南インド、ゴアの聖カタリーナ礼拝堂。©Wikimedia.
1510年、ゴアを征服したポルトガル海軍提督アルブケルケによって創建され
1534年に再築、1550年に増築されている。バロック様式。
【31】 ポルトガルとアジア
――海外進出の動機と動因
近代における対外進出を、ヨーロッパ人の側からひとことで言えば、
「侵略は、ヨーロッパ人、ないしキリスト教徒の天命〔Beruf, destiny: 神から与えられた職業〕であった。」
ということです。
ヨーロッパでは、中世末の 14-15世紀に肉類の消費が急激に増えました。これは、小領主とブルジョワ層の増加という階層構造の変化を原因とするものですが、その結果、牧畜と結合した穀物栽培(休閑地放牧)が農業の主流となり、この農耕方式が、増加する人口を・増えない国土面積に収容することを困難にし〔水稲単作化が・集約的人力投入を強いた東アジア・とは対照的〕、海外に土地と商益(とりわけ金銀)と布教対象を求めて進出する圧力となりました。他方で、肉類による食卓の富裕化は、砂糖,および胡椒などの香辛料〔肉の保存に必要。当時はアジアの特産品〕の需要を増大しました。
「14-15世紀には、領主の収入が低下しつつあった。」下級貴族は、貴族の社会的体面を保つために「盗賊」を兼業する者が続出した。貧乏は「騎士」の面目を汚すが、追剥ぎ・掠奪はそれに反しないと彼らは考えたのです〔これは、東アジアの「文人」や「武士」の倫理とは真逆〕。とくに「土地を持たない次・三男」には、冒険的なりわいが奨励されたほどでした。ドイツでは、「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」のような盗賊騎士が歴史的群像となっているし、デンマーク,スウェーデン,イギリスでも事情は同じでした。
イベリア半島では、レコンキスタ運動が進められていた当時には、こうして「フロンティアでの略奪行為で身を立てていた連中」が多かったのですが、レコンキスタが完遂されてしまうと、彼らは海外探検に活路を求めることとなります。「対外進出」とは、海外に向かった「暴力の一形態」にほかならなかったのです〔明治日本の「進出」の尖兵となった「大陸浪人」も、維新で秩禄を奪い取られた士族の子弟たちだった〕。彼らを、「権威の高揚と財政の潤沢化を狙う」ポルトガル国王が支援し、ヴェネチアの東方貿易〔トルコ・アラビア・ペルシャ商人を介しての〕に対抗したいジェノヴァ商人が財政的に援助しました。こうして「ポルトガルの場合、[探検ビジネス(discovery business)]に利益を見いだす集団が少なくなかった」。
大西洋に面した小国であるポルトガルでは、対外進出を促す動因が、スペインよりも強く働きました。ポルトガルは、国土の狭い小国で、ヨーロッパの他の国から領土を掠 かす め取る力もないので、大西洋に進出する以外に解決がなかったのです。その一方で、ポルトガルは「他の西欧諸国とはまるで異なって〔…〕国家機構が強大であった。〔…〕15世紀には、西欧諸国が内乱に明け暮れしていたのに、ポルトガルだけは平和を享受していた。」「国内の安定」は、ポルトガルの対外進出,探検を可能にした大きな要因でした。ポルトガルでは、商人とならんで「国家機構〔…〕自体が有力な企業活動の主体」でした。「1506年には、西アフリカの金とアジアの胡椒と香料とで、ポルトガルの国庫収入の半額以上を構成するようになった。」にもかかわらず、アフリカとアジアは、ついに〔18世紀までは〕資本主義的「世界経済」に編入されなかった、――つまり、ポルトガルの植民地とはならなかった〔インドのゴア,中国のマカオ,台湾のような拠点を除いて〕のです。「世界システム」に編入されたのは、新大陸のブラジル〔の沿海岸〕でした。(pp.34-40,372.)
ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン〔左〕と ハイルブロン市参事会。1850年代の
銅版画。Archiv Burg Hornberg. ©Wikimedia.
しかし、ポルトガルが進出できた理由を、それを受けたアジア側の条件から探ってみることも必要です。そのことが、けっきょくは植民地建設――「世界システム」への組み込み――に至らなかった理由に、つながるからです。
ポルトガルが進出する直前のインド洋~シナ海は、「海上貿易の真空状態」にあった。「真空」とは、政治的な支配者の居ない状態という意味です。たしかにインド洋ではイスラム商人が、シナ海では「倭寇」が海上覇権を握っていましたが、彼らはいずれも、分散的な民間の勢力で、政治的支配力も統一性もありませんでした。インド洋に面する国々の王侯には、貿易を支配するほど強大な力はなかったし、強大な中国の《帝国》は、海の支配にはまったく関心がなかったのです。「広大なアジアの貿易網〔…〕は、最初にやってきた者が握れるようになっていた。」たまたまそこにポルトガル人が、巨大な大砲をそなえた軍艦で登場したのです。
火薬を発明したのは中国人で、弾丸を射出する器具(諸葛弩),火箭〔火薬をつけた矢や炸裂弾〕も、すでに古くから発明されていました。ビザンチン〔ギリシャ火〕を通じてそれらを伝えられたヨーロッパ人は、これを「火縄銃」に改良し〔14世紀ベルギーまたは 15世紀ドイツ〕、15世紀末には、同じく東方から伝わった攻城砲を改良したキャノン(大砲)が発明されました。しかし、ポルトガル人のインド洋制覇を確実にしたのは、砲門を砲艦の本体に取り付ける技術革新でした。(pp.371-373.)
『ほんの数年のうちに、ポルトガル船が広大なインド洋の貿易を完全に掌握してしまったのは、〔…〕砲艦建造の技術が〔…〕すぐれていたからである。なかでも決定的な技術革新』は、後付けの『上部構造に砲門を取り付けるのではなく、船の本体にそれをつける方法』で、『1501年に開発された。〔…〕砲門を船体にうがつ技術革新』のおかげで、『これまでより多くの巨大な装備を施しても、船体が傾く危険もなくなった。〔…〕
イスラーム商人の追放は、〔…〕「平和的競争〔…〕ではなく、血なまぐさい暴力によってなされた。」政治的権力と海軍力の優越が、その主な背景』だっ『た。〔…〕
最初にインド洋に姿を現して 15年後、ポルトガル人はアラブの海軍を完膚なきまでに壊滅させ』た。
『アジアの物産を買い付けに来たポルトガル人は「商人、つまり私的企業家ではなくて、一国を代表して〔…〕活動する強大な海軍勢力」だった〔…〕。ということは、貿易関係が――たとえば〔…〕商品の価格が――〔…〕条約によって定められる、ということである。〔…〕ポルトガルのアジア貿易は、国家の手に握られて』いた。
『ポルトガル王の使節が何年も前に〔…〕コーチンの王と契約し、胡椒の価格を〔ギトン註――ポルトガル人に有利なように、安価に〕固定した。〔…〕この価格はあまりにも低すぎるので、農民は売り惜しみ、熟れていないもの,傷ものなどしか輸出しない。アラビア商人は高い代金を支払うので、良質の胡椒を入手でき、歓迎もされた。〔16世紀のヴェネチア商人チェザーレ・デ・フェドリーチの証言〕
ポルトガルのインド・およびその途中にあったアフリカの沿岸諸港との交易』は、『当初から 1577年まで、〔…〕完全に国王の勘定の下でなされた。リスクを負ったのも国王なら、船舶そのものも国王の所有であった。〔…〕
ポルトガルのアジア支配機構は、〔…〕2つの艦隊――紅海封鎖のためのそれと、インド西海岸パトロール隊――と、ゴア〔西南インド――ギトン註〕の総督府と、その周辺に散在する7つの城砦からなっていたのである。商取引のために一連の商館が維持され、3つの大中継市場――マラッカ,カリカット,オルムズ――が創設された。また、アデンには補助的な中継基地が造られた。〔…〕
ギリシャ火でイスラム海軍を攻撃する東ローマの軍船〔左〕。『スキュリツェス
年代記』12世紀 の挿絵。Bibliteca Nacional de Madrid. ©Wikimedia.
左上のギリシャ語説明: ローマ人の艦隊が敵の艦隊を灼熱させている。
ポルトガル人は〔…〕既存の商業網を簒奪したにすぎない。〔…〕ポルトガル人はアジアに来て、そこに繫栄している「世界経済」を見いだしたのである。〔…〕
1500年から 1800年までのヨーロッパとアジア諸国との関係は、「〔…〕アジア諸国がつくりあげた枠組みのなかで展開された〔葡・西・蘭・英人は、アジアの通商秩序を変えることはできなかった――ギトン註〕。」〔…〕ヨーロッパ人が軍事的には優勢であったとしても、〔…〕軍事的優勢は海軍力のそれでしかなかったからである〔イスラムの船と港を屈服させることはできたが、内陸を支配するアジア諸国に勝てる見込みは無かった。――ギトン註〕。「ヨーロッパ人がアジアの沿岸部を旅することは容易だったが、大陸内部の諸国に入りこむことは稀であったし至難でもあった。16世紀には彼らは、自らの意志をインドや中国の皇帝に強制できる〔…〕立場にはなかった。
〔ギトン註――アジアでは、〕既存の権力の示した抵抗もしたたかであった。新世界〔新大陸――ギトン註〕は容易に征服された』が、『アジアではまるで事情が違っていた。ポルトガルはもとより、17世紀に』ポルトガルを継承したオランダ,イギリス等も、『火器を使って中枢部を征服するというわけにはいかなかった。これができなかったので、新世界や東ヨーロッパで成立したような、わずかな力で巨額の余剰を収奪しうるシステム〔東欧のグーツヘルシャフト,新大陸のエンコミエンダ,アシエンダのような強制労働農場――ギトン註〕を創り上げることもできなかった。それどころか、アジアでは各地の支配者たちがはるかに大きな分け前を要求したから、〔ギトン註――貿易から〕わずかな余剰を獲得するためにも大きな力を必要とした。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,pp.372,374-375,380,395(114),396(122),397(137),402(189). .
【32】 ポルトガルとアジア
――阻まれた植民地形成
「アジアからリスボンへの最大の輸入品は胡椒、ないし胡椒をふくむ香料であった。16世紀のうちには、ヨーロッパの需要増加に対応してアジア」の胡椒「生産量が2倍になった。」その点で、胡椒の生産面にはヨーロッパ貿易の影響がなかったとは言えない。が、そもそもコショウという作物には、「一度植えつけると手入れは不要」という特性があるので、耕地を増やして生産を倍増させるのに巨大な労働力の投入が必要なイネなどとは事情が違うのです。たしかに「胡椒こそは、[大量生産方式が採用された唯一の香料]であった」が、胡椒の加工は、毛織物などと違って、あまりにも単純な工程です。
けっきょくのところ、胡椒の生産も、その他の香料(シナモンなど)の生産も、生産地の社会を変化させるような影響はもたらしませんでした。
他方、香辛料と引きかえに「アジアがヨーロッパから得たものは、地金、つまり金と銀であった。」とは言っても、金銀をヨーロッパ人は、やはりアジアと新大陸から得るほかなかったのです。銀は、メキシコと日本から入手し、金は「はじめ西アフリカから、ついで南東アフリカ,スマトラ,中国から」手に入れた。メキシコと日本から銀を手に入れるには、中国で絹織物を買い付けて持って行かねばならなかった。そのうえに中国に金 きん や陶磁器まで手放させるのは、容易なことではない。しかも、日本はまもなく自力で生糸を生産するようになったので絹を欲しがらなくなってしまった。
石見銀山、釜屋間歩(まぶ)。17世紀初めに山師・安原伝兵衛が発見・開発した坑道。
石見銀山は、16-17世紀に最盛期を迎え、戦国・安土桃山の「南蛮貿易」や
徳川幕府の「朱印船貿易」の元手となった大量の銀を産出した。©Wikimedia.
そういうわけで、つまるところポルトガル人は、東洋の諸国のあいだを走り回って運輸交換のサーヴィスを提供したあげく、ヨーロッパに持ち帰れる物といっては香辛料のほかにない、というのが実態だったのです。「最初のうちポルトガル人は、掠奪による大儲けをもくろんだが、わずか 10年にして」それは不可能であることを知りました。インドの王侯も中国の官僚も、きわめて賢くまた尊大で、容易に甘言に乗らないばかりか、武力で征服しようにも、アジアの内陸の民衆は(イスラムの一神教徒とは違って)謎めいていて危険だったからです。「そのため彼らは、アジア内貿易の仲介者を志向するようになった」のです。そうして、香辛料と金銀を持ち帰ろうと企んだが、金銀は「アジア内貿易」に使い尽くして終わったのでした。
たしかに、ポルトガルは「アジアの海」を征服しました。しかしその覇権は半世紀しか続かなかったのです。一時的には、ポルトガルの海上独占権によって「市場の機能が歪められた」が、それによって、「アジア内部における人びとの生活は、〔…〕何ひとつ本質的な変化を被ら」なかった。したがって、「アジアの第1次産品生産が、当時のヨーロッパの分業体制の一部をなしていたとは言い難いのである。」〈アジア〉は、資本主義的「近代世界システム」の「外部」にあったのです。
海港ゴアを占領してポルトガルが築いた “植民地体制” は、「南アジアの商業に何ひとつ新しい要素をもたらさなかった。〔…〕アジア貿易の国際的性格」にも変化はなく、「アジア諸国の政治的独立がおびやかされるなどということも〔…〕なかった。アジア内の大貿易網は、微動だにしなかった」のです。
同様のことは、アフリカについても言えます。コンゴにおいて、ポルトガル人は初め「伝道と植民を目的とし」て入植し、「換金作物栽培」の導入さえ試みましたが、まもなく「高価につきすぎることを悟り、奴隷と象牙を中心とする中継貿易関係のみで満足するに至ったのである。」
それでは、ヨーロッパは「アジア貿易」から、何を得たのでしょうか?「この時代にアジアがヨーロッパに与えたものといえば、ほとんど奢侈品」だけであった。奢侈品には、「食糧〔…〕ほどの意味はなかった。」無ければ無くてもすませられるものだった。「奢侈品は、地金 じがね に比べても重要ではなかった。」
「アジア貿易が、ポルトガルにとって利益の多い貿易であったことには、むろん疑問の余地がない。〔…〕胡椒は、利潤が法外に大きかったばかりか、分割しやすく、耐久性も十分あったから、[絶好の投機対象となった]」。そこで「[軍事力を使って国富の増大をめざす]ポルトガル国家そのものが、本格的にこの投機に参加したのである。」このことで、「当面、ポルトガルの国民所得は増大したが、やがて全国的に労働生産性が低下しはじめる。」
そもそも、ポルトガルが、この「対外進出」に投入した「労働力の質」は、「勇敢な航海と戦争行為」を得意とするものでした。アジアにおけるポルトガル人は、決して、商才によって販路を開いたわけでも、忍耐強い狡猾さで強制労働を組織したわけでもなかった。「ポルトガルの軍事的・宗教的伝統と特有の階級構造のために、彼らはインドでも十字軍的な」情熱をもって行動した。「その結果、彼らは、より平和的な手段では考えられないほどの富を」一時的に獲得したが、それを持続させうるような手立てを講ずることはなかったのです。(pp.374-378,381,399[165].)
©w.atwiki.jp/alonsodeleyva.
資本主義的「世界経済」内の「周辺」ではなく・その「外部世界における交易・から上がる利潤には限界がある」。けっきょくのところ、それは「掠奪による」利潤です。ウェーバーが言うように、「掠奪による」利潤の搾取は、さらなる余剰を生み出さないばかりか、利潤の源泉そのものを枯渇させてしまうのです。「掠奪は、いずれ先細りになるほかない。」(p.378.)
【33】 スペインと新大陸
〈アジア〉・アフリカとは対照的に、新大陸(南北アメリカ)は、はやばやと資本主義「世界システム」に組み込まれてしまいました。「システム」内の条件は、東欧諸国と基本的に同じ、つまり「周辺」部です。
1493年の「教皇子午線」により、新大陸の大部分はスペインの勢力圏とされましたが、ブラジルだけはポルトガルに割り当てられました。しかし、ポルトガルもブラジルでは、〈アジア〉とは異なって「周辺」部的な植民地経営を行なったのです。すなわち、現地住民を使役する強制労働農場を設けて経営しました。
逆に、スペインは、新大陸ではエンコミエンダ,アシエンダという強制労働農場を経営しましたが、フィリピンでは、初めエンコミエンダの導入を試みたものの断念し、他の〈アジア〉地域でポルトガルがやっていたのと同様の中継貿易に専念したのです。
そもそも「スペインは、新大陸でも」最初は「植民地ではなく貿易拠点をつくる」つもりだった。ところが、新大陸には、〈アジア〉の諸王国のような「貿易関係を結べるような経済体が現地に存在しなかったから〔…〕植民地の建設に向かわざるをえなかった」のです。
ここからわかることは、新大陸:「世界システム」周辺部的な植民地経営、〈アジア〉:既存の海上貿易圏への参入、――という相違は、ポルトガル/スペインというヨーロッパ諸国側の政策や意図の違いによるのではない、ということです。したがって、考えられる原因は、① 現地の社会や政治構造の相違、② 西欧との日数的な距離の大きさ、の2つとなります。
重要なのは、やはり ② でしょう。当時は、スエズ運河もパナマ運河も無いのですから、〈アジア〉は何といってもヨーロッパから遠いのです。
「世界経済」――つまり一体的な分業圏――の地理的規模は、その時代の「もっとも速い交通機関を利用して 40日から 60日で行ける範囲」が限界だと言われます。これは、古代ローマ帝国の範囲であり、日数そのものは、古代から近代まで変わりません。「近代世界システム」の範囲がそうでした。ジュール・ベルヌが『80日間世界一周』を出版したのは、1873年。現在では、「60日世界経済」は、南極大陸を除く地球全域に広がっているでしょう。
16世紀には、北欧,東欧から地中海,大西洋西岸までが、この「60日世界経済」の範囲でした。イベリア半島と新大陸のあいだの移動は、「往路は1か月ばかり、復路は 6週間――荷の積み下ろしなどすべての日数を入れて」でした。
その一方、スペインから、〈アジア〉の最遠でもないマニラまでは、「往復旅行に平均 5年間を要した。」これだけの距離を隔てて生活必需品の「分業圏」が成立しないことは、感覚的にも明らかでしょう。アジア貿易は、保存がきき、かつ輸送費〔「かさばる物」,重い物ほど輸送費を食う〕を上回るだけの大きな利ザヤが見込める「奢侈品」に限られたのです。(pp.15,380,399[169].)
ポトシ銀山と市街。ボリビア。 ©Adam Jones, Ph.D.
① については、もっとこみいった考察が必要ですが、すでに、論点の多くに触れてきました。
『16世紀には両国〔ポルトガル,スペイン――ギトン註〕とも、新世界では植民地をつくり、アジアでは貿易拠点を設けた〔…〕
ポルトガル人は〔…〕ブラジルでも、先取権を確保する必要から、1530年頃からは植民地化をめざさざるをえない状況に追い込まれていった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,pp.378-379. .
「ブラジル産の染料木」は、オランダとイギリスの毛織物産業で用いられたので、後続の英・仏が、ブラジル海岸に拠点を設けようと狙っていました。そこでポルトガルは、「現在のサントス港からレシフェ港までの〔…〕海岸線の支配を強化」し、16世紀「後半にはプランテーション経済を確立」しています。「ポルトガル王はブラジルの地を 12人の世襲王に分かち、彼らに国王特権の多く〔住民からの貢納徴取や強制労働?〕を賦与し」て民間資本の投資を促した。が、「サトウキビ栽培が導入された地域」以外では「失敗した。」
このように、ブラジルでの植民地化政策は、後続勢力に取られないためという消極的なものでしたが、ともかくポルトガルも、〈アジア〉では行なわなかった(行えなかった)植民地・農場経営を、ブラジルでは実施したのです。ブラジルでの植民地経営の中心は、現地人および西アフリカから輸入された奴隷によるサトウキビ・プランテーションであったようです。「この時代に、〔…〕ブラジルは、ヨーロッパで消費される砂糖の主な生産地であった。ブラジルとポルトガル,西アフリカとブラジルのあいだの砂糖と奴隷の貿易は、おおかた〔…〕ポルトガル商人や請負人の手にあったが、彼らの大半はユダヤ系であった。」
新大陸の「地金、材木、皮革、砂糖など」は、「16世紀のうちに」現地の「低廉な労働力をヨーロッパ人の監督下で使役する方式によって、着実な生産が行なわれるようになった。この過程で現地の社会構造が変化し、[ヨーロッパ世界経済]に組み込まれていったのである。」
スペインの新大陸植民地について見ると、「アメリカの鉱山業は、植民地時代以前に現地の人びとが培ってきた構造を、再編ないし破壊する恐ろしい力をもっていた〔…〕。鉱山業の中心地ができると、そこに先住民が搔き集められた。ポトシ銀山〔現ボリビア。スペイン植民地・ペルー副王領〕だけでなく、その他、金山、銀山、水銀製造などが、〔…〕浮浪する無産の大衆を生みだし、〔…〕将来も〔…〕明日の保障もない人びとが、疑似都市的な場所に集められたのである。〔…〕彼らにとって、都市での生活」は「旧来の生活水準の上昇など意味しなかった」。ブラジルのサトウキビ・プランテーションでも、同様であったろう。(pp.379,401[177],403[195].)
『コルテスによるメキシコ征服』17世紀。アメリカ議会図書館。
©note.com/aizawamayoi.
スペイン人は、征服したメキシコに養蚕を導入しようとしました。生糸は「人間やラバで簡単に運べるので輸送コストが安く、植民地でもスペインでも確実に売れる」からでした。ところが、メキシコの養蚕・生糸生産は 16世紀末には壊滅しました。その理由は、「虐待によるインディオ人口の激減、インディオへの重税と搾取の」せいで、インディオたちが「養蚕をやめ、桑の木を伐り倒した」こと、および、スペイン人自身が、中国からフィリピン経由で、良質かつ安価の絹を輸入しはじめたことです。
この・マニラを拠点とするスペイン人の「ガレオン船貿易」は、中国と、メキシコ太平洋岸のアカプルコを結んで、メキシコの銀と中国の生糸・絹織物を交換し、途上日本に立ち寄って、日本の銀をも中国の絹で入手する、というものでした。しかし、この中継貿易も、1640年頃には崩壊します。メキシコの植民地経営が失敗して銀の供給が困難になり、その頃には日本は養蚕の導入に成功して、その結果やはり銀を出さなくなるので、けっきょくスペイン人は中国産の絹を買い取る対価を失ってしまうのです。(pp.379,401-402.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!