プラッシーの戦い(1757年)。Francis Hayman: "Lord Clive meeting with
Mir Jafar after the Battle of Plassey, 1757"(1760年)National Portrait
Gallery, London. ©Wikimedia. 英仏間「七年戦争」がインドに及ぶなかで、
ムガール帝国のベンガル太守がカルカッタの英要塞を占領し、イギリス東インド
会社書記クライヴ男爵の軍と、フランス東インド会社の支援を受けたベンガル
太守軍の間で戦闘となった。この絵は、クライヴとベンガル軍総司令ミール・
ジャアファルとの和平を示す。戦後、イギリスはベンガルからフランス勢力
を駆逐して植民地支配を固めた。
【70】 「組み込み」の開始――貿易/経済のメルクマール
『1750年代のどこかで万事が急速に動き始め、「インド亜大陸やオスマン帝国,ロシア,西アフリカは、「資本主義的世界経済」を構成するワンセットの生産過程の連鎖――〔…〕分業体制――に組み込まれていったのである。この組み込みの過程は、1850年までには完了した。』組み込まれた4地域の『生産過程』には、この間『3つの大きな変化があった〔…〕。[1]「輸出品」と「輸入品」の新しいパターンが成立し、[2]従来より大規模な経済的「企業体」(または経済的意志決定体)が創出され、[3]労働管理に強制的性格が目立って強まった〔…〕
[1]「輸出品」と「輸入品」の新たな構成は、「資本主義的世界経済」の基軸的分業機構をなす中核-周辺の両極化を浮き彫りにする』。「両極化」とは、『本質的に、中核の工業製品と周辺の原材料の交換〔に、輸出入品の構成が変化すること――ギトン註〕を意味した。〔…〕4つの地域では、原材料の生産に集中するために・生産過程を2つの方向に変えていくことが必要になった。〔…〕ひとつには、[1a]「資本主義的世界経済」の市場での販売・を目的とする・換金作物栽培の創出、ないし〔…〕拡大が必要である。いまひとつには、[1b]これらの地域の既存の製造工業の削減、ないし一掃が必要になる。〔…〕[1c]「輸出」用の特定作物の栽培に特化する土地がふえればふえるほど、残りの耕地ユニットは、前者の耕地ユニットで働く労働者のための食糧用作物の栽培に特化していかざるをえないということである。
さらに、経済の論理からして・おそらくは、[3a]土地所有者の権威のもとに労働力が階梯状に組織化されていく』。そうなると、[3b]輸出用作物,労働者食糧用作物,それぞれの『耕地ユニット〔…〕で働く労働者そのものの輸出に、〔ギトン註――別の隣接区域が〕特化しはじめる。ひとつの地域内に、[1a]「輸出用」換金作物、[1c]「域内市場」目当ての食糧用作物、および[3b]「生産物」としての移民労働者〔年季奉公人/「出稼ぎ」季節労務者など――ギトン註〕という・3層の商品生産の垂直特化が出現』する。それは、この地域全体が、『「資本主義的世界経済」の分業体制に組み込まれたことを、まがうかたなく証明している。
1750年以後は、当時の「資本主義的世界経済」』の『2大中心〔…〕英仏両国は、ともにこの4つの地域との貿易を大いに発展させた。〔…〕これら4つの地域から西ヨーロッパへの輸出は、〔…〕輸入よりはるかに速いペースで成長した。にもかかわらず国際収支は、〔ギトン註――西ヨーロッパの入超は続いていたのに〕もはや西ヨーロッパからの地金輸出で決済されることはなくなった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.163-164. .
西ヨーロッパ諸国が入超を「地金の流出」で決済せずにすむようになったのは、「組み込まれ」側の4つの地域の貿易体制が、現地の王朝や土侯を介した「奢侈品の等価交換」から、現地の経済社会と決済機構を編成替えしつつ営まれる「中核-周辺」の「不等価交換」へと移行し始めたため――と見ることができます。別の見方をすれば、イギリスなどの西欧諸国による政治・経済的支配が現地に浸透したためだったと言えます。
Map of India in 1795 from "Joppen 1907" ©Wikimedia.
【71】 「組み込み」の開始――
貿易品目のパターン化と、換金作物栽培の広がり
インドでは、問題となる「組み込み」の直前:1650-1750年の時期には、「古くから栄えたインド洋貿易の拠点:マスリパタム,スーラト,フグリは〔…〕重要でなくなり、ヨーロッパ貿易にリンクした新しい拠点:カルカッタやボンベイ,マドラスに〔…〕地位を譲りはじめていた。」
1750年以後は、英仏「七年戦争」と「プラッシーの戦い〔1757年〕」がひとつの画期となる。この事件は「貿易のパターンに直接影響を与えた。」これ以後は、イギリス「東インド会社が、何の制約も受けることなく、政治的支配権と経済的支配権を」手中にした。
もう一つの画期は 1793年の「永代地租査定法」で、これにより、「土地が市場で売買される〔…〕ことを妨げていた障害」が取り除かれた。
「ともあれ、1757-1793年の期間」がそれ以前の期間と大きく違うのは、「もはやイギリスからの地金輸出は停止していたことである。」地金を現送せずに貿易不均衡(イギリスの入超)を決済する方法は2つあった。ひとつは、「ベンガル総督管区で新たに獲得した国家収入を使」って「イギリスへの輸出品を購入する」方法。イギリス(東インド会社)が現地の支配を確立し、租税改革も行なって税収を確保したことから可能になった。
もうひとつは、為替手形による方法です。東インド会社は、「インド3総督管区」を支払人とする手形を発行し、これをロンドンで売って資金を入手し、これをインドで現地商人・手工業者に「前貸し金」として貸し付けました。インドでの高利子率と、ロンドンの低利子率の差益は莫大なものになりましたから、これに独占的海運の手数料を上乗せすると、イギリスの入超分は十分にカヴァーすることができたのです。同時に、インド現地に対して、「前貸し金」による問屋制的な支配を及ぼしてゆくことができました。
しかし、「[世界=経済]への組み込みについて本格的に語ることができるのは、〔…〕カルカッタを経由して[世界=経済]につながるガンジス川沿いの貿易が[劇的に拡大]し」た事実に眼を向ける時です。これはまさに、1757年「プラッシーの戦い」以後に生じた変化です。さらに 1800年以後は、「南インドで同様の発展があった」。「18世紀の終りまでに、サトウキビ,アヘン,インディゴなどの換金作物は価格が上昇し」西ヨーロッパからの「需要が増えていた。」
こうして、[1]「輸出品」と「輸入品」の新たな構成が現れた。「19世紀前半までには、4種類の原材料:インディゴ,生糸,アヘン,綿が〔インドからの〕輸出品のなかで有力となり、全体のおよそ 60%を占め」た。インディゴと生糸が西ヨーロッパへ運ばれたのにたいし、アヘン,綿は、この時期までは主に「中国へ向けられた。」もっとも、アヘン戦争〔1839-42年〕までは中国への仲介輸出は振るわず、それ以後は、綿はもっぱら棉花が西欧への輸出品となり、引きかえにインドはイギリスから機械織りの綿布を輸入するようになります。そして、中国へは、もっぱらアヘンが輸出されるようになるのです。このしくみによってイギリスが中国に求めたのは、茶と陶磁器です。こうして、イギリス-インド-中国を結ぶ「三角貿易」が成立します。
カルカッタ(コルコタ)のウィリアム要塞。Jan Van Ryne: "A Perspective
View of Fort William", 1754. ©Wikimedia. ベンガル・フグリ河畔の
ウィリアム要塞は、イギリス東インド会社が1696年に建設を始めた。1756年
にはベンガル太守軍に占領されたが、クライヴの東インド会社軍が奪回した。
[1a]インディゴは、熱帯の作物アイ〔インドアイ。マメ科コマツナギ属〕から採れる藍色の染料で、当初、ヨーロッパ向けには北アメリカが主な産地でした。ところが、アメリカ独立戦争とハイチ革命で輸入が途絶したため、イギリス人は 18世紀末にインドでの生産を始めました。「すでにムガール朝下のインドで重要な商品となっていたインディゴの生産は、イギリス人の支配下で、絶対量にして3倍ないし4倍に成長した。」
「綿〔棉花および綿布〕もまたインドの、主としてはグジャラート〔スーラト付近:↑地図〕の伝統的産物であった。〔…〕1775年頃から、インドから中国への綿輸出がイギリス人によって始められた。」
インドでの絹の生産も、「ナポレオンの大陸封鎖によってイギリスがイタリアからの供給を断たれた」機会に増加した。
「アヘン生産の拡大だけは、」需要の増加によるものではなく「東インド会社の対中国貿易の必要から生じた」。
同様の変化は、同じ時期にオスマン帝国〔現在のトルコつまりアナトリアのほか、バルカン半島,シリア~エジプトを支配〕でも生じています。「1750年頃に貿易量が突然ふえた。」18世紀オスマン帝国の貿易で圧倒的比重を占めた「対仏貿易は、世紀後半に4倍になった。この時期を通じて、[1]輸出では[製品ないし半製品から原材料へ]の着実な移行」が見られた。
オスマン帝国は、もとは特産品モヘア〔アンゴラヤギの毛の繊維〕の織物「キャメロット」が重要輸出品でしたが、これに代わってモヘアの撚糸が輸出されるようになり、同様に、絹織物に代わって生糸、綿糸に代わって原棉(棉花)の輸出に移行しました。
[1a]バルカン半島では、「換金作物の生産拡大がとくに目立っており、とりわけ 1780年以後の穀物生産の拡大は、目を見張るほどだった」。アナトリア西部を中心とする棉花の生産も、「いまやバルカン半島でも〔…〕重要な生産物となっていた。」バルカン・アナトリア・レヴァントは、「18世紀末には、フランスの綿工業のタヒ命を制するほどの原料供給源」となった。
「19世紀になると」オスマン帝国の「直接の貿易相手としては、オーストリア人とイギリス人がフランス人に取って代わった。」アナトリアとエジプトの棉花は、北米産との競争の結果、しだいに後退したが、オスマン帝国全体としては、「同じ時期に〔…〕バルカン半島からイギリス,オーストリアへの小麦輸出」が着実に増加し、棉花輸出の減退を補って余りあった。バルカンの小麦の競争相手は、南部ロシアだった。しかし、19世紀半ばには「イギリスは、政治的理由から〔…〕ロシアの小麦から手を引き〔…〕バルカン半島の小麦に頼る方向にむかった。」(pp.164-167,210(31)(35),211(59).)
アイ(Persicaria tinctoria)は、タデ科イヌタデ属の1年草で、8-10月
に、花びらのない米粒のようなピンク色の花をたくさん付ける。
©ぴよさん@GreenSnap. 中国,日本では、この植物の
乾燥葉から染料インディゴを採ってきた。
【72】 「組み込み」――
食糧用作物生産と労働力供給、既存の手工業の衰退
「外延」地域に「資本主義的世界経済」からの圧力が強まるにつれ、当該地域では、[1a]輸出用「換金作物」栽培に特化した区域が形成されるとともに、その近傍には、[1c]「換金作物」栽培区域に食糧を供給する「食糧用作物」栽培区域と、[3b]季節的/年季的/移住労働力を供給する労働力送り出し区域が形成される。こうして、「外延部」は、「世界=経済」の「周辺部」として「取り込まれ」てゆく。
「組み込まれ」地域の「換金作物生産と市場向け食糧生産の相関関係は、従来ほとんど無視されてきた。」しかし、最近の研究によれば「ムガール朝下のインドと・英領インドの・農業生産〔…〕条件の決定的な違いは、」英領インドでは「特定の作物の作付けが地理的にかなり集中した〔…〕点にあった。」輸出用作物に特化した地域とならんで、商業的穀物生産に特化した地域や、これといった特産品の無い労働力送り出し地域が形成されたのだ。「19世紀前半のマドラスでは、棉花,インディゴ,胡椒,タバコなどの換金作物地帯の形成と並行して、地域市場目当ての穀物生産に特化していく地域も現れ、さらにその他の地域は、年季契約労働者を送り出すようになっていった。行き先は、当初は南インドのみであったが、やがて、セイロン,ビルマ,マラヤ,モーリシアスに向かうようになり、ついには西インド諸島にも送られた。
商業作物地域への塗り分けが、「組み込み」によって起きた「輸出入パターン再編」の一つの結果だったとすれば、もう一つの結果は、[1b]「製造工業部門の衰退」であった。これは、組み込まれた地域全体で無差別に起きた。
「1800年以前には、世界的」視野で見て「インド亜大陸が繊維〔手工業品〕生産の一大中心地であったことは明白である。〔…〕インドこそが、世界最大の綿織物生産地であった。」
[1b]「衰退は急激であった。」ナポレオン戦争中の「ベルリン勅令〔=大陸封鎖令。1806年、ナポレオンが英国との貿易を禁止した〕とイギリスの競争は、〔…〕スーラトの綿織物のロンドン向け輸出の終焉を意味した。他方、ベンガルの綿織物は、1820年頃に東インド会社の輸出リストから〔…〕姿を消し」まもなく「民間商人のリスト」にも載らなくなった。「中国向け綿織物輸出」も同時に衰退した。
インドからの綿織物輸出は、〔すでに減少していた〕1828年から 1840年までに、価額で 50%縮小した。
綿織物生産が衰退したのは、輸出用に生産していた地域だけではなかった。「ヨーロッパには一度も輸出したことのないビハールにおいても」生産が激減した。インド全体で、綿織物工業が打撃を受けたのだ。
熱帯のインドアイ(Indigofera tinctoria)はマメ科コマツナギ属。生育条件により
1年~多年生になる。中国・日本のアイと花の色は似ているが、まったく別種の
植物。インディゴの製造法はアイより複雑で、発酵などを要する。
歴史的に、インディゴの原料植物としてもっとも広く用いられてきた。
こうしたインド綿織物工業衰退の原因として、新しい機械技術によるイギリス綿織物工業との競争に負けたためだとする見解もある。しかし、この急激な変化が、純粋な経済的過程でなかったことは明らかである。英国と東インド会社が、権力的政治的手段をとった事実は歴然としている。「イギリスは市場での優位を確保するために、〔…〕政治的な手段に頼」ったし、またそうしなければ、インド産綿布より優位に立つことはできなかった。〔たとえば、イギリスの機械織り綿布は、アジアの在来・手織り綿布と比べ、強度・耐久性に問題があった。――ギトン註〕
1830年、英国下院での証言:「われわれは、禁止的な高関税によってインド産製品をイギリスから追放し、わが国の製品がインドに入るように、あらゆる努力をしてまいりました。われわれは、〔…〕ダッカその他の地域の土着の製造業を打倒し、かの国にイギリス製品を充満させてきたのであります。」
1840年、東インド・中国協会会長の証言:「この会社〔イギリス東インド会社〕は、〔…〕いろいろなしかたで、インドを製造業の国から原料輸出国に変えてしまうことに成功したのであります。」
インドの手工業がイギリスの工業との競争に負けたのではなく、「イギリスがインドを意識的に非工業化したのである。」
このことは、当時イギリスが、インドに向けたのと同じ工業製品で、なぜ中国を屈服させることができなかったのか・をも説明する。上記の 1830年の下院証言によれば、「われわれは、中華帝国に対しては、インド帝国に対するほどには、権力を持っていないからである。」
オスマン帝国においても、[1b]工業の衰退は同様に進行しました。インドのようにイギリスの植民地になることはなかったのに、進行した過程は同様であり、しかもインドより若干早く進んだ。
「18世紀前半には、オスマン帝国はなお絹織物や綿糸をヨーロッパに輸出していた」が、「1761年にフランスがオスマン帝国からの綿糸」に課した高関税と、「イギリスの機械紡績」の参入によって、オスマン綿糸の「西ヨーロッパ市場が失われた。」
1793-94年の「セリムⅢ世の政策をはじめ。一連の政治・経済的対策がトルコ政府によって執られたにもかかわらず」1860年前後には、トルコの製造業衰退は目に見えて明らかとなった。1856年にあるイギリス人は、「今やこの国は、原料を輸出し〔…〕製品を輸入している」と書いた。1862年には別のイギリス人が、「[トルコはもはや工業国ではない]と評した。」
オスマン帝国治下のエジプトでは、ムハンマド・アリが、工業化を強行的に進めようとしたが、「1841年のイギリス・トルコ商業協定」の規定に邪魔されて頓挫した。その結果、「ナイル河畔の彼の工場を朽ちるにまかせることとなった」。
同様にシリアでも、「製造工業の潰滅的衰退は 1820年代に始まり、1840年代には〔…〕完了した。」(pp.172-174.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!