Wikimedia.
【79】 オスマン国家の外交――「不平等条約」への転落
18世紀末までのオスマン帝国は、ヨーロッパ「インター・ステイト・システム」の外交ルールを受け入れることはまったく考えていなかったと言えます。オスマンの支配者たちは、「ヨーロッパ諸国を軽蔑」していたし、場当たり的な「2国間外交に執着」してもいた。その間にも、帝国領土縮小の第1歩となった 1699年「カルロヴィッツ条約」〔1683年「第2次ウィーン包囲戦」に始まる一連の東欧戦争の和約〕は、ヨーロッパ諸国に対する「交渉における黙従の姿勢」・「ルール承認」の先例となり「オスマン帝国の新しい外交観の出発点となった。」
1740年以後は、これに、オスマン帝国の伝統的恩恵制度であった「カピチュレイション」の変質が加わった。16世紀以来の「カピチュレイション」は、オスマン皇帝が非ムスリムの臣民に恩恵的な特権を与える制度だったが、1740年以後段階を踏んで、ヨーロッパ諸国との間の「不平等条約」に変質した。
1740年に、マフムト1世は、ロシアとの和平交渉でオスマン側を支援したフランスに、報酬として、新ヴァージョンの「カピチュレイション」を与えた。従来の恩恵的カピチュレイションは、皇帝にはそれを守る義務がなく、無視も変更も事実上自由だったし、皇帝の代が変われば無効になった。新ヴァージョンは、①オスマン帝国側の履行義務を定め、②有効期間を設定した。つまり、ヨーロッパ的な契約(条約)法理を受け入れた。また、③フランスとオスマン皇帝を形式上「対等」とした結果、関税などはフランスの同意がなければ決められなくなった。つまり、関税自主権を剥奪した(不平等条約)。しかし、最も重要な点は、④「特権」保護の対象を、「非ムスリムのオスマン帝国臣民にまで拡大した」ことだった〔従来は、フランス領事と・来訪フランス人の特権だった〕。これにより、オスマン帝国内の「ギリシャ人,アルメニア人,ユダヤ人,レヴァント人など」ギリシャ/アルメニア正教徒・ユダヤ教徒がヨーロッパ人商人と同等の特権を主張できるようになり、従来はムスリム商人が中心だった金融・産業・外国貿易において、これら「外国の領事に結びついた非ムスリム」商人が「圧倒的とな」った。こうして、オスマン帝国の「商人階級全体の社会的構成に深刻な変化をもたらした。」
その後、ヨーロッパ人居留者に「領事裁判権」を認める治外法権が「カピチュレイション」の項目に加わった。ただ、18世紀末までのオスマン帝国の体制は、こうした外交ルールを受け入れて「近代世界システム」に組み敷かれるために「十分ではなかった。というのは、オスマン帝国の外交には、恒久的で専門化した官僚制度という・組織的な基礎が欠けていたからである。これが成立するのは、マフムトⅡ世の治世〔1808-39年〕のことであった。」
1828-29年の露土戦争。January Suchodolski: "The storm of the fortress of
Kars on J]Russian forces reach and cause the Siege of Kars, 1828", (1839),
Arkhangelsk Regional Fine Arts Museum. ©Wikimedia.
ロシアが「ギリシャ独立戦争」でギリシャ側に参戦したことに激怒した
オスマン皇帝が・黒海の出口ダーダネルス海峡を封鎖したことから勃発。
アドリアノープル講和条約で、オスマン・トルコは、黒海・東海岸の大部分
とドナウ河口をロシア帝国に割譲、ジョージア,アルメニアのロシア
領有権,ギリシャ,セルビアの自治権を認めた。
18世紀末~19世紀初めに、英仏間のヘゲモニー争奪でイギリスが勝利したことから、オスマン帝国の主要な外交相手もフランスからイギリスに移った。「イギリスはフランスに代わって、オスマン帝国の統合の保護者の地位に就いた。」イギリスにとって、「オスマン帝国の統合」が重要だったのは、オーストリアとロシアの進出を牽制するためであり、英国自身の「3C政策」の一環である「インドへの道を確保する」ためであった。
1838年の「イギリス・トルコ通商協定」は、「すべての既存のカピチュレイションに基く特権を[永久に]確認し、オスマン帝国の課す」貿易関税を 3%〔輸出関税13%以下〕以下に制限した。帝国内の「すべての独占は廃止される」と規定され、イギリスは「最恵国待遇」を獲得した。また、イギリス人の輸入業者は、帝国に「2%の税金を支払う」代わりに・すべての国内関税を免れた。(pp.193-195.)
『この条約は、オスマン帝国による「自由貿易政策の事実上の採用」を意味した。この条約がもたらした悪影響は、はなはだしいものであった。産業構造に悪影響――製造工業の衰退――が及んだばかりか、〔…〕国庫収入を激減させ』た。
「イギリス・トルコ通商協定」締結の翌年に即位した『アブデュルメジドⅠ世は〔…〕その治世』開始とともに『行財政改革』に着手し、これにより『「西方へのドアは大きく開かれた」〔…〕
1846年〔…〕パーマストン卿〔※〕は、「われわれがこれほど低率かつ寛容な関税のもとで通商のできる国は、トルコをおいてほかにありません」と議会に報告』できるまでになった。
こうして、『1854年にはオスマン帝国は債務国に転落した。さらに 1878年にはついに国家財政の崩壊を引き起こし、負債に伴なう〔ギトン註――イギリスの?〕後見を受けることになってしまった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,p.195. .
註※「パーマストン」: ヘンリー・ジョン・テンプル・パーマストン子爵は、イギリスの貴族で「自由党」の政治家。1830-41,46-51に外相、1855-65に首相を勤めた。
このようにして、1870年代までに、オスマン帝国の「資本主義的世界経済」への「組み込みは完全に完了した。」そこで、オスマン側に親和的なイギリス人、たとえば英国駐在オスマン政府領事は、「トルコは[いまや国際社会の一員となったのだし]その行財政制度は[改革もされた]のだから、〔…〕カピチュレイションのいくつかはそろそろ改正してもよいはずである」との主張をするようになった。つまり、もう「不平等条約改正」に応じてやろうじゃないか。十分に・いじめてやって、相手はおとなしくなったのだから‥というわけだ。(pp.195-196.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!