イリヤ・レーピン『クルスク州の復活祭の十字架行列』1880-83年。
トレチャコフ美術館。©Wikimedia.
【28】 ロシアと東欧諸国――
帝王国家 対 領主貴族
⒝ 国家機構の強さとその機能の差
「長い16世紀」の西ヨーロッパにおいて、「近代世界システム」の始動とともに勃興した「絶対王政」国家〔1848年ウェストファリア条約で国際的に確立〕とは、「国王とその取り巻きたちが〔…〕家産的・売官制的な官僚と・傭兵による常備軍・に支えられて政権を握っている〔…〕構造」と定義されます。「国王は一方では、都市の商業ブルジョワジーのなかの親国王派の」財政的支援・および彼らの・貴族に対抗する政治勢力としての「支援を求めた。〔…〕他方では国王は、伝統的社会秩序の頂点」にある者として、資本主義の腐食作用から貴族の権威と栄誉を守る守護者として機能した。
したがって、これら諸国においては、「絶対王政」は、旧い貴族層,新しいブルジョワジーのどちらにとっても、「やむをえない小悪」……気に入らない点も多いけれども、その存在が利益をもたらしてくれる以上、がまんするに値する存在……だったのです。というのは、これら「中核」諸国は、「絶対王政」の優越的権力のおかげで、「[ヨーロッパ世界経済]全体の余剰生産物の異常に大きな分け前に与 あずか れるようになり、〔…〕両階層はともに利益を得たからである。」
こうして「西欧では 16世紀が国家権力強化の時代であったのに対し、東欧では、逆に」国家権力の衰退期となった。この相違は、動き始めた「近代世界システム」の格差拡大作用・という経済的地位形成の結果だったと見ることも可能だ。「ポーランドでは、〔小麦の増産・輸出による〕国際商業を握って巨利を得た地主貴族が勢力を強め、土着のブルジョワジーが脆弱化」した。その結果、貴族は徴税に抵抗し、ブルジョワは徴税に応じたくても余裕がない、という状態で「国家の租税基盤が先細りに」なり、「国王は十分な軍隊を維持しえなくなった。こうなると貴族は自衛の必要に迫られ、」国王の軍隊に匹敵する私兵団を抱える者も現れた。貴族どうしの私闘〔※〕もさかんになり、国王はそれを抑えることができなくなった。こうして、「国王は選挙でえらばれるように」なったばかりか、中央の身分制議会「セイム」も「権限の大半を地方議会に委譲しはじめ」た。(pp.360-361.)
註※「ポーランド貴族の私闘」: ミッキェヴィチの叙事詩『パン・タデウシュ』〔1834年〕に活写されている。アンジェイ・ワイダ監督により映画化。
ポーランドのキノコ狩りは、秋の行事。ミッキェヴィチ『パン・タデウシュ』
の挿絵。Franciszek Kostrzewski 1860年作。©Wikimedia.
ロシアの場合は、これらいずれとも異なっていました。16世紀のロシアでは、ポーランドと同様に、領主層による穀物など「換金作物栽培」の増産が興りましたが、そのための農民の強制労働「が確立したのは、」ロシアの場合には「国家の経済への介入の結果であった。」その一つが、「ポメスチエと呼ばれる軍禄」です。「イヴァンⅢ世は 15世紀末に、ポメスチエと呼ばれた非自由保有の封土〔売買は禁止,一身限り〕を創設し、軍事奉仕と引きかえに、これを奉禄として与えた。」中国の「秩禄制〔プリュンデ制〕」に似ていますが、ポメスチエ保有者に課せられたのは貢税〔地丁銀〕ではなく軍役です。つまり、「ポメスチエ」とは一種の屯田です〔辺境・征服地にも設けられた〕。その点で西欧中世の封建制にも近い。ただし、レーエンのような主従系列ではなく、皇帝との直接の服属関係です。
もともとロシアでは、修道院や旧貴族による温情的・互恵的な農民支配が主流でした。それだけ、皇帝〔となったのは 16世紀のイヴァンⅣ世から。もとは、モスクワ公〕の力は弱かった。イヴァンⅢ世以来、歴代のツァーリは、修道院・貴族勢力の力を削ぎ、皇帝への権力集中に努めました。修道院・貴族からの没収地には、「ポメスチエ」を設定して、皇帝に忠実な常備軍を育成しました。“屯田” の兵士は地主であり、農民の強制労働で直営地経営をしたのです。それが、食糧増産と穀物商業にも結びついたわけです。
こうしてロシアでは、修道院・旧貴族による温情的農民支配〔農民・小地主は、修道院に土地を寄進して「永代小作権」を得、国家への貢税を免れることができた〕から、皇帝の権力によって、強制労働への移行が進められ、農民は「農奴」の境遇に落とされていきました。「農奴化」は、皇帝の発布する法令によって進められました。というのは、この時代のロシアは、同時に、征服と開拓による領土拡張を進めていたからです。辺境地方がどんどん広がっているので、強制労働を嫌う農民は、放っておけばどんどん逃亡して辺境へ移ってしまいます。そこで、法律の縛りによって農民の移動を制限し、皇帝権力に忠実な地主の下で「農奴化」する必要があったのです。「政府は 16世紀を通じて、農民の賦役と居住地固定の義務を強化した。」
領主は、「負債や貸付けを口実に」農民を従属化させただけでなく、「ポメスチエ保有者に」は、「農民に強制労働〔賦役労働など〕を」課す権利が認められたから、これを用いても「農奴化」が進められた。「16世紀中頃までは95%以上が」農民の保有地〔自耕地〕だったのが、「1580年代までには、中心部の州で 31.6%、ノヴゴロド州ではたった 6.9%までに落ちた。」そのぶん、「ポメスチエ」などの領主の直営地が爆発的に拡大し、そこでは、農民の強制労働〔賦役〕による耕作が行なわれたことになる。(pp.363-365,390.)
【29】 ロシアと東欧諸国――
イヴァンⅣ世と貴族勢力
この過程が集中的に進行したのは、イヴァンⅣ世の治世〔1547-84年〕でした。モスクワ大公は、イヴァンⅣ世の時にはじめて帝冠を受け、「雷帝(ツァーリ)」を称するようになったのです。
旧貴族の没落と修道院の地位低下,農民の「農奴化」が強力に進められた結果、16世紀以後、旧来の貴族領主とは異なる・皇帝に忠実な小領主層――イギリスに倣って「ジェントリ」とも称される――が成長してきました。(pp.365,369.)
ソ連映画『イヴァン雷帝』1944年。エイゼンシュテイン監督。
ツァーリ戴冠式で、専制帝国の建設を宣言するイヴァンⅣ世。
『イヴァンⅣ世(雷帝)の〔…〕治世は、ロシア史上決定的な時代であった。〔…〕イヴァンⅣ世は、国家の権威の高揚に片意地なほど力を入れ、〔…〕国内では、彼が固めた社会構造〔「農奴制」と専制的官僚国家――ギトン註〕が以後数世紀ものあいだ維持されるし、他方、外に向かっても〔…〕「ヨーロッパ世界経済」からロシアを自立させようと企てた〔…〕。
〔…〕コルムレーニエ制と呼ばれた〔…〕徴税請負人に秩禄を与える〔…〕制度』を廃止し、『現金と土地のかたちで給与を受け取る官僚におきかえた〔…〕。この改革によって、中央の官僚機構が成立し〔…〕、租税基盤も同時に確立した。それはまた、勃興してきた地方ジェントリ〔…〕が地方行政機構を掌握したこととも関係があり、ツァーリの権威が高まってゆく過程〔…〕でもあった。軍役奉仕がポメスチエの保有と緊密に結びつけられ、ツァーリに比較的忠実な常備軍が形成されたのも、この年 1556年のことであった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.365-366. .
対外的な面では、東・南・北に向かって急速に領土を広げていったことは、すでに述べたとおりですが、西に向かっては、ある意味で「けがの功名」がありました。スウェーデンに勝利できなかったことが、ロシアを自立させたのです。リヴォニア戦争〔1558-83年〕の目的は、バルト海岸へ領土を広げて不凍港を建設し、西欧貿易を行なうことでした。が、もしもこの意図が実現していたら、ロシアはただちに「ヨーロッパ世界経済」に編入され、世界システムの「周辺」として、ポーランドと同じ運命に転落したことでしょう。
しかし、スウェーデンとは勝負がつかなかった。25年間にわたって一進一退を繰り返した挙句、イヴァンは寿命が尽きる1年前に休戦協定に踏み切ったのです。おかげでロシアは、「近代世界システム」とは切り離された1世紀余りの “実力養成” の期間を与えられることになり、その結果、19世紀には「半周辺国家」として、「近代世界システム」の一角に独自の地位を占めることができたのです。
これはある意味で、「鎖国」したおかげで独立を維持することとなった日本の場合に似ています。
ソ連映画『イヴァン雷帝』1944年。エイゼンシュテイン監督。
カザン汗国征服戦でのイヴァンⅣ世。
リヴォニア戦争が成果なく終わると、ツァーリ支配の矛盾がいっきょに噴き出しました。疫病,凶作に・外征のための重税が重なって疲弊していた農民は、大挙して辺境へ集団逃亡し、それがさらに食糧生産を落ち込ませて、急激なインフレが進行しました。大所領の没収と「ポメスチエ」の創設というツァーリ権力強化策も、その弊害の面がここで表てに現れたのです。(pp.366-367.)
『大所領を没収してポメスチエに分割したことも、この国の経済の基礎をなしていた農業制度をぶち壊し、技術を後退させたから、生産も低下し、領主と農民のあいだに新たな緊張が生じた。〔…〕大規模な・封建的で自給的な旧来のかたちから、農奴を用いた新しい〔…〕ポメスチエへの転換は、労働の最大限の搾取が根本の目的であったが、16世紀モスクワ公国の経済全体には、むしろ〔…〕長期的な衰退をもたらすことになった。〔ウォーラーステインによる Jerome Blum, Lord and Peasant in Russia from the Ninth to the Nineteenth Century の引用――ギトン註〕』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,pp.366-367,390. .
このような窮地にあって、ツァーリ権力は、支配を立て直すために恐怖政治を導入しました。悪名高い貴族弾圧専門の警察「オプリーチニナ」の創設が、それです。イヴァンⅣ世は、特別近衛兵団をもとに、仕官官僚のなかから自分に忠実な 1000名〔その後 6000名規模に増加〕を選抜して「オプリーチニキ」隊とし、彼らのために多数の都市・郷村を王領地「オプリーチニナ」〔オプリーチニキ隊の財産〕としました。同時に、従来の大貴族議会の拘束を受けないツァーリ独自の宮廷を創設し、「オプリーチニキ」隊の摘発により、大貴族・高僧らを反逆の咎で逮捕・処刑し、その犠牲者は、4000名とも 1万名以上とも言われます。大貴族・高僧らの財産は没収されて、「オプリーチニキ」ほかツァーリに忠実な官僚に分配されました。(p.367.)
多くのロシア史家は、「オプリーチニナ」の効果については否定的で、イヴァンⅣ世タヒ後に起きた「大動乱」〔1598-1613年〕の原因となり、王朝の滅亡・交替を招いただけ。イヴァンが目的とした中央集権・独裁体制の創設には失敗したと考えています。しかし、ウォーラーステインはこれを、旧貴族・教会に対する撲滅策,ツァーリ権力強化策として有効だったと見ているようです。
『ポーランドでは、貴族が輸出貿易の独占権を握っていた。これに対してロシアでは、ツァーリがそれ〔輸出の独占権――ギトン註〕を掌握していた〔…〕。自分の寵臣の手中に収めさせたのである。〔…〕
ポーランドの場合、貴族はポーランド人の仲介商人を排し〔て、西欧から来た商人と直接取引し――ギトン註〕たが、その結果〔…〕商品税を免れ〔※〕〔…〕国庫収入は減り、ブルジョワジーも衰退した。しかし、ロシアのように、ポーランドの貴族にあたる者が皇帝である場合には、』皇帝は税を免れる意味がない。『したがってロシアでは、西欧と同じように、土着のブルジョワジーが生き残ったうえ、国家機構も同時に強化された。〔…〕
イヴァン雷帝が狙っていたのは、ロシア帝国の形成であって、ロシアをヨーロッパ』の『パイの一切れにすることではなかった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.366,368. .
註※「商品税を免れた」: ポーランド・リトワニア王朝の宮廷は、ポーランド人商人との取引には商品税を課したが、海外取引には課税しなかった(これは、今の日本も同じ)。領主貴族が、ポーランド人商人と宮廷を無視して外国ブルジョワジーと直接取引したので(そうすれば、商品税がかからない)、王権も国内ブルジョワジーも衰退した、ということ(将来の日本も同じ?)。
ソ連映画『イヴァン雷帝』1944年。エイゼンシュテイン監督。
寵臣と陰謀を企むイヴァンⅣ世〔右〕。
【30】 ロシアと東欧諸国――
都市とブルジョワジー
⒞ 土着の都市ブルジョワジーの強さとその機能の差
『東欧では、都市や土着ブルジョワジーがほとんど没落したのに対し、ロシアでは、都市もブルジョワジーも「長期の 16世紀」を生き延びた。
土地制度も、見かけだけで言えば、東欧で発達したそれとよく似た大所領の形態をとっていたが、ロシアでは、土地のほとんどが、〔…〕「ジェントリ」またときには「小貴族」と呼ばれる〔…〕「新興階層」に握られた。〔…〕ボヤーレ〔旧来の大貴族――ギトン註〕で生き残ったのは〔…〕ツァーリの親族だけであった。こうして、とくに「動乱期」にツァーリ・ミハイルがイヴァンⅣ世の政策を論理的に徹底的に推し進めて以来、新たな名望家層〔「ジェントリ」――ギトン註〕が成立したのである。〔…〕
東欧諸国では、小貴族の勃興は、王権の衰退の産物であった。しかしロシアでは、ジェントリは、ツァーリ権力が強大化したおかげで勃興しえたのである。〔Jerome Blum, Lord and Peasant in Russia from the Ninth to the Nineteenth Century, Princeton Univ. Press, 1961.〕
最後に、東欧とロシアの違いは、都市についても明白だった。東欧では都市の衰退が〔…〕ひどく、土着の都市ブルジョワジーも自国産業も〔…〕衰退した。〔…〕東欧では、〔…〕自ら貿易活動に乗り出した領主層が、公然と「反都市」の姿勢をとるようになる。ポーランドでは、大貴族が「小型の国王」の観を呈した。〔…〕都市が没落するにつれて、貴族の勢力はますます強化された。これにたいしてロシアはどうか。〔…〕西欧と比べれば、ロシアも〔…〕相対的には衰退したと言えるかもしれない。』しかし、『ブリュム』は『楽観的で、つぎのように述べている。
(16世紀になると)〔ギトン註――ロシアでは〕交易が新たな重要性を帯びてきた。このことは、商・工業の中心として、またロシア内・外で生産された農産物その他の市場〔消費地・需要地――ギトン註〕として、都市がふたたび登場したことに象徴されている。〔Jerome Blum, Lord and Peasant in Russia from the Ninth to the Nineteenth Century〕
アルフレト・ヴィェルシュ=コヴァルスキ(Alfred Wierusz-Kowalski)『そり遊び
(クーリク)』1883年。 ©www.agraart.pl. 橇遊びは、ポーランドでは
「クーリク」、リトワニアでは「サンナ」と呼ばれ、冬の行事。
都市の強さとならんで、土着の商業ブルジョワジーの勢力の強さにも差があった。〔ギトン註――東欧では〕地方の貴族は、自国商人から輸出を奪っ〔…〕たばかりか、輸入貿易をも外国人ブルジョワジーと分かち合った。〔…〕オスト・エルベ〔※〕の経済からはすっかり締め出されたドイツ商人も、ポーランドでは大いに歓迎され、政治的にも十分優遇された。〔…〕しかし、それとは逆にロシアでは、土着の商人は〔…〕自国内で十分生き延びることができたのである。ゴスチと呼ばれた大商人層が、商業,金融の両面でツァーリの代理人を兼ねながら自営をも許された〔…〕。結局彼らは、ツァーリとの関係を断ち、むしろその強力な競争相手とさえなっていた。こうして、ついに「ロシアの太平洋岸までの進出においても、私企業が国家の援助を受けるどころかむしろ国と競争しながら、それを大いに促進する」状態になったのである。
手工業は〔ギトン註――東欧では〕いたるところで衰退していたようだ。主な原因は、関税障壁が無かったので、圧倒的に経済効率のよい西ヨーロッパの工業製品が流入し、現地の生産物との販売競争に勝ったからである。〔…〕ロシアはみずから一箇の「世界経済」をなしていたから〔ギトン註――西ヨーロッパの工業製品の市場として・余剰を吸い取られてしまうことはなく、〕そこでは、蓄積された資本の一部が工業生産に投下されたのはむしろ当然であった。〔ギトン註――ロシア土着の〕繊維工業』は『大衆市場の大部分を確保し、一部は高級品市場をさえ掌握していたのである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.368-370. .
註※「オスト・エルベ」: エルベ川の東、つまり東ドイツのこと。ここは、東欧ほどではないが、「世界システム」における位置は「周辺」に属し、東欧と同様に東ドイツの領主は自国の商人を輸出入取引から閉め出した。ところが、そのドイツ商人がポーランドに行くと、より「中核」に近い地域から来た外国人商人、ということになるので、ポーランド人商人よりも優遇された。
ロシアに関する↑最後の部分は、前回・中国について議論した問題と通底します。ロシアの場合には、徴税請負の「秩禄制〔プリュンデ制〕」をはやばやと廃止して・専制官僚国家への道を歩んだ・という事情もあるかもしれません。しかし、貴族領主層も、ツァーリに忠実な官僚も、「ジェントリ」も、家産的王朝国家への依存が強い点は、ヨーロッパより中国に近いと言えます。そうした政治社会構造のもとでも、蓄積された資本の「生産力への投資」は行なわれているのです。明・清代の中国でも、それは可能だったはずです。
ヨーロッパ資本主義「世界システム」の「外部」にあった「近世」の期間に、ロシアと、〈アジア〉では、それぞれ何が起きていたのか? これは、ウォーラーステインもついに解き残してしまった大きな問題として、私たちの前にあるのだと思います。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!