16世紀オランダ絵画。ディルク・バレンツゾーン「羊飼いの礼拝」1565年。

Museum Gouda. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


【34】 ポルトガルの凋落

 

 

 15-16世紀の境に、電光石火のいきおいで〈アジア〉の海を支配下におさめたポルトガルは、16世紀半ばには早くも衰微の相をあらわにします。競争相手として登場したのは、ヴェネツィアとアラビア商人――つまり「レヴァント貿易」の復活、北西ヨーロッパ――オランダとイギリス、そして、ジャワ人など〈アジア〉の土着商人でした。また、日本のように、貿易そのものに関心を失って門戸を閉ざしてしまう国々もありました。

 

 スペインもまた、カールⅤ世の退位〔1555年〕は、ヨーロッパ《帝国》建設の野望がついえたことを意味し、オランダの離反・独立〔1648年〕に道を開くこととなりました。

 

 こうして 17世紀には、ポルトガル,スペインに替わって、オランダ近代世界システム」最初のヘゲモニー国家として登場するのです。

 

 ……かの大塚久雄氏の『欧州経済史』も、このあたりまでは世界史的パースペクティヴで語っていましたが、それ以降になると、一国史のスキームに閉じこもってしまうのです。「近代」の世界を語りうる視点は、ウォーラーステインの分析枠組みを待たなければなりませんでした。

 

 まず、レヴァント貿易の復活について考えてみましょう。世界史の教科書類では、中東で「オスマン・トルコ」が抬頭したので、ヨーロッパ商人に東方物産を供給していた「レヴァント貿易」が妨げられ、そこで、ポルトガルがアフリカ喜望峰回りの航路を開拓した、ということになっています。しかし、これは成立しない理屈です。ポルトガル人の南方探検は、「オスマン・トルコ」のレヴァント・エジプト占領〔1517年〕よりずっと以前に始まっているからです。

 

 ともかく、ポルトガルのインド洋進出以後、レヴァント〔パレスチナ~シリアの地中海岸〕経由の貿易路がそれに押されて一時振るわなかったのは事実です。

 

 「[16世紀第2期]に東地中海が繁栄を取り戻した」。ポルトガルが「レヴァント貿易」を封鎖するには、「広大な貿易網と城砦,高価につく艦隊,役人集団などを維持」しなければならず、それほど豊かでないポルトガルにはそれは不可能でした。「1530年代にトルコ人はペルシャ湾への再上陸〔インド洋側から?〕に成功し、これ以来、香料貿易に占めるポルトガルのシェアは低下する。」また、前節で見たように、ポルトガルの貿易方式は国家管理貿易で、インドの土侯と取り決めた公定価格を貫徹したため、自由価格で取引したヴェネツィア/アラビア商人に勝てなかった、という要因も大きかったのです。1580年頃には、ポルトガル商人は、「こともあろうにヴェネツィア貿易〔レヴァント貿易〕への割り込みを策した」ほど、喜望峰回りの交易路は衰退していたのです。

 

 

Jan Brueghel elder & Joos de Momper younger:フランドル市場織布洗い場

 1620年頃。プラド美術館。 ©Wikimedia.

 

 

 しかし、北西ヨーロッパは「ヴェネチア以上に手ごわい競争相手」でした。香料貿易は、〈アジア〉の産地からリスボンまたはヴェネツィア(のちにはアムステルダム)までが「アジア契約」、そこから北方ヨーロッパの最終消費者までが「ヨーロッパ契約」であり、この2つの取引が利益を分け合っていました。ポルトガル人自身は、ヨーロッパに「胡椒の販売網を持たなかった」のです。オランダ/イギリスの商人が力を持ってくると、いきおい、ポルトガル/スペイン/ヴェネツィア商人の利ザヤは縮小しました。ポルトガル商人が密に関わっていた商港アントウェルペン(フランドル地方)が、スペイン・フェリペⅡ世の新教弾圧で衰微すると、さらに拍車がかかりました。イギリス/オランダは、まもなくポルトガルにまさる海軍力でインド洋に進出してきました。「両国は、通常の貿易のほかに、ポルトガル船の掠奪によっても巨利を博した」。こうなるともう、「アジア契約」の出る幕はありません。

 

 「ポルトガルの勢力が衰えるにつれて、アジア人支配者の貿易支配権がいくらか復活してきた。たとえばマラッカ海峡では、〔…〕オランダが侵入してくるまでは、ジャワ人が香料貿易を握ったのである。」

 

 「ポルトガルは、日明貿易を独占」して「埋め合わせをつけ」ようとした。が、日本が統一すると、「倭寇」を鎮圧して明朝の信用を回復し、公式の日明貿易(朱印船貿易)を開始したので、南蛮船は不要な存在となった。

 

 こうして、ポルトガル王国の海軍力に支えられた〈アジア〉貿易が衰えると、アジアに来ていたポルトガル人は、「本国と縁を切り、アジアで生き残れるように」アジア社会に「順応しようとしはじめた」。1580年にスペインがポルトガルを併合すると、この傾向は強まった。「ポルトガル人は、東洋の諸地域に溶け込み、いたるところで一家をかまえて定住した。」

 

 たとえば、「マカオのポルトガル人」は、スペインの併合によってスペイン総督の支配が及ぶ(スペイン商人に商益を奪われる)ことを恐れ、抗拒の態度を示した。けっきょく妥協がはかられ、マカオは「半独立の地位を認められた。スペイン王に忠誠は誓うが、ポルトガル国旗を使い、中国からも第2級の官僚の管轄地」として認められた。

 

 ポルトガル人は同じ時期に台湾の一部も占領し、明朝から支配を認められていますが、まもなく鄭成功によって、対清朝の抵抗拠点として再征服されています。マカオにしろ台湾にしろ、〈アジア〉の他のポルトガル人占領地にせよ、西欧の植民地と言うよりも、ヨーロッパとは切り離された残留ポルトガル人の離れ島というべきものだったのです。

 

 「イベリア半島」の1世紀にわたる進出が歴史に残した成果は、ヨーロッパ側の利害から言えば、決してはかばかしいものではなかった。スペインとポルトガルは、「アジアをヨーロッパの周辺として取り込むことができず、逆に遠くへ押しやっ」てしまったと言えます。(pp.381-383,405[205].)

 

 


【35】 「近代世界システム」のヨーロッパ

――「ブルジョワジー」の勃興

 

 

 前節までで、システム外部の検討をいちおう終え、中核」を中心とするシステム内部に戻って考察を進めます。

 

 「長い 16世紀」のあいだにヨーロッパに起こった大きな変化のうち、ⓐ「無限の資本蓄積」つまり資本主義の開始、ⓑ「中核」地域と「周辺」部の分離、ⓒ「主権国家」と「国家間システム」の成立、については、入門(4)(3), (4) で扱いました。が、

 

 まだ、たいへん大きな問題が一つ残っています。それは、階級」すなわち「ブルジョワジー」の形成です。

 

 「階級」と言うと、通常は、2つの階級がたがいに自らのタヒ命を賭けた闘争を繰り広げている状況をイメージします。

 

『これまでのすべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である。自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、〔…〕要は、抑圧者と被抑圧者とが常なる対立に立ち、間断の無い・隠然また公然の戦いを進めてきた(führten)のである〔…〕

 

 という『共産党宣言』冒頭の文句は、そのような「2階級史観」の典型です。

 

 

レンブラント・ファン・レインアムステルダム布地商組合の理事たち』1662年。

アムステルダム国立美術館. ©Wikimedia. 組合理事室の正面に掲げられた

この絵画は、入室して見上げる者が人物たちの視線の集中を感じるように描かれ

ており、オランダの全階層に勃興期ブルジョアジーの威厳を示す狙いがあった。

 

 

 ウォーラーステインの場合は、これとはやや考え方が異なります。「階級」は2つとは限らない。「階級闘争」は「すべての社会」にあるわけではない。「階級」が1つしかない社会、3つ以上ある社会、「階級」の無い社会、は珍しくはない。階級が1つしかない社会は、近代世界システムにあっては、これが通常の状況であった。(p.413.)

 

 

階級は、潜在的――即自的――にはいつでも存在している。問題は、どのような条件のもとで対自的な階級意識〔自分(たち)は・或る「階級」だ、と思う意識――ギトン註〕が生まれたのか、ということである。つまり、人びとはどのような条件のもとでなら、政治や経済の舞台で集団として――時には文化的統一体としても――活動するようになるのか、それが問題なのである。このような自己意識は、闘争状態によってもたらされるはずである。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.412. .

 

 

 つまり、「階級」があるから闘争するのではない。現に闘争が行なわれているから、また、闘争を有利に進めるために、人びとは自分たちを、また相手方を、「階級」として「意識」するのです。――私には、この考え方のほうが、『共産党宣言』よりずっとよく理解できる。

 

 「階級」とは、このようなものであり、良くも悪くも「階級意識」の産物なのです。ですから、歴史上つねに、支配階級は「階級意識」を歓迎しません。人びとが「階級」を意識してほしくないし、「階級などというものは存在しない」と人びとに信じさせたがります(そうやって完全に信じさせた状態こそ、共産党政府が喜ぶ「階級の無い社会」です)。なぜなら、「闘争が公然化」することは、支配秩序を維持するうえで望ましくないからです。「階級の境界線が不鮮明であればあるだけ、特権の維持は容易である。」

 

 

『実際問題として階級は、闘争状態においてしか存在しえないし、闘争というものは2つの派がなければ成立しない。とはいえ、〔…〕自らを普遍的階級と見なすような一つの階級と、それ以外のすべての階層とのあいだにも闘争は起こりうる〔…〕。むしろ、近代世界システムにあっては、これが通常の状況であった。資本家階級つまりブルジョワジーは、自ら普遍的階級であると主張し、二大敵対層を向こうに回して〔…〕政治活動を組織しようとした。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.413. .

 

 

 上で言う「普遍的階級」……の意味は、シェイエース第三身分とは何か?』を見れば解ります。「第三身分 le Tiers-État」は「第三階級」とも訳されます:


『我々には自問すべき三つの問いがある。

 1º 第三身分とは何か? すべてである
(Tout)
 2º これまで政治秩序において、それは何だったか? 何物でもなかった
(Rien)
 3º 何を求めているのか? 何かになることを。』

 

 


Max Liebermann:"The Jewish Quarter in Amsterdam" 1906.

National Gallery of Art.

 

 

 つまり、フランス革命当時の「ブルジョワジー」は、自分たちは(特権を持たない者の)「すべてである」と主張していたのです。労働者も農民も地主も金持ちも、およそ「すべて」が「ブルジョワジー」であると。それが彼らの看板であり「階級意識」でした。労働者や農民の一部が、自分たちは「ブルジョワジー」とは別だ、との意識を持って「ブルジョワジー」と闘争し始めた時に、彼らは「すべて」に含まれないこととなります。が、それまでは彼らも「ブルジョワジー」なのです。

 

 「ブルジョワジー」が、もっぱら対抗を意識していたのは、もう一方の「敵対層」――「すでに本来の経済的機能」を喪失しているのに、なお「伝統的な身分秩序の維持を求める人びと」――に対してでした。ところが、この特権身分層自身は、「社会を階級構造的に見ることを嫌っていた。」なぜなら、被支配者が被支配の構造を意識することは、彼らの特権を脅 おびや かすことになるからです。彼らの特権は、あくまでも、当然そうあるべき “自然な” 秩序の一部、意識されずとも・おのずから存在するものでなければならなかった。

 

 逆に、「ブルジョワジー」が、自分たちは「階級」だと「意識」するようになったのは、「このようなイデオロギーに対抗するためだった」と言えます。この局面では、自分たちこそ「すべて」である,「普遍的階級」であるという主張は、強力な武器になりました。

 

 こうして、「ブルジョワジー」を唯一の「階級」とする「一階級社会」が誕生します。

 

 しかし、ブルジョワジーの「敵対層」は、特権階層とは逆の側にも生じえたのです。特権層への対抗運動が進んでいくにつれ、漠然とそこに参加していた・より下層の人びと〔※〕も、自らの利害を意識するようになりました。しかも、こちらの人びとは、特権身分層とは逆に、意識が高まれば高まるほど・社会を階級構造的に見る傾向を強めたのです。彼らは社会を、「ブルジョワジー」と自分たち・という2大階級からなるものと見るようになります。なぜなら、特権階層は、しだいにブルジョワジーと妥協して、彼らと特権を分け合うようになったからです。

 註※「より下層の人びと」: 「ブルジョワジー」に対抗して、自分たちを別の「階級」と意識するようになった人びとは、「プロレタリアート」(労働者階級)がその一つであったが、それが唯一の可能性ではなかった。たとえば、階級意識を持った「農民階級」が成立する余地はあったし、成立しかかった時と地域もあった(20世紀のある時期の中国など)。たしかに、「農民階級」の成立には障碍が多かったが、それは、こんにちの賃労働者層が一体的な「階級」を形成しにくくなっている困難さと、それほど違うものではない。

 

 

『こうした状況のもとでは、ブルジョワジーは戦術上深刻なディレンマに陥った。彼ら自身が階級意識を鮮明にすれば、すなわちそのことが労働者の階級意識をも覚醒させ、自らの〔ギトン註――ブルジョワジーの〕政治的地位を危うくする結果になる。』かといって、『自らの階級意識を弱めれば、伝統的に高い身分を誇ってきた階層に対して、弱い立場に立つことになる。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,p.413. .

 

 


【36】 「一階級社会」の成立――

「階級」意識と「国民」意識

 

 

 ともあれ、「ブルジョワジーが、社会のあらゆる階層の出身者をふくむ単一の普遍的階級・としての自己意識を強め」たのは、イギリスのテューダー朝時代の「ジェントリ」や、「北部ネーデルラント〔オランダ〕における市民層の勃興」において顕著でした。「自らが普遍的階級だという彼らの主張を支えたのは、ひとつには」それらの時代〔16-17世紀〕と国における「国民意識」の高まりでしたが、そうした「国民 ネーション」としての「彼らの主張に文化的意味がつきまとうようにな」ると、それはさらに強力なものになりました。スペインに対して戦うことは、新教徒であり、英国/オランダ国民であり、ブルジョワジーである(カトリックと結びついた特権貴族ではない)という文化的アイデンティティと一体だったのです。

 

 これに対して、フランスではもっと事情が複雑でした。フランスのブルジョワジーは、国民的統合をめざす王権への賛同者と、先進地域〔ノルマンディなど北西部〕の利害を優先しようとする急進的な商工業市民〔たとえば「ユグノー」〕とのあいだで引き裂かれ、後者の反乱〔1623-48年〕が鎮圧されたあと、フランスのブルジョワジーは官僚化,封建地主化の道をたどったのです。

 

 

17世紀フランス絵画ニコラ・プッサン「フローラの王国」1630-31年。

アルテ・マイスター絵画館,ドレスデン. ©Wikimedia.

 

 

 「周辺」地域では、ブルジョワジーの態度は、より単純であり、容易でした。「周辺」地域の農業企業家たちは、農民の賦役労働による領主的経営の方向に進みながら、「みずからを国際的ジェントリ階級の一員と見なして満足していた。[世界]文化を共有するために、本来自分の属していた地域文化の根を犠牲にしたのである。〔…〕周辺の農業企業家たちは、こうして次第に、スペイン領新世界の・あの時代遅れで上流気取りのアシエンダ〔大農場〕所有者や、後代の東ヨーロッパ貴族のようになっていった。」

 

 とはいえ「周辺」ブルジョワジーも、「下の階層に〔…〕階級意識が芽生えて」彼らの既得権が「脅威にさらされ」てくると、「地域文化〔国民文化〕の重要性を強調」して「内紛を抑え、外部勢力に対抗するための連帯感」を培うほうに向かいます。そればかりか、そもそも彼ら自身が実は「世界システム」から恩恵だけを受けているのではない、むしろ「中核」のブルジョワジーに抑えられて割を食っている・ということに気づくやいなや、この「国民的連帯感」は、下層の不満をなだめるタテマエたるを超えて、ほんものの文化的アイデンティティとなります。しかし、それはもっと後の時代のことです。(pp.413-414,318-319.)

 

 


【37】 「一階級社会」の成立――

その不安定性、国家機構の強化

 


『16世紀の「ヨーロッパ世界経済」は、全体として一階級からなるシステムに向かっていた。階級意識にめざめる傾向が見られたのは、経済発展と資本主義的なシステムの成立で利益を得た活動的な勢力、ことに中核地域のこの種の勢力であった。彼らは、第一義的に共通の経済的機能を特徴とする集団として、政治の舞台で活躍しはじめたのである。この共通の経済的機能は、〔…〕農業企業家や商人、産業資本家などがそれに含まれていた〔…〕。個々の企業家は、これらの諸機能のあいだを行きつ戻りつしたり、兼業したり〔…〕であった。しかし、職業が何であれ、主として「世界市場」で営利活動を営む・これらの人びとと、そのような志向をまったく持ち合わせていない〔ギトン註――貴族的特権層などの〕人びととのあいだには、決定的な違いがある。


 いまだに階級意識に目覚めていない人びとは、身分に伴なう特権の維持をめざして闘っていた。つまり、伝統的な貴族の特権や、小自営農が封建制のもとで享受していた権利、すでに時代遅れとなったギルドの独占権・などを必死に守っていたのである。文化的に類似したものがあるというだけで、この人びとのあいだに奇妙な同盟関係が生まれることもある。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.416. .

 

 

 フランスでは、↑後者の「同盟関係」がたいへん大きな力を持ったので、「政治の中枢」でも、彼らの要求を考慮に入れざるを得ませんでした。フランスの王権は、しばしばカトリック勢力に譲歩して、プロテスタント〔ユグノー〕の弾圧を繰り返しました。フランスの「ブルジョワジー」が、中途半端な位置から後退していくこととなったのも、この圧倒的な保守的圧力に押されたためでした。

 

 ポーランドでは、この「同盟関係」が「世界システム」の「支配的な勢力に奉仕」する関係となったので、ここでは「文化面で〔…〕カトリシズムが勝利を占めた」のです。

 

 

16世紀オランダ絵画。 ピーテル・アールツェン

猟の獲物の売り手」1561年。

Hermitage Museum. ©Wikimedia.

 

 

『階級の形成という〔…〕点では、16世紀はまだ決定的な時代だったとはいえない。資本家層は階級を形成した〔…〕が、政治の舞台で勝利を占めるところまでは至らなかった。〔…〕この不安定性は、国家機構の変遷史に如実に反映されている。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,a.a.O. .

 

 

 この「階級の不安定性」が、かえって国家機構を強化する方向に作用しました。新興の「ブルジョワ階級」も、旧い貴族層とその同盟勢力も、国家の力に頼り、国家の力の強化を利益としたからです。

 


『国家機構』は、『資本家層にとって、その財産権を保障し、各種の独占を許可し、損失をより多くの人びとに転嫁するなど、自己の利益を守るメカニズムとして』重要なものである。『したがって、「世界経済」はその中核部で国家機構が比較的強く、周辺ではそれが比較的弱いというパターンを生む。〔…〕強力な国家とは、多数の勢力・利害の妥協を画策しうる程度の行動の自由は持っているという意味で、多少とも自立的な存在である。〔…〕国家が自立的な行動がとれるためには、国の施策によって直接利益を受ける人間集団、すなわち国政担当者〔王政における王族・廷臣,民主政における議員・閣僚――ギトン註〕、官僚などが存在していなければならない、〔…〕

 

 資本主義的「世界経済」の中には、このような集団が成立する。というのは、新興の資本家層と旧来の貴族という〔…〕もっとも強力であった2つの階層が、〔…〕強い国家を望んだからである。

 

 資本家層にとっては、「絶対王政」の〔…〕強い国家は、第一の顧客であり、〔…〕国際的にも匪賊行為からの保護者であった。それはまた社会的合法性の根拠を与えるものであり、〔…〕別の強国が〔…〕商業の妨げとなるのを予め阻止してくれる保護者でもあった。

 

 逆に、〔…〕貴族層にとっては、強い国家とはこうした資本家層にブレイキをかけ、伝統的身分の擁護者となり、秩序の維持者、奢侈の奨励者ともなっていた。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.408-409,343-344,358-359. .

 

 

レンブラント・ファン・レインガリラヤの海の嵐』1633年。

the Isabella Stewart Gardner Museum, Boston. ©Wikimedia.

独立戦争期に描かれたこの絵画は、イエスとその弟子たちに仮託

して、オランダの市民たちの結集と連帯を表現している。

 

 

 もっとも、国家機構は、貴族層にとっても資本家層にとっても「資金を浪費するやっかいな代物」であったし、「官僚というものが、干渉好きで非生産的」であることも、彼らには分かっていた。だから、「この両階層が国家機構の悪弊〔…〕から身を守ろうとするために、世界システムの政治過程は一進一退を繰り返すことになる。」つまり、国家機構の強化は決して一直線に進んだのではなく、一進一退を繰り返しながら、結局は強化に進んだのです。

 

 その場合、「国家機構の成長には、〔…〕そこから先では力がいっそうの力を生む点が実在するのである。」つまり、一進一退を繰り返して・ある点を越えると、成長した結果が・さらなる成長の要因となって、成長は加速される。「租税収入が大きくなると、国家は〔…〕いっそう効率的な文官制度や軍隊を持つことができ、それがまた租税の増収につながる。」

 

 この「累積メカニズムは逆方向へも作用する。」国家機構の衰退がある点を越えると、累積作用によって急速に弱体化が進むのである。(pp.417-418.)

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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