Philipp Jakob Loutherbourg: "Coalbrookdale by Night" (1801) ©Wikimedia.
イングランド西部の小さな町 Coalbrookdale に、世界最初のコークス溶鉱炉
をそなえた製鉄所が建てられ、稼働した。
【42】 「革命」とは何か? ――「産業革命」とは何か?
イギリス「産業革命」と、「フランス革命」――この2つの現象が “歴史上の大転換” だったというのが、20世紀の圧倒的な通説でした。‥そうではない、“大転換” は「長い16世紀」に起きた;18-19世紀転換期のこの2つの事件は、「長い16世紀」に発足した「近代世界システム」において、構造変化――地理的拡大と・中心部における「ジオカルチュア」の発生――をもたらしたにすぎない、というのがウォーラーステインの考えであることは、前回に説明しました。
しかし、「産業革命」と「市民革命」を論ずるにあたっては、この2つの熟語が共有する「革命(revolution)」という語が何を意味するのかを、まず述べなければなりません。
ここでもウォーラーステインは、彼のいつものやり方をします。語源を詮索するのでも、大上段な――大冗談?――イデオロギー的主張をするのでもなく、人びとがこの語で述べている意味の最大公約数を求める、というやり方です。その結論は、「急激で暴力的な変化」〔コールマン〕;「劇的な・過去との断絶」〔ランデス〕;「劇的で根本的な数量的変化」〔ホブズボーム〕ということになります。そういう・量的客観的な概念なのです。「革命」のような政治的概念からは、まずそのイデオロギー的魔術的粉飾を剥ぎ取らねばなりません。
そして、これまでの通説的な考え方が、「産業革命」と「市民革命」という2つの事件に込めようとした歴史的意味は、「工業の勃興」と「ブルジョワすなわち中産階級の勃興」であり、これらによって「近代世界を説明する」ことにありました。〔「市民革命」すなわち「フランス革命」について、通説のこの見方が当たらないことは、のちほど詳しく述べます。〕
このことを、「産業革命」について・より細かく言うと、たとえばトインビーは 1884年に、産業革命の「真髄」は「競争原理が中世の規制主義に取って代わったことである」と書いていました。その 80年後にハートウェルは、「総生産と・一人当たり生産の成長率が著しく上昇したこと」にあると書きました。つまり、「産業革命」の「真髄」は、経済的「自由」と、「成長」ないし経済発展にある、というのが諸家の見解の公約数だと言えます。
「成長」ということを・18-19世紀の「産業革命」についてより具体的に見ると、「機械的な原理の〔…〕製造業への適用」すなわち「機械主義」ということになります。これは、「生産力の発展」を「前面に押し出す」考え方です。
サミュエル・クロンプトンのミュール紡績機(1779年発明)。Bolton
Museum, Manchester. 唯一現存する発明者自身の制作機。©Wikimedia.
「ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすく、水力紡績機の糸は丈夫だが太かっ
たため」(Wikipedia)双方の長所を入れて改良、18世紀紡績機の完成段階
『資本主義的「世界経済」が一貫して発展してきた陰には、国民経済の発展をはかることが・国民としての大昔からの義務だと見なす〔傾向や――訳者註〕、国民経済が発展〔の主体だとする――訳者註〕意識のたえまない高揚があったのだし、〔…〕「豊かさに至る道は産業革命にある」〔…〕ことは〔…〕「自明の理」であるとも見られていた。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.2-3. .
すなわち、「産業革命」とは、そのような同時代的イデオロギーによって推進された「運動」であったとも言えるのです。しかし、いくらイデオロギーが声高に叫ばれても、それが実現されうるような現実的な条件が社会に無ければ、むなしい掛け声に終ります。「産業革命」は、それを可能にする・どんな条件によって生じたのでしょうか? ……ここで、「産業革命」の「原因」が問題になります。
が、原因論に移る前に、なお2つのことを確認しておきましょう。
まず、「産業革命」のもう一つの「真髄」とされる経済的「自由」の内容です。ウォーラーステインの見るところでは、この意味での「自由」の増大とは、つまるところ人口の「プロレタリア化」にほかなりません。「プロレタリア化」とは、大ざっぱに言えば「工場」(「機械」が集中する場所)と賃金労働者(≒工場労働者)が増えることです。つまり、「産業革命」は、この面では「都市プロレタリアート」の増大であり、「農村の社会構造のトータルな変化」なのです。すなわち、マルクスの言う「〔封建的拘束からも土地所有権からも〕二重に自由な労働者の創出」です。
もう一つ、確定しておく必要があるのは、議論の対象である「イギリス産業革命」の空間的・時間的範囲です。通説的には、「近代的な工場は、[18世紀最後の3分の1の期間に、イングランドで生まれた]と言われてきた。」この時期と地域を中心として、1840年頃までの北西ヨーロッパが、「産業革命」の範囲です。
【43】 イギリス産業革命の原因論
イギリス「産業革命」の原因ないし前提,背景については、大ざっぱに言って2つの見解があります。①「需要の拡大」が原因である。②「人口の増大」が原因である。② はさらに、③「農業革命」による食糧増産が「産業革命」の背景にある、という第3の見解と結びつきます。①②③と矛盾するわけではありませんが、「産業革命」は、これらの社会的原因によって自然に起きたのではなく、④ 英国という国家の政策が大きな役割を演じていた、という見解――ウォーラーステインの見解――があります。
まず ①「需要の拡大」説について考えてみると、そもそも 18世紀後半に「需要の拡大」があったか無かったかについて、実証的見解が分かれています。あったとする論者のなかでも、㋐ 外国貿易、㋑ 国内市場 のどちらを重視するかで見解が分かれます。㋐は、英国の外部の「世界システム」の拡大に原因を求めることになるでしょう。たとえば、イギリスの工場で生産された大量の綿織物の輸出が、インドの伝統的繊維手工業を破壊し「インドの平原を職工の骨で真白くした」という指摘につながります。それに対して ㋑の見解は、「[大量生産された消費財にたいする巨大な国内市場]の存在」を強調します。したがって、①㋑ は、②説に近いと言えます。
1781年建造、世界最初の鉄製の橋。イングランド西部 Shropshire. ©Wikimedia.
世界最初のコークス高炉製鉄を行なった Coalbrookdale(↑トップ画)
から近い。現在も現役で使われている。
②説は、18世紀後半のイギリスにおける急激な人口増加じたいは、統計上明らかな事実です。もっとも、これに異を唱える学者もいます。そもそも人口というものは指数関数(ねずみ算)にしたがうのだから、片対数グラフで見なければならない、と言うのです。そうやって見ると、17世紀までの増加趨勢が、18世紀前半には鈍化し、後半で回復している。「産業革命」時代は、人口増加の趨勢が加速したわけではなく、たんに、自然な増加趨勢に戻ったにすぎない、ということになります。そして、人口増加率は急でないほうが経済成長には好都合である、なぜなら労働者の食糧が不足しない(食糧価格が騰貴しない)で済むからだ、と付け加えます。
この種のマルサス的な議論は興味深いのですが、入りこんでしまうと、なかなか面倒な袋小路から脱け出せなくなります。なので、視角を変えたほうがいいでしょう。人口変動には、㋐出生率の増減と ㋑死亡率の増減という2つの要因があります。「産業革命」の場合は、多くの論者は ㋑死亡率減少のほうを重視します。その原因として、ⓐ医療の改善,ⓑ環境の改善,ⓒバクテリアの弱化、が考えられますが、©は、あらゆる病原バクテリアが一斉に弱化することはありえないので否定されます。かつては ⓐ説が有力でしたが、医療史の実証研究が進んだ現在では否定されています。大衆的な医療が進んだのは、この時代ではなく、主に 20世紀に入ってからなのです。
そうすると、㋑死亡率重視の立場では、ⓑ衛生環境の改善による幼児死亡率の減少が、人口増大の主な原因だということになります。ここでウォーラーステインが指摘するのは、衛生環境改善が主に都市における改善だとすると、農村から都市への人口流入が、→死亡率減少→人口増加→消費財需要と労働力の増加 として、ここでも「産業革命」の重要な因子として浮かび上がってきます。「都市プロレタリアート」、すなわち「二重に自由な労働力」の増大です。「むろんこれは、雇用機会の増大と交通手段の改善との当然の結果であった。」
㋐出生率の増加を重視する見解のほうは、まだ実証的な問題が十分にクリアされていないようです。しかし、因果経路としては、婚姻率の上昇が出生率を増加させたとの見解が自然で、また有力です。婚姻率の上昇は、現在の日本での議論からも解るように、実質賃金上昇ないし食糧価格の低下(食糧の増産,流通手段の改善)の関数です。したがって、②㋐からは、③「農業革命」による食糧増産が「産業革命」の前提をととのえた、との見解が導かれることになります。(pp.3-7.)
③ については、まず技術問題から検討する必要があります。
プラウ(犂)牽引用の蒸気エンジン。蒸気機関は、1790年頃から、イングランド
農村の耕作・収穫・脱穀・運搬に用いられ始めた。 ©ruralhistoria.com.
【44】 イギリス産業革命の原因論――「農業革命」
イングランドの「農業革命」は、「産業革命」に並行して 18世紀後半から1820年代にかけて起きた穀作農業の集約化で、同時に、農業企業家による大農経営の普及(第2次囲い込み)を伴いました。これにより、地主―借地農(企業家)―農業労働者 という「三分割モデル」の生産関係が成立しました。
「農業革命」をもたらした集約農法(ノーフォーク農法と穀草式農法)は、17世紀にオランダ・ベルギー(フランドル)からケント州に伝えられていたのですが、イングランド全域に広がったのは「農業革命」によってです。
『イギリスでも』18世紀はもちろん『19世紀前半全体について、〔…〕農業はなお最大の〔…〕産業であった。〔…〕
18世紀と 19世紀にまたがる 100年間に〔…〕「ヨーロッパ世界経済」では、耕作労働による生産の総量が増えたことはまちがいない。』しかも『耕作から〔…〕工業への労働力の移動があった』ということは、『投入労働単位当たりの生産性〔…〕が上昇したのでなければならない〔…〕。そのうえ、全体的な生活水準の向上もあったのだとすれば、一人当たりの収穫量の上昇もあったにちがいない、という結論になる。』
しかし、「農業革命」における『生産の拡大は、農機具の機械化』よりも、農法の改良によるものである。すなわち、『飼料用作物を利用して、土地をより集約的に耕作することで達成されたものである。有力な農法が2種類あった。輪栽式農法〔ノーフォーク農法――ギトン註〕と改良穀草式農法である。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,p.8. .
中世以来の伝統的な「三圃式農法」は、3年間のあいだに1年の「休耕期」を入れて、地力の自然回復を待ちました。「休耕地」では家畜を放牧して、雑草を餌にするとともに糞尿を自動的な施肥としたのです。
「輪栽式農法」と「穀草式農法」は、この「休耕」期間に地力回復を兼ねた作物栽培を行ないます。「輪栽式」の場合はカブ,ジャガイモなどの根菜類、「穀草式」では、クローヴァー,ライグラスなどの栽培牧草です。これらは、主に家畜の餌となります。そして、穀物だけでなく肉と乳製品を増産し、いずれも市場向け商品生産として品質向上に努めます。
農業への機械(とくに、蒸気機関)の導入は、この段階ではまだ一般的ではなく、むしろ農法の普及によって資本主義的な農業経営が広がった。それが「農業革命」だったと言えます。
二コラ・プッサン『四季:夏』1660-64。Louvre.©Wikimedia.
17世紀フランスの収穫風景。
ところで、論争が多いのは「農業革命」と「産業革命」の関係です。古典的な理論としては、両者の関係は2とおりの因果経路として主張されました:
㋑ 「農業革命」によって穀物が増産され、都市労働者に安価な食料が供給されたので、資本家は賃金を低く維持することができ、工場制労働による産業の発展が容易になった。
㋺ 「農業革命」と「第2次囲い込み(穀物エンクロージャー)」によって大量の農民が耕作地を奪われて都市に流れ、賃金労働者となった。彼らは失業者の群れとなって賃金を引き下げ、結果として、資本家による産業の発展を支えた。
まず、㋑ については、穀物の生産量が増加したこと自体は、イギリスでも他の国でも・争いのない事実です。が、イギリスについて言えば、その要因は単に・進んだ農法が普及したということではない。むしろ、それが、地主による「囲い込み」で創出された・ひと塊りの広い農地の上で実践された、ということが大きいのです。いくら進んだ技術があっても、それが効果を発揮できるような合理的経営の場が無ければ無駄になります。
したがって、この過程を推進したのは、労働者でも産業資本家でもなく、地主です。地主は、合理的農業経営から上がる潤沢な地代を求めて(借地農業経営者に払わせて)、「囲い込み」を進めたのです。ということは、穀物の増産・食糧価格の低下と言っても、限界があるということです。安くなりすぎて、“豊作貧乏” になってしまったら、元も子もない。
つまり、この「農業革命」の段階では、食糧価格は、下がり過ぎないように維持されていたのです。地主の利害を代表する・当時の英国議会が、海外からの農産物に関税をかけるなどして、価格を維持していました。やがて、産業資本家と労働者の運動で〔彼らの利害は「穀価引下げ」で一致した!〕、輸入障壁が撤廃され〔「穀物法」廃止〕、穀物価格の引き下げが実現したのは 1846年のことです。
すなわち、労働者への低廉な食料の供給(→賃金コストの抑制)は、「農業革命」よりも、もっと後の・東欧・新大陸からの穀物輸入(「周辺」からの利潤吸い上げ)によって実現した。それが、「近代世界システム」の論理だった、と言えます。
つぎに ㋺ ですが、こちらでもやはり、農業人口の割合が減ったこと自体は、統計的に実証されています。「農業に従事する家族の比率は〔…〕低下し、工業に従う家族数は増加した」。しかし、これに、〈全体としての人口増大〉という・これまた実証された明白な趨勢を勘案すると、ことはそう単純には考えられなくなります。離農者が流入したのではなく、都市人口が増えたのかもしれないからです。
しかも、古典的に言われてきた:――地主による「囲い込み」が「小屋住み農の大群から〔…〕共有地にたいする僅かな権利を奪い去っ」て無産者として都市に掃き出した(ドッブ);地主たちは「教会領を奪取し、国有地を詐欺的方法で譲り受け、村の共有地を盗み取り、〔…〕遠慮会釈ない暴行によって近代的私的所有地に変えてしまう。こうして、都市の産業に必要なプロレタリアートが生みだされた。」(『資本論』Ⅰ-24-2)「この剥奪の歴史は、人類の年代記に、血と炎の歴史として書き込まれた」(同Ⅰ-24-1)――といった暴力的過程の存在は、現在では大きく疑われています。
ジョーゼフ・ライト『月光のマトロック・トア(ダービシャーにある岩頂)』
(1777-80年)。Tate Britain 絵画館。©Yale center for british art.
また、暴力的か否かにかかわらず、そもそも農村人口の減少じたいが疑われているのです。というのは、「農業革命」における技術革新は労働集約的(土地生産性の上昇)で、つまり労働生産性を高めるものではなかった;「新農法」のために、「より多くの農業労働力を必要とするようになった」ことが明らかになっているからです。たとえ、数字の上では労働生産性が上昇したとしても、それによって人を減らすのではなく、さらに多くの労働力を注ぎ込んで生産量を拡大させた、ということは十分に考えられます。その場合、農村に過剰人口は生じなかったかもしれません。わずかな保有地も入会権も奪われた小屋住み農は、在村のまま農業労働者として吸収されたかもしれません。
そういうわけで、現在では、都市の労働力増加をもたらしたのは、人口増加であって、農民の「追い出し」ではない;「農業革命」は、食糧増産→ 都市人口の自然増 という経路によってのみ「産業革命」に寄与した、という見解が有力になっています。
以上から、「農業革命」と「産業革命」の関係については、「農業革命」が食糧の増産を通じて「産業革命」の労働力を支えた・という常識的範囲の推論にとどめておくのが、まちがえのない理解なのでしょう。(pp.9-11.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!