レ・ミゼラブル』(2012年 英米映画 原作:ヴィクトル・ユーゴー)。

クライマックスとなる「6月暴動(1832)」の場面。王政に妥協した1830年

七月革命」に不満な共和派・パリ民衆は、ラマルク将軍の葬儀を機に蜂起し

サン=マルタン街にバリケードを築いて政府軍と戦った。ジャン・バルジャン

は、バリケード内に潜入して・暴動側に参加した青年マリユスを救出するが

そこに捕われていた宿敵ジャヴェール警部を、処刑と見せかけて放免する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



【54】 「フランス革命」――

サンキュロットと革命政権

 


『サンキュロット〔…〕が、職業で言うと何を表しているかという点では、〔…〕たいていの研究者は〔…〕見解が一致している。〔…〕小商店主,小商人,職人,ジャニーマン〔渡り職人:徒弟奉公を終えた熟練職人――ギトン註〕〔訳者註――日雇い〕労働者,浮浪者,および都市貧民を含んでいる。しかしその「核心」は職人にあった。〔…〕サンキュロットは、〔…〕職人というよりはジャニーマンであった。』

 

 逆に、彼らが闘争の相手として呼んでいた「貴族」とは、『たんに爵位貴族を指すだけではなく、

 

富裕な有閑階級,大地主,資本家,投機者,ジロンド派,労働者に十分な賃金を支払わない者,長髪に粉を振って〔訳者註――化粧をして〕いる者,共和国に忠誠を誓わなかった聖職者をしばしば訪ねている者,どんな身分であれ穏健な政治的見解の持ち主・などをすべて指していたのである。〔…〕サンキュロットにとっては、有用な労働とは、自らの手を使ってなされた労働のみであった。〔William H. Sewell Jr., Work and Revolution in France: The Language of Labor from the Old Regime to 1848, 1980.〕

 

 〔…〕サンキュロットは、アシニア紙幣の減価〔インフレ――ギトン註〕と穀物の投機に最も憤慨しており、この2つの問題が、政府と彼らの間に実質的な「対立」を惹き起した。

 

 〔ギトン註――国民議会は〕労働者の団結を禁止し〔ル・シャプリエ法――訳者註〕、彼らのデモやストライキを「犯罪的な策略」として非難した〔…〕

 

 立法議会以来、ロベスピエールは、職人や小土地保有農のあいだでいちばん人気のある革命家となっており、彼らの全幅の信頼を得ていた。彼は、サンキュロットの確固たる指導者となっており、マラーのタヒ後はなおさらであった。〔Albert Mathiez, La Révolution française, 1923-24.〕

 

 〔…〕悲惨さと怒りからなる漠然とした諸力による革命が存在した。こうした力に迎合するために、山岳派〔ジャコバン派――ギトン註〕の政治家たちは、徴兵,物価統制,テロなど、彼ら〔サンキュロット――ギトン註〕の要求をすべて受け入れた。その上で彼ら〔ジャコバン派――ギトン註〕は、自分たちにとって最も大切なもの、すなわち権力だけは確保したのである。〔François Furet & Denis Richer, La Révolution française, nouv. éd., 1973.〕

 

 

「50ソル」アッシニア紙幣 1793年発行。

1789年12月国民議会が、没収・国有化した教会財産を担保に導入した。対外戦争

の戦費調達等で過剰増刷され、インフレを引き起した。公安委員会政府(ジャコ

バン派独裁)は、統制経済を導入しアッシニアを強制流通させて収束をはかり

一定の成果があった。テルミドール・クーデタ後自由主義経済に戻した総裁

政府はアッシニアの増刷を重ね、ハイパー・インフレを引き起した(Wikipedia)

 

 

 〔…〕1792年から 1793年にかけての時期〔1792-94年の誤り? ルイ16世逮捕・処刑~ジャコバン派政権・恐怖政治まで――ギトン註〕は、〔…〕テロが「ブルジョワの革命の大義に[民衆]を動員するための〔…〕戦略的ジェスチャー」だった〔…〕。じっさい、ジロンド派によるものであれ、山岳派〔ジャコバン派――ギトン註〕の行なったものであれ、貴族の追放〔および逮捕・処刑――ギトン註〕は、本質的に民衆の不満を、真の対象であるべき「ブルジョワ的,個人主義的,資本主義的世界秩序」〔…〕から目をそらせる役割をはたしたわけで、それだけに、いずれも「日和見的,戦略的,デマゴギー的」であった。〔…〕

 

 〔ギトン註――フランス革命における〕ブルジョワと貴族のものものしい争いは、壮大な「ダイヴァージョン」にすぎなかった〔…〕。「ダイヴァージョン」とは、〔…〕この場合は、農民とサンキュロットの注意をそらすという意味〔…〕である。

 

 貴族とブルジョワジーの溝を広げることになっ〔…〕たのは、ようやく、〔…〕民衆勢力が登場した時のことであった。〔…〕こうなると、いまや問題は、いかにして窮地を脱するか』であった。『貴族同様に脅威にさらされたブルジョワジーは、強烈な奥の手を出し、〔…〕従来の価値観〔貴族とブルジョワが共有していた “キュロット” の価値観――ギトン註〕を批判するという喜劇を演じた。つまり、民衆の側に立って大声を出し、本来は彼ら自身を吹き飛ばすはずであった嵐を、「貴族」のほうに押しやったのである。〔Guy Chaussinand-Nogaret, "Aux origines de la Révolution: noblesse et bourgeoisie", Annales E.S.C., XXX, 2/3, 1975.〕

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.103-107,144[243],145[251],36,63-64[240]. .

 


 ↑いささか極端な見解に聞こえるかもしれませんが、必ずしもそうではないのです。1789年から 1795年までの「大革命」期の大部分も、その後の「総裁政府」→「統領政府」→「ナポレオン帝政」期においても、政策の基調は、ブルジョワジーに有利な市場経済と「資本主義」の政策で、選挙も、富裕者のみの制限選挙。1792-94年だけが特殊なのです。1792-94年のジロンド派~ジャコバン派(ロベスピエール)の革命政権は、共同体規制や入会権の復活,共有地分割の再禁止,穀物などの価格統制,証券取引の禁止,貴金属売買の禁止,巨額の財産税といった・自由放任の市場経済や所有権保護に反する政策を発令しています。これらはみな、中層以下の農民と都市民衆の要求に応じたものです。

 

 しかも、それ以上に目立つのは、何といっても「恐怖政治(テロ)」です。多数の貴族を、――92年前半までは「国民議会」や革命政府の一員であった進歩派貴族、ラヴォアジェのような・貴族の地位を買い取ったブルジョワまで含めて――まったくいいかげんな容疑で逮捕して処刑しています。これが、ロベスピエールら自身の反貴族的主張のゆえでなく、処刑を見て復讐心をみたそうとする民衆の歓心を買うためであることは明らかな状況がありました。

 

 

九月虐刹」。Leon Maxime Faivre: "Death of the Princess De Lamballe" 1908

 フランス革命博物館。©Wikimedia. 1792年9月、オーストリア・プロイセン軍の

パリ侵攻の危機が高まるなかで、ジャコバン派ダントン(当時、司法大臣)の煽動

演説に動かされた群衆がパリ数か所の監獄を襲い、数日間に 1400人近くの囚人

を引きずり出し、簡単な人民裁判ののち刹害した。革命政府への宣誓を拒んで

投獄されていた多くの聖職者のほか、マリー・アントワネットと運命を共に

するため帰国し、逮捕されていたランバル夫人も議性となった。

 

 

 たとえば、ジロンド派とジャコバン派の「国民公会」は 1793年3月に、「土地財産の強制的再分配を内容とする[農地法]を提案した者すべてをタヒ刑とする」決定をしています(p.146[265].)。つまり、彼ら自身の政治的見解は、地主所有権の絶対的擁護にあるのであって、貧民に財産を再分配するなど、とんでもない、というのが本音なのです。ロベスピエールらは、けっして貧民の利益をはかる考えを持っていませんでした〔ただし、「ジャコバンの[慈善]――貧困線以下にある人びとには社会的援助を受ける権利があるという考え方――」は、実施されなかったものの「政治的遺産となって残」った。p.112〕。社会主義者でないことはもちろん、日本に「農地改革」を命じた GHQ のような民主的平等主義さえ敵視する考え方なのです。(17) に掲出したロベスピエールの肖像が、貴族と同じ「キュロット」穿きの出で立ちであったことが想起されます。

 

 「大革命」期から「ナポレオン帝政」期まで、政府の基調は、ブルジョワジーと資本主義にフレンドリーな経済的「自由主義」政策でした。が、対外戦争の必要〔王政の全ヨーロッパ諸国を相手取った戦争〕から民衆(サンキュロット)と農民の力が増大した数年間だけは、ブルジョワジー(ロベスピエールら)は、彼らの歓心を買うために、反資本主義的政策を強行したのです。それが、「フランス革命」に独特の性格を与えています。

 

 


【55】 「フランス革命」――「イデオロギー革命」論

 


 フランス革命は〈ブルジョワ革命(市民革命)であり〉、〈「近代化」の画期だった〉という「古典学説」のテーゼに対して、主な反論は、① 資本主義も、ブルジョワジーも、すでに 16世紀から登場していた。貴族化したブルジョワジーは、「革命」などなくても資本主義的活動を行ないえたし、行なっていた。②「大革命」の急進化の頂点であったロベスピエール政権は、反資本主義的であった。革命の推進力であった「農民」と「サンキュロット」の反乱も、多くの場面で反資本主義の方向をめざしていた。

 

 ‥‥というものです。それでは、「フランス革命」とは、いったい何だったのか?

 

 ひとつの考え方は、資本主義の発展にフレンドリーな「ブルジョワ革命」こそが変化の基調であって、ロベスピエール、ジャコバン、サンキュロット、農民反乱のような「反資本主義」は、枝葉の「脱線」にすぎない、と見ることです。これは、「古典学説」に近い見解でしょう。

 

 しかし、たとえば、「封建的貢租の無償廃止」のような、〈近代化の王道〉と言ってよい改革が、農民の実力行使に押されるかたちで、1792-94年の「大脱線」の時期に・いやいやながら進展させられているのです。

 

 そうすると、じっさいに、国民議会のブルジョワジー議員たちや、のちの「総裁政府」「統領政府」が主に実施した「ブルジョワ化」政策は、それだけでは〈近代化の王道〉に真っすぐに向いてはいなかった。いささか古いほうに向いていた。じつは、ジャコバン,サンキュロット,農民反乱がめざした “もうひとつの方向” に押されて軌道修正することで初めて、全体として、資本主義に適した〈近代化〉の方向に向いたのだ。…… と言っても、完全に向き切るにはなお1世紀以上かかったが〔たとえば、農村の共同体規制の撤廃は第1次大戦後〕…… このようにも考えられてくるのです。

 

 「古典学説」のなかでも、ジョルジュ・ルフェーブル高橋幸一郎氏などは、折にふれて・そうした見解をも述べていました。

 

 

女たちのヴェルサイユ行進。『ヴェルサイユへ!ヴェルサイユへ!』1789年、

作者不明。Musée Carnavalet. ©Wikimedia. 1789年10月5日、食糧不足に

悩むパリ民衆の女たちが、国王をパリに連れて来れば商人も付いてくると考え

ヴェルサイユ宮殿からルイ16世を拉致してパリのチュイルリー宮に移した。

 

 

 しかし、ウォーラーステインは、むしろそうした政治・経済とは別の局面に注目して、これらの議論を総括しています。それは、「近代ジオカルチュアの成立」という・イデオロギーないし政治思潮における転換の局面です。

 

 

『封建制から資本主義への移行〔…〕、国家構造の変容は、2世紀も前から始まっていた〔…〕。フランス革命は、基本的な経済の転換点でも〔…〕政治構造の転換点でもなかった〔…〕。フランス革命とは、〔…〕上部構造としてのイデオロギーが、下部構造としての経済のあり方にようやく追いついた瞬間なのである。それは、移行の結果だったのである。〔…〕

 

 ブルジョワ革命〔ギトン註――としてのフランス革命〕は、全体としての「近代世界システム」に、必要なショックを与え、文化・イデオロギーの側面を、すくなくとも経済的・政治的現実に追いつかせ、対応させる役割を果した

 

 フランス革命は、〔…〕ブルジョワ的・資本主義的な時代の始まりを意味するのではなく、その完全な成熟を示すものだったのである。〔…〕

 

 資本主義世界における貴族の変身した姿である大ブルジョワジーは、利潤を重要視してこれを信じたが、自由主義のイデオロギーを〔ギトン註――たとえタテマエ上主張しても〕信じてはいなかった。〔ギトン註――自由主義の命題のうち〕能力主義,普遍的真理,および〔訳者註――カントの〕至上命令〔あなたの格率が・普遍的規範としても通用するように行為しなさい――ギトン註〕が、〔…〕もっとも重視された。』が、『それらは〔ギトン註――大ブルジョワにとっては〕手段であって、〔ギトン註――民衆の〕注意をそらすための信仰箇条であったから、資本蓄積の極大化と矛盾するようになると、本気で取り上げられはしなかった。

 

 にもかかわらず、このイデオロギーはまた、資本主義化の構造上の到達点、すなわち上流階級の最終的ブルジョワ化をも示している。そこにあっては、〔ギトン註――個人が主張できる〕すべての利点は・経済構造の中で現在その人が占めている位置から』発するのであって、『過去の』伝統,栄光,功績,家格『からではない。〔ギトン註――このように、〕補助となるイデオロギーを宣言しておくことは、それ自体、この過程利潤の追求と資本蓄積の過程――ギトン註〕を展開させていくための重要な』根拠になる。とはいえ、民衆からの疑惑・攻撃をふせぐ『保護のための遮蔽物を意味したものが、時がたつにつれて、束縛と化したのである。〔…〕

 

 〔ギトン註――民衆にとって、〕三部会の招集は吉報であった。それは、正義にしたがってよりよい生活が保障される・新しい社会の誕生を告げるものであった。革命暦第2年〔1793年9月~94年8月――ギトン註〕には、同じ神話がサンキュロットを鼓舞した。それは、フランスの伝統となって生き残った〔…〕

 

チュイルリー宮殿。手前から、カルーゼル凱旋門、テュイルリー宮殿、エトワール

凱旋門。1860年撮影。©Wikimedia. パリ市内にあった王宮。「パリ・コミュ

ーンの乱」で破壊され、修復可能であったが、王政・帝政の遺物として 1883年

に取り壊された。現在は「チュイルリー庭園」が残る。ルーヴル美術館の隣地。

 

 

 フランス革命は、「資本主義世界経済」内部での反システム革命のはしりとなった〔…〕。この意味でのフランス革命は、〔…〕おおかたは失敗であった。ともあれ、フランス革命を覆う「神話」は、ブルジョワの神話ではなく、反ブルジョワのそれなのである。〔…〕

 

 フランス革命は、公共の秩序が徹底的に崩壊する〔…〕状況を意味したため、「近代世界システム」史上初めて、本格的な反システム(つまり反資本主義)運動が勃興することになった。〔…〕むろんそれは失敗であったが、以後のすべての反システム運動にとって、その精神的基礎となってきた〔…〕。このことは、フランス革命がブルジョワ革命だったからそうなったのではなく、まさしくそうではなかったからこそ起こったことなのである。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.36-37,34,107-108. .

 



【56】 「世界システム」のなかのフランス革命、

そしてその後‥‥

 


 「フランス革命は、」近代世界システムにおけるヘゲモニーをイギリスと争っていたフランスが、イギリスの優勢を感じとり、巻き返す必要から、フランスの支配層の一部が引き起こしたものであった――というのが、「フランス革命」の開始(革命が起きた直接の原因)にかんする「世界システム分析」からの理解です。すなわち、フランスの「支配的な資本家階層〔ブルジョワジー〕の中の一集団による〔…〕早急にフランス国家の改革を強行」してイギリスに追いつこうという「かなり意識的な試みであった。」

 

 「そうした試みは、ナポレオン時代にも続けられ、〔フランス国家、とくにその財政・徴税制度を合理化するという〕改革の目的は達成されたのだが、イギリスのヘゲモニー確立を阻止することには成功しなかったのである。」それどころか、「フランス革命の過程は」、その混乱と抗争の結果として、イギリスとの差をむしろ拡大してしまった「らしいのである。」

 

 「フランスに対するイギリスの相対的優位が強まるのを阻止しようとした・革命政府とナポレオンの努力は、壮大な失敗に終った」。「1793年に比べると、1815年のイギリスが、フランスとの差をはるかに広げていた」のは「事実である。」

 

 「ナポレオンは、革命によってなされた法改革をすべて定着させ、法典の編纂まで行なった。」むろん、それによって「賃金労働者の生活や権利が、より保護され」るようになったわけではない。にもかかわらず、「民衆全体の経済状態は」、ナポレオン帝政時代に「かなり改善された。」ナポレオン「の時代は、[賃金の上昇]が目立った時代であった。この時代の物質的状況の改善は[見まがいようのない]ものであったから、」ナポレオン没落後のブルボン王政復古時代には、「農民も都市労働者も、こぞってナポレオン帝政期を[一種の黄金時代]として回顧している。」あまつさえ、ナポレオン没落直後の 1817年から「経済下降」が始まっていた。

 

 

ジャック=ルイ・ダヴィドナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』

1805-07年。ルーヴル美術館。©Wikimedia. ナポレオンは、教皇の手から帝冠を

奪い取って自分の頭に載せ、皇妃にも戴冠させた。この行動が、国内外多くの

ナポレオン・ファンを激怒させた。ベートーヴェンもその一人だったという。

 

 

 「疑いもなく、歴史的状況 コンジョンクチュール が」ナポレオン「に有利に作用したのである。」つまり、ナポレオン時代は、景気循環〔ジュグラー波か?〕の好況局面にあり、征服戦争の終結とともに、景気は下降に転じたのです。

 

 「1815年から 1840年にかけて、フランスはとくにその繊維産業を[近代化]することができ、その結果、イギリスにたいする[遅れを克服する]ことができた。」ただし、それらの工業は「農村に立地」していただけでなく「高級繊維品に特化」したものだった。北海と河川の「沿岸部から奥地への移動」が広範に起きた。このような発展のしかたになった「決定的な理由は、市場の規模」と需要の特性にあった。イギリスに「世界市場を奪われたフランスは、国内市場を基礎に再建」しなければならなかったからです。国内でもイギリス製品に負けないためには、国内消費者の趣向に合わせた地方色ある高級繊維品に特化せざるを得なかったのだと思われます。このような方向に「工業の再編と再配置」が行なわれていったことは、将来的には発展の桎梏にもなりえたと思われるのです。

 

 フランスの 1830年の「七月革命」は、「大革命」との関係で言うと、イギリスの「清教徒革命」にたいする「名誉革命」の関係に似ていました。というのは、「七月革命」は、「革命」というよりは、「支配階級のあいだ〔内部〕のイデオロギー的妥協」を意味したからである。つまり、王党派と共和派,保守的貴族と貴族的ブルジョワのあいだの深刻な「イデオロギー抗争」の・暫定的休戦であったのです。「七月革命」は、旧体制の絶対主義王政でも、共和制の革命政府でもなく、英国好きの王族ルイ・フィリップによる立憲君主制を誕生させました。この「七月王政」のもとで、それまでの「上流階層内での共食い的な抗争」は無くなり、「[通常の]政治的形態をとって展開される」抗争となったのです。

 

 しかし、それによって「ブルジョワ革命の言語」が最前衛から後退したことは、労働者たちの反システム運動の自立を促すことになりました。彼らは「ブルジョワ思想家の用いる概念〔啓蒙主義〕から解放」され、「革命の言語を、〔…〕彼ら自身の目的に合うように変形したのである。」こうして、社会主義・無政府主義などの運動と思想が興ってきたのです。(pp.107,112-113,117-118,153-154[361].)



『1830年にフランスで起きたこの革命は、ただちにイギリスに波及し〔チャーティスト運動――ギトン註〕、1832年の選挙法改正につながった。

 

 したがって、1832年の選挙法改正は、1688-89年の名誉革命の・いわばイデオロギー上の完結篇だったのである。この完結篇は、1830年がフランスに果たしたのと同じ役割を、イギリスに果たした〔…〕。それは、用語の上で労働者階級を解放した。いまやイギリスの労働者は、階級意識に基づく行動について、自らの言語で語ることができるようになった。


 〔…〕彼らは、よほど以前から・このような行動をとっていたのだが、〔それを表現する言葉を欠いていたのである。――訳者註〕

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,p.118. .

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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