"Holy Grail Tapestry -- The Arming and Departure of the Knights"
woven by Morris & Co. 1891-94, Birmingham Museum & Art Gallery.
聖杯を求めて旅立つアーサー王の「円卓の騎士」たち。©Wikimedia.
【23】 ウェーバーを中心に ――
分散体制のヨーロッパと、統一《帝国》の中国
前回は、ウェーバーの『儒教と道教』にさかのぼって、中国の「秩禄制」について見ましたが、読んで「なるほど」と納得した方もいれば、首をかしげた方もいるのではないかと思います。ここで私がひとこと述べておきたいのは、ウェーバーには首をかしげたほうがよい、ということです。
たしかに、ウェーバーの考察は、没後1世紀を越えた今も私たちを示唆してやまないほど優れています。が、あくまでも一面的な考察として、すぐれているのです。
ウェーバーのアジア社会論を端的に言えば、「東洋では、たとえ資本主義の萌芽がきざしたとしても、けっきょく発展しなかった。東洋は、西洋に支配されて初めて資本主義になり、発展した。」という(20世紀初めの)現状認識が、前提としてあり、いわばその先入見を説明(正当化)するために、あれこれと理屈をつけているところがあります。たしかに鋭い洞察はあるけれども、それが歴史のすべてではない。
こうした一面性は、 ウェーバーだけでなく西洋の学者一般に見られます。おそらく、ウォーラーステインにもあります。「西洋が追い越した・勝った原因」がうまく説明できなくなると、中国人/東洋人の心性とか、国民性とか、心理的な説明に逃げようとする。ウォーラーステインの参照している英語の論文がみな・そういう一面性を持っている以上、いたしかたないことなのかもしれません。
しかし、たとえば、宋代の中国では、
『江浙熟すれば天下足る。』
という諺が流行しました。長江下流域の江蘇省と浙江省でイネなどの穀物が豊作ならば、中国全土の食糧が足りるということで、この地方が稲作の中心地だったことがわかります。ところが、明代 15-16世紀になると、
『湖広熟すれば天下足る。』
と言うようになります。「湖広」とは、湖北省・湖南省にまたがる両湖平野のことです。つまり、稲作の中心地が長江下流域から中流域に移ったことになります。下流域「江浙」の農業はどうなったかというと、綿織物・絹織物の生産がさかんになり、この地方では、多くの水田を桑畑・綿花畑に転換したのです。
ということは、農業への資本投下が広範囲に行なわれたことになります。明代における租税の銀納「一条便法」の広がりも、これと無関係ではないでしょう。南蛮貿易などによるメキシコ銀・日本銀の流入――同時期、ヨーロッパでは「価格革命」によって資本主義「世界システム」が始動した――のもとで、市場経済による農工分業が飛躍的に拡大したと考えられます。
ウェーバーは、「秩禄制」のもとで「文人」官僚層による「略奪資本主義」がヨーロッパ的な「近代資本主義」の成立を妨げたと言っていましたが、実際には、生産力への資本投下――資本蓄積のための資本蓄積――も行なわれ始めていたのです。
宋応星『天工開物』。明代、1637年。〔左〕水磨。〔右〕水碾。
穀物などの加工に、水力や畜力が使われていた。
しかも、考慮すべきは、中国の律令制における税率の低さです。地租は収穫の 10%以下だったと思われます。明・清代には付加税も増え、農民から取られるのは、正規の地租(地方官から中央へ上納される額)の4倍だったとウェーバーは述べていました。が、4倍しても 50%にもなりません。日本の江戸時代の年貢よりは低率だったと思われるのです。したがって、「略奪」される一方だったと見るのは間違えで、「生産力への投資」は可能で、じっさいに行なわれていたと考えられます。
しかし、そこからさらに考察を進めるには、たとえば「江浙」地域で桑・綿農業や、養蚕業、綿・絹織手工業に投資していたのは、どんな階層だったのか? 彼らと「文人」地主官吏層や地方統治機構との関係は、どうだったのか? ‥‥といったことが解明される必要があります。
アジアでは「資本主義は成立しなかった」と決めつけて、その原因を中国人の国民性や「文人」階層の “心性” に帰してしまうのでは、あまりにも漠然としすぎます。ヨーロッパの場合も、「資本主義システム」の発展は国家との関係が重要でした。中国に関しても、ヨーロッパと同様に、国家や各階層との関係を具体的に解明していかないと、ほんとうのことはわからないと思うのです。
『東西の発展の差異を説明するためには、純軍事的要因も重要である。ヨーロッパでは技術的に言えば、騎兵〔つまり、小領主――ギトン註〕こそが封建制下の最強の武力であった。
インドにも騎兵は結構いたのだが、歩兵ほどには重要でも有効でもなかった。アレクサンダー大王からムガール朝に至るまでの軍隊では、歩兵が中核的な役割を果たしていたのである。〔ウェーバー『ヒンドゥー教と仏教』〕
〔…〕〔ギトン註――ヨーロッパでは、〕騎兵の重要性が、帝国解体過程を通じて中央権力にたいする中間戦士層の力を強めた。〔ギトン註――帝国解体後の中世に〕新たに出現した社会が、中央権力の強い秩禄制国家ではなくて封建国家の形態をとったのは、このためである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.45-46. .
領主にとっては、短期的には、官吏として仕官するよりも、封建的荘園領主として領民を支配するほうが、より大きな所得と強い権力を得られる(幕府に仕えるより、戦国大名となったほうが権力が得られる)。しかしながら、長期的に見れば、「秩禄制下の土地保有階層のほうが、封建的土地所有者層より、中央集権国家の抬頭に対する抵抗力は強かった。」
「封建制のもとでは」国王を頂点とする「単一のヒエラルヒーが成立する」ので、国王は、「封建的価値体系(主従関係のイデオロギー)を利用して〔…〕臣下の忠誠を体系化することも可能だった」。「国王に対する忠誠は、いったん体系化されると〔…〕パーソナルな要素が脱落し、〔…〕国家そのものへの忠誠の体系へと転化する。」
Lancelot at the Chapel, an illustration from
Andrew Lang "The Book of Romance" 1902.
アーサー王物語に登場する「円卓の騎士」ランスロー
ところが、「秩禄制」つまり律令的官僚制のほうは、主従の「忠誠」のような要素は希薄で、「神秘主義的な紐帯」によって集権的な「体系化をはかる」ことなどできなかった。「秩禄制」のもとでは、官吏は、国家への「忠誠」よりも自己の利益の追求に専念した。だから、「文人」官僚層は、中央集権化には頑強に抵抗した。こうして、中国の「官僚制社会」の「自己維持的で永続的な性格」が定着した。(pp.46-47.)
つまり、《帝国》のような体制がいったん出来上がると、外部からの衝撃などによってそれがとことん解体しないと、新しい制度体制には移行しない、ということがあるようなのです。古い体制が生きていると、秩禄制や商品経済のような新しい要素が発達しても、けっきょく古い体制に取りこまれて均衡してしまい、古い体制を温存、ないし強化するほうにはたらく。社会変動のさまざまな局面で、そういうことがあるようです。
『封建制が発達すると帝国構造は崩壊するが、秩禄制はそれ〔帝国構造――ギトン註〕を温存する。前者のもとでは〔…〕、自立的で・特定の地域に定着し・特定の農民層と結合した領主層のあいだで、権力と所得が分割される。
〔…〕後者では、権力や所得は、意識的に特定の地域との結合を避け、なかば普遍的に登用された・全帝国的な一階層に握られる。彼らは特定の地域と結びつかないだけに、中央からの保護に依存せざるをえない。〔訳者註――このような〕帝国構造のもとで中枢部を強化するのは〔ギトン註――困難な〕大事業であって、やっと 20世紀になって中国共産党が試み始めたばかりである。〔ギトン註――「全帝国的な官僚階層」〕より狭い範囲の・中央集権化された単位を創り出すためには、〔ギトン註――西洋中世のように〕いったん中央が統合能力を喪失することが必須の前提条件となる。明や清には、この前提条件が欠けていたのである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.47. .
ウォーラーステインは、こう言うのですが、「封建制が発達すると帝国は崩壊する」というのは誤解を招きます。むしろ、封建制の発達は、帝国が崩壊した結果だと見たほうがよいと思います。西ローマ帝国が崩壊したのは、ゲルマン諸種族の移動という外部からの衝撃があったためですし、日本の古代律令体制が半ば崩壊したのは、それがもともと中国に倣って作られた弱体な体制だったからです。中国のように、強固な帝国が築き上げられた場合には、それが崩壊していっても、「秩禄制」という形で《帝国》のままバランスしてしまうのだと思います。「秩禄制」の《帝国》が、さらにそれ以上解体していくのは、資本主義「世界システム」による外部からの衝撃を受けた時なのではないか。
聖ソフィア大聖堂、イスタンブール。1453年オスマントルコの攻撃により
東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落すると、この聖堂も、
ミナレットなどが加えられ、イスラム・モスクに変った。 ©turkish.jp.
【24】 中華《世界帝国》と、ヨーロッパ「世界経済」
ヨーロッパの「世界経済」と中国の《帝国》との対比「を明らかにするために、もうひとつ検討しておくべき要素がある。中核地域・つまりシステムの最先進地域と、辺境」との関係である。
「帝国は、広大な土地と巨大な人口を管理し、防衛する責任を持つ。しかし」そのために「散漫になり」、膨大な人口が生み出す「エネルギーや利潤も」経済発展に集中することなく、支配層の奢侈や、逆に下層や周辺国への大盤振る舞いとなって散逸してしまいがちだ。
「たとえば倭寇」について考えてみよう。中国の明・清王朝は、倭寇の脅威から国土を守るために「帝国」の海岸線を封鎖し、公的な「朝貢」と官吏派遣を除いて、海外渡航も貿易も禁止した。「倭寇」のような・外部からの攻撃は、ヨーロッパにもあった。オスマン・トルコの来寇の脅威は「倭寇」よりもはるかに重大だった。ウィーンから東側は、オスマン帝国に占領されてしまったが、倭寇は中国の領土を継続的に占領したことなどない。それでも、ポルトガルはトルコからはるかに隔たっており、トルコの侵入を恐れる必要はなかったから、「海禁」政策などとらず、むしろ積極的に冒険家を援助して海外に進出した。
ここでウォーラーステインは、つぎのような仮定をしてみるのです。もしも、中国が 16世紀のヨーロッパのように、たくさんの小国や諸侯領に分かれていたら、どうだったか? ヨーロッパ全体を支配する一人の皇帝がいたら、どうだったか? ‥‥ヨーロッパには、「トルコ人が東方で動き出したからといって、ポルトガルの対外進出をやめさせうる皇帝は、いなかったのである。」ポルトガルは、ウィーン防衛の軍勢を確保するために対外進出を取りやめる、などという全ヨーロッパ的な配慮をする必要はなかった。ポルトガル王は、そのような義務を負ってはいなかったし、それを強制する全ヨーロッパ的な機構もなく、「ヨーロッパ全体のためを考えれば、海外進出はやめてウィーンに軍勢を送るべきだ」などと主張する社会層――のちのブルジョワジーのような――も、当時のヨーロッパには無かった。
対外進出にしても、ポルトガル王は、全ヨーロッパのために行なったのではない(十字軍とは異なる)。対外進出は、ポルトガル王にこそ大きな利益をもたらしたが、他の国は、珍しい舶来品を法外な価格で売りつけられただけだった。かりに「ヨーロッパ皇帝」がいたとして、「その皇帝にとってあまり有益であったとも思われない。」
ヨーロッパでは、「皇帝」がいなかったおかげで、その隅の一国が自国の「財政収入を増やしたいという」動機で、海外進出を行なうことができた。しかし、統一的政治体制に服する中国では、官僚層の誰もが、‥みずから実施を命じた永楽帝さえもが後には‥、「鄭和の遠征」は財政的損失だった,大失策だったと考えた。(p.48.)
『「世界経済」の中にある国家は、一つの企業体とみなすこともできるが、帝国をそのように考えることはできない。なぜなら、帝国はたてまえとして、すべてであることになっているからだ。〔…〕帝国は〔…〕、他の経済体から富を吸収して富裕化するなどということはありえないのである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,p.48. .
鄭和の主力艦「宝船(ほうせん)」の模型。香港科学博物館。
2013年撮影。ⓒMike Peel.
軍事技術に関しても、《帝国》は、「外患以上に内憂を恐れ、外的の侵入よりも内乱の勃発を恐れて」軍事技術の拡散を抑えようとする。ヨーロッパ人が鉄砲を伝えた時、中国の宮廷は、その「製造技術の拡散と〔…〕職人の増加を極力制限」したのです。これとは対照的に、「多数の主権国家がひしめいていたヨーロッパでは、武器の拡散を抑制できる望みは、まず無かった」。が、中国ではそれが可能だったのです。同じことは日本にも言えるでしょう。戦国時代に伝来した鉄砲は、またたくまに拡散して実戦に使われ、畿内では諸寺が僧兵の鉄砲隊を抱えるほどでした。が、統一国家が成立するやいなや、鉄砲は(刀剣まで)厳重に規制されました。
こうした《帝国》と「分散国家群」とを区別する基準は、ひとつの「世界=経済」(分業圏)が、単一の政治機構に統治されているか、それとも、多数の政治機構の領域に分割されながら、経済的には一体的な分業圏をなしているか、です。
【25】 「陽明学派」と「朱子学派」
さて、「中国ではこの時代〔明代〕に、個人主義思想である陽明学派が生まれた。しかし、個人主義というイデオロギーと資本主義の勃興」とは、直結するものではない。陽明学派を支持したのは、「文人」支配層のトップを構成する「血統貴族すなわち大名望家層」で、彼らは、勃興してきたブルジョワジー的な中産層への対抗のために、新しい思想を武器として派閥を形成した、というのです。
ここで、「勃興するブルジョワジー」とされているのは、宦官です。宦官は、「明代中国のナショナリズムを代表していた」。明代の中国では、「教養ある中産階級出身者の多くは、出世のために自らすすんで去勢手術を受けた。その高い教養のゆえに」、また皇帝の居所である後宮に唯一出入りできる官吏として、「彼らは圧倒的に重要な役割を果たしえたのであり、明帝国は事実上こうした宦官によって支配されていた」。「いったん高位に昇ると、彼らは一門を助け、官職や封土を利用して派閥を形成し、帝国内の実力者となった。したがって、宦官勢力の増大は、ブルジョワジー勃興の一徴候とも考えられる。」
ウォーラーステインは、フランス史学者ムーニエを引用して↑こう言うのです。たしかに、高位に就任することを望めるような大名望家の子弟は、進んで去勢をしようなどとは思わないでしょうから、家格も低く、科挙の試験勉強に必要な講師にも恵まれない「中産階級」が宦官に向かうことは理解できます。宦官は子孫を残せませんが、一族一門の期待を担って、われと思わん者が高位の宦官をめざすのでしょう。
しかし、その「中産階級」が、なぜ「ブルジョワジー勃興の徴候」だと言えるのでしょうか? 宦官自身かその一族に、商業や産業との関わりがなければ、「ブルジョワジー的」と言うこともできないでしょう。が、その点の説明はありません。疑問はありますが、続けましょう。
「宦官たちは〔…〕伝統と権威の側に接近していたので、そうしたものの守護者としての」朱子学を信奉した。
一方、「大名望家層」は、一大勢力となった宦官に対抗するため「中産階級出身の教養人を取り立ててやり、自らの派閥を形成」した。「大名望家」のもとに集まったのは、同じ「中産階級」でも宦官とは異なって、王陽明の弟子が多く、陽明学を武器として朱子学派の宦官たちと争った。
対立するいずれのグループも、地主的土地所有を権力の基盤とし、「親族と支持者からなる」官人閥を形成して「地位の強化をはかった。」
明代の都市の賑わい。偽張択端『清明上河図巻』。17世紀。 東京国立博物館。
©note.com_かわかわ。 制作された明代の実景のよう。手工業の仕事場が
並ぶ街路を、荷物を載せたラクダが通り過ぎる。遠方からの商人だろうか。
「西洋のブルジョワジーが究極的に権力を」握るうえで力となった個人主義イデオロギーが、明代の中国では、逆に・ブルジョワジー(宦官)に敵対する手段となった。しかも、その “ブルジョワジー” のほうは、朱子学派として、「伝統と権威の防衛者としての役割」を演じたのだった。(pp.49-50.)
つまり、ここでウォーラーステインが言いたいのは、「イデオロギー」や「価値体系」は、歴史的な発展段階や社会層の性格付けには直結しない、ということです。
『人口,面積,農業と海軍の技術など基本的な点をいくつかとってみると、15世紀のヨーロッパと中国には、これといって重要な差異は無かった〔…〕。価値体系にも違いはあるが、その違いは〔…〕誇張されて〔…〕おり、実際には、両地域の歴史的帰結の差を説明する材料とはならない。というのは、〔…〕思想体系というものは、正反対の勢力に奉仕させられることもあり、まったく異なった社会層とも結びつきうるものだからである。〔…〕
ローマ帝国の枠組みは、中世ヨーロッパでは〔…〕共通の〔ギトン註――ローマ〕教会〔…〕によってかろうじて記憶にとどめられていたにすぎないが、中国人のほうは、帝国の政治構造を〔…〕とにかく維持していた〔…〕。いいかえれば、一方は封建制を展開し、他方は秩禄的官僚制に基礎をおく世界帝国となったのだ。この結果、中国は多くの点で、ヨーロッパよりはるかに経済を発展させることができた。しかも、1000年以上にわたって、ヨーロッパほど苛酷な農民搾取もしなくてすんだのである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,p.50. .
両地域の農業は、16世紀にいたる数世紀のあいだに、一方は「牧畜+小麦栽培」へ、他方は「水田稲作」へ〔華北の畑作中心から、江南の稲作中心へ〕という異なる方向へ変化した。そのことによって、「長期の危機から受ける影響」に違いが生じた。すなわち、ヨーロッパは、危機克服のために「中国以上に地理的拡大を必要とした」。
「なるほど、中国にも、対外進出」は苦労に引き合うと考えるグループがあった。しかし、「彼らの考えは広がらなかった。というのは、重要な問題の決定権は」《帝国》中唯一の「中枢部に集中されて」おり、「その中枢部は」、何よりも、《帝国》というその「[世界システム]の政治的均衡の維持という短期的な関心に注意を奪われていたからである。」(p.51.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!
"ses fils Alberto et Diego au bord d'un lac"
Giovanni Giacometti 1868-1933.