ジョーゼフ・ライト『空気ポンプの中の鳥の実験』(1768年)。 ©Britanica.
ライトは、産業革命,科学と技術を描いた最初の画家と言われる。彼が属した
「月光協会」は、月明かりのもとで会合を開く・啓蒙的産業人と科学者の集まりで、
酸素を発見したプリーストリや,ダーウィンの祖父もいた。この絵は、「科学上の
発見は、女性や子供にも理解させうるという平等主義を強調している」(ウォーラ
ーステイン)。その反面、生命と空気の関係を検証する「残酷な」実験に立ち会う
人びとのさまざまな表情は、「科学と産業」の行く末を暗示してもいる。
【38】 「近代世界システム」の誕生
つまるところ、「近代世界システム」とは、誰が、いつ、どんな目的で立ち上げたものだったろうか?
この質問に、ウォーラーステインは、まず裏側から答えていこうとするのです。「近代世界システム」の公式の旗印「進歩」とは逆の旗印:「伝統」とは何か? と問いかけます。
『伝統的と見なされるものの多くは、一般に考えられているよりもずっと歴史の浅いものである。〔…〕社会的地位の低下の脅威に曝された人びとの、自己保存の本能が投影されたにすぎないことも多いのである。〔…〕必要とあれば、「伝統」ほど急に現れ、見る見る発達するものはない、〔…〕
一階級システムにあっては、「伝統」とは、階級意識にめざめた集団に対して、「未覚醒」の人びとが闘争をしかける際の旗印のことである。〔…〕彼ら伝統主義者が勝利を収めた国も〔…〕あるかもしれない、しかし、「世界経済」が存続した以上は〔つまり、ブルジョワジーが完敗しなかった以上は――ギトン註〕、どこか別のところでは彼らが〔…〕敗北を喫したはずである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.418. .
ウォーラーステインが言いたいのは、「進歩」の思想が抬頭すれば、同時に、それに対抗して「伝統」主義も生まれる。このような「多様な価値体系」の併存は、「世界=経済」システムの避け得ない特性である、ということです。資本主義的「世界経済」は、その「すべての構成要素が、同時に」それぞれの「価値観を同一の方向へ傾斜させてゆく」わけではない。社会システムというものは、「各社会層,各地域が世界的分業体制の中で果たす固有の機能を反映して、多様な価値体系を含むものである。」
『16世紀のヨーロッパは、いわば野生の暴れ馬のようであった。特定の分業体系をもとに「世界経済」を確立し、そのシステムを政治的・経済的に保証する機構として中核地域に国民国家を創った集団』があった。この『集団は、自分たちの取る利潤はもとよりこのシステム全体の維持費を労働者に〔中核地域のみならず、ポーランド,ブラジル,メキシコの農民・労働者に――ギトン註〕支払わせようともした。こうした試みは、かんたんには成功しなかったが、』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.419. .
……それでも長期的に見れば、人類史全体にとって、無意味なことでも、一方的な害悪でもなかったのです。ウォーラーステインの長期的史観は、アダム・スミスの論理を時系列方向に横倒しした観があります。支配的階層の・私利を最大化しようとする努力が、「近代ジオカルチュア」〔「進歩」の思想と「主権在民」〕の成立という不可避の帰結を生み、「民主化」と「平等主義」〔これらはまだ未来の可能性。必然性ではない!〕をもたらす歴史的一階梯となるのです。
二コラ・プッサン『嵐の前の静けさ』1650-51。Getty Center.©Wikimedia.
『16世紀にこのような〔ギトン註――搾取と格差を拡大しようとする〕試みがなされなかったとすれば、近代世界は生まれなかっただろうし、近代世界は残酷な面を多くもっていた』とはいえ『生まれないよりは生まれ』て『よかっただろうからである。〔…〕
とりわけ、〔…〕犠牲を強いられた人びとがその不公平さを声高に訴えたことが、こと〔「近代世界」の建設――ギトン註〕を容易でなくした〔…〕という事実』をも踏まえれば、そのような闘争・軋轢を経て「近代世界」が生まれたのは、よいことだった。『R・H・トーニーが 16世紀イギリス農村における騒擾について評したように「こうした騒擾こそは生きた人間の血肉の証しであり、〔…〕抵抗の方法を忘れない国民こそ幸福というべき」であろう。
近代世界の特徴は、搾取者が描くイメージへの被搾取者の反発にあった。搾取者と、それを不可避だとか公正〔…〕だなどと認めることを拒否する側とは、近代史を貫く矛盾となっている。この矛盾は、弁証法的に綜合されつつあるとはいえ、20世紀の今日〔※〕でもなお、その頂点に達したとはとうてい言えない』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,p.xi. .
註※「20世紀の今日」: 本書本巻の脱稿は 1972年。
ウォーラーステインの考えでは、近代世界における「システム」の搾取と・「反システム運動」とのあいだの「矛盾」が頂点に達した時に、その「カオス」のなかから新しい・次の「システム」が生まれます。しかし、私たちはすでにその詳細を、彼のその後の著作から見てきました〔⇒:『入門』(16), 『史的システム』(4)〕
【39】 産業革命とフランス革命,外延部の「組込み」
――1730s~1840s
ここで、第Ⅲ巻に跳びます。第Ⅲ巻が扱う 1730年代~1840年代は、「近代世界システム」の「再拡大」の時代です。「長い16世紀:1450年頃~1650年頃」にヨーロッパ~環大西洋で始動した「近代世界システム」は、不況期の「17世紀」にはいったん収縮し、内部編成を強化したあと、この時期に再拡大しました。「システム」内部では「産業革命」と言われる工業化と穀物増産体制の確立,フランスを中心とする政治革命の爆発と「近代ジオカルチュア」の成立・拡散が起きます。同時に・外に対しては、広大な「外延部」をシステムの「周辺」として組み込んでゆく・20世紀に至る長期の過程が進行するのです。
この「1730年代~1840年代」の終わり頃、英国が、「近代世界システム」の2つ目のヘゲモニー国家として、経済・政治・文化にわたる覇権を確立します。その画期は、「ウィーン会議」とその最中に勃発した「ワーテルローの戦い」を通じてナポレオンの “ヨーロッパ帝国” が水泡に帰した 1815年でした。
ワーテルローの戦い(1815年)。フランス騎兵隊の攻撃に対し
方形陣地を組んで戦う英軍歩兵隊。 ©warfarehistorynetwork.com.
じつは、多くの歴史叙述は、この「1730年代~1840年代」,つまり「産業革命」または「市民革命」のいずれかをもって、「近代」の開始点と把えます。しかし、ウォーラーステイン――またブローデル――は、そのような見解をとりません。ウォーラーステインによれば、「長い16世紀」が「近代」の開始点なのです。なぜなら、「近代世界システム」の諸特徴:ⓐ「無限の資本蓄積」,ⓑ「中核」と「周辺」の分離,ⓒ「主権国家」と「国家間システム」…は「長い16世紀」にすでに現れており、17世紀には、ⓓ 最初のヘゲモニー国家〔オランダ〕が出現し「コンドラチェフ循環」が脈動を開始しているからです。
『システムとしての資本主義の本質は、〔…〕ⓐ それが無限の資本蓄積〔※〕の欲求の上に築かれているということである。〔…〕このシステムそのもののなかに、中期的に、その論理にしたがって動く者には報償を与え、それ以外の論理で動くことに固執する者には(物質的に)罰を与えるメカニズムが組み込まれている〔…〕
このシステムを維持するには、いくつかの条件が不可欠であった〔…〕。まず、ⓑ 基軸的分業がなければならなかった。低賃金で・競争の激しい・「周辺」の生産する基礎的商品と、高利潤で・半ば独占的な・「中核」の生産物との継続的な交換がなければならない、ということである。ⓒ このようなシステムにあって、経営者がうまくやっていけるようにするためには、多様な能力ないし力量の疑似主権国家からなるインターステイト・システムが必要であった。しかも、ⓓ 新たな独占的利潤を創出する企業がたえず生まれてくることができるように、周期的変動、つまり循環のメカニズムも必要であった。この結果、システムの特権的な中心は、はなはだゆっくりとではあるが、着実に、その地理的位置を変えることになる。
近代世界システムでは、これらのことがすべて起こった。このシステムは当初、主として、ヨーロッパのおおかたの地域〔…〕と南北アメリカに位置していた。〔…〕その内的論理によって、資本主義的「世界経済」〔「近代世界システム」に同じ――訳者註〕は一つのシステムとして、その境界を広げていった〔…〕。とくにその拡大が著しかったのが、この巻で取り扱う期間〔1730年代~1840年代――ギトン註〕である』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.x-xi. .
註※「無限の資本蓄積」: 訳文中、「あくなき資本蓄積」は、山下範久訳にしたがって・すべて「無限の資本蓄積」に言い換えた。
ジョーゼフ・ライト『月光と灯台、トスカーナ海岸』(1789年)。
Tate Britain所蔵。 ©ameblo.jp/metalingtorako.
【40】 外延部の「組込み」、経済の「循環」波動
――1730s~1840s
『近代世界システムの外延部〔…〕には、貿易その他のかたちで資本主義的「世界経済」と関係を持っている地域もあった。しかし、その貿易はおおかた「奢侈品」の貿易であり、したがって貿易当事者のどちら側にとっても、本質的な機能に不可欠なものではなかった。そのために、両当事者が・価値が低いと思うものを〔ギトン註――与えて、〕価値が高いと思うものと交換している・という意味で、貿易関係は概して平等であった。〔…〕
〔ギトン註――「近代世界システム」内部では、〕「周辺」の生産物は、「中核」的な生産物と、「不等価交換」のかたちで交換された。その結果、〔…〕「周辺」部の剰余価値が「中核」地域に移転されたのである。交換された商品は、どちらの側にとっても、自己の存続に不可欠な必需品であった。したがって、この貿易を断ち切れば、〔…〕双方にとって必ずや否定的な結果となるはずであった〔ので断ち切れなかった。「不等価交換」の存続は必然だった。――ギトン註〕。
とはいえ、短い期間であれば、商品の自由な移動をブロックする体制をとることも可能ではあった。こうした「保護主義」が実践された政治的環境』もあった。〔例えば、ヘゲモニー国家オランダに対抗するイギリスの「航海条例」1651年:第Ⅱ巻,p.94.――ギトン註〕
『資本主義的「世界経済」には循環の過程があったために、「周辺」部の商品〔主として農産物――ギトン註〕の生産コストを低く維持するには、たえず新たな地域をこの〔…〕世界的分業体制の中に「組み込む」必要が生じたのである。
もちろん、組み込みの過程には抵抗もあった。しかし、資本主義的「世界経済」の技術発展〔…〕が、システム外の地域〔そこには強大な《帝国》も複数あった――ギトン註〕に比べて・この世界経済に属する強国の軍事力を強化する〔…〕。したがって、たとえば 16世紀にはヨーロッパの軍事力を結集してもインドの「征服」には十分でなかった〔…〕が、18世紀末になると、』イギリス1国で十分なほどに『なった。〔…〕
インド〔…〕はこの時代〔1730年代~1840年代――ギトン註〕に組み込まれたが、〔…〕中国の組み込みは、ずっと後の時代になる、また、組み込みは〔…〕10年でも完成しない〔…〕長期にわた』る『プロセスである。〔…〕異なった4つの地域〔…〕ロシア、インド、オスマン帝国、西アフリカ――〔…〕このプロセスの始まった頃〔1730年頃――ギトン註〕には、この4つの地域は互いにまったく違っていたが、世界システムの圧力が強まるにつれて、その性格がだんだん類似したものになっていった。〔…〕
アーエーゲー大型機械工場 (1910年頃)©Georg Büxenstein und Co_bpk.
「産業革命」は巨大な生産力を解放した。
古典的な定義によれば、〔ギトン註――市場経済における〕完全な競争状態には3つの条件がなければならない。すなわち、①売り手が十分に多いことと、②買い手も十分に多いこと、および ③価格情報が誰にでも得られること〔…〕である。この3条件が全部そろっていれば――滅多にないことである――、買い手は、徹底的に安く売る売り手を捜しまわり、生産コストをほんの少し上回るだけの売り手を見つけることになる。〔ギトン註――だから、売り手として〕大きな利益を得るためには「世界経済」の権力の独占が不可欠である。〔…〕
「世界経済」の拡大期には、つねに、何らかの「主導的生産物」といえるものがあった。〔…〕それは多少とも独占的に生産されるものであった。膨大な利潤が確保され、資本が蓄積されたのは、このような生産物からであった。こうした主導的生産物の前方および後方への波及効果〔原料の生産/製品の加工・販売過程への好況波及?――ギトン註〕こそが、全体としての「世界経済」の拡大の基礎であった。この時期を「コンドラチェフ・サイクルのA局面」と呼ぶ。
〔…〕独占というものはすべて自壊する〔…〕。その独占が政治的にどんなにうまく守られていても、世界市場に新たな生産者が参入できる限り、必ずそうなった。〔…〕競争が激しくなれば、価格は低下する。しかし同時に利潤も低下する。主導的生産物から得られる利潤が十分に下がってしまうと、「世界経済」は拡大をやめ、停滞の時期に入る。これを「コンドラチェフ・サイクルのB局面」と呼ぶ。B局面がある程度続くと、新たな独占が生み出されて、新たなA局面が始まる。
したがって、コンドラチェフのA局面とB局面は、資本主義にとって不可欠な過程であるように見える。それらは、論理的に言えば資本主義的「世界経済」の誕生の瞬間から、その作用の一部として存在したものである。〔…〕それらは、「長い16世紀」以来実在してきたことになる。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.xi-xiv. .
たしかに理論的には、「コンドラチェフ循環」は資本主義の作用の一部かもしれません。しかし、それが実際に、実証される現象として現れてきたのは、「長い16世紀」の終わり頃、すなわちオランダが最初のヘゲモニーを確立した時でした。
また、↑上で言う資本主義的世界=経済の「拡大」とは、総生産量が増大するだけでなく、地理的範囲の「拡大」をも意味します。
【41】 18世紀の音楽
この世紀の前半は、大バッハ〔1685-1750〕とヘンデル〔1685-1759〕が活躍した「バロック後期」、後半は「古典主義〔クラシック〕」時代に入ります。モーツァルトの生涯〔1756-91〕はスッポリとここに収まりますが、ベートーヴェン〔1770-1827〕とナポレオンの関わりは有名で、それはもう 19世紀前半に属します。
いまさら聴くまでもないかもしれませんが、ちょっと聴いてみましょう。バッハの後期の作品から、「4台のピアノのための協奏曲 BWV1065」1731年、ライプチヒで作曲。4台のチェンバロのために作曲されたものですが、バロック音楽の楽器指定は厳格なものでなく、じっさいに演奏される楽器に合わせて題名を呼び変える習慣です。
また、この曲は、ヴィヴァルディ〔1678-1741〕の「4台のヴァイオリン,チェロ,通奏低音のための協奏曲」(『調和の霊感』第10番、1711年・アムステルダムで出版)を編曲したもので、長い期間にわたってロング・ランした曲と言えるでしょう:
つぎ↓は、ドメニコ・スカルラッティ〔1685-1757〕『グラヴィチェンバロのための練習曲』1739年,ロンドンで出版 から「ソナタ 変ロ短調 K27」。イタリア・ナポリの出身で、→ローマ→リスボン→マドリードと移って活動しました。スカルラッティ家はバッハと同様の音楽家一家で、父のオペラ作曲家アレッサンドロ・スカルラッティ〔1660-1725〕のほうが有名かもしれません。奇しくも、ドメニコは、バッハ,ヘンデルと同い年です。
さて、古典主義時代に入りましょう。まずハイドン〔1732-1809〕。ハイドンはモーツァルトより後まで生きていますが、24歳も年上です。ハイドンは、オーストリアのウィーン,ボヘミア,ハンガリーの各地で貴族の庇護を受けて活動しており、晩年にロンドンに演奏旅行をするまではオーストリア(神聖ローマ帝国)から離れませんでした。↓交響曲第45番「告別」嬰ヘ短調 1772年。
ハイドンと対照的に、幼少の時から旅行と巡業に明け暮れたのがモーツァルトです。オーストリアのザルツブルク出身ですが、訪れた地は、ウィーン,パリ,ロンドン,イタリア各地,ドイツ各地,プラハに及びます。これほど各地を転々としたのはスポンサーを求めたためですが、イタリアでは音楽教育も受けています。最後にはウィーンに定住しますが、しっかりとしたパトロンが見つかったわけではありません。モーツァルト自身も、売れてくると、特定の庇護者や役職に拘束されるよりも、自由な音楽活動ができるほうがよいと考えていたようです。
オペラの代表作と言ってよい『フィガロの結婚』1786年 から、「序曲」とアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」↓。
ところで、ウォーラーステインによれば、「近代世界システム」においては、経済・政治のみならず文化においても、ヘゲモニー国家の覇権が「システム」全体を支配すると。しかし、このテーゼは、音楽に関しては成り立たないようです。↑上で明らかなように、18世紀の著名な音楽家が活動した場所は、ヘゲモニー国家どころか「周辺」「半周辺」に属するイタリア,オーストリア,イベリア半島が中心です。例外はロンドンで活動したヘンデルですが、ヘンデルも出身は北ドイツで、イタリアで活動したのちイギリスに移っています。
もっとも、同時代に売れた音楽家と、後世に残る音楽家は、多少違うかもしれない。また、楽譜はロンドン,パリ,アムステルダムでの出版が多いようですし、ふだんはウィーンにいる巨匠たちも、しばしばこれらの都市に出かけて演奏している。鑑識眼のある聴衆が多いのは、経済の中心地である「中核」諸国なのでしょう。
世界経済の中心地が、(後世にも残る)音楽の中心地になるとは限らない。プレスリーもシナトラも、100年たてば忘れられているでしょう。ヘゲモニー国家ではないイギリスのビートルズとストーンズは残るかもしれません。マイルス・デイヴィスも残りそうですが、アメリカでも黒人のジャズは、国内の「周辺」部から発していると言うべきです。が、私の見立てでは、何といっても末永く残るのは、エストニアのアルヴォ・ペルトだと思います。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!