アゾレス諸島、サン・ミゲル島、Lagoa do Fogo 湖。大西洋に浮かぶこの島々は

15世紀からブドウ栽培が行なわれ、まもなくヨーロッパ「世界システム」に

編入された。現在はポルトガル領。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


【26】 世界システムの「内」と「外」

 


 スペインとポルトガルは、「長い16世紀」〔15世紀後半~17世紀前半〕のあいだに大西洋を取り囲む広大な貿易分業圏を創り出し、大量の貴金属地金をヨーロッパに持ちこんで資本主義近代世界システム」を始動させました。ヨーロッパの東寄りの諸国は、東ローマを倒してさらに前進して来る「オスマン帝国」への対応に手いっぱいでしたが、そのあいだに最西端の諸国は、まったく新たな「世界=経済」を現出させていたのです。

 

 しかし、この新たな世界システムも、さしあたって〈アジア〉を呑み込むことはできませんでした。〈アジア〉には、ヨーロッパ以上に強力な「世界=経済」圏がいくつもあり、それらは《世界=帝国》としての堅固な政治構造を伴なってもいたからです。スペインとポルトガルは、〈アジア〉でも、新大陸で行なったのと同じ「システムへの組み込み」――資源の掠奪,奴隷労働の搾取,伝統的社会の破壊,‥――を試みましたが、はやばやと断念しました。18世紀までのヨーロッパ人は、〈アジア〉では、地域の貿易システムに参与する運輸業者―― “南蛮船” による運び屋――にすぎませんでした。“南蛮人” は、〈アジア〉諸国どうしの産品交換を仲介する用役(サーヴィス)を〈アジア〉に輸出し、その見返りとして胡椒などの需要品をヨーロッパに持ち帰った。それが、スペイン・ポルトガルの〈アジア〉貿易の最終決算書だったのです。

 

 こうして、資本主義世界システム」と、「外部」とのあいだには、明確な境界が引かれました。イタリアを含む西ヨーロッパは「システム」の「中核」であり、大西洋上の諸島と新大陸(ブラジルの大西洋岸,カリブ海地域),東ヨーロッパはその「周辺」でした。「周辺」部から「中核」地域への剰余価値の吸い上げが開始されました。これらが「システム」の「内部」であるのに対し、アフリカと、インド洋から太平洋までの〈アジア〉は、システム」の「外部」でした。「オスマン帝国」と中東も「外部」であり、北欧,ポーランド,ハンガリーが「内部」「周辺」に包摂されたのに対し、ロシアは「外部」でした。

 


『西ヨーロッパとペルシャのあいだには、ロシアを経由する中継貿易〔ドイツの「ハンザ」商人が、それを担っていた――ギトン註〕があったが、ペルシャはこの「世界経済」の外にあった〔…〕し、ロシアでさえそうである。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.354. .

 

 

 次節で見るように、ロシアの「外部」性は、ヨーロッパ「世界システム」内の波動・趨勢の影響を直接受けない “独自の世界” の形成に向っていた点に、もっとも顕著に現れています。

 

 

 

狩野内膳南蛮屏風』左隻。神戸市立博物館。 異国(インドか?

左端に、象に乗った人がいる)の港を出港するポルトガル船の想像図。

 

 

『金・銀を別にして、植民地化が始まった最初の1世紀間〔ほぼ 16世紀――ギトン註〕に、ヨーロッパで売れるもので・新大陸が生産しうるものはほとんどなかった。香料,絹,モスリンなど、・重さのわりに非常に高価な商品を産出した東インドとは違って、新世界は、貿易の基礎になるような儲けの多い商品をまったく産出しなかった〔Celso Furtado, "Economic Development of Latin America", 1970.〕

 

 それなのに、〔…〕新世界は「ヨーロッパ世界経済」に含まれ、東インドは含まれない〔…〕。その違いこそは、「世界経済」の周辺地域と、その外側にある地域との違いなのである。

 

 〔1〕世界経済」の周辺とは、基本的に・低位の商品――つまり労働の報酬の低い商品――を生産するが・重要な日用消費財を生産するという意味で・全体としての分業体系の大切な一環をなしている地域・のことである。

 

 他方、「世界経済」の外の世界というのは、別の世界システム〔《世界帝国》など――ギトン註〕に属するうえに、』当該ヨーロッパ『「世界経済」とのあいだに貿易関係はあっても・主として奢侈品の交易・つまり』法外に儲かるが日用必需品の調達とは無関係な『交易・をしかもたないような地域のことである。〔…〕

 

 〔2〕新世界が〔ギトン註――ヨーロッパに〕もたらした地金,材木,皮革,砂糖など〔…〕。これらの物産は、当初は・たんに既存のものを採取ないし収奪するだけであったが、16世紀のうちに、低廉な労働力をヨーロッパ人の監督下で使役する方式によって、着実な生産が行なわれるようになった。この過程で、現地の社会構造が変化し、「ヨーロッパ世界経済」に組み込まれていったのである。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.379. .

 

 

 つまり、「近代世界システム」内周辺」部と・「近代世界システム外部」とを・見分けるメルクマールは、2つあるようです:

 

 〔1〕近代世界システム〔=資本主義的「世界経済」〕の内部は、低廉な価格で取引される日用消費財(生活必需品=「かさばる商品」)の交易でつながっている・一体的な分業圏・だが、近代世界システム」とその外部,また外部の諸地域どうしは、奢侈品(容量のわりに利益が大きく・儲かる商品)の交易でのみ繋がっている。

 

 〔2〕「ヨーロッパ人の監督のもとでの奴隷労働」などの新しい生産方式が導入されるなどして、「外部」の社会構造を変化させる作用が始まった時に、その「外部」地域は、「近代世界システム」の内部に組み込まれたことになる。

 

 「かさばる商品」とは、16~18世紀の主要国際商品で言えば、木材,穀物,毛織物,綿織物です。「奢侈品」とは、貴金属(金・銀),香料(胡椒など),生糸・絹織物,高級工芸品などです。

 

 ちなみに、「近代世界システム」の「外部」においても、《帝国》などの世界=経済」の内部では、日用消費財の分業が行なわれていましたが、商品交換によるとは限りません。貢税の収奪と分配による場合もあります。また、《世界=帝国》の中心国と「周辺」諸国のあいだの交換は、通常は「奢侈品」に限られ、しかも、商品交換よりも「朝貢」〔これは、貢税とも異なる「互酬」交換〕のウェイトが大きかったと言えます。

 

 

アドルフ・イヴォン『クリコヴォの戦いにおけるドミトリーⅠ世』1850年。

©Wikimedia.  1380年ドン河畔におけるこの戦闘で、モスクワ大公

ドミトリーⅠ世率いるリトワニア・ルーシ諸侯連合軍は、ジョチ・

ウルス(キプチャク汗国)を破り、モンゴルの支配下から独立した。

 

 


【27】 ロシアと東欧諸国――

「外部」と「内部(周辺)」

 

 

 近世のロシアは、ヨーロッパの資本主義世界システム」と、アジアの諸《帝国》……この2つの世界に挟まれながら、それらいずれにも編入されない独自の世界を築こうとしました(最終的には、18世紀までにヨーロッパの「システム」に吸収されるのですが)。

 

 これまでに見てきたように、ヨーロッパは中心を持たないバラバラな世界なりに、また中国は、悠久かつ独自の統一枠組みを保持しつつ、それぞれの伝統を背負って、「16世紀」という波乱の時代を迎えました。ひとことで言えば、ヨーロッパ世界の伝統は「封建制〔レーエン制〕」であり、中国の伝統は、「律令制」の下での「秩禄制〔プリュンデ制〕」でした。ところが、ロシアは、いずれにも属さないというだけでなく、そもそも伝統というものを持たなかったように見えるのです。

 

 「16世紀」の時点で、ヨーロッパ「世界=経済」に組み込まれたポーランドなど東欧諸国とは、ロシアの発展・変化の方向は大きく異なっていました。ひとことで言えば、ポーランドは、イギリス,フランスなどの西欧「中核」地域に・穀物などを輸出する「周辺」部として・ますます経済的に従属し、穀物の生産と貿易が繫栄すればするほど国家は弱体化していきました。輸出用穀物生産を一手に引き受ける貴族層が、農奴の強制労働による直営地経営を成功させて、力を強めていったからです。

 

 ところが、ロシアは、この時代にはまだ、西欧に穀物など「かさばる商品」を輸出する手立てがありませんでした。バルト海への出口は、スウェーデンによって塞がれていました。国内では、古い貴族と修道院が、昔ながらの互恵的しきたりを守って農民を温情的に支配していました。

 

 ロシアにとっての「16世紀」の波乱は、そこに強力な「帝国」国家〔※〕を打ち建てようとしたツァーリたち、とりわけイヴァンⅣ世(雷帝)〔在位:1547-84〕によって引き起こされました。ツァーリ王権は、服属しない大貴族を暴力的に壊滅させ、農民を農奴の地位に落としめて、専制権力の強化を図りました。征服による領土拡大と、拡大された国土内の商業によって利益を積み上げました。こうして、東欧諸国とは異なって、ロシアでは王権がますます強化されたのです。

 註※ ロシアの「帝国」: 近世ロシアの「帝国」は、アジアの諸《帝国》のような《世界=帝国》とは、若干性格が異なるように見えます。アジアの諸《帝国》とヨーロッパとの中間的なものではないかと思われます。

 

 

 16世紀におけるロシアと西欧の関係と、東欧と西欧の関係は、どこが違うのか。以下、3つの項目に分けて検討する。⒜ 貿易の性格の差異、⒝ 国家機構の強さとその機能の差、⒞ この2点の帰結として、土着の都市ブルジョワジーの強さとその機能の差』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.355. .

 

 

フランツ・ルボー『山中の河畔でのコサックたち』1898年。国立ロシア美術館。

©Wikimedia.

 

 

  ⒜ 貿易の性格の差異

 

『「ロシア史の基礎は移民と植民にあ〔…〕る」という仮説のもとにロシア史を書いたのは、革命前ロシアの偉大な史家Ⅴ・O・クリュチェフスキーである。』しかし、それが当てはまるのは、『ヨーロッパの他の地域でもそうだったように、ロシアでも〔ギトン註――西方の価格革命の余波を受けて〕「新たな経済成長の時代に突入した」16世紀の現象であった。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,a.a.O. .



 16世紀のロシアは、1552年ヴォルガ流域のカザン汗国を征服し、つづいて 56年には、カスピ海へのヴォルガ河口にあったアストラ汗国を征服、つづく 17世紀にはドン河沿いにアラル海まで平定し、これらの新領土に植民した。ウクライナ人が植民したドニエプル河流域一帯も、1654年にロシア領に編入された。ロシア人のシベリア進出も、相当に進んだ。このように、ロシア人が東・南方に進出したのは、「西方で阻止され、押し戻された」からだった。

 

 ポーランド,ボヘミア,メクレンブルク〔東独のバルト海沿岸〕を手玉に取った西ヨーロッパの貿易業者も、ロシアでは、それらの地方「よりはるかに広大な、〔…〕帝国構造をもつ国と対面することになった。」この「帝国」は、「西方とも東方とも取引しており、〔…〕ロシアにとっては東方との貿易のほうが〔…〕重要だった」。

 

  ロシアにとっての「東方貿易は、〔…〕質からしても量からしても、[ひとつの世界経済]を生み出す傾向があった。」つまり、それは主に、ヨーロッパ・ロシアの「中核」部と、新たに征服された東・南方領土とのあいだで行なわれたと思われます。

 

 16世紀には、ロシアの領主層は、東欧の領主貴族層と同様に、商品としての穀物生産を増加させていたが、東欧の領主とは異なって、それを西ヨーロッパに輸出するのではなく〔西ヨーロッパから買い付けに来た商人に売るのではなく〕、植民によって「拡大の傾向を示す国内市場を相手に生産した」。(pp.355-357.)

 

 「国内市場」とは、この時代に植民されたウクライナなども含むのでしょうか? 開発初期なので、ありえなくはないでしょう。しかし、この時代の開拓植民は、小麦がよく育たない北方の地方でも行われています。ヴォルガ流域の砂漠地方やシベリアも、穀物の需要地になりうるでしょう。

 

 穀物の消費地は南部ではなく、寒冷な北部とシベリアだったと明確に述べる研究者もいます:「ロシア中央部でつくられた穀物は、ヨーロッパ・ロシアの北部および北東部,それにシベリアで売られた。つまり、ロシアにおける小麦生産の発展は、北部や西部の[植民と征服を促進]したのである。しかもそこから得られた[膨大な富は、まっさきにツァーリの財政を富ませ、ついで商人の財力を向上させた。]」(p.360.)

 

 引きかえに辺境植民地方がモスクワ・ロシアに供給したのは、「奢侈品,絹織物,馬,羊」などで、とりわけ重要なのは毛皮でした。コサックなどの入植者は、原住狩猟民族から買い取ったり自ら狩猟した毛皮、遊牧民から入手した馬・羊、ペルシャ・中央アジア方面から交易されてきた香料や絹織物を、ヨーロッパ・ロシアの商人に売り渡したのです。ロシアの商人は、穀物のほかに、「金属製品,繊維品,皮革,武器,防具」などを対価として「辺境」に持ちこみました。こうして、「ロシアは、ひとつの経済共同体の中心となった」。

 

 

ヴァシーリー・スリコフ『イェルマークのシベリア征服』1895年。©Wikimedia.

シベリア植民を進めるロシア商人ストロガノフ家は、コサックの頭領イェルマーク

〔1532-85〕を雇って諸種族の抵抗を鎮圧した。この絵は、シビル汗国を倒して

シベリア征服を遂げた「チュヴァシの戦い」(1580年頃)を描く。

 

 

 一方、西方との貿易は、この時代には、「奢侈品」を中心とする特殊な品目が取引され、量も少なかったのです。西方の主要な貿易相手はイギリスでしたが、ロシアはイギリスに、「海軍資材となる各種の原・材料――亜麻,大麻,グリース,蝋――や毛皮を輸出し」、イギリスから「武器,弾薬類」を輸入した。金・銀の「地金ないし,美術品としての銀」が、ロシアの重要な輸入品だったと述べる研究者もいる。毛皮も、当時の西欧では、生活必需品というよりは「権威と富の象徴」としての「奢侈品」であった。

 

 ともかく、イギリスという「広大な毛皮市場」を得意先に迎えたことは、コサックらロシア人植民者に対して、東・南方へ進出してゆく大きな刺激となったのです。(pp.357-359.)

 

 

『16世紀の西欧とロシアとの貿易は、大部分が贅沢品の取引だったことになる。したがってそれは、経済的余剰を生み出すというよりは、それ〔ギトン註――生みだした余剰を消費する方法の一つでしかなかった〔…〕。別言すれば、不況期には無くても済ませられるものであり、経済システムが機能するうえで中心的な意味をもってはいなかったのである。〔…〕

 

 この時代のロシア史は、ヨーロッパ世界経済がロシアを吸収してしまおうとしたことへの・反発の時代、と規定することもできる。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,pp.358-359. .

 

 

 ヨーロッパ人にとっては、〈アジア〉は遠方の無害な客であるのと対照的に、ロシアは、どうにも御しがたい暴れ者なのですね。この構図は、現在・将来においても変わらないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

セクシャルマイノリティ